佐賀藩士・関迂翁の三男として生まれる。藩校・弘道館で学ぶ。さらに長崎、横浜で英語を学び、その他、法律を勉学した。
1876年、司法省十二等出仕となる。さらに、検事補から検事となり、鹿児島・仙台・名古屋などの各地方裁判所検事正を歴任した。
1898年12月、佐賀県知事に就任。以後、群馬県知事、長野県知事を歴任。長野県知事在職中の1902年8月、第7回衆議院議員総選挙に佐賀県郡部区から出馬し当選、一期在任した。1905年9月、警視総監に就任。1906年1月に退任し、同年1月7日、貴族院勅選議員に任じられ[2]、茶話会に属し死去するまで在任した。
その他、中央製糖株式会社社長、明治製糖株式会社監査役などを務めた。墓所は雑司が谷霊園1-東-6-5。