萩本喜彦

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生誕 萩本 喜彦
(1940-01-15) 1940年1月15日(85歳)
日本の旗 日本
失踪 1975年失踪(35歳)
失踪から50年9か月と8日
日本の旗 日本 兵庫県高砂市
国籍 日本の旗 日本
職業 製鉄会社勤務(電気保全係)
はぎもと よしひこ
萩本 喜彦
生誕 萩本 喜彦
(1940-01-15) 1940年1月15日(85歳)
日本の旗 日本
失踪 1975年失踪(35歳)
失踪から50年9か月と8日
日本の旗 日本 兵庫県高砂市
国籍 日本の旗 日本
職業 製鉄会社勤務(電気保全係)
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萩本 喜彦(はぎもと よしひこ、1940年昭和15年〉1月15日 - )は、兵庫県出身の特定失踪者[1]特定失踪者問題調査会では「拉致濃厚」(1000番台リスト)としている[2]1975年(昭和50年)4月、兵庫県にて失踪した[1][3]。失踪当時は35歳であった[1][3]。彼については、朝鮮労働党連絡部幹部工作員だった金東赫が北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国平壌市において非常によく似た人物を目撃したとの証言がある[1][3][4][5]

1940年昭和15年〉1月15日 生まれ[1][3]。失踪当時は妻と子ども2人とともに兵庫県高砂市に居住し、製鉄会社の電気保全係として勤務していた[1][3]。身長は165センチメートルで右眉に小さな傷跡があった[1]

失踪したのは1975年(昭和50年)4月4日のことである[1][3]。当日は夜勤であり、午後9時55分頃に家を出て、自転車で約2キロメートル離れた職場に向かったまま自転車ごと消息を絶った[3]現金を持たず仕事着のままであった[1]。失踪後、家族や同僚などで探したが、本人のみならず自転車をはじめ遺留品らしきものも一切見つからなかった[3]。その後ローカル紙などに失踪に関する記事が掲載されたが、彼に関する情報は全くもたらされなかった[3]

失踪の1か月前頃、自宅付近の新幹線ガード下に1人の男性が長時間立ちすくんでおり、家族で注意を促し合ったことがあったという[3]。失踪後は無言電話など不審な電話があった[1]。具体的には、失踪の翌日、彼の長兄の自宅に無言電話があり、彼の義姉が出て、「喜彦ちゃん、どうしたん」と問いかけ、「お母さんが心配して倒れ入院した」と話すと電話が切れてしまった[3]。数日後、男から電話があり、男は「お母さんの病気てほんまか」と言ったが、「喜彦はどこにいるのか」と聞くとすぐに電話が切れた[3]。さらに1か月すぎた6月初旬、Rを名乗る男性から「家の前で彼が事故を起こし、自分の息子ということにして入院している」と説明する不可解な内容の電話があった[3]。 そして、その2,3日後にSと名乗る女性から同様の内容のはがきが届いた[3]。家族は差出人住所を訪ねたが、この女性は存在しなかった[3]

北朝鮮での目撃証言

朝鮮労働党連絡部幹部工作員で脱北者の金東赫によれば、1975年8月、1人の日本人拉致被害者を平壌曲芸劇場にて目撃している[3][4][6]。この人物は、日本の特定失踪者の写真と照合すると1975年4月に失踪した萩本喜彦にとてもよく似ており、金はその後もこの人物を2度ほど目撃している[3][4]

参照

関連項目

外部リンク

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