根岸町 (仙台市)
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| 根岸町 | |
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| 町丁 | |
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兜塚古墳 (2005年7月19日) | |
北緯38度14分24秒 東経140度53分01秒 / 北緯38.239872度 東経140.883652度座標: 北緯38度14分24秒 東経140度53分01秒 / 北緯38.239872度 東経140.883652度 | |
| 国 |
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| 都道府県 |
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| 市町村 |
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| 行政区 |
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| 人口情報(2025年4月1日現在[1]) | |
| 人口 | 479 人 |
| 世帯数 | 269 世帯 |
| 設置日 |
1968年(昭和43年) 8月1日[2][3][4] |
| 郵便番号 | 982-0844[5] |
| 市外局番 | 022[6] |
| ナンバープレート | 仙台 |
| 町字ID[7] | 0062000 |
| 運輸局住所コード[8] | 04004-0420 |
根岸町(ねぎしまち)は、宮城県仙台市太白区の町丁。郵便番号は982-0844[5]。住民基本台帳に基づく人口は479人、世帯数は269世帯(2025年4月1日現在)[1]。丁目の設定のない単独町名であり、全域で住居表示が実施されている[9]。旧陸奥国名取郡北方根岸村の一部[10]、仙台市長町字北町・字木場後・字木場東・字新屋敷・字新屋敷前・字宮沢・字鹿除土手の一部[2][3][4]、仙台市根岸町。
地勢

宮城県仙台市太白区の北東部に位置し、北から西にかけ越路・茂ケ崎・門前町と、南を長町と接し、東側は広瀬川が流れている。北西部が大年寺山や愛宕山に囲まれていることから冬の季節風が遮られ、俗に「着物1枚違う」と言われるほど温和な気候であった[11]。雅名に「根岸の里」や「百代の里」などがある[12]。
都市計画法上の用途地域では全域が第二種住居地域に指定されている[13]。また、広瀬川の清流を守る条例(昭和49年仙台市条例第39号)および広瀬川の清流を守る条例施行規則(昭和51年仙台市規則第26号)における環境保全区域のうち、全域が水質保全区域の範囲内であり、北部は第二種環境保全区域にも指定されている[14]。
根岸町の北部にある宗禅寺横穴墓群付近は、地表の厚さ1メートルから2メートルの範囲で黄色火山灰層や段丘礫層が存在し、その下に新第三紀鮮新世末期の大年寺層と八木山層からなる基盤岩層が位置する。大年寺層と八木山層はいずれも河川や浅海性の堆積層で、層中に多くの貝や植物化石を含んでいる[15]。また、根岸町の中央部にある兜塚古墳付近も同様に新第三紀の大年寺層および八木山層を基盤としており、広瀬川によって押し流された砂・礫・泥が堆積した沖積地に立地している。地形分類上では、河岸段丘・自然堤防・氾濫原の各説が存在する[16]。
交通

