シャン連合革命軍
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| シャン連合革命軍 | |
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ရှမ်းပြည်နယ်တပ်ပေါင်းစုတော်လှန်ရေးတပ်မတော် ミャンマー内戦に参加 | |
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シャン連合革命軍の旗 | |
| 活動期間 | 1969年–1996年 |
| 活動目的 |
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| 指導者 | モーヘン |
| 本部 | シャン州ホーモン |
| 活動地域 | シャン州 |
| 後継 |
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| 敵対勢力 |
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| 戦闘 | ミャンマー内戦 |
シャン連合革命軍(シャンれんごうかくめいぐん、ビルマ語: ရှမ်းပြည်နယ်တပ်ပေါင်းစုတော်လှန်ရေးတပ်မတော်、英語: Shan United Revolutionary Army:SURA)は、1969年にモーヘン(Moh Heng、本名:カウン・ソン〈Kawn Söng〉)が設立したミャンマーの武装組織である[1]。
カウン・ソンは、1926年6月20日、シャン州タウンジー県ニャウンシュエ郡区のフタナウ(Hta Naw)村で生まれた。両親は農民で、12人兄弟姉妹の3番目。貧困層ではなく、寺院で学び、シャン語、パオ語、ミャンマー語に通じていたのだという[2]。
第二次世界大戦時はまだ十代だったが、日本軍と戦うためにアメリカ陸軍第101分遣隊(Detachment 101 of the United States Army)に参加。この経験によりカウン・ソンは国際政治に関心を持ったとされる[2]。
1952年、カウン・ソンはビルマ共産党(CPB)に参加。ミャンマー語で「雷鳴」を意味するモーヘン(Mo Heng)という戦闘名を戴いた。しかし、敬虔な仏教徒であったカウン・ソンは、共産主義を全面的に受け入れることはなかったのだという。カウン・ソンは次第にCPBに対する不満を募らせ、1956年にシャン族の仲間とともにシャン州共産党(SSCP)を結成。しかし、SSCPは中国共産党の承認と支援を得られず孤立し、1958年に政府に降伏した[2]。
1959年、今度、モーヘンは、サオ・ノイ(Sao Noi)が設立したシャン族初の武装組織であるヌムスックハーン(「若く勇敢な戦士たち」)に参加[2]。同年9月、ミャンマー軍(国軍)との戦闘中に左腕を失った[1]。
1960年、サオ・ノイの強権的リーダーシップに反発したグループが、シャン州独立軍(SSIA)を結成。モーヘンは、両グループの橋渡し役であるシャン民族連合戦線 (Shan National United Front:SNUF) の議長に就任した[3]。
1964年には、ビルマ連邦初代大統領である故サオ・シュエタイッの妻・サオ・ナン・ハーン・カムの主導で、SSIA、SNUF、そして、オリーブ・ヤン(楊金秀)の兄であるジミー・ヤン率いるコーカン革命軍(Kokang Revolutionary Force)が合併して、シャン州軍(SSA)が結成され、モーヘンは参謀長に就任した[4]。
シャン連合革命軍(SURA)結成
しかし、サオ・ナン・ハーン・カムの従属的地位に立たされたモーヘンは次第に不満を募らせていった。一方、チェンマイ県タムゴップを根拠地としていた李文煥率いる国民党第三軍は、麻薬取引に関するミャンマー国内のビジネスパートナーを探していた。しかし、反麻薬主義を掲げていたSNAはこれを拒否。そこで李文煥はモーヘンに接触し、これを承諾したモーヘンは、1969年1月泰緬国境の町チェンマイ県ピアンルアンで、ラングーン大学およびマンダレー大学出身の元学生幹部らを含む仲間とともに、シャン連合革命軍(SURA)を結成した[注釈 1]。その際、モーヘンは、(1)反共主義、(2)自由と独立、(3)民主主義、(4)団結、(5)平和の5原則を掲げた[4]。
われわれの愛国主義と民族主義の目標は、誰かに抑圧や苦しみを与えることではない。ビルマ共産党は、シャン州における階級格差を打破することを目的として階級闘争を展開している。しかし、シャン州には真の労働者階級は存在しない。シャンの封建王たちはすでにいない...シャン族の意思に反して、ビルマ族がわれわれの土地を完全に支配している。私たちシャンは皆、同じ農民であり、すでに団結している。だからこそ、近代国家を築くことは難しくない。 — モーヘン
シャン文化の中心地
モーヘンは、ピアンルアン近郊にバン・マイ・スン(Bang Mai Sung、「繁栄の町」)という根拠地を築き、麻薬を含む国境貿易から得た利益を元手にして、事務所、学校、病院、そして町の端に戒壇堂、図書館、パゴダを備えたワット・ファー・ウィエン・イン(Wat Faa Wieng Inn)という寺院を築いた[4]。
当時、ミャンマーはネ・ウィン率いるビルマ連邦革命評議会が、ビルマ式社会主義の下、社会のビルマ化を推進すていたが、バン・マイ・スンではシャン文化が花を咲かせていた。シャン語カリキュラムを教える学校が200校以上存在し[注釈 2]、シャン語、シャンの歴史、仏教などが教えられた[注釈 3]。また、詩、小説、漫画、雑誌など数多くのシャン語出版物が発行され、1984年に創刊された『Söng Le’o(自由への道)』という雑誌は最盛期には3,000部の発行部数を誇り、予算不足に陥る2002年まで発行された。さらに、シャン語のラジオ放送もあり、ニュースのほか、シャンの伝統音楽やポピュラー音楽が流れた。シャンの人々に愛されるサイ・ムー(Sai Mu)という歌手は元SURAの兵士だった[6]。