河嶋功一
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河嶋 功一(かわしま こういち、1958年〈昭和33年〉5月5日 - )は、静岡県浜松市出身の特定失踪者 [1][2]。1982年(昭和57年)3月、神奈川県横浜市金沢区洲崎町にて失踪した[1][2][3]。失踪当時は23歳[1][2][4]。2009年北朝鮮ミサイル発射実験(2009年4月5日)直後、朝鮮中央通信が、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の金正日労働党総書記が科学者たち約40人と写った1枚の集合写真を配信し、朝鮮労働党機関紙『労働新聞』がこれを掲載した[5]。この写真の科学者たちのなかに1982年に失踪した日本人、河嶋功一によく似た人物が写っていた[5][6]。
河嶋功一は、小中学生の頃野球が得意で、浜松日体高等学校に進んだ[7]。高校卒業後は1年浪人して関東学院大学工学部機械工学科に入学した[5]。機械工学科では計測制御研究室に入り、ロボットアームの研究を専攻した[5][7]。ロボットアームは原子炉の燃料を出し入れする際に用いられ、原子力発電には必須の技術である[5][8][注釈 1]。
大学の同級生たちによれば、河嶋はひじょうにおとなしく無口であったという[5]。しかし、歴史については酒席などで「そこは違う」と強く主張したり、熱弁をふるったりすることがあり、歴史事象について調べるのが好きで、知識も豊富であった[5]。彼は歴史上の人物などについて詳細に調べたノートを持っていたが、失踪後それは、中身がすべて破かれ、表紙だけの状態で見つかった[5]。
たいへんな動物好きで、怪我をした鳩を拾ってきて育て、伝書鳩のように飼い慣らしたり、祭りの縁日で購入したひよこはニワトリになるまで飼い育てたという[7]。また、食べさせるドッグフードを自分で味見をするほど実家で飼っていたイヌをかわいがってもいた[7]。
野球で投手をしていたため、右腕の方が左腕より手のひら半分ほど長かった[3]。怪我で左手の中指を縫合しており、やや内側に曲がっていた[3]。また、膝上よりふくらはぎにかけてケロイド状の熱傷痕があった[3]。失踪当時の身長は約167センチメートル、体重は60キログラムほどであった[1][2]。少しうつむき加減につま先に力を入れて早足で歩く癖があった[3]。
失踪事件
河嶋功一は1982年(昭和57年)3月20日、関東学院大学機械工学科を卒業した[5]。卒業後は、実家のある浜松市に戻ることになっていて就職も市内の自動車部品メーカーに決まっていた[5]。内定後、河嶋は「入社後すぐに渡米し、アメリカで2年か3年暮らすことになる」と周囲に語っていた[5]。河嶋は英語が話せた[5]。
入社式は3月22日の月曜日であった[5]。横浜市金沢区で下宿暮らしをしていた河嶋は引っ越しの日を3月21日の日曜日に定め、両親に引っ越し作業の手伝いを頼んだ[5]。河嶋の父と母は、20日の午後11時に自家用車(日産・サニーライトバン)で浜松を出て、翌朝6時に神奈川県小田原市に到着、少し仮眠をとって、午前8時に河嶋の下宿に着いた[5]。河嶋は食事のため不在だったがしばらくして下宿に戻った[5]。3人は下宿の大家に挨拶した後、冷蔵庫、テレビ、コタツ、工具類や書籍など河嶋の私物をライトバンに積み込んでいった[5][7]。布団はライトバンの屋根の上に固定して運ぶつもりであったが、折りあしく雨が降ってきて急遽車内で運ぶことになった[5]。そのため、親子3人同乗して帰るつもりであったが、河嶋の乗るスペースがなくなったため、彼だけ東海道新幹線で帰ることにした[5][7]。
父が河嶋に交通費として1万円を渡そうとすると、彼は「それくらいはあるから」と遠慮した[5]。父は土産でも買えと言って5000円を渡すと、河嶋は実家で飼っている5匹の犬を散歩しておくことを両親に約束した[5][7]。河嶋は傘1本と電車賃、自分の小遣い程度の現金しか持っておらず、ジャージータートルネックにジャンパー、ズボンにスニーカーというラフな服装であった[3][4][5]。河嶋は「お母さん、気を付けて行きなよ。雨が降っているから」と言って、午前9時半頃下宿を出て、京浜急行電鉄金沢文庫駅方面へ向かった[3][7]。両親は30メートルほど先の角を右に曲がるところまで見送った[3][5]。河嶋が手を振り、「気を付けて帰ってきて」と両親に告げたが、これ以来、河嶋は行方不明となってしまった[5]。