奈良時代ごろに成立した官道である東街道が通っていたと考えられており[17]、仙台開府後は奥州街道が宮沢渡しで広瀬川を渡り城下へと入っていた[18]。一時は渡し舟が廃止され仙台城下へのメインルートから外れるも、文久2年(1862年)に宮沢渡しが復活したことで再び人々が根岸町を通るようになった[19]。明治に入ると宮沢渡しは渡し舟から橋へと移り変わり[20]、1955年(昭和30年)には鋼製の宮沢橋が架橋された[21]。広瀬川を渡河する重要な橋になるも、片側1車線であることから慢性的な渋滞が問題となり、2019年(令和元年)からは仙塩広域都市計画道路事業南小泉茂庭線の一部として橋の新設と根岸交差点の改良が実施されている[21]。新しい宮沢橋は2026年(令和8年)9月の開通が見込まれており[22]、仙台市の東部と西部のアクセス向上や都心部への交通円滑化が期待されている[21]。
かつては国道4号が地内を通っていたが、2016年(平成28年)4月1日に仙台バイパスと並行する区間が国土交通省から仙台市に移管されたため、根岸町9-14(根岸交差点)より北は国道286号に、南は宮城県道273号仙台名取線に指定された[23]。根岸交差点は国道286号・宮城県道273号仙台名取線・仙台市道若林76宮沢橋線[24]・仙台市道太白385兜塚線[25]が交わる変則五差路交差点で[26]、日本損害保険協会の調査では宮城県内の事故多発交差点として2017年から7年連続でワースト5に該当している[27]。
地名の由来
現在の根岸町の範囲はかつて名取郡根岸村と呼ばれており[10]、経ヶ峯や八木山、愛宕山、大年寺山などの山麓に広がる地域だったことから、「山の根岸を占める土地」としてその名が付いた[12]。
住居表示施行前の小字[2]である字宮沢は、大年寺の坊守として居住していた宮沢某の名前を取って宮沢を称したと伝えられており、現在もその子孫が住んでいるとされている[28]。同じく小字の字木場後や字木場東はかつて存在した「長町木場」にちなんで名づけられたとされている[29]。
歴史
古代
縄文時代中期には集落が存在し、根岸交差点付近に存在した根岸遺跡では縄文土器(大木10式)が出土している[30]。
5世紀の中頃になると東北地方南部では新たに古墳を築造する動きが現れ[31]、仙台平野では広瀬川の南側にも古墳が造られるようになった[32]。根岸町地内にある兜塚古墳は5世紀後半の築造とされており、当時は南東に前方部を向けた帆立貝形古墳だったことが調査で判明した。5世紀中頃以降の古墳としては仙台市内で最大規模で、埴輪のほか葺石が存在することから被葬者は首長クラスの人物であったと考えられている[33]。この地域の首長は根岸町を含む郡山低地付近を統括し[34]、裏町古墳・兜塚古墳・二塚古墳・一塚古墳の順に代々首長墓を造営していたものの[35]、転々と墓の位置が移動していることから、それぞれの古墳に葬られた首長は同じ一族によって世襲されたものではない可能性が高いとされている[34]。根岸町地内には現在では失われた古墳も存在し、1822年(文政5年)の『名取郡北方根岸村・平岡村入会絵図』には兜塚古墳の北側に「クマノ」と配された円丘が記載されている[36]。そのほか、兜塚古墳の南側には小兜塚古墳という円墳が存在した[37]。
6世紀末から7世紀にかけては横穴墓が普及し[38]、青葉山丘陵の東端部と広瀬川が接する丘陵斜面には多くの横穴墓が造営された[39]。これらの地域的に近接した横穴墓群は総称して「向山横穴墓群」と総称され、大年寺山横穴墓群・愛宕山横穴墓群・宗禅寺横穴墓群・茂ヶ崎横穴墓群・二ツ沢横穴墓群などが該当する[39]。このうち宗禅寺横穴墓群は根岸町地内に位置し、7世紀後半から8世紀前半まで使用されたと考えられている[40]。1975年(昭和50年)に行われた発掘調査では、宗禅寺横穴墓群から副葬品として須恵器13点や土師器8点、刀子1点が出土し[40]、他の横穴墓群と異なり副葬品が土器に偏っている特徴がみられた[39]。同時期に存在した郡山遺跡の出土品と近似する須恵器も認められることから[41]、これらの土器の供給ルートが一致すると考えられており、郡山遺跡の官衙で活動していた官人やその家族を中心とした人々の墓地であると推測されている[42]。
