シャン連合軍
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1960年1月16日、国軍東部戦略司令部(シャン州担当)のマウンシュエ大佐(Colonel Maung Shwe)が、通商上の特権と支援を与える代わりに、シャン州に根城を張った中国国民党(泰緬孤軍、KMT)およびビルマ共産党(CPB)と戦うという契約をクン・サに持ちかけ、クン・サはこれを承諾した[1]。
1963年、ネ・ウィンはシャン州の武装勢力を弱体化させることを目的として、カクウェイェー(KKY)という制度を導入した。これは反乱軍と戦うことの見返りにシャン州内の政府が管理するすべての道路と町をアヘン輸送のために使用する権利が与えるというもので、麻薬取引でKKYが経済的に自立しつつ、反政府武装勢力と戦うことを政府は期待しており、兵力不足と財政難を解決する一石二鳥の策のはずだった(cf.黄金の三角地帯#カクウェイェー(KKY)と麻薬)[2]。
シャン民族主義と麻薬取引
クン・サはシャン民族主義の大義を掲げていたが、SUAの実態は麻薬取引組織だった。SUA自身がケシ栽培をしていたわけではないが、農民割当制度と暴力的な取り締まりにより、農民たちに稲作を断念させてケシ栽培へと転換させ、ケシから抽出されたアヘンを泰緬国境まで輸送し、あるいは、アヘンを輸送する他の組織のキャラバンを保護することによって警備費を徴収したり、他の組織のキャラバンに通行税を課すことによって莫大な利益を上げたとされる(cf.黄金の三角地帯#黄金の三角地帯の構造)[3]。
また、クン・サの右腕はKMTを離脱した満州人の張蘇泉(別名:サオ・パラン〈雷将軍〉)や北京生まれの梁中英(別名:レン・スーン)などの中国系であり[2]、その関係を利用してSUAの兵士たちに台湾で軍事訓練を受けさせていた[4]。一方、シャン族の兵士は冷遇されていたと伝えられ、このようなことから、クン・サのシャン民族主義はその正当性に疑義を呈され、「クン・サ=中国人」説が流布する原因ともなった。実際、クン・サと取引していた中国人ビジネスマンやマフィアの間では、クン・サは中国名の張奇夫で知られ、シャン族ではなく雲南系中国人だと考えられていた。SUAの後継組織MTAのある退役軍人は次のように述べている[5]。
クン・サは本当に中国系だった。だが最初の頃、多くのシャン族は本当に彼を愛していた。彼は大きなことを語っていたが、昇進できるのは中国系の者だけだった。シャン族なら、そこまでしか昇進できなかった。もし肩に一本線(軍階級の記章)を持ち、中国人なら、運転するための車を与えられた。しかし、シャン族で三本線を持っていても、バイクすらもらえなかった。
クン・サがシャン民族国家と独立を支持していたと考えるのは間違いだ。たしかに彼はシャンランドの未来について素晴らしい話をしたが、それは表向きの顔だった。裏では、彼は麻薬ビジネスを続けていた。権力が大きくなるにつれ、彼の組織で高い地位に就けるシャン族は減り、中国人のビジネス関係者が増えていった。
麻薬王
1969年9月、シャン州軍(SSA)の代表2名がタンヤンに赴してクン・サと接触し、SSA側に寝返るように説得した。クン・サもタイ当局との強いコネクションがあるSSAとの同盟に興味を示したが、会合の内容が国軍に漏れ、10月29日、クン・サはタチレクへの出張から戻る途中、タウンジー近郊のヘーホー空港で逮捕された。彼はマンダレーの刑務所に投獄され、SSAとの接触により大逆罪の罪で起訴された[6]。
残ったロイ・マウKKYはSSAと合同部隊を結成し、1971年1月4日ラーショーでに行われた独立記念日の式典に参加していた国軍幹部への手榴弾攻撃、ラーショー・シポー間の軍用列車への待ち伏せ攻撃、ラーショー・チャウッメー間の橋の破壊、チャウッメーの大隊司令部を含む国軍前哨基地への攻撃などを行い、SSAはナムサンとてセンウィを制圧。600人以上の国軍兵士が死傷したとされる。しかし、その後、ロイ・マウKKYは統制不能に陥り、活動停止状態となった[7]。
クン・サは1974年に釈放され、1976年にタイのチェンライの北西バン・ヒン・テクに新しい本拠地を築き、自軍をシャン連合軍(SUA)に再編し、再び麻薬生産に乗り出した[8]。
1973年に初代麻薬王とも呼ばれたロー・シンハンが政府に逮捕され権力の空白区が生じたことにより、クン・サは黄金の三角地帯の麻薬取引を一手に握った。SUAは2万人の兵力を誇り、輸送に労力がかかるアヘン取引を止め、香港から化学者を呼んでヘロインの精製に乗り出し、バン・ヒン・テクの山岳地帯にはヘロイン精製所が軒を並べた[9]。また、街中には、コンクリート製2階建ての商家、広大な市場、映画館、売春宿、兵舎、中国寺院、シャン族の仏塔が建ち並び、活況を呈していた。一方、地元社会との良好な関係を維持するために、シャン民族教育に熱心だったシャン連合革命軍(SURA)支配地域で使用されていたシャン語カリキュラムを導入した小学校も設立した[10]。
アメリカの麻薬取締局(DEA)によれば、クン・サが黄金の三角地帯の覇権を握っていた1974年から1994年までの20年間、ニューヨークで流通していたヘロインのうち、黄金の三角地帯で生産されたものの割合は5%から80%に増加し、クン・サがその取引の45%を占めていたとされる。クン・サの下で精製されたヘロインは純度90%の最高級品だったのだという[11]。1977年、クン・サは『バンコク・ワールド』のインタビューに答えて、自らを「黄金の三角地帯の王」と称した[12]。