河嶋と別れた後、母親はあらためて息子の住んでいた部屋を念入りに掃除し、周囲の草取りも行った[5]。すべての作業が終わったのが11時半頃で、あらためて下宿の大家に挨拶すると、大家は「大学生に部屋を貸すと夜中に大勢で集まって飲酒したり、麻雀したりして騒ぐことが多いけれど、お宅の息子さんに関してはそういうことが一切なかった」と両親に伝えた[5]。
自動車での帰途、両親は渋滞に巻き込まれた[5][7]。夕方5時に小田原から浜松の自宅に電話をかけると娘(功一の妹)が電話に出たが、彼はまだ家に到着していないという[5]。結局浜松に着いたのは夜の10時頃であったが、まだ彼は家に帰っていなかった[5][7]。朝の9時半に下宿を出て、途中でどこかに寄ったとしてもこの時間に戻らないのはおかしい、まして翌日に入社式を控えているのにと、家族のだれもが考えた[5]。妹も、あれだけ飼い犬をかわいがっていた河嶋が、両親から引き受けた散歩をほったらかしにするのはおかしいと思ったという[5]。両親は夜中の1時半まで待ったが、いてもたってもいられず、再び自家用車で横浜の下宿に向かった[5][7]。午前4時頃、小田原で仮眠をとってから8時頃に下宿に着いた[5]。大家に尋ねたが下宿に来ていないという[5][7]。大学の友人に聞いても会っていないという[7]。両親は神奈川県警察金沢警察署に捜索願を提出したが、成人の場合は事件性がない限りは動けないといわれた[5]。捜索願は静岡県警察浜松中央警察署にも出したが、手がかりがなく、今なお消息不明の状態がつづいている[7]。
21年目の証言
2002年(平成14年)9月17日、日朝首脳会談において金正日労働党総書記が日本人拉致を認めて謝罪し、翌10月に拉致被害者5名が日本への帰還を果たした[12]。この帰国者5名のなかに日本政府が拉致被害者とみなしていなかった曽我ひとみが含まれていたことにより、「自分の失踪した家族も北朝鮮に拉致されたのではないか」との問い合わせが各地の警察や「救う会全国協議会」へと殺到した[12]。こうした拉致の可能性を排除できない失踪者について調査するため2003年1月に設立されたのが、特定失踪者問題調査会(通称「調査会」)である[12]。
2003年(平成15年)2月10日、特定失踪者問題調査会は拉致の可能性のある失踪者の第2次公表分として失踪者44人の実名を発表したが、そのなかに河嶋功一の名があった[13]。これを受けて2003年、浜松では母校である高等学校の同窓生たちが中心となって「河嶋功一君を探す会」(「探す会」)を立ち上げた[7][13]。代表者は「自分のことを誰も探していないことほど辛いことはない。探し続けることが、彼を孤独にしないと思う」と語っている[7]。2004年(平成16年)2月、「探す会」が拉致問題について考える趣旨の集会を開いたところ、その様子がテレビで放映され、その番組をみていた河嶋の中学時代の同級生から以下のような連絡が入った[13]。
中学時代の同級生は、卒業後河嶋とは会っておらず、また、特に仲がよかったというわけでもなかったという[13]。ただ、中学の同窓会の案内を1981年か82年頃に河嶋宛に送ったことがあるとのことであった[13]。後日、河嶋を名乗る男性から自宅に電話が入り、1度目は留守で同級生の母親が電話を取ったが、2度目は同級生本人が電話に出た[13]。同級生は、てっきり同窓会への出欠連絡だと思ったという[13]。しかし、河嶋を名乗る男は、公衆電話から電話をかけているらしく、硬貨を入れる音が聞こえ、また電車の音やアナウンスの声が聞こえたので、大きな駅の構内からかけているようだった[13]。彼は特に挨拶をするわけでもなく、唐突に「今、自分は横浜にいる。自分のため、両親のため北朝鮮に行きたい」と告げた[13]。「北朝鮮」という国名に同級生はひじょうに驚き、「何をしにいくのか」というような質問をした記憶があるという[13]。2,3分したら急に話が途切れてしまい、自称河嶋のそばに誰か他の人がいるようすであった[13]。2,30秒か1分くらい応答がなく、硬貨を入れる音だけが聞こえた[13]。そして、誰かが受話器に出た気配を感じた同級生は、よくわからないながら「とにかく身体にだけは気を付けてね」と告げると、相手は無言のまま電話を切ってしまった[13]。同級生は、こうした電話でのやり取りを「探す会」に証言した[13]。