奈良時代に入ると、畿内から陸奥国分寺や多賀城に通ずる手段として「東街道」と呼ばれる道が形成された[43]。仙台平野内の東街道は岩沼市南長谷の千貫神社や名取市愛島笠島の佐倍乃神社、高舘熊野堂など高舘丘陵の麓を通り[43]、名取川を渡って大年寺山の南麓である根岸へと至っていた[17]。根岸からは愛宕山南麓の七曲坂、鹿落坂を経由して「米ケ袋の渡し」で広瀬川を渡っていた[43]。根岸の地を通る東街道は伊達政宗による仙台開府まで宮城野方面のメインルートとされていた[44]。
『奥羽観蹟聞老志』によると、平安時代の坂上田村麻呂による蝦夷征討では悪玉姫に関して以下のような伝承が残っている[45]。
| 坂上田村麻呂は征夷大将軍の命を受け蝦夷征討で利府に滞在中、菅谷の九門長者の娘であった悪玉姫を愛し、そのうち姫は子供を身籠った。田村麻呂が京へ帰る際、形見として白羽の鏑矢と短刀、護持仏の観音像を渡し、佐賀野ケ原の産屋で男児を産み、「千熊麻呂」と名付けた。 千熊麻呂が13歳になった際、父である田村麻呂と会い母を喜ばせるため京へ行くことになった。京へ向かう道中、根岸で休憩をとり、道端の池に顔を映して化粧をしたため、この池は「鏡ケ池」と呼ばれるようになった[45]。 |
上記に登場する鏡ケ池は宮沢渡しから根岸に越える道の曲がり角の道端、かつての簡易保険局(根岸町3-14)の土手に存在した。古くは池近くの北西側に観音堂があったといわれており、『奥羽観蹟聞老志』が編纂された享保4年(1719年)時点では桜の老木が1本生育していた[45]。
平安時代後期の後三年の役の際、源義家が戦勝を祈願してこの地に兜を埋めたという伝説が残っており、これが兜塚古墳の由来となったとの説がある[46][47][48]。
中世
現在の宮沢橋から仙台南高等学校にかけての淵はかつて「鎧淵」と呼ばれており[49]、奥州合戦の際には源頼朝率いる鎌倉勢が藤原泰衡率いる奥州藤原氏の軍勢と激突した地である[50]。文治5年8月12日(1189年9月23日)、前夜の夜営地である舟迫宿を発った鎌倉勢は平泉へ向け北進した。一方、藤原勢は国分原鞭楯(現在の榴岡公園周辺[50])に堡塁を築き、前線を根岸の鎧淵に置いた。藤原勢は大年寺山と広瀬川に挟まれた東街道の隘路を押さえ、鎧淵には大綱を張り渡して左岸に乱杭を立てたものの[49]、鎌倉勢はこれを難なく突破した[51]。その後も進軍する鎌倉勢は国分原鞭楯をも突破し、その日のうちに多賀城へと到達した[51]。「鎧淵」の名称は、前線で戦っていた藤原勢の大河兼任が鞭楯にいる藤原泰衡の本軍に合流しようとした際に、この淵に仕掛けていた川底の綱に足を取られて進まず、小栗重成の矢に射られて討死したという伝承に由来する[52]。
鎌倉時代頃は名取郡のうち北方と呼ばれる範囲に属しており[53]、現在の根岸町から長町・郡山にかけての一帯は粟野氏の支配下にあった[54][55]。『藤原姓粟野家譜』によると、粟野氏は藤原利仁の後裔で、鎌倉北条氏の家臣として粟野泰国が陸奥国信夫郡へ下り、その孫である重直が名取郡根岸へ移り住んだとされている[56]。
根岸町地内にある宗禅寺は粟野氏の菩提寺であり[57]、『封内風土記』には文安4年(1447年)に洞雲寺の末寺として粟野遠江守によって開基されたと記載されている[58]。また、『仙台市史』によると宗禅寺は洞雲寺の和尚であった梅国祥三が住民の要望を受け入れ草庵を結んだ後、文安元年(1444年)4月に堂宇を建立し開山したとされている[59]。
近世
仙台城下の建設が進む慶長7年3月16日(1602年5月7日)、茂庭綱元屋敷前(現在の片平一丁目付近)の堀普請を行っていた小人と、普請総奉行だった金森隠岐・金森勘平の間で「小人騒動」と呼ばれる武力騒動が起きた[60]。これは、小人の一人が堀の中で寝ている現場を金森勘平に発見されたことに端を発し、小人は勘平を槍で突き殺した上で愛宕橋の西側にあった覚範寺に立て籠もった。追手は覚範寺を包囲し、130人もしくは178人の小人衆を皆殺しにした。殺された小人衆の首を埋めた根岸の塚は「小人塚」と呼ばれ、これが転訛し「兜塚」になったとの伝承が残っている[46][47]。明和年間に編纂された『封内風土記』にも兜塚の由来として記載されているが、『仙台市史』ではこの説に関して以下のような見解を述べている[61]。
