カチン新民主軍
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2009年11月8日 – 2024年11月20日(カチンBGF、NDA-K民兵として)[1]
| カチン新民主軍 | |
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ကချင်ဒီမိုကရေစီသစ် တပ်မတော် ミャンマー内戦に参加 | |
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カチン新民主軍の旗 | |
| 活動期間 |
1989年 – 2009年11月8日(カチン新民主軍として) 2009年11月8日 – 2024年11月20日(カチンBGF、NDA-K民兵として)[1] |
| 活動目的 | カチン民族主義 |
| 指導者 | ザクン・ティンイン |
| 本部 | カチン州チプウィ郡区パンワ |
| 活動地域 |
カチン州第1特区(カチン州の一部) 中緬国境 |
| 兵力 | 200–300; 700 (BGF改編前後)[2] |
| 前身 |
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| 分裂 |
反乱抵抗軍(ラワン民兵) ソロー民兵 |
| 関連勢力 | |
| 敵対勢力 |
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| 戦闘 | |
カチン新民主軍(カチンしんみんしゅぐん、ビルマ語: ကချင်ဒီမိုကရေစီသစ် တပ်မတော်、英語: New Democratic Army – Kachin、 略称: NDA-K)は1989年から2009年まで存在したカチン族の武装勢力である[2][4][5]。2009年から2024年までは国境警備隊(Border Guard Forces: BGF)および民兵としてその勢力を保っていた。本記事ではそれぞれカチンBGF、NDA-K民兵と呼称し、これについても記述する。
前史
1969年5月、ザクン・ティンイン(Zahkung Ting Ying)とラヨッ・ゼルム(Layawk Zelum)は400人の兵士を率いてカチン独立機構(KIO)から離脱し、ビルマ共産党に加わった。この部隊はビルマ共産党101軍区となった[6]。この分裂の背景として、ティンインはラチッ、ゼルムはロンウォー(Lhaovo)であり、カチン独立軍(KIA)幹部がジンポーに偏っていたことに不満を抱いていたことが示唆されている[7][8]。
NDA-Kの成立
1989年にビルマ共産党が崩壊すると、旧101軍区はビルマ共産党派、KIO派、新政党派に分裂していた[9]。同年10月にティンイン率いる旧101軍区は人民解放戦線(People’s Liberation Front: PLF)として独立した。人民解放戦線はカチン独立軍と同盟関係を結び、実質的にカチン独立軍の一部となっていた[10]。PLFは中国の圧力により、同年12月に国家法秩序回復評議会(SLORC)と停戦条約を結び、カチン新民主軍(NDA-K)と改名した。NDA-K支配地域はカチン州第1特区として自治が認められた[11]。その後、ワ州連合軍などの旧ビルマ共産党系武装組織の同盟である平和民主戦線に加盟した[12]。
停戦後
NDA-Kは政府から予算、食糧、配給などを受け取った。さらに、兵士600人は警察の一部として給与が支払われた[2]。しかし麻薬問題の影響で2000年に援助は停止した[13]。
NDA-Kは軍事政権と良好な関係を保ち、カチン族の代表として国民議会に出席することが認められた[14]。
ティンインはカトリック教徒であり、NDA-K支配地域自体もクリスチャンが多い地域であるが、軍事政権と良好な関係を築くためにパンワにパゴダを建設することを承認した[15]。
2004年にはティンインの暗殺未遂が、2005年にはゼルムらによるクーデター未遂が発生した[16][17]。2005年のクーデター未遂ではゼルムが捕らえられ、ラウワゾンコン(Lauwa Zawng Hkawng)は脱走した[18]。クーデター未遂の背景にはティンインとゼルム、ラウワゾンコンの間でタンシャンコンのモリブデン鉱山の管理を巡った対立があるとされる[19]。このほかに、ティンインが中国人傭兵に依存していたことや[注 1]、ラチッとロンウォーの民族間対立が原因として示唆されている[21][22][17]。
2004年の暗殺未遂の後、NDA-KはKIOが事件の背後にいるとして非難し、両者の関係は悪化した[23]。
国境警備隊・民兵改編後
