漢口市

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漢口市
中華民国の旗 中華民国
院轄市(1929年 - 1931年、1947年 - 1949年)

1926年  1949年
漢口市の位置
漢口市の位置
歴史
 - 普通市として設置 1926年10月7日
 - 武漢特別市が発足 1927年4月16日
 - 漢口特別市に改編 1929年7月1日
 - 省轄市に降格 1931年7月10日
 - 院轄市に再昇格 1947年8月1日
 - 武漢三鎮陥落 1949年5月17日
面積
 - 1935 294km2
人口
 - 1935 801,949 
     人口密度 2,727.7/km2
行政区画 14
現在 中華人民共和国の旗 中華人民共和国
湖北省武漢市

漢口市(かんこうし)は、かつて中華民国に設置されていたである。現在の中華人民共和国湖北省武漢市の一部に相当する。

漢口市街
漢口埠頭
武漢三鎮の鳥瞰図(1938年)
武漢行営を占領する日本軍(1938年)
漢口に進駐する中国人民解放軍(1949年)

1926年民国15年)9月7日中国国民党による北伐の進展に伴い、国民革命軍が漢口を占領した[1]10月7日夏口県の市街地を分割して漢口市を設置し、漢口市政府が成立して劉文島が初代市長に就任した[2]11月21日国民政府は武漢三鎮(漢口・武昌漢陽)を合併させ、首都広州から武漢に移すことを決定した。12月、国民党中央執行委員会と国民政府委員の第6次臨時連席会議にて、孫科宋子文による計画の下、武漢に市政委員会を設置することが決議された。翌1927年(民国16年)1月、外交財政交通司法の4部が武漢での業務を開始し、国民党第二回中央執行委員会第三次全体会議中国語版も武漢で開催された[3]3月24日に国民政府が武漢に移転し、4月16日武漢特別市が成立した[2]。また、同年中に中国共産党の中央機関も武漢に移転し、武漢は第一次国共合作の中心地となった[3]。しかし、7月15日に武漢国民政府は共産党勢力の排除を宣言し、8月19日には南京国民政府との合流を宣言して政府機関を南京に移した[4][5]

1929年(民国18年)1月に武漢特別市は普通市に降格したが、4月27日に特別市に戻された[6][7]7月1日には武昌が湖北省に編入されて武昌市中国語版となり、残部(漢口・漢陽)は漢口特別市に改称された[6][8]

1930年(民国19年)5月3日、「市組織法」が制定された。この法律により、市は院轄市(現:直轄市)と省轄市(現:)の2種類に再編され、漢口は院轄市となって漢口市に改称された。また、同年に漢陽市街が漢口市から漢陽県中国語版に移管された。

1931年(民国20年)7月10日行政院は漢口市を院轄市から湖北省の省轄市に降格させた[9]

1937年(民国26年)の日中戦争開戦当初、日本軍が南京に迫っていたため国民政府は首都を武漢に移転する予定だったが、戦況が急速に悪化したため、最終的には更に奥地である四川省重慶市に移転することになり、その過程で一時的に武漢にも政府や党中央の一部機関が置かれた[10][11]1938年(民国27年)6月、日本軍による武漢作戦が開始され、双方に多大な損害を与えた末、10月31日に軍事委員会委員長の蔣介石が「武漢撤退告全国軍民書」を発表して武漢の放棄を表明し、武漢三鎮は日本軍に占領された[12]。日本軍は武漢を占領したものの、国民政府を降伏させて戦争を終わらせようとした日本側の目論見は外れ、戦況は膠着段階に入った[13]。武漢占領後、日本軍は住民を難民区に移住させ、武昌には多くの軍事施設を設置し、漢口には連絡部を設置した。侵攻前には武漢三鎮全体で約130万人の人口を有していたが、1940年(民国29年)には約31万人まで減少し、暴動が頻発した[14][15]

1938年12月25日、武漢三鎮を管轄区域とする武漢治安維持会が成立し、1939年(民国28年)4月20日、武漢治安維持会が武漢特別市政府に改組され、中華民国維新政府の下で武漢特別市が成立した[15][16]。1940年3月30日汪兆銘政権が成立すると同政権の行政区画となり、9月に武漢特別市は改編されて漢口特別市となった[13]1943年(民国33年)10月19日には省轄市に降格し、湖北省に編入された。

1939年10月、ソビエト連邦と中華民国の連合航空隊による空襲を受けた(漢口空襲)。

1944年(民国33年)12月18日アメリカ合衆国陸軍航空軍による空襲を受け、約4万人の市民が死亡し、漢口市街は3日間燃え続けた(漢口大空襲[17]

1945年(民国34年)9月18日第六戦区(湖北省西部)の受降式が漢口市内の中山公園中国語版で行われ、10月6日に武漢の和平建国軍中国語版(汪兆銘政権軍)は重慶政府軍に合流した[18]

1947年(民国36年)6月6日、漢口市が院轄市に再昇格した[19]

第二次国共内戦末期の1949年(民国38年)5月16日白崇禧率いる中華民国国軍が撤退し、共産党率いる中国人民解放軍が武漢三鎮を占領した[19][20][21]5月24日には武漢市人民政府が成立し、漢口市と漢陽県の市街地・武昌市が合併して武漢市中国語版が成立した[16][20]

行政区画

1946年時点で、漢口市には14の区が設置されていた[22]

区号別名範囲
第一区武聖区漢正上街
第二区宝善区漢中街
第三区漢正区大水街
第四区新安区民族路
第五区三民区小董家巷
第六区中山区鄱陽街
第七区大智区黎黄陂路
第八区漢景区漢景街
第九区和平区長春街
第十区雲樵区華中里
第十一区永清区憲政一路
第十二区張公区新馬路
第十三区復興区劉家廟
第十四区中正区羅家墩

歴代首長

脚注

参考文献

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