『仙台市史』によると、元和2年(1616年)に宗禅寺は北目城主だった粟野重国の菩提寺となり、若干の援助を受けたものの、天正19年(1591年)に粟野氏が没落した影響で寺禄は没収を受けた[59]。天保8年4月19日(1837年5月23日)、宗禅寺は火災により堂宇や古記録、保有していた貴重な器物などが全焼する被害に逢った。これにより宗禅寺は仮設の堂宇を建設し、約60年後の1898年(明治31年)に本堂などの建立が終了した[59]。
宗禅寺には「鶏塚」と呼ばれる碑が存在し、左に「寛文十三年癸丑四月十四日敬白 庄子太郎左エ門」[注 1]、右に「玄庵了道信士也者云々」、中央に「不是人間之塔」と刻まれている。これは和尚の危険を防ぐために犠牲になったニワトリの墓とされており、『仙臺傳説集』には以下のように記されている[62]。
| 根岸の宗禅寺で飼っていた鶏が毎日のように宵鬨を告げ、和尚はそれが不吉と感じその鶏を殺して裏の広瀬川に捨てた。すると、殺した鶏は隣の家に住む者の夢枕に立ち「自分は隣の寺に飼われていた鶏で、和尚の危難を知らせようとしたがかえって殺されてしまい、宮沢渡に引っかかっている。どうか自分に代わって和尚へ知らせてくれないか。」と告げた。 和尚は隣の家の者にこの事を伝えられた後、朝飯を食べようとすると、飼い猫が朝食の中にハンミョウの毒を落とす様子を目撃、和尚は鶏を殺したことを悔やんで門前に葬った[63]。 数年後の秋のある日、寺の小僧が竹藪からユウガオを見つけ、和尚がこれを次の日の朝食に入れようと考えた。その晩、鶏が和尚の夢枕に現れ「怪猫は寺の一家を毒殺することができなかったことを恨み、今度はユウガオを使おうとしている。ユウガオの根を掘り確認しなさい。」と告げた。和尚は小僧と藪へ向かい根を掘ってみると、根は猫の頭蓋骨の眼の穴(眼窩)からユウガオの蔓が生えていた[64]。 |
『宮城縣史』によると、最初にニワトリから危難を告げられたのは和尚としている[65]。また、鶏塚をめぐっては郷土史家の鈴木省三が『続仙臺風俗志』にて「其碑は或る村(沖野村ともいう)の大酒呑の墓に建てたる碑」と記している[62]。
大年寺山の南西麓、山田本町から根岸町にかけての東西約6.4キロメートルに渡り築かれた「杉土手」は、江戸時代中期以前に構築されたと考えられている。これはイノシシやシカによる獣害から田畑や宅地を守るために設置され、「鹿除土手」とも称される。杉土手は現在の根岸交差点付近で北に折れ、愛宕山麓の大窪谷地まで続いていた[66]。なお、住居表示施行前の小字にも「長町字鹿除土手」が存在していた[2]。
長町木場
かつて仙台藩では公用や家臣への支給に用いる燃料薪を確保するため、積雪期に名取川の上流にある高倉山や二口峠付近の山林を伐採しており、切り出した薪材を川へ放流することで仙台城下への運搬を行っていた[67][50][68]。薪材を運搬するにあたり、江戸時代初期には名取郡富田村の成就院の前を流れる名取川から分流し、多賀神社から砂押、鹿野、門前を経由して根岸村の広瀬川へと合流する木流堀が掘削された[50]。また、木流堀の終点部である根岸町地内(現在の宮城県第二総合運動場[69]および宮城県仙台南高等学校敷地[67])には木材の集積地として木場が置かれ、「長町木場」や「長町御木場」と呼ばれた[69][50]。
木場は元禄元年(1688年)の仙台城下絵図には既に掲載されており、薪材の伐採と名取川を用いた運搬はそれ以前から始まっていたと考えられている[67]。木流堀を利用して運搬される薪材は3尺(約0.9メートル)に定められており[67]、木場では薪材を幅6尺(約1.8メートル)・高さ5尺(約1.5メートル)に積み上げ、これを1棚または1間という単位で扱っていた[29]。仙台城下のうち大町より南に住む家臣は長町木場で薪材が支給され、上級家臣は余剰分を城下の酒造業者に払い下げていたと言われている[29]。薪材の運搬が始まる11月、木場の労働者は「ドショウジン」と名の付く木彫りの男根を流し、拾い上げた男根の頭の部分に赤い鉢巻を結んで神棚に祀ることで作業の祈願を行う道祖神信仰が行われていた[68]。
