ローラ・T850

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ローラ・T850(Lola T850)は、ローラF2用に設計・製造したフォーミュラカー。1980年代初頭にヨーロッパF2選手権全日本F2選手権で使用された。

ローラ独自に開発したものではなく、トールマン・TG280をライセンス供給を受けて製造した車両で、T850の派生車種にドッキング・スピッツレー DS1、フォーミュラ・アトランティック仕様として製造したトールマン・TA860が販売された[1][2]

イギリス・ハンティンドンを拠点に置くコンストラクターメーカー、ローラ・カーズはエリック・ブロードレイによって設立され、1960年代後半までヨーロッパF2選手権に参戦し、BMWのワークス参戦時に使用したT100T102英語版で知られるようになった。1970年代、ローラは主にアメリカのレースに注力し、F2用のシャシーを散発的に提供したのみだったが、ほとんど成功しなかった。1976年、ローラは4台のT450を製造し、そのうちの1台はドイツのチームATSに供給されたが、予選落ちが続き、1977年に後継モデルとして製作されたT550はさらに出来が悪く、レースに出場することすらできなかった[3][4]

約4年間の休止の後、ローラは1981年にT850でF2に復帰。ライバルメーカーであるラルトが2年前に製作したものに由来し、1979年のヨーロッパF2選手権でトールマンが使用したラルト・RT2をベースとし、1980年に向けてロリー・バーンがRT2をトールマン・TG280へと開発し、ブライアン・ヘントンがシリーズチャンピオンを獲得。翌年にトールマンはF1へステップアップし、TG280はジム・クロフォード英語版ヨー・ガルトナーなどのドライバーを提供し、1983年まで使用された。TG280への関心が非常に高かったため、トールマンは1980年代後半にカスタマー車両の生産を開始したが、F1の生産に加えてF2カスタマー車両を製造する余裕がなかったため、ローラはTG280の製造を委託し、ローラはT850としてヨーロッパと日本のF2チームに販売した。

マシン売却後、ローラはF2への関与を断念し、T850はローラの名を冠した最後のF2マシンとなった。1985年春に後継シリーズであるフォーミュラ3000が導入されて初めてT950としてF1直下のクラスに再登場を果たした。

モデル指定

モデル名は、当時のローラで一般的だった命名法に従っており、下2桁はそれぞれのモデルが設計されたレースシリーズを表し(50はF2とF3000)、最初の桁はこのグループ内の世代を表している。850はローラがフォーミュラ2用に設計した8番目のモデルとされている。

デザイン

T850の構造は、トールマン・TG280とほぼ同一のスペックで、アルミニウム板製のモノコックを採用し、前後にダブルウィッシュボーン・アクスルを装備し、後部にはアウトリガーが備えられている。ホイールベースは2514 mm, 全長は4191 mm、フロントトレッドは1473 mm、リアトレッドは1422 mmで、TG280と同様に、ハート・420Rを搭載可能だったが、BMW製エンジンの搭載も可能だったという。

ヨーロッパF2選手権でのT850

1981年のヨーロッパF2選手権は、マーチ、マウラー、ラルトといったワークスチームの圧倒的な強さが特徴的で、1980/81年シーズンの変わり目に、プロジェクト4とトールマンといった、プロとして組織され成功を収めていた2つのプライベートチームが同シリーズから撤退し、それまでの中堅チームの重要性が高まり、ドッキング・スピッツレーとサンレモ・レーシングの2チームがT850のカスタマーを提供された。1981年には個々の表彰台を獲得することが出来たが、1982年には競争力が低下し、1983年には代替として使用された[5][6]

ドッキング・スピッツレー・レーシング

1980年に2台のTG280をカスタマー車両を使用したドッキング・スピッツレー・レーシングは、1981年にハート製エンジンを搭載したT850を投入し、ステファン・ヨハンソンケネス・アチソン、シーズン後半にはリカルド・ロンドノ=ブリッジ英語版がドライブ。開幕戦5日前に車両がチームに届き準備不足のまま開幕戦を迎えることになり、デビュー戦(シルバーストン)では振るわなかったが、ヨハンソンは第2戦(ホッケンハイムリンク)と最終戦(マントープ・パーク)で優勝、第5戦(ヴァレルンガ)で2位表彰台を獲得するなど好成績を収めたヨハンソンは、ラルトのジェフ・リース、マーチのティエリー・ブーツェン、マウラーのエイエ・エリジュに次ぐ総合4位となり、カスタマーチーム最優秀ドライバーとなった。アチソンは15位、ロンドノはポイントを獲得できなかった。

