秋田美輪

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生誕
秋田 美輪

(1964-01-25) 1964年1月25日(61歳)
失踪 1985年失踪(21歳)
失踪から39年11か月と20日
日本の旗 日本 兵庫県神戸市
国籍 日本の旗 日本
職業 大学生
あきた みわ
秋田 美輪
生誕
秋田 美輪

(1964-01-25) 1964年1月25日(61歳)
失踪 1985年失踪(21歳)
失踪から39年11か月と20日
日本の旗 日本 兵庫県神戸市
国籍 日本の旗 日本
職業 大学生
(父)正一郎
(母)嶺子
家族 (姉)美保
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秋田 美輪(あきた みわ、1964年昭和39年〉1月25日 - )は、兵庫県出身(出生地は岐阜県)の特定失踪者[1][2]特定失踪者問題調査会では「拉致濃厚」(1000番台リスト)としている[3]1985年(昭和60年)12月、兵庫県神戸市にて失踪した[1][2][4]。失踪当時、彼女は21歳であった[1][2][4][5]

1964年(昭和39年)1月25日、岐阜県岐阜市に生まれた[1][6][7]保険会社に勤める父の関係で、その後、愛知県名古屋市へ、小学校入学前には兵庫県尼崎市に転居した[6]。子どもの頃の秋田美輪は動物好きで、もらってきたひよこを成鳥になるまで育てたこともあった[6]。高校2年生のときに川西市湯山台に転居し[5][6]兵庫県立武庫荘高等学校から兵庫県立川西明峰高等学校に転校した[6]吹奏楽部に入部し、担当楽器はクラリネットであった[6]。読書好きだった彼女は、神戸市灘区松陰女子学院大学文学部国文科に進学して国文学を学んでいた[1][5]

1985年(昭和60年)3月に姉(長女)が愛知県で結婚、彼女の父は徳島県徳島市に単身赴任中で、次女である彼女は川西で母と2人暮らしであった[5]。控えめでおとなしいが、浮ついたところのない、しっかりした性格で両親からの信頼も厚かった[5][6]。彼女の両親は、彼女が大学を卒業したら、川西を引き払って親子3人で故郷の徳島で暮らすつもりであったという[5]。一方で彼女は弁護士の道も志すようになり、法学部に改めて入学し直すことも考えていた[5]。失踪当時の彼女は、細面で中肉、身長は155センチメートル、体重は43キログラムほどであった[1][2][8]

失踪事件

1985年12月4日、松陰女子学院大の4回生だった彼女は、午前の講義を受講した後、午後1時過ぎに学生食堂で友人と一緒に昼食をとり、大学の校門近くで友人と別れた[1][4][6][9]長野県出身のその友人とは「親友」と呼べるような間柄で、友人によれば、落ち着いた雰囲気の秋田美輪にはすぐに心を開くことができ、だいたいいつも昼食は一緒だったという[6]。校門のところで彼女は友人をケーキを食べに誘ったが、その日は同じ下宿に住む別の友人が風邪を引いており、看病のため早く帰るつもりだったので断ったという[6]。親友が彼女を見たのはそれが最後になった。彼女に何か変わったところはなく、ふだん通りであったという[6]

夜8時過ぎ、「遅くなってごめんね。友だち(上記の校門で別れた親友)の下宿に泊めてもらうから」という彼女からの電話が実家にかかってきた[1][4][6]。今まで彼女は外泊したことがなかったものの、母親は美輪本人から電話があったことに安心した[6]。しかし、実際には友人の下宿には泊まっておらず、それ以来彼女からの音信は途絶えている[1][4][6]。彼女の母は、その時の受話器の向こうは静まりかえっていたと振り返っている[6]

12月5日朝8時15分、川西市湯山台の実家に兵庫県警察城崎警察署から城崎郡竹野町(現、豊岡市)の弁天浜で本人のバッグが発見されたとの電話連絡が入った[1][5][4][9][注釈 1]。母親はすぐに徳島の父親と連絡をとり、それぞれ現場に急行した[5]。バッグと靴は揃えて置いてあり、バッグのなかには彼女の名を記した学生証が入っていた。バッグ発見の前日夕方から未明にかけて雨が降ったが、バッグも靴も濡れていなかった[1][注釈 2]