河嶋には他の理由による失踪が考えられないこと、そして、特に親しくもない級友に「北朝鮮に行く」と唐突に話しかけている(話しかけさせられている)ことなどから、拉致の可能性が高いと判断される[4]。同級生証言を得た河嶋の家族は「探す会」「調査会」と協力して、2004年9月28日、静岡県警察に告発状を提出した[3][13][注釈 2]。罪状は「所在国外移送目的略取及び誘拐」(刑法第226条)、被告発人は不詳とした[13]。静岡県警はこれを受理した[13]。
新たな事実
同級生証言には、河嶋を名乗った人物にはもう1人そばに別人がいた気配を感じたという内容がふくまれていたが、その点で河嶋の両親には思い当たる節があった[14]。河嶋が新幹線で浜松に行くことになった際、「すぐに出発しないといけないかな。会いたい人がいる」と語ったことである[14]。父が「入社式が終わってからまた会いに来ればいい」と告げると、彼は「わかった。先に浜松に戻って犬の散歩をしておく」と答えたのだった[14]。その時点ではまさか彼が失踪するとは思っていなかったので気にも留めなかったのであった[14]。
警察による捜査で判明した新事実もあった[14]。河嶋失踪の翌々日にあたる1982年3月23日、河嶋の住民票が引き払ったばかりの横浜市金沢区の下宿の住所に移されていたのである[14]。彼は在学中も引っ越しをしており、金沢区洲崎町の下宿に住んでいる間、その前の住所から住民票を移していなかったのだが、この日に移すとするならば浜松市の実家でないとおかしい[14]。神奈川県警察外事課は、この不自然な住民票移動に多大な関心を寄せ、当時の金沢区の戸籍係24名のうち故人を除く21名に聴取し、彼が就職先に郵送した書類の住所表記なども調べた[14]。その結果、3月23日に金沢区役所に手続きにやってきたのは河嶋本人の可能性が高いと推測できるとのことである[14]。何らかの理由で住民票が必要になったからこその住民票移動と思われるが、1980年の辛光洙事件の例などを考慮すると、運転免許証やパスポートなど北朝鮮工作員が偽造の身分証を取得するため、彼に金沢区の住民票を取らせた可能性も考えられる[14]。浜松の住民票ならば、家族によってすぐに露見することも考えられるからである[14][注釈 3][注釈 4]。
「よく似た人物の写真」
特定失踪者問題調査会は2009年5月25日、複数の情報筋から「金正日総書記との記念写真の中に、1982年に失踪した河嶋功一によく似た人物が写っている」という情報が寄せられたことを発表した[6]。調査会によれば、この写真は同年4月5日に北朝鮮が「人工衛星」と称してミサイルを発射した際、朝鮮中央通信が配信したものであった[6]。金正日総書記とミサイル技術者ら約40人による記念写真の最後列に、河嶋功一によく似た男性が写っているという[6]。この写真を見て、母は「写真を見ても、正直、すぐに息子とは思えない」と述べ、妹は「もし兄がミサイル開発にかかわっているとしたら申し訳ないが、仕方なくやっているのだと思う」と語った[6][注釈 5]。
神奈川県警察は、科学捜査研究所で写真を鑑定した[21]。「同一」「おそらく同一」「同一の可能性もある」「別人」の4レベルに分類するならば「同一の可能性もある」という結果であった[21]。さらに詳細な鑑定を専門家に依頼する必要があった[21]。しかし、警察ルートで依頼した専門家は、他に多くの鑑定をかかえているなどの理由で遅々として進まなかった[21]。このままでは事態が打開できないと判断した妹は、2011年11月、似顔絵捜査専門家として知られる坂本啓一に鑑定を依頼した[21]。坂本は、『労働新聞』に掲載された写真と河嶋が少年時代のときの写真、大学生のときの写真を比較分析した[21]。坂本は、目や眉、唇といった顔を構成するパーツ間の距離を計測し、耳の形状を調べるなどして、依頼から2ヶ月後の2012年1月、鑑定結果を通達した[21]。それによれば、
- 顔の各部位の位置関係は95.83パーセントの確率で適合する
- 河嶋の写真も『労働新聞』の科学者の写真も、左右の眉の位置に段差があり、向かって右眉が左眉よりも下がった位置にある。こうした特徴は固有のものであり、両眉自体の尻下がりのかたちも特徴的である
- 『労働新聞』の写真は年齢を重ねていて、頭髪の境界線が額から後退しているが、頭髪は左分けであることが確認でき、河嶋の写真同様、つむじが右回りであると推認できる
こうしたことから、坂本は「同一性が極めて高いと判断し、早急にその他の異同識別鑑定を合わせて実施することを希望するところであり、拉致認定調査を進めるべき対象検体であると考えるべきである」と報告した[21]。にもかかわらず、その後10年以上経過しても、日本政府からも、また、警察からも全く何の連絡もない状態がつづいている[21]。