宮沢渡し
仙台開府の後、南から仙台へ入る順路は東街道から奥州街道へと代わり、増田・中田・長町を経て根岸の宮沢渡しを通過し、舟丁や田町を通って城下へ入っていた[18]。宮沢渡しは寛永5年(1628年)頃まで用いられていたものの、舟丁の東に南材木町や河原町が設けられると、奥州街道のメインルートは長町渡しへと移り変わっていった[20]。なお、『東奥老士夜話』によると、開府当初に長町渡しが開設されなかったのは「長町口西は川原町裏の地から谷地であつた爲」[70]、すなわち河原町裏の地が未だ湿地帯であったためと見られている[44]。ルートが長町渡しへ移り変わった後も架橋はされず、人々は徒歩で渡河していた[70]。
宮沢渡しは安永年間の『残月台本荒萩』に「今はなし」と記載されたり、安政年間に出版された『奥陽名数』には掲載されていなかったりと、渡し舟の存在しない時期がしばらく存在した。しかし、文久2年(1862年)に元山形藩士の林藤助によって宮沢渡しは復活することになる[19]。藤助は山形城下三日町の誓願寺の寺侍であり、山形藩の隠密として嘉永4年(1851年)12月に仙台城下へ潜入、伊勢参りと偽って宗禅寺に滞在していた過去がある[71]。藤助は仙台城下の情報を収集した後に山形へ戻ったものの、幕末の混乱で藩内が内戦状態に陥り、妻と娘3人を連れ再び宗禅寺へ身を寄せることになった[20]。宗禅寺住職の仙丈和尚は一家に対し仕事を思案したところ、檀家に屋敷横目の侍がいたことから渡し船の復活を思いつき[71]、渡守として更生した[72]。
当時の船は長さ4間3尺(約8.2メートル)、幅3尺2寸(約1.0メートル)の25人乗りで、船賃は3文だった[20]。長町渡しの雲助は不当な荷役の要求や酒代を強請していたため、人々は宮沢渡しを通るようになったが、雲助たちの収入が減ったことから藤助は目を付けられることもあった[72]。
近代



行政区画としては陸奥国名取郡根岸村の一部にあたり、明治4年7月14日(1871年8月19日)に廃藩置県によって仙台県の管轄に、明治5年1月8日(1872年2月16日)に宮城県へ改称された[73]。1874年(明治7年)には根岸村と平岡村が統合され長町村となり[74]、1889年(明治22年)4月1日には町村制施行で茂ヶ崎村の一部となった[75][10]。その後、編入によって1932年(昭和7年)までに全域が仙台市となった[76]。
根岸町では藩政時代より茶園が存在し[77]、大年寺山の南側斜面は広瀬川の川露が上がることから良質な茶を産出するとして、伊達家の茶園となっていた[78]。また、万延元年(1860年)には殖産振興の一環で仙台藩が宇治より職人を招き、茶園を茶業試験場とした[79]。伊達政宗に従って伊達郡梁川から仙台城下仲ノ町へ移り住み、足軽小人組御免組抜に列するようになった大竹家は[80]、東一番丁にあった屋敷(現藤崎百貨店南半分)が県令公舎として収用されたことに伴い根岸町へ移り[78]、明治3年(1870年)6月には仙台藩庁農部寮から茶園を下賜された[79]。大竹家13代目の大竹徳治は茶園を下賜されてすぐの1873年(明治6年)に死去し、跡を継いだ14代目の大竹左右助は茶の製造と問屋業を家業とした。左右助の製造した玉露は1877年(明治10年)に開催された第一回内国勧業博覧会にて全国1位、1895年(明治28年)の第四回内国勧業博覧会で全国3位を記録するなど好成績を収め[78][79]、さらには紅茶の製造も行い[78]、1878年(明治11年)には内務省勧農局の紅茶製造伝習に出席している[79]。左右助は茂ヶ崎村長や宮城県会議員を歴任した後、製茶業と茶の販売に専念し、東北から北海道や樺太にかけて営業を行っていた[78]。日中戦争が勃発した1937年(昭和12年)、食糧増産の国策に従う形で大竹園の茶園は麦畑に転換を余儀なくされ、やがて統制品目として茶が加えられたことから事業は休眠状態となった[79]。終戦後の農地解放では、1902年(明治35年)時点で60町歩(約59.5ヘクタール)あった農地が8町歩(7.93ヘクタール)まで減少したものの[81]、茶の販売を行う店舗を新たに長町に開業した[79]。大竹園の登記上の本店は現在も根岸町に置かれている[82]。