捜索活動

12月5日、両親が弁天浜に着いたころには既に、現地ではダイバーが出動し、海上保安庁や兵庫県警、漁業協同組合が捜索活動を行っていた[5]。ダイバーは箱眼鏡を付けてサザエなどを採る浅海漁業の漁師たちであり、消波ブロックや岩のくぼみも含めてくまなく探した[12]。前夜は雨が降っていたものの、海は波もなく穏やかで、浜辺の海水は海底を見渡せるほど澄んでいた[12]。県警はヘリコプター、海上保安庁は巡視船を出動させた[12]。漁協の漁師たちは「遺体が沖に流される確率は万に一もない」と語ったが、集められるだけの漁船を集めて沖合も捜索した[12]。地元の消防団は付近の山林を探し回った[12]。しかし、手がかりとなるものは何も見つからなかった[5][12]。県警は、竹野浜竹野駅城崎温泉駅なども捜査したが、彼女を目撃した人はいなかった[1]

バッグ発見箇所から海岸に向け10メートルほどの波打ち際に何度も往復しているような足跡があった[1][12]。当時、捜索にあたった人は「警察の話で、100パーセント自殺だと思っていた」と振り返っている[12]遺書などは見つかっておらず、家族は最初から彼女が自殺するはずがないと信じていたが、報道などでは入水自殺を疑うものもあった[1]。しかし、入水自殺であるならば地形や潮の流れから考慮して遺体が上がってしかるべきであり、仮に沖に流されたとしても1週間もすれば遺体が上がるはずである[1][12]

彼女のバッグには国鉄(当時)大阪駅発行の900円分の急行券が入っていたが、この急行券は営業距離150キロメートルまでは有効だが、それでは内陸の和田山駅朝来市)までしか行くことができず、なおかつ、改札鋏が入っておらず、検札の跡もなかった[11][13][注釈 3]。午後1時に神戸を出発したとすると竹野への到着は日没後と推定され、当時、夜は無人駅であった竹野駅から約1キロメートルの曲がりくねった細い道を弁天浜まで歩くとは考えにくい[11]。それまで彼女は弁天浜には行ったことがなく、自宅より180キロメートル以上離れた、見ず知らずの場所で自殺するとは考えられないのである[11][14]

彼女が通っていた大学のロッカーには、2,3日後の授業で提出するレポートが完成の状態で入っていた[11]。また、1か月後に姉が第一子を出産する予定であり、彼女は出産のための姉の里帰りを楽しみにしていたのであって、そうした点からも自殺する動機が見当たらない[11][9]。彼女は読書と料理の好きな女性であったが、北朝鮮に特に関心があったわけではなく、自ら望んで北朝鮮に渡るということも考えられない[14]。したがって、バッグ・靴という遺留品や足跡は、警察への通報を遅延させるため、そして、捜査活動を攪乱するための偽装である可能性が高いと考えられる[11][注釈 4]

12月6日、彼女の友人も弁天浜を訪れた[16]。この日の夕刻、彼女の捜索活動は概ね打ち切られた[16][注釈 5]。ダイバーによる捜索は12月7日もつづいた[17]。城崎署は「自殺とは断定できない。行方不明としか言えない」と家族に説明し、遺留品の靴とバッグを返したという[16][注釈 6]。ただし、一般には自殺との受け止めが広がり、彼女が在学していた松蔭女子学院大学も「自殺であろうとの情報が教授会に寄せられた」として、1986年3月、彼女を退学とした[16]

残された家族

彼女の両親は毎年、彼女の失踪した12月4日前後には弁天浜を訪ねていた[9][16]。彼女の自宅では、彼女の無事を祈ってしばらくの間陰膳を据えていたが、いくつもおかずを用意するのが悲しくなって数年でやめたという[9][16]。父親は毎年、盆のころになると、行方不明者の相談会に出席するため徳島県警察を訪ね、そこで身元不明遺体の写真を確認した[16]。「この中から見つかってほしくない」という思いで失踪した娘の姿を探していた[16]

1997年平成9年)、失踪当時(1977年11月15日失踪)中学1年生だった横田めぐみが北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に拉致されていたというマスコミ報道がなされたことなどから、両親は彼女が拉致されたとの疑いを持つようになった[9]。両親は救う会(北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会)に相談した[9]

2002年(平成14年)9月、小泉純一郎首相が平壌を訪問して日朝首脳会談が実現したが、その1週間後、彼女の父が地元の『徳島新聞』に投稿した投書が掲載された[19]。また、北朝鮮が拉致被害者として公表したなかに、日本政府の救出活動の対象リストになかった曽我ひとみがふくまれていたことで、娘も拉致されたのではないかとの疑念がいっそう強まった[19]。翌年1月10日には特定失踪者問題調査会が発足した[19][20]。彼女の父には投書の掲載後、『徳島新聞』の記者から取材の申し込みがあったが、父は実名で取材を受けることを決意した[19]