2009年11月、NDA-Kは国境警備隊(BGF)に改編された最初のグループとなった。第1001大隊はチプウィ、第1002大隊パンワのルピ、第1003大隊はカンバイティのシンチャイに置かれた[4]。BGF改編前の兵力は800人ほどであったが、500人近くがBGFへの改編を嫌ってNDA-Kを去った。残されたのは250人程度であり、そこから3個大隊を結成した[24]。このようにBGFは不人気であったため、ティンインの指導下でNDA-K民兵が組織された。これは旧NDA-K勢力をミャンマー軍の直接管理下に置かれるBGFから分離し、旧NDA-Kの指導下に留める意図があったことが示唆されている。民兵は1世帯につき1人を徴兵しており、兵士には月に100元の手当しか支払っていない。NDA-K民兵の民族構成は主にンゴーチャンが大多数を占めており、リスではなく主にンゴーチャンから新兵を募っている[25]。2013年、ティンインはシャン州ムセ出身のラチッであるラグウィ・ボムラン(Lagwi Bawm Lang)をNDA-K民兵指導者に命じた[26]。
2011年以降、カチン独立軍(KIA)とミャンマー軍の戦闘が勃発したが、カチンBGFは2012年と2013年にミャンマー軍側で戦った[27]。2012年にはKIAにより一時的にパンワが占領された[3]。同年、NDA-Kは多くの脱走者を出し[17]、KIAにおいて元NDA-K兵士を主とする第32大隊が結成された[28]。
2015年9月、ティンインはカチンBGF支配地域内での国民民主連盟(NLD)の選挙活動を禁止した。カチン州議会議員である息子インサウの対抗馬がNLD所属であることが原因だと見られている[29]。同年10月にはインサウの対抗馬であるNLD所属のチョーチョーウー氏らがNDA-K関係者と思わしき集団により襲撃された[30]。ティンインは2015年総選挙で当選したが、翌年当選を取り消された(後述)。
2021年クーデター後
2021年ミャンマークーデター後、健康上の理由からティンインは息子のインサウに指導者の座を譲った[31]。2022年4月、パンワからソローに向かっていたNDA-K民兵部隊がKIA-PDF連合軍により攻撃された[32]。
2024年6月、ティンインはカチンBGFとNDA-K民兵に対して、KIA-PDF連合軍を粉砕するように命令を下す文書を発出した[33]。同年9月、パンワのラグウィ村ではNDA-K民兵とミャンマー軍の連合部隊と、KIAの間で衝突が発生した[34]。
同年9月29日から30日にかけて、KIA-PDF連合軍はNDA-K民兵とカチンBGFが支配するチプウィを制圧した。この攻撃ではミャンマー軍の第105歩兵大隊基地とソロー郡区の軍基地が占領されている。その後、ミャンマー軍はチプウィを奪還するために空爆を行った[35][36]。9月29日にKIA-PDF連合軍はソローの第298軽歩兵大隊を攻撃した。10月1日、KIA-PDF連合軍はチプウィを占領し、翌2日にソローを占領した。KIAはNDA-Kに対して軍事政権から離反するように訴えかけ、交渉するように呼びかけた[37]。
同年10月15日、KIA-PDF連合軍は1週間にわたる攻防ののち、パンワから約10km離れたルピのBGF第1002大隊本部を占領した[38]。同月17日、KIA-PDF連合軍はシンチャイの第1003大隊本部およびパンワへの攻撃を開始した。KIA-PDF連合軍は同月19日にパンワの行政権を奪取し、同月22日に第1003大隊基地を占領した[39]。パンワ占領に伴い、ティンインの邸宅はKIA-PDF連合軍により封鎖された。占領時点ですでにティンインはパンワの自宅を離れていた[40]。同月31日、KIA-PDF連合軍はBGF第1001大隊本部を占領した。BGF残党はピモーから14キロ北に位置する中緬国境のガンファイへと逃れた[41]。11月2日、KIA-PDF連合軍はピモーを占領し[42]、同月4日にはガンファイを、同月10日にはランセ村を占領した。KIA-PDF連合軍が入城した際に戦闘は発生しなかった[43][44]。同月20日、KIA-PDF連合軍はカンバイティを占領した。その結果、カチン州第1特区はKIAに完全に占領され[45]、NDA-K民兵およびBGFは解散した[1]。2024年11月28日、KIAはカチン州第1特区の廃止を宣言した[46]。
ラグウィ・ボムランはパンワ陥落以降NDA-K本部と連絡が取れなくなり、2025年3月20日にNDA-Kに関連する全ての職務を解任された[47]。同年4月、ティンインがカチン州の州都ミッチーナーにBGFとNDA-K民兵を再結集させていることが報じられている[48]。
部隊編成
2005年9月時点、NDA-Kは4個大隊からなっていた[22]。
- 第1大隊 - ピモー
- 第2大隊 - パンワ
- 第3大隊 - ガンファイ
- 第4大隊 - ソロー
分派
NDA-Kから分派した民兵組織はRRF/ラワン人民民兵とソロー(Tsawlaw)民兵がある。
RRF/ラワン人民民兵
ラワン族のタングータン(別名: アタン、ビルマ語: တန်ဂူးတန်)は2006年にミャンマー陸軍北部軍区司令官オーンミン(Ohn Myint)少将の支持のもとNDA-Kから分派して反乱抵抗軍(Rebellion Resistance Force: RRF)を立ち上げ、プーターオ郡区コンランプーに拠点を置いた。2009年にRRFはラワン民兵となった[49]。RRFはミャンマー軍とカレン民族同盟との戦いでミャンマー軍側で参加した[50]。また、RRFは2007年9月、サフラン革命前に300人以上のラワン族の若者を徴兵し、軍事訓練のためにネピドーに送った[51][50]。その後、ラワン族の若者の殆どはミャンマー軍に徴兵され、RRFに戻れたのは数人であった。このため、RRFの兵士は本部から脱走し、RRFには100人程度の兵力しか残されていない[50]。