1879年(明治12年)、それまで片平丁大町頭(現在の仙台高等裁判所付近)に置かれていた植物試験所が現在の根岸町地内である長町村字木場東へ移転し、勧業試験場と名称を改めた[83]。これは従前の敷地が狭く植物試験場としての目的を十分に達成することができなかったためであり、3,915円38銭4厘を勧業資金より支出して移転が行われた[84]。1881年(明治14年)7月9日、植物試験所は宮城農事講習所として改組され[85]、さらに1885年(明治18年)7月30日には農事講習所を農学校へと改称し、宮城県初の文部省所管の農学校となった[86]。当時の農学校は兜塚古墳周辺の隣地を手に入れるために奔走しており、兜塚古墳付近の土地所有者だった大竹園の大竹左右助に対し、土地分譲の斡旋を仙台区長だった松倉恂に願っていた[87]。左右助の承諾はすぐに得られなかったものの、1908年(明治41年)になり土地を譲り受け学校用地とした[88]。
宮沢渡しは1873年(明治6年)1月に林藤助によって再び渡し舟の許可願いが出され、二代目の林熊吉や三代目の林八五郎も渡守として渡し舟の営業を続けた[19]。1882年(明治15年)には渡し舟に代わり木製の橋が架けられ、渡し賃は3厘、1897年(明治30年)頃に5厘、大正初期に1銭となった。橋は川に打った木杭に板を敷いた簡素な造りで、洪水になると板が外されまとめて綱で結ばれていた[20]。やがて橋は「一銭橋」として親しまれ[19]、1937年(昭和12年)まで市の黙認という形で営業が続けられていたが、1938年(昭和13年)7月に四代目の林吉次郎が橋を仙台市へ寄付、76年間に渡る宮沢渡しの歴史は終わりを迎えた[89]。
現代

1945年(昭和20年)9月12日、仙台に進駐を開始していた米軍第11空挺師団の先遣隊は、現在の上杉三丁目にあった仙台簡易保険支局庁舎(現・かんぽ生命保険仙台サービスセンター)を全面的に接収する通告を行い、司令部を庁舎に設置した[90]。庁舎が接収されたことにより仙台簡易保険支局は移転を余儀なくされ、仙台市内8か所の学校に業務を分散させた後[91]、同年からは長町字東裏北にあった東北特殊鋼の施設を借り入れていたが、収容人数の観点から依然として分散業務が続いていた[92]。上記を解決するため終戦連絡中央事務局・仙台財務局と交渉が行われた結果、原町小田原字安養寺下の東京第一陸軍造兵廠仙台製造所を借り入れたが[93]、庁舎の腐食や事務室としての利用度の低さから新庁舎を建設する機運が高まり、長町字新屋敷13番地(現・根岸町3-14[2])を建設地として決定した[94]。1949年(昭和24年)10月25日には郵政省関係者の立会の下に入札が行われ[94]、同年11月2日に工事が開始された[95]。工事が進んでいた1951年(昭和26年)1月17日、火災により3棟のうちの1棟が全焼し、一時的に工事が休止する事態となった。その後、同年7月15日には無事工事が竣工し、8月12日に新庁舎へと移転した[96]。また、移転に先立ち8月8日からは長町郵便局保険局内分室が開局し、郵便・貯金・保険年金業務を取り扱った[97]。
接収され病院として使用されていた保険局旧庁舎は1957年(昭和32年)8月17日に返還されたため、再移転の準備として内部の改修工事に取り掛かり、1958年(昭和33年)6月には長町字新屋敷の庁舎から再移転した[98]。保険局内に設置されていた長町郵便局保険局内分室は同年7月1日に仙台南郵便局新屋敷分室へ改称し[99]、1972年(昭和47年)に廃止されるまで存続した[100]。
