園田一

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生誕 (1918-02-25) 1918年2月25日(107歳)
失踪 1971年失踪(53歳)
失踪から53年10か月と30日
日本の旗 日本 鹿児島県または宮崎県
国籍 日本の旗 日本
職業 会社員(養鶏場)
そのだ はじめ
園田 一
生誕 (1918-02-25) 1918年2月25日(107歳)
失踪 1971年失踪(53歳)
失踪から53年10か月と30日
日本の旗 日本 鹿児島県または宮崎県
国籍 日本の旗 日本
職業 会社員(養鶏場)
家族 (妻)トシ子
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園田 一(そのだ はじめ、1918年大正7年〉2月25日 - )は、鹿児島県出身の特定失踪者[1]特定失踪者問題調査会では「拉致濃厚」(1000番台リスト)としている[2]1971年(昭和46年)12月、妻の園田トシ子とともに失踪した[1][3]。失踪当時、53歳であった[1][3]。園田夫妻については複数の目撃証言がある[4]

1918年(大正7年)生まれ、失踪前の住所は鹿児島県曽於郡大崎町である[1][3][4]養鶏場に管理人として勤務していた[1][4]。身長は160センチメートル程度で体型は痩せ型、顔は面長で頭髪は七三分けにしていた[3]。トシ子とは1948年(昭和23年)に結婚し、2人の間には2男3女がいる[5]。失踪当時は15歳の次男と3人暮らしであった[5]

1971年(昭和46年)12月30日、妻のトシ子とともに自家用車(マツダ・ファミリア)で正月に大阪府から帰省する次女を迎えに宮崎空港へ向かう途中、ガソリンスタンドに寄った後、自家用車ごと消息不明となった[1][3][4][注釈 1]国道269号を走って行き、宮崎県都城市に立ち寄ると言っていたという[1]。都城に寄るのは三女の晴れ着を買うためで、同僚と家人(次男)には空港で次女を出迎えて午後7時には帰ると伝えていた[5]。失踪の後、警察や近隣住民が総出で大規模な捜索活動を行ったが、自動車の破片さえ発見できなかった[1][4]。なお,この日次女が搭乗する予定の航空機は濃霧のため欠航した[5]

特定失踪者問題調査会2004年平成16年)9月28日鹿児島県警察告発状を提出した[1]

目撃証言等

2000年代に脱北したMは、Mの住んでいた咸鏡北道セッピョル郡(現、慶源郡)に「李スンジャ」と名乗る日本人女性が住んでおり、「李スンジャ」は彼の妻園田トシ子によく似ているという[5]。Mの父親が在日朝鮮人帰国者だった関係から、Mの家族と「李」を名乗る女性は親しく交わり、M自身も「李」としばしば会話した[5]。「李」は金日成死去(1994年)後、自身の身の上を語るようになり、それによれば、彼女は1970年代に日本より拉致されたという[5]。拉致された当時は43歳くらいで、夫が自動車を運転して空港に向かう途中で拉致された[5]。彼女には息子と娘がいる[5]。夫は拉致される際に抵抗して、海上で死亡した[5]。北朝鮮では、対南連絡所の幹部と結婚した[5]。その幹部は前妻との間に娘が1人いた[5]。幹部の夫が死亡後、平壌市から前妻の娘が住むセッピョル郡に移り住んだとのことであった[5]。Mは、彼女が失踪地について語った際の「チマ」ないし「シマ」という地名の一部を記憶しており、これが「鹿児島」であるならば、園田夫妻失踪の状況ときわめてよく符合している[5]。そして、この身の上話が事実であるならば、園田一は北朝鮮に入国する前に53歳で死去したことになる。

しかし、一方ではこれとは全く別に、園田一が北朝鮮国内で生きているとの未確認目撃証言もある[6]

夫婦やアベックの失踪

園田夫妻の失踪は1971年であるが、遠山文子と連れの男性が失踪したのが1973年7月、地村保志・富貴恵夫妻、蓮池薫・祐木子夫妻(当時はそれぞれともに独身)の拉致が1978年7月、市川修一増元るみ子アベック失踪事件および富山県アベック拉致未遂事件が1978年8月と、いずれも1970年代に起こっており、ゼロ番台の特定失踪者や非公開の失踪者で数件のアベック失踪が存在するがいずれも1970年代とその前後に起こっている[7][注釈 2]

参照

参考文献

関連項目

外部リンク

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