炭焼 (掛川市)
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| 炭焼 | |
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| 大字 | |
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炭焼の航空写真 (2009年8月17日撮影) | |
北緯34度54分22.40132秒 東経138度0分57.21062秒 / 北緯34.9062225889度 東経138.0158918389度座標: 北緯34度54分22.40132秒 東経138度0分57.21062秒 / 北緯34.9062225889度 東経138.0158918389度 | |
| 国 |
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| 都道府県 |
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| 市町村 |
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| 人口情報(2024年3月末日[1]) | |
| 人口 | 1 人 |
| 世帯数 | 1 世帯 |
| 設置日 | 1889年 |
| 郵便番号 | 436-0337 |
| 市外局番 | 0537(掛川MA) |
| ナンバープレート | 浜松 |
山岳
静岡県掛川市の北端に位置する。北東から南西に向けて伸びた形状の大字である。炭焼の南端は大尾山の山頂にほど近く、北方には大日山が位置している[2]。大尾山の山麓に位置していることから[2]、領域のほとんどが山林に覆われている。
近隣には大字の名称と集落の名称とが一致しない地が散見されるが、炭焼においては大字としての住所表記は「炭焼」[3]と記されるのに対し、集落としては「明ケ島」[4]と呼称される。なお、集落としての明ケ島は、他の大字に位置する集落とともに掛川市の自治区である「田代・柚葉・明ヶ島区」を構成している[5]。
炭焼は掛川市の大字であるが[3][6]、掛川市に隣接する周智郡森町にもかつては大字として「炭焼」[6]が存在した。これは旧炭焼村の村域が掛川市と森町に分かれたためである[2]。
- 大尾山
- 大日山
歴史
掛川市の大字である「炭焼」は、もともとは自然村である遠江国佐野郡炭焼村の一部であった[2]。炭焼村は、山内氏領となったが[7]、江戸時代に入ると掛川藩領となった[7]。内山真龍の『遠江国風土記伝』によれば、当時の石高は17石9斗8合であったとされる[8][† 1]。当時の炭焼村の地名については史料によってさまざまな表記がなされている。たとえば、『遠江国風土記伝』では「宮箇島」[2]、「中津賀」[2]、「佐賀野」[2]の3つと表記しており、斎田茂先と山本忠英の『掛川誌稿』では「明ヶ島」[2]、「香折」[2]、「嵯峨野」[2]、「中塚」[2]の4つと表記している。『角川日本地名大辞典』では「明ケ島」[7]、「香折」[7]、「嵯峨野」[7]、「中塚」[7]の4つと表記している。同書によれば、嵯峨野と中塚の鎮守社は八幡社とされており[7]、明ケ島と香折の鎮守社は天王社とされている[7]。また、同書によれば、嵯峨野と中塚の檀那寺は東光寺とされており[7]、明ケ島と香折の檀那寺は近隣の萩間村にある昌光庵とされている[7]。明治元年には駿府藩領となり[7]、明治2年には静岡藩領となった[7]。この炭焼村の一部が、のちの大字としての「炭焼」に該当する[2]。
町村制が施行された1889年(明治22年)に炭焼村は大和田村、萩間村、丹間村、孕石村、居尻村、黒俣村と合併することになり、原泉村が発足した[7]。その際に従来の自然村は大字とされることになり、原泉村の大字として「炭焼」が設置された[6][7]。ところが1956年(昭和31年)に原泉村は分割されることになり、原泉村の炭焼の一部のみが周智郡森町に編入され、炭焼の残部は原泉村の他の大字とともに三笠村に編入された。その結果、隣接する町村の双方に「炭焼」が並存することになった[6]。のちに森町の大字である炭焼は「嵯塚」に改称したため[6]、炭焼は三笠村のみとなった[6]。1957年(昭和32年)に三笠村の一部が掛川市に編入されることになり、三笠村の炭焼は掛川市の大字となった[6]。
沿革

世帯数と人口
事業所
2021年(令和3年)現在の事業所数と従業員数は以下の通りである[9]。
| 大字 | 事業所数 | 従業員数 |
|---|---|---|
| 炭焼 | 0事業所 | 0人 |
小・中学校の学区
施設
- 炭焼の杜明ヶ島キャンプ場[11]