1968年(昭和43年)8月1日、長町地区の住居表示実施に伴い、長町字北町・字木場後・字木場東・字新屋敷・字新屋敷前・字宮沢・字鹿除土手の各一部をもって根岸町が誕生した[2]。
1976年(昭和51年)3月、宮城県教育委員会は移転する宮城県農業高等学校の跡地に、翌年度より普通高校を新設することを決定した。これはかつて宮城県内に存在した高等学校の学区のうち、翌年度から仙台市内を2学区に分割することへの対応措置であり、仙台都市圏内の高校進学者増加に対処するためでもあった[101]。当初は仮称を「仙台長町高校」としていたが、既に長町小や長町中があることや生徒を募集する範囲が広く名取・岩沼・亘理に渡ることを考慮し、根岸町や茂ケ崎などの地誌を検討した結果、「仙台市南部に位置する男女共学の普通高校であること」「南は陽に通じる豊かさと積極性を意味し、若い世代の成長発展に通じる意義を持つ」との理由から「宮城県仙台南高等学校」に決定した[102]。1977年(昭和52年)4月1日、高等学区の新学区制移行と同時に、仙台南高等学校が開校した[103]。開校当初は敷地内にある兜塚古墳の文化財保護の問題や都市計画道路の敷設計画により利用計画の策定は難航したが、旧宮城県農業高等学校の鉄筋校舎を開校後2年間に限って使用し、その間に新校舎を建設した[104]。校章には当時の根岸町周辺に多く生育していたイチョウが校木として定められ[105]、校歌の歌詞には根岸町周辺の呼称である「百代の里」というフレーズが含まれている[106]。
1978年(昭和53年)から宮城県は県民の体育・スポーツ需要に対処するため、武道館・ラグビー場兼サッカー場・スポーツ会館・体育館などを有する総合運動場の建設を開始した[107]。建設場所は根岸町地内の仙台南高等学校隣接地[108]、江戸時代の長町木場跡にあたり[69]、当初は仮称を「仙台南スポーツ公園」としていた[109]。公園名は後に「宮城県第二総合運動場」に決定し[110]、1981年(昭和56年)4月に開設された[111]。

宮沢橋は1955年(昭和30年)の架橋以来、交通量の増大による慢性的な渋滞が続いていた。これを解決するため、仙台市は仙塩広域都市計画道路事業南小泉茂庭線の一部として、広瀬川の30メートル上流側への架橋と根岸交差点の改良を決定[21]、2019年(令和元年)より事業を開始した[22]。新しい宮沢橋は2026年(令和8年)9月の開通が見込まれており[22]、仙台市の東部と西部のアクセス向上や都心部への交通円滑化が期待されている[21]。
年表
- 1879年(明治12年)- 植物試験所が長町村字木場東へ移転し、勧業試験場と名称を改める[83]。
- 1882年(明治15年)- 宮沢渡しで渡し舟に代わり木製の橋が架けられる[20]。
- 1951年(昭和26年)7月15日 - 仙台地方簡易保険局が竣工する[96]。
- 1955年(昭和30年)- 宮沢橋が開通する[21]。
- 1958年(昭和33年)6月 - 仙台地方簡易保険局が上杉に移転する[98]。
- 1968年(昭和43年)8月1日 - 長町地区の住居表示実施に伴い、長町字北町・字木場後・字木場東・字新屋敷・字新屋敷前・字宮沢・字鹿除土手の各一部をもって根岸町が誕生する[2]。なお、告示は昭和43年自治省告示第164号として同年8月16日に行われた[3]。
- 1977年(昭和52年)
- 1981年(昭和56年)4月 - 宮城県第二総合運動場が開設される[111]。
- 1989年(平成元年)4月1日 - 仙台市が政令指定都市に移行し、太白区が誕生。仙台市太白区根岸町となる。
- 2026年(令和8年)9月 - 仙塩広域都市計画道路事業南小泉茂庭線の一部として宮沢橋が新たに開通予定[22]。
町名の変遷
| 変更後の区域 | 変更前の区域(各一部) | 変更日 | |||
