上戸 (川越市)
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東側は入間川を挟んで上寺山・小ヶ谷と、南側は上戸新町と、西側は的場の飛び地と、北側は鯨井とそれぞれそれぞれ接する。
河越館跡史跡公園や上戸小学校の周辺は市街化調整区域である。埼玉県道114号川越越生線の沿道は第一種住居地域、域内を東西に走る市道0017号線沿いは第二種低層住居専用地域に指定されている。その他の地域は第一種低層住居専用地域であるが、生産緑地も多く見られる[5]。
歴史
古墳時代[4][6]や奈良時代から戦国時代[7]にかけての遺跡が発見されている[8]。吉田東伍は「うわど」と「あと」の読みの類似性などから和名抄における入間郡安刀郷に比定している[9]が、他の説に比べて根拠に乏しい[10][注釈 1]、あるいは入間郡内の郷が川越地域に集中するのは考えにくい[8]といった異論もある。古くは上八戸という表記であったという[11]。
平安時代末期には河越氏がこの地に河越館を造営して周辺に勢力を広げ、一時は川越地域のみならず武蔵国の政庁としての役割も担った[12]。平治2年(1160年)、河越重隆が支配地を荘園(河越荘)として後白河上皇に寄進、上戸の日吉神社権現社に新日吉山王宮を勧進した[13]。室町時代には仙波台地上に河越城が築かれ、川越地域における政治・軍事の中枢機能は上戸から離れた。弘治年間には新田又七郎[注釈 2]がこの地を領有したという[11]。江戸時代は川越藩の領地となった[11]。
明治初期にはこの地域は高麗郡上戸村であった[15]が、周辺の8ヶ村も含めていずれも単独で行政を執るには小さすぎたため、合併して高麗郡名細村となった[16]。その後、名細村は入間郡に移管された。
この頃、上戸地区には以下の小字があった[17][18]。2000年代以降の公文書でもこれらの小字が使用されている例が見られる。
- 竜光 - 竜光坊という廃寺があった[19]との記録による[20]。上戸龍光第1公園~第3公園がある。
- 古屋敷 - 河越館跡周辺の字。文亀年間以前に人家のあった場所と考えられている[20]。
- 新田屋敷 - 古屋敷から人家が移転したことが由来と考えられている[20]。
- 山王原 - 前述の新日吉山王宮が鎮座したことに由来するとされる[20]。
- 川原 - 入間川の河川敷に由来する[20]。
- 天王 - 河越館跡にある常楽寺の向かいに八坂神社(天王様[注釈 3])があったことに由来する[20]。天王公園がある。
- 山王久保 - 新日吉山王宮の手前に窪地があったことに由来するとされる[20]。
- 地蔵堂 - 入間川堤防下の地蔵が由来。1980年(昭和55年)に町名・地番整理が行われほぼ全域が上戸新町となった[21]。