立野信之
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4歳で母と生別し、12歳で父を失い、祖父母に養育される[2]。中学時代に短歌を始め、窪田空穂らの「國民文学」に投稿[1]。1921年に山田清三郎・松本昌夫・奧貫信盈・元吉利義らとともに短歌同人雜誌「曠野」を発刊[1]。1922年に親戚の伊藤恣・山田清三郎らとともにプロレタリア文学雑誌『新興文学』を発刊し、同誌に評論「階級の文学」を發表[1]。20歳で市原郡五井町役場に就職するも、2年後に佐倉步兵連隊に入営[1]。除隊後の1925年頃より雑誌『文芸戦線』にエッセイや評論、詩を寄稿[1]。
1928年、軍隊経験を元に書いた「標的になった彼奴」を雑誌『前衛』に発表し、小説家としてデビューする[1][2]。同年、山田清三郎らによって雑誌『戦旗』が発刊されると編集委員(のち編集長)となり、小説「軍隊病」「泥濘」「豪雨」などを発表[1][2]。また、プロレタリア文化団体「ナップ」の書記長もつとめた[2]。
反戦的な作品を発表していたが、1930年、治安維持法違反で検挙、翌年獄中で転向を表明した[1][2]。1932年に懲役2年・執行猶予5年の判決を受ける[1][2]。執行猶予期間中の1934年に『中央公論』に発表した小説「友情」は、転向文学の佳作として評価されている[1]。1935年に自伝的長編小説『流れ』を雑誌『文学評論』に連載[1]。
終戦後は現代史に取材した作品を多く書き、1952年に代表作となる二・二六事件を題材にしたノンフィクション小説「叛乱」を発表。1953年に同作品で第28回直木賞を受賞[1]。文壇活動としては日本ペンクラブの運営に深く関わり、幹事長、副会長などを歴任している[1]。1962年に回想集「青春物語-その時代と閣占領」を刊行[1]。なお、生母とは後年再会したが、1947年に死別している[2]。
雑誌「ロマンス」連載の「宵待草恋日記」が1950年に映画化。代表作である「叛乱」は1953年に新国劇が舞台化し、1954年には新東宝が映画化、1964年には東映が「銃殺」のタイトルで映画化した。また、1956年出版の「明治大帝」が1962年に舞台化されている。