南京国民政府の行政区分

From Wikipedia, the free encyclopedia

南京国民政府の行政区分では、1927年民国16年)の南京国民政府の発足から、国共内戦により中華民国政府が台湾に移転した1949年(民国38年)までの中華民国行政区分を概説する。

それまでの行政区分については南京臨時政府の行政区分ないし北京政府の行政区分を、1940年から1945年までの汪兆銘政権のものについては汪兆銘政権の行政区分を参照のこと。

1955年(民国44年)の大陳島撤退以降、中華民国政府の実効支配地域は台湾地区に限られているが、その範囲から外れる中国大陸部の行政区分は1949年時点のまま名目上廃止されていない。現在の台湾地区におけるものについては台湾の行政区分を参照。

1927年(民国16年)、南京にて国民政府蔣介石政権)が成立すると、孫文の省県二級制に回帰し北京政府時代に設置された道制を廃止し、省、県、区、郷(保甲)等の行政制度が確立した。

この時代には中央政府直轄市、省政府管轄による普通市の設置が推進されると同時に、後に共産党勢力に対する軍事行動の必要性から行政督察区制度が新設され省と県の間の連絡監督業務を管轄し、実質的な三級制へと移行している。

南京国民政府では特別市の設置が推進されると同時に、省級特別区を省に改編する行政整理が進められた。1945年(民国34年)、日本の敗戦に伴い、旧満洲国地区及び台湾を接収、1947年(民国36年)6月には全国35省、12院轄市、57省轄市、209行政督察区、2016県、40設治局、1管理局、1地方を管轄していた。

省級行政区画

1936年までの沿革

1936年時点の中華民国の行政区画

南京国民政府の成立とともに中華民国の首都は北京から南京に遷都し、これに伴い京兆地方は廃止され直隷省に編入されると同時に河北省と改称された。また熱河、綏遠、察哈爾、川辺の各特別区を改編し、9月17日に熱河省綏遠省察哈爾省青海省を設置、10月22日には甘粛省寧夏道地区に寧夏省が新設されている。1928年(民国17年)12月の東北易幟以降は東三省が南京国民政府の管轄下に入り、1929年(民国18年)1月28日に奉天省は遼寧省と改称され、1931年(民国20年)の満洲事変勃発前には27省、6直轄市、3行政区、2地方を管轄した(表1を参照)。

1924年(民国13年)、外モンゴルモンゴル人民共和国(モンゴル)が成立したが、南京国民政府は独立を承認せず、引き続き蒙古地方を維持した。また、満洲事変後によって東三省と熱河省も日本軍に占領され、1932年以降は満洲国の地方行政区画が設置されたが、こちらも南京国民政府は分離独立を承認せず、従来の4省を名目上維持し続けた。

類別 1931年時点の行政区域(表1)
27 安徽 | 雲南 | 河南 | 河北 | 甘粛 | 広西 | 広東 | 貴州 | 吉林 | 江西 | 江蘇 | 黒竜江 | 湖南 | 湖北 | 山西 | 山東 | 四川 | 新疆 | 綏遠 | 青海 | 浙江 | 陝西 | 察哈爾 | 寧夏 | 熱河 | 福建 | 遼寧
院轄市 6 南京 | 上海 | 青島 | 漢口 | 天津 | 北平
行政区 3 威海衛行政区 | 東省特別行政区 | 川辺特別行政区
地方 2 西蔵地方 | 蒙古地方

1937年から1948年までの沿革

1947年時点の中華民国の行政区画、モンゴルとの国境は未確定としている。

1937年(民国26年)、日中戦争が勃発すると首都・南京を日本軍に占領され、国民政府は武漢、ついで重慶に疎開している。戦争期間中、重慶は政治、軍事、経済の中心地となり、1938年に院轄市に昇格している。東省特別行政区は満洲国時代に消滅し各省級行政区画に編入されている。1939年に1月1日川辺特別行政区は西康省と改称された。

1945年(民国34年)、日本の敗戦に伴い満洲国の領域が国民政府の施政下に戻った。これに合わせ、政府は今まで省が抱えていた問題(後述)の解決を目指し、従来の東三省を遼寧省安東省遼北省吉林省松江省合江省黒竜江省嫩江省興安省の9省に再編した(東北新省区方案中国語版)。 1946年(民国35年)、中ソ友好同盟条約に基づき今まで独立を認めなかったモンゴルの独立を認め、蒙古地方が廃止された。ただし、内政部1947年(民国36年)発行の『中華民國行政區域簡表』で「その国境については未定」とした。

