生島孝子
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1941年(昭和16年)6月14日生まれ[1]。失踪当時は妹とともに渋谷区笹塚に居住し、港区役所支所の電話交換手の仕事をしていた[4][6][注釈 1]。彼女は身長153センチメートルくらいで血液型はO型である[2]。
1972年(昭和47年)11月1日、一日の年次休暇届けを出して勤務先を休んだ[1][6]。その日の朝、出勤する同居の妹に「夕方に電話があったら出かける」と声をかけた[1][6]。妹が夜に帰宅すると彼女は不在で、秋冬の衣類の入れ替えを行うなどの家事を済ませており、翌日出勤時に着用する自身の衣服一式が揃えてあった[1][6]。しかしその夜、何の連絡もなく帰宅しなかった[1][6]。ハンドバッグや財布は家に置いたままだった[6]。なお、彼女はこの日の午後3時頃、近くのクリーニング店に多くの衣類を出していた[1][6]。
妹は、彼女が連絡なしに外泊するのは初めてだったため,翌11月2日に別居している長姉に連絡した[6]。この日の午後10時頃、自宅に電話があり、無言状態がしばらく続き、その後、男性の声で「今さら仕方ないだろ」という言葉が聞こえ、それとともに切れた[1][4][5][6]。彼女に自ら失踪する理由はなかった[4]。家族は11月3日に警察に捜索願を出した[6]。
家族はその後、読売新聞・毎日新聞・朝日新聞の全国版に2度にわたり尋ね人の広告を出し、事故で記憶喪失になり収容されている可能性も考慮して、東京とその周辺の精神病院にも問い合わせの手紙を出した[6]。テレビを通じての呼びかけも行った[6]。また、身元不明遺体の確認等にも出向いたが、国内においては全く消息不明のままであった[6]。
1991年(平成3年)、北朝鮮工作員で大韓航空機爆破事件(1987年)の犯人であった金賢姫が自身の日本人化教育の教官「李恩恵」が日本人田口八重子であることを明らかにし、このことがマスメディアで報道されると、家族は彼女の失踪が北朝鮮による拉致ではないかと考えるようになった[6]。そして、小泉純一郎首相が訪朝し、日朝首脳会談が開かれた後の2002年(平成14年)11月に、家族が「救う会」(北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会)に連絡したところ、翌2003年(平成15年)1月10日の「調査会」(特定失踪者問題調査会)発足と同時に彼女は特定失踪者に認定され、公表された[6]。
目撃情報
韓国の経済学者で一家で東ドイツを経由して北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に渡り、のちに韓国に再亡命した呉吉男(オ・ギルナム)は、自身が北朝鮮にいて平壌市の高級アパートに滞在していた1986年、日本語を教えていた生島孝子らしき日本人女性と会話したと証言した[5][6][8][9][注釈 2]。そのアパートは蒼光通りに面し、平壌駅と平壌高麗ホテルの間にある20階建てのアパートで、彼女もそこに住んでいた[6][9]。アパートは1つの階に6, 7世帯が入居しており、北朝鮮工作員たちが多く居住していた[6]。
呉吉男によれば、彼女とは屋内で顔を合わせたことはなく、当時はこの人の夫が外国に出ているように感じ、また、自分と同じ位の年齢好に見えたという[6][注釈 3]。そして、彼女の憂いを帯びたような面持ち、清潔な印象などから、北朝鮮の人々とは異質なものを感じた[6]。身長は155センチメートルくらいと記憶している[6]。その女性が呉に「ヨーロッパから来られたのでしょう」と声をかけ、自身については「日本語を教えています」と語った[6]。以上の証言は、2004年(平成16年)1月21日に、荒木和博がソウル特別市内の自宅に呉を訪ねたときの記録によっている[6]。
呉吉男は後に来日し、彼女の母や姉に会って、北朝鮮で会った女性は丸顔で失踪前の生島の写真に似ており、姉にもよく似ていると語り、彼女は生島本人に間違いないと伝えた[5][6]。
特定失踪者問題調査会は2004年9月29日、警視庁に告発状を提出した[1]。同年11月10日、警視庁はこれを受理した[2]。