竹村達也
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1935年(昭和10年)、大阪府大阪市生まれ[1][8]。大阪府立天王寺高等学校から600ないし700メートルほど離れた、JR西日本阪和線高架沿いに実家があった(2023年現在は空き地となっている)[8]。天王寺高等学校から大阪大学工学部冶金学科に進み、1958年(昭和33年)に卒業した[8][9]。
1958年4月、動燃(動力炉・核燃料開発事業団)の前身である茨城県東海村の原子燃料公社(原燃)に入社した[10][11]。竹村は、原燃職員時代にアメリカ合衆国イリノイ州のアルゴンヌ国立研究所に留学し、世界最先端の核技術を学ぶ機会を得た[12]。帰国後の1965年(昭和40年)、東海村にプルトニウム燃料開発施設が完成した[7]。アルゴンヌでプルトニウムの取扱訓練を受けた竹村は、日本のプルトニウム燃料のパイオニアと目されており、「プルトニウム四天王」のひとりとして高い評価を得ていた[7]。1967年(昭和42年)、原燃が改組され、動力炉・核燃料開発事業団が発足した[13]。動燃がめざしたのは、燃料であるプルトニウムが発電しながら増殖する、高速増殖炉の建設・運用であった[13]。
竹村は、原燃・動燃に勤務した14年間のうち、途中の米国留学期間を除いて茨城県東海村で生活した[10]。竹村は失踪した1972年まで独身であり、研究所と道路をはさんで向かい側にあった「箕輪寮」という独身寮に住んでいた[14][注釈 1]。
同僚や部下の竹村評は、「とにかく生真面目」「堅物」というもので、大阪出身であるにもかかわらず努めて標準語で話そうとし、女性関係や金銭面でのトラブルをかかえているようすはなく、仕事一筋であった[14][16]。プライベートで他の人と会話することもほとんどなく、寮内でも麻雀や飲酒の仲間の輪には加わらなかったという[14][16]。野球とテニスはしていたが、遊び好きでは決してなく、優等生的で上司によくかわいがられていた[16]。当時の竹村は、「畳の下に現金をためこんでいる」という噂が出るほどの倹約家として知られており、自家用車も現金で購入したといわれていた[14][16]。借金をしていたとは考えられず、少なくとも就職後に、人間関係のトラブルをかかえているようには見えなかった[14]。結婚についてはむしろ本人が消極的であり、政治的にはいわゆる「ノンポリ」であった[16]。大学時代の同級生も似たような印象を受けており、ほとんど酒を飲まず、交際している女性がいるような気配もなかった[17]。おとなしくて印象の薄い感じではあったが、柔和で人に嫌われるタイプではなかった[17]。ここでも人間関係のトラブルはなさそうであった[17]。
私生活で濃密な付き合いをしている人はいなかったが、実直で優しい雰囲気があり[16]、プルトニウム係長としては、きわめて仕事熱心で、部下に対しては自身の研究ノートを広げ、相手がわかるまで一つ一つ丁寧に教えた[5]。竹村の作業スペースには英語文献の専門書がたくさん立てかけており、仕事に向き合う熱意や「職人」のようなひたむきさは、ときに人の心を強く打つほどであった[5]。
1969年(昭和44年)、竹村はフランスの高速増殖実験炉「ラプソディ」に納めるための核燃料を製造するという、当時の動燃にとっては最重要プロジェクトの現場責任者に選ばれた[18]。動燃はラプソディにプルトニウム燃料を納入するにあたって、高速増殖炉をどのように設計するかという1,200ページにおよぶ英文の「概念設計書」をフランス原子力庁に送って検証を依頼した[18]。フランスの核科学に関する知見を吸収するねらいもあってのことだが、600項目の質問を含む当該設計書はフランス原子力庁から高い評価を受けた[18]。竹村は、実際の高速増殖炉で動燃が製造した核燃料の性能を試す国家的な重要プロジェクトを担う重責を負うこととなる[18]。
しかし、当初動燃が納めた燃料は返品されてしまう[19]。燃料はプルトニウムとウランを混合させたものだが、それぞれが均一の粒となることを要件としていた[19]。動燃が納めたものはプルトニウムの粒の方が大きく固まってしまい、その部分だけが発熱する不具合をかかえていた[19]。これを挽回すべく、部下たちからアイディアも募っては終日これを吟味し、自らも休日出勤して仕事の鬼と化し、返品から半年後の1970年(昭和45年)、プルトニウム燃料部は、試行錯誤を繰り返した結果、合格品となる核燃料製造技術の確立に成功した[19]。