|---|---|---|---|---|---|
| 自治体 | 町丁 | 自治体 | 町・字 | ||
| 仙台市 | 根岸町(新設) | 仙台市 | 長町 | 字宮沢 | 1968年(昭和43年)8月1日[2][3][4] |
| 字北町 | |||||
| 字木場東 | |||||
| 字木場後 | |||||
| 字新屋敷 | |||||
| 字新屋敷前 | |||||
| 字鹿除土手 | |||||
世帯数と人口
2025年(令和7年)4月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
| 町丁 | 世帯 | 人口 |
|---|---|---|
| 根岸町 | 269世帯 | 479人 |
| 計 | 269世帯 | 479人 |
世帯数と人口の推移
国勢調査による1995年(平成7年)以降の世帯数と人口の推移は以下の通りである。
| 年 | 人口 |
|---|---|
| 1995年(平成7年)[113] | 730 |
| 2000年(平成12年)[114] | 617 |
| 2005年(平成17年)[115] | 562 |
| 2010年(平成22年)[116] | 547 |
| 2015年(平成27年)[117] | 549 |
| 2020年(令和2年)[118] | 517 |
| 年 | 世帯数 |
|---|---|
| 1995年(平成7年)[113] | 287 |
| 2000年(平成12年)[114] | 266 |
| 2005年(平成17年)[115] | 253 |
| 2010年(平成22年)[116] | 260 |
| 2015年(平成27年)[117] | 271 |
| 2020年(令和2年)[118] | 262 |
小・中学校の学区
施設

公共
- 仙台市根岸保育所(根岸町5-19)[120]
- 宮城県仙台南高等学校(根岸町14-1)[121]
- 宮城県第二総合運動場(根岸町15-1)
- 宮城県武道館
- 宮城県近的弓道場
- 宮城県遠的弓道場
- 宮城県クライミングウォール
- 宮城県合宿所
企業・店舗など
- 有限会社大竹園(根岸町3-10)[82][79]
- 宮城県弓道連盟(根岸町4-6)[122]
- ロイヤルホスト 仙台根岸店(根岸町6-35)[123]
- オートバックス 286根岸(根岸町6-40)[124]
- 合資会社仙台平(根岸町15-5)[125]
かつて存在した施設


史跡・天然記念物
兜塚古墳
宮城県仙台南高等学校のグラウンド北端、大年寺山東端裾の沖積地に立地する。古墳時代中期の帆立貝形古墳で、同時期では仙台市内で最大規模を誇る[126]。墳丘の中腹には推定樹齢200年のアカマツがやや東側に傾いて生育している[48]。かつては「この塚を掘ると火災が起こる」や「切り崩した者は必ず火災に見舞われる」などの伝承が存在し[47][127]、道路の拡幅工事の際にも火災が発生したと伝えられている[128]。
宗禅寺横穴墓群
| 画像外部リンク | |
|---|---|
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発掘時の様子(仙台市教育委員会撮影) |
青葉山丘陵の最東端と広瀬川の接する丘陵斜面、宗禅寺の敷地内に立地する古墳時代の横穴墓群で、須恵器や土師器、刀子のほか人骨も発掘された。現在は道路建設や墓地の造成に伴う盛土によって埋め立てられ、平坦地となっている[129]。
根岸のらくうしょう
根岸町15-1に所在するラクウショウの大木である。1975年(昭和50年)6月5日に仙台市の保存樹木に指定された[130]。2025年現在の樹齢は約100年、樹高は26.0メートル、幹周は3.3メートルで[130]、広瀬川の堤防脇に生育する[131]。これは宮城県農業高等学校の前身となる宮城農学校が開校した当時の植樹であり[132]、教材として植えられたものである[131]。