日本の敗戦に合わせ、国民政府は台湾島澎湖諸島を接収し、台湾省設置の準備を進めた。1945年(民国34年)8月29日に政府は陳儀台湾省行政長官に任命、8月31日には『台湾省行政長官公署組織大綱』を策定、10月2日に台北に台湾省行政長官公署が設置され、下部に9市8県を管轄する行政機構が設置された。その後、1947年(民国36年)に二・二八事件が勃発すると、政府は事件を鎮圧する一方で台湾省行政長官公署を廃止し、5月17日に台湾省を正式に発足させた。これにより、中華民国政府が発足[注釈 1]した1948年(民国37年)時点で、新政府は35省、12院轄市、1地方を管轄した(表2を参照)。

類別 1948年時点の行政区域(表2)
35 安徽 | 安東 | 雲南 | 河南 | 河北 | 甘粛 | 広西 | 広東 | 貴州 | 吉林 | 興安 | 合江 | 江西 | 江蘇 | 黒竜江 | 湖南 | 湖北 | 山西 | 山東 | 松江 | 四川 | 新疆 | 綏遠 | 青海 | 西康 | 浙江 | 陝西 | 台湾 | 察哈爾 | 嫩江 | 寧夏 | 熱河 | 福建 | 遼寧 | 遼北
院轄市 12 南京 | 上海 | 青島 | 漢口 | 天津 | 北平 | 広州 | 重慶 | 大連 | 哈爾濱 | 瀋陽 | 西安
地方 1 西蔵地方

省制改革の試み

中華民国では建国当初から省長官が絶大な権力を有し独立王国の様相を呈する傾向があったことから省の細分化が検討されていた。その初見は1913年(民国2年)2月に熊希齢による省制廃止に伴う道県二級化の提案であったが袁世凱の反対により否決されている。また1930年(民国19年)11月に第3回四中全会にて、伍朝枢による『縮小省区案』や胡漢民らによる『改定省行政区原則案』が提出されたがいずれも実施には至っていない。それでも省級行政区画の取り扱いは重要議題として扱われ、1939年(民国28年)8月には国防最高委員会中国語版の指示を受け行政院に「省制問題設計委員会」が設置され省制の在り方が討議されていた。

具体的に省制改革に着手をしたのは、日本の敗戦に伴い行政権を回復した旧満洲国地区(東三省)である。満洲国建国以前は遼寧、吉林、黒竜江の3省が設置されていたが、満洲国ではこれらを細分化した省級行政区画を設置していた。それを受け、南京国民政府は満洲国の行政区画を基礎に省再編を行い、同年8月31日に『収復東北各省処理弁法要綱』を発表、満洲地区を9省2院轄市に再編することを決定した(東北新省区方案中国語版)。しかしこれらの地区は国共内戦の結果、共産党勢力の実効支配下に置かれており、実際に行政機構が設置されたのは一部地域に限られ、または設置されても短命であった。

1949年以降の沿革

1953年から1967年までの中華民国の行政区画
中華民国と中華人民共和国の行政区画の対比

1949年(民国38年)6月5日、それまで広東省の管轄下に置かれていた海南島地区に海南特別行政区が設置され、行政院の直轄区域とされた。この頃の中華民国政府は国共内戦で挽回が不可能なほど劣勢となっており、中央政府も首都の南京から各都市へと移転した上で、最終的には12月7日に台湾へと脱出した。1953年(民国42年)2月24日、立法院中ソ友好同盟条約を正式に破棄したのに伴い、モンゴル独立の承認が撤回された(モンゴルの扱いについては 中華民国の政治#対蒙関係蒙古地方を参照)。それを受けて外モンゴルに蒙古地方が再設置され、1953年(民国42年)末時点で中華民国政府が設置する行政区画は全国35省、12院轄市、1特別行政区、2地方とされた(表3を参照)。

1955年(民国44年)の大陳島撤退作戦により、中華民国の実効支配地域は台湾地区台湾省と福建省の金馬地区)となった。だが、台湾で中華民国政府が万年国会を維持し続けたため、大陸地区(台湾地区以外の地域)の行政区画も政府内で必要とされ続け、政府が公表する行政公告に掲載され続けた。1993年(民国82年)1月末、万年国会が全て解散された。その後も大陸地区の行政区画は政府公告に掲載され続けたが、2006年(民国95年)刊行の「中華民國九十四年年鑑」を最後に、中華民国政府は大陸地区の行政区分に関する公告を発表していない。