竹村はしかし、その直後に技術部検査課試験係に異動となった[19]。これはエリート科学者が集まる花形部署であるプルトニウム燃料部からすれば中枢から外れており、係長職もつかないことから、返品の責任を取らされての降格人事であることが推測された[19]。
なお、彼の身体的特徴としては、警察資料では、身長165センチメートル、体重55キログラムであり[2]、元部下の証言では、身長160センチメートルちょっとで、小太り、黒縁の眼鏡を常用していたということであるが、相互に矛盾はないといえる[4]。
失踪事件
警察庁のウェブサイト「拉致の可能性を排除できない事案に係る方々」によれば、竹村は、「1972年(昭和47年)3月1日、茨城県下の勤務先を退職した後、行方不明」となっている[2][20]。しかし、動燃の後身組織である日本原子力研究開発機構(JAEA)広報部報道課によれば竹村の退職は1972年3月31日付で「自己都合」により退社したとあり、食い違いがみられる[21]。竹村の失踪は、突然いなくなった弟を捜索するため大阪に住む姉が東海村に訪れたことから発覚した[14][20]。母も探しにきたという[22]。プルトニウム燃料部時代の部下の証言によれば、愛車のトヨタ・カローラが独身寮の駐車場に停めたままになっていたという[3]。大阪府警察の話では、家族は竹村の失踪時に茨城県警察に竹村の失踪届を出したが、その際「3月1日に退職した後からいない」という言い方をしたので、そのまま記載しているとのことである[20]。初動捜査は茨城県警勝田警察署(現:ひたちなか警察署)が担当し、失踪直後に刑事が動燃を訪れ、竹村にかかわりのありそうな職員の聞き取り調査を行った[14]。竹村の元部下が何があったのか尋ねると、刑事は"北に持っていかれたな"と呟いたという[14]。
竹村の元部下は、その言葉が気になって竹村失踪の真相を知りたいと思い、2012年夏、別件で取材に訪れたジャーナリストの渡辺周に調査を依頼した[6][14]。
渡辺が動燃OBや大阪大学工学部を取材したところ、失踪後、竹村が日本国内で転職したものと思い込んでいる人が多かったという[23]。転職先としては、京セラや三菱原子燃料、旭化成の名前が挙がった[21][23]。プルトニウム燃料部時代の同年齢の同僚は、動燃の人事部が3月の期末手当を竹村に支払おうとして転職先と思われる企業に電話したところ、相手の企業は「そんな人物はおりません」と答えたことを覚えていた[23]。彼がもし依願退職ならば、もらえるものはもらって退職すると思われるが、期末手当を受け取らずに行方不明になったところを考えると「自己都合」による退職というのも疑わしい[21]。
技術部工務課にいた職員によれば、竹村は身辺を全部整理して寮の部屋もきれいに引き払ってからいなくなったという[24]。彼は、箕輪寮に住んでいた職員から聞いた話として、竹村の名前を記した竹村の蔵書が水戸市の古書店で売られている話も紹介した[24]。マイカーはそのままにして自身の学術書を売っているのは矛盾しているが、実は、カローラは職場の仲間とカーシェアリングをしていたのだという[24][25]。ただし、期末手当を受け取らない人が蔵書を売って換金するだろうかという疑問はのこる[25]。一方、竹村と同じ寮に住み、同じ技術部検査課に在職していたOBは、竹村の失踪の事実自体を知らず、彼の送別会を東海村で行ったが、その後の進路についての話は出なかったと証言している[26]。これもまた、他の部署の職員は警察から聞き取り調査を受けたりなどしているのに、どうして竹村がいなくなった事実自体を知らなかったのか不思議である[26]。
竹村がおとなしく、人付き合いの少ない人物だったせいもあるが、情報が錯綜している[25]。竹村が3月に動燃を退職し、京セラにも、三菱原燃にも、旭化成にも転職せず、その後の行方を誰も知らないということは間違いない事実である[25][注釈 2]。なお、竹村失踪の3日前の1972年2月27日、19歳の女性が茨城県日立市内の社員寮から失踪しており、竹村失踪との関連性が指摘される[30]。彼女もまた、茨城県警察が「拉致の可能性を排除できない」事案として捜査している[30]。