RRFは怒江リス族自治州政府森林局の協力のもと、福貢県とコンランプーを結ぶ道路を建設していている。これは鉱物やチーク材を輸出するためのものとみられる[52]。
ラワン民兵は2021年ミャンマークーデター後、カチン独立軍や国民防衛隊に対抗するために住民の軍事訓練を行なった[53][54]。ラワン民兵はミャンマー軍から銃を供給されている[55]。
タングータンはヒスイや金の採掘により利益を得ており[52]、ミッチーナーにレコーディングスタジオを所有している[50]。
ソロー民兵
2005年、ゼルムとラウワゾンコンはNDA-K内部のクーデターを実行し、ティンインの追放を画策したが失敗した。2人の死後、クーデターに失敗したグループは非活動的になっていたが、2021年ミャンマークーデター後、2023年11月にソロー国民防衛隊の兵士8人がミャンマー軍側に離反すると[56]、このグループと合流して活発に活動するようになった。指導者がロンウォー(Lhaovo)であるためにロンウォー民兵と呼ばれていたが、ロンウォー伝統文学文化中央委員会がロンウォーの名前をいかなる組織にも使用することを許さないと声明を出したため、ソロー民兵と呼ばれることとなった。2015年選挙に参加したロンウォー民族団結発展党(Lhaovo National Unity and Development Party: LNUDP)の一部党員が関与しているとされる[57]。
指導者
NDA-K指導者のティンイン(1940年4月22日-)は雲南辺境出身の、ンゴーチャン(ラチッ)である[58][59]。1967年、ティンインはカチン独立軍の使節として中国側と接触した。翌年の1968年、ティンインはゼルムと共にカチン独立軍第3旅団を離脱してビルマ共産党に加わり、101軍区を設立した[60][61][59]。
ティンインは元KIO幹部らと共にカチン州進歩党(KSPP)からの2010年総選挙の出馬を見込んでいたが[4]、KSPPが政党登録を認められなかったため、無所属でカチン州5区から出馬した。選挙ではミャンマー軍の翼賛政党である連邦団結発展党が対立候補を出さなかったため、国民統一党の対抗馬を打ち破って当選した。パンワの投票所では職員が公然とティンインの支持を呼びかけていたとされる[17]。当選後、ティンインは2011年から2015年まで連邦議会上院議員を務めた。2015年選挙でも再選を果たしたが、選挙期間中に対抗馬を脅迫したことにより2016年に当選を無効とされた[62][63]。
2019年2月、カチン新民主党(New Democratic Party - Kachin: NDP)が結成された。ティンインは同党の後援者となり、息子のインサウは副議長となった。ティンインは2020年総選挙では脅迫行為を行わないことを約束した[64][65]。
ティンインはNDA-Kが国境警備隊に改編される前にNDA-Kが所持していた全ての銃器をKIAに売却し、莫大な利益を得た。カチン州第1特区はミャンマー政府の支配下にあるものの、ティンインは約1,000人の私兵(NDA-K民兵)を有しており、その地の「王」として振る舞っているとされる。NDA-KはBGFとなってからミャンマー軍の制服と給与を与えられているものの、ミャンマー政府はティンインに銃を所有する免許を与え、私兵集団を所有し、町を支配することを許可している。カチン州第1特区の住人は18歳になるとティンインのNDA-K民兵に入隊せねばならないとされ、入隊しない場合は身の安全が保障されないと住民は答えている[66]。2024年6月、ティンインの娘が経営するJinghpaw Myay Companyを警備するNDA-K民兵はプーターオ県コンランプー郡区で住民を殴打し、住民に対して発砲した[67]。
麻薬
BGF改編以前
ティンインは約3万エーカーのケシ畑を所有しており、2005年以前はケシ栽培とヘロイン工場を直接管理していた。2018年時点では、中国人にケシ畑を使わせて税金を徴収するなど、間接的にケシ栽培を管理している[68]。
ミャンマー軍とKIAの戦闘が再開した2011年以降、ミャンマー軍はBGFや民兵に頼るようになった。BGFや民兵はアヘン栽培や麻薬の精製に力を入れ、麻薬の生産が増加した。カチンBGFの支配地域ではアヘンケシの栽培がなされていることが報告されている[69]。KIO/KIAによるケシ栽培の禁止や、平地部におけるバナナ農園設立に伴う土地収奪を逃れてきた農民の流入はカチンBGF支配地域でのケシ栽培の増加に拍車をかけた[70]。
作物転換
ケシの代替作物を栽培する中国主導の作物転換プログラムが行われたが、NDA-Kは代替作物のプランテーションを作るために土地の収奪を行い、持つ者と持たざる者の格差の拡大を助長した[71]。作物転換は失敗に終わり、NDA-Kですらこの計画を「完全なる詐欺」だとみなしていた[72]。