類別 1953年時点の行政区域(表3)
35 安徽合肥県| 安東通化市| 雲南昆明市| 河南開封県| 河北北平市| 甘粛蘭州市| 広西桂林市| 広東広州市| 貴州貴陽市| 吉林吉林市| 興安海拉爾市| 合江佳木斯市| 江西南昌市| 江蘇鎮江県| 黒竜江北安市| 湖南長沙市| 湖北武昌市| 山西太原市| 山東済南市| 四川成都市| 松江省牡丹江市| 新疆迪化市| 西康康定県| 綏遠帰綏市| 青海西寧市| 浙江杭州市| 陝西西安市| 台湾台北市| 察哈爾張家口市| 寧夏銀川市| 熱河承徳市| 嫩江斉斉哈爾市| 福建福州市| 遼寧瀋陽市| 遼北遼源県
院轄市 12 南京 | 漢口 | 広州 | 上海 | 重慶 | 瀋陽 | 西安 | 青島 | 天津 | 哈爾濱 | 北平
特別行政区 1 海南海口市
地方 2 西蔵地方拉薩市| 蒙古地方庫倫市

県級行政区画

南京国民政府の県級行政区は県、省轄市、設治局、直轄市の区により構成される。省轄市及び直轄市に関しては「市制」の章を参照のこと。

整理と改名

南京国民政府により新設された県は大部分が辺境省に属した。設置の理由としては設置されていた設治局の管轄区域の人口増加によるもの、旧県の管轄区域が広大なため行政効率向上を目指し設置されたもの、土帰流の改編、河川の流路変更など自然条件の変化によるもの、革命政権等を鎮圧した後に設置されたもの、国境地帯の管理強化に伴う設置の6種の理由による設置であった。

改名に関しては県名の用字に起因するものが主要な理由である。四川省の理番県、甘粛省の撫彝県伏羌県等は少数民族への蔑視感情が含まれているとして改名されている。それ以外の改名は合併による改名、県名が省名や市名と重複するための改名、人物顕彰のための改名などが行われた。

県の等級

北京政府時代に県の等級区分は行われていたが、南京国民政府が成立すると各省でまちまちの等級区分を使用する状態が発生していた。1930年(民国19年)7月7日、南京国民政府は『修正県組織法』を制定、広西省が5等級を維持した以外は3等級に区分されることとなり、一等県11、二等県9、三等県16、四等県35、五等県23に区分された。しかし、その後の政治状況の変化に従い等級区分も変化、1949年の段階では6等級による区分が行われた。

設治局

設治局制度は清末光緒末年に遡る制度であり、東三省などの辺境地区に県を新設する際に、まず設治委員会が派遣され殖民開拓、治安維持を行い行政区画として成立するに足りると判断された際に県に昇格される制度が採用された。北京政府時代に地方行政機構としての設治局の名称が使用され、その長官を設治委員、経費は県の半額と定められた。

1931年(民国20年)6月2日、南京国民政府は『設治局組織条例』を公布、県設置がなされていない地域に暫定的な行政組織として設治局を設置、一定期間経過の後に県に昇格するものとした。設置は省政府より内務部に申請が提出され、行政院が認可するものとされ、設治局長官としては局長が設置されている。

設置地域は開発が遅れていた東北三省及び西北地区に多く設置され、1935年(民国24年)には29設治局が設置されていた。日中戦争期間中は日本軍の侵攻を受けた国民政府が重慶に疎開するなど、政治が偏西する傾向があったため、陝西、甘粛、寧夏、青海、新疆、綏遠、四川、西康、雲南、貴州の各省に多く設置される傾向があり、南京国民政府期に合計145設治局が設置されていた。

管理局

管理局制度は南京国民政府により設置された特殊行政管理制度であり、国民政府時代を通じて北碚管理局のみが設置されている。行政機構としては一等県に設置し、組織と権限は一般の県と同一である」[1] と規定されている実験的な県であったと言える。

この他にも「管理局」の用字を採用した干山管理局廬山管理局も設置されたが、これらは旧来の県級行政区の管轄とされるものであった。

市制

中間行政機構

脚注

Related Articles

Wikiwand AI