1982年シーズンに向けて、ドッキング・スピッツレーはT850を細部まで改良し、ドッキング・スピッツレー DS1として出場した。

サンレモ・レーシング

元レーサーのアルベルト・コロンボがオーナーを務めるイタリアのサンレモ・レーシングは、グイド・パルディーニがT850を使用し、カルロ・ロッシ英語版はTG280を駆った。ハイデガー製のBMWエンジンを搭載し、T850を駆るパルディーニは、チームメイトのロッシよりもパフォーマンスが低く、6回リタイアを喫し、第5戦(ヴァレルンガ)で記録した7位が最高位だった。ロッシはTG280で4位、5位、6位に入り、総合13位で終えた。

1982年にはTG280と2年落ちのT850の組み合わせで挑み、ハート製エンジン搭載のT850は当初1981年のイタリアF3チャンピオンでサンレモでF2デビューを果たしたエディ・ビアンキがドライブし、最高位は第3戦(スラクストン)で記録した8位。レース後に資金難を理由にチームから撤退した[7]。その後、チームメイトのロベルト・デル・カステッロ英語版がTG280からT850へ引き継いでBMWエンジンを換装したが、入賞することはできなかった。

1983年、資金難から開幕が遅れ、チームは3年落ちのTG280と2年落ちのT850で3戦使用したが、その後2台ともマーチ・832に切り替えた。グイド・ダッコはBMWエンジン搭載のT850で第4 - 6戦出走し、第5戦(ヴァレルンガ)で6位入賞した。

フォーミュラ・レーシング・クラブ

1981年にスイス・フォーミュラ・レーシング・クラブにT850が供給され、フレディ・シュナーワイラーがエントリーし、ハート製エンジンを搭載したT850を駆り、1981年に8戦出場し、リタイア3回、5回完走し、最高位は第8戦(エンナ・ペルグーサ)で記録した7位だった。

1982年、シュナーワイラーはT850で開幕2戦エントリーしたが、開幕戦(シルバーストン)のみ出場し、メカニカルトラブルにより4周でリタイアした。第2戦(ホッケンハイムリンク)にも出場したが、決勝に出走しなかった。最終戦(ミサノ)に再出場したが、マーチ・822での出場だった。

ドッキング・スピッツレー DS1

1982年に向けて、ドッキング・スピッツレーはフランク・ダーニーパット・シモンズの手によってT850のホイールサスペンションと空力特性を細部まで改良を加えた。前年と同様ハート製エンジンが搭載され、ドライバーはティエリー・タッシンとカルロ・ロッシという布陣だった。

タッシンは開幕戦(シルバーストン)を2位で終えたが、その後の検査でサイドシューターが規定に違反したため失格裁定が下った。2週間後に開催された第2戦(ホッケンハイムリンク)で6位に入りし、シーズン唯一の入賞となった。激しい雨に見舞われた第8戦(スパ・フランコルシャン)では、両ドライバーがコースアウトし、事故の影響で両車がひどく損傷したため、第9戦(ホッケンハイムリンク)を欠場した。第10戦(スラクストン)では、タッシンのDS1が修理されたばかりだったが、ロッシは旧型のTG280をドライブした。第11戦(マントープ・パーク)を欠場後、最終戦では、ドッキング・スピッツレーが再び両ドライバーをDS1で登録したが、タッシンは予選落ちを喫した。シーズン終了後、資金難によりF2から撤退した。

全日本F2選手権でのT850

ヒーローズレーシングは、1981年1982年の全日本F2選手権で星野一義にBMWエンジン搭載車を使用。当時マーチ製シャシーと強力なホンダエンジンが主流だったシーズンで、星野は優勝1回、2位1回を記録し、1981年にはランキング2位となった。星野は1982年もT850でスタートし、開幕戦で3位に入ったが、その後2戦リタイアした後、1982年夏にマーチ・822に乗り換え、4戦目のレースで優勝した。ヒーローズレーシングは最後の2戦でT850を鈴木利男に提供し、鈴木はリタイア1回、完走1回(9位)となった[8]

1年半以上の中断を経て、1984年シーズン最終戦鈴鹿に2台のT850が再登場し、2台とも戸田レーシングがチューニングしたBMWエンジンを搭載していた。GEARレーシングからは坂本典正が1台エントリーしたが、14位で最下位に終わった。マリブモータースポーツクラブからは辰巳裕信が2台目のT850をエントリーしたが、リタイアに終わった[9]

トールマン・TA860/ローラ・T860

レース戦績

脚注

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