彼女のケースは、北朝鮮における目撃証言はないものの、拉致の蓋然性がきわめて高いと判断される[21]2003年(平成15年)1月、秋田美輪は特定失踪者の1人として公表された(第1次公開)[9][19]。同年9月、調査会(特定失踪者問題調査会)は、特定失踪者の中でも拉致の可能性が高いとみなした人を載せる「1000番台リスト」に彼女を追加した[13]。両親および調査会は、2003年11月13日、容疑者不詳、国外移送目的略取の容疑で兵庫県警察に対し告発状を提出した[1][9]

2003年12月には、地元新聞社の聞き込み調査によって重大な証言を得ていた[22]。それは、彼女が失踪した日の午後2時頃、竹野町馬場町に住む主婦が弁天浜から約1キロメートル離れた竹野浜で30歳くらいのスーツ姿の若い男が海の方を眺めているのを目撃したというものであった[22]。そして、1時間くらい後に主婦がその場所を再び訪れるとスーツ姿の男はボストンバッグに入っていた無線機のような機器に付属するマイクロフォン朝鮮語らしき言語で話しかけていたという[22]

彼女の家族は、2003年以降、弁天浜に進んで行くことはなくなった[13]。調査会の指摘によって、靴とバッグは偽装目的で置かれたと考えるようになり、彼女が弁天浜に行っていないかもしれないと思うようになったからである[13]。また、兵庫県警が告発を受理したことによって、彼女が在学していた大学は「退学手続きは不適切だった」とし、彼女の学籍を回復させた[13]。そして、学内に調査支援委員会を設け、卒業生らに警察に対する捜査協力を呼びかけるようになった[13]

拉致に関しては、ある一定のマニュアルのもと分業によって行われたと考えられるようになり、国内の協力者の存在が欠かせないことが明らかになってきた[23]。政府認定の拉致被害者有本恵子田中実、特定失踪者の秋田美輪・加藤小百合はいずれも神戸市内の半径数百メートルを生活・通学圏にしていたのであり、こうした密度の濃さは国内に協力者がいたことを反映するものと考えられる[23][注釈 7]。また、特定失踪者問題を地域や時系列、職業別で分析していくと、偶然とはいえないような一定の傾向や共通性があることもみえてきた[14]。たとえば、時系列では、1960年代には中学生や高校生が多く、1970年代にはカップルや親子での失踪が多く、1980年代中ごろおよび1990年代初頭には全国で若い女性の不審な失踪事件が多発している[4][14][注釈 8]

彼女の父は、娘の救済のための署名活動に長らくたずさわっていたが、父が体調をくずしてからは姉が岐阜県などで署名活動を行っている[7][9]

彼女の姉は、2019年令和元年)5月10日ニューヨーク国際連合本部で開催された日本政府主催のシンポジウムに出席し、特定失踪者家族会幹事としてスピーチをおこなった[14]。また、2025年(令和7年)9月24日には、スイスジュネーヴで開催された国際連合強制的失踪作業部会セッションにおいて陳述を行った[17]。2025年1月には短波ラジオ放送「しおかぜ」「ふるさとの風」の共同公開収録に臨んでいる[24]

姉の陳述文書「補足」

2025年9月24日の国連作業部会において、彼女の姉が陳述した文言の「補足」として、「秋田美輪の失踪が自殺ではないと考える理由」が掲げられている[17]。その理由とは、以下の6点である[17]

  1. 自殺するほどの悩みはなかったと家族は思う。
  2. 大学内ロッカーに 2,3 日後の授業で提出するレポートが残されていた。
  3. 入江に残されたバッグには、急行券があったが、使われた形跡はなく、入江近くの竹野駅まで行くには、急行券の距離が短いこと。
  4. 早朝の雨にもかかわらず、靴とカバンは濡れていなかった。12月5日朝、雨の後に置かれた。妹の入江近くでの目撃証言はなく、日本海側へ行っていない可能性がある。
  5. 入江から外海へ遺体が出るのには、半年かかるはずだが、(12月)5日から7日までのダイバーの捜索で遺体は見つからなかった。
  6. 妹が通った大学近くで1978年田中実)、1979年金田龍光)、1983年有本恵子)、1985年(秋田美輪)、1997年(加藤小百合)に失踪者がいる。

参照

参考文献

関連項目

外部リンク

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