竹村の出身地である大阪府警が、竹村が1972年に失踪したことを把握したのは事件から25年経過した1997年(平成9年)のことであった[31]。しかもそれは、初動捜査を担当した茨城県警察からではなく、竹村の家族が捜索願を大阪府警に提出したことによってであった[31]。この年は、横田めぐみの事件が北朝鮮による拉致の可能性が高いとして国会やマスメディアで大きく取り上げられるようになった年である[22]。茨城県警に捜索願を出していた家族が25年後にあらためて大阪府警にも出したのは、メディア報道を見聞きしてのことと推測できる[22]。渡辺は、家族の情報を得たいと大阪府警に申し入れたがプライバシーの保護を理由に拒否されている[22]。
竹村失踪にかかわる問題点
金銭的トラブル、女性関係のトラブル、そして「誰かから恨まれることもない」(技術部工務課OBの証言)、「悩みごとがあったとか、そういう感じでもなかった」(同)ということからすれば、人間関係等に関するトラブルもなく、政治的に共産主義に共感していたようすもない[16][24]。竹村の部下や同僚の誰もが、彼が自ら失踪するような人物ではないと口を揃えて証言している[16]。その意味では彼の失踪自体が謎ではあるが、所轄の勝田警察署刑事の「北に持っていかれたな」という事情聴取でのつぶやきも、1972年当時の日本では、北朝鮮による拉致が社会的にまったく知られていないことを考えると、とても不思議な言葉である[14]。拉致事件について一部であっても取り沙汰されるようになったのは1980年代に入って以降のことなのである[14]。その言葉を聞いた竹村の元部下は、「北」とはいったい何のことか、北海道や東北地方のことを指しているのか、強い違和感を感じたという[14]。
ただし、一方で1972年は、未だベトナム戦争も終わっておらず、資本主義と社会主義とが鋭く対立する東西冷戦のさなかにあり、日本の新左翼が多数の死傷者をともなう内ゲバやテロリズムを引き起こしていた時代でもあった[32]。また、世界各国は熾烈な核開発競争を繰り広げていた[32]。動燃は核物質を扱うことから、テロのターゲットとなることが懸念されていたし、その技術をスパイから盗まれることも警戒しなければならず、現在以上に当時は、そのことに警察が神経をとがらせていたのである[32]。動燃の総務部は勝田警察署や公安調査庁と連携して労働組合運動に対し、「核物質防護」と称する監視活動をおこなっていた[32][33]。竹村失踪を捜査した刑事の発言「北に持っていかれたな」は勝田署・動燃総務部の「核物質防護」の取り組みから生まれてきたものにほかならない[32]。しかし、この認識やその裏付けとなる情報が動燃総務部にも茨城県警察にも引き継がれてきたとは言えない[34]。
政府認定の拉致被害者のうち、最も古いのは1977年9月の宇出津事件における久米裕である[35][注釈 3]。しかし、それに先立つ1972年の時点で北朝鮮による日本人拉致を疑う人物がいた[35]。もしも警察が竹村失踪の時点で拉致疑惑を認め、政府の他機関と情報を共有し、拉致に対する警戒態勢をとることができていたならば、以後に起こった拉致事件は防ぎえたかもしれない[35]。
よしんば竹村失踪事件が拉致によるものでないとしても、核物質に熟知した技術者が失踪したことは国家安全保障の点からきわめて重大なことのはずである[34][38]。本来であれば、国際原子力機関(IAEA)などの国際機関などへも通知してその捜索に全力で取り組むべきではなかったのか[38]。特に竹村の場合は、米国の国立アルゴンヌ研究所への留学経験を有するのであるから、米国との情報共有もなされてしかるべきであったろう[38]。ところが、核に対する知識や情報が漏洩する事態を想定して動燃が政府やIAEAとともに事態に取り組む仕組みすら充分に整っていたと言えない[39]。
もしも竹村失踪事件と北朝鮮の核開発問題が結びついているとしたなら、それは最悪の事態ではあるが、決して可能性がないとは言えない[38][注釈 4]。動燃OBたちは、今日でも北朝鮮がミサイルを発射するたびに日本の技術が竹村を通じて使われていたらどうしようかと心配している[38]。北朝鮮が核兵器実験とミサイル発射で日本のみならず国際社会を揺るがすなか、核科学者が拉致されているとしたら、国内外が騒然となることも考えられる[46]。しかし、竹村失踪の真相を究明していくことは、長年停滞してきた拉致問題が大きく動き出していく突破口をつくる営為となるかもしれないのである[11]。