木村荘十
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木村 荘十 | |
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雑誌『富士』より(1952年) | |
| 生誕 |
1897年1月12日 |
| 死没 | 1967年5月6日(70歳没) |
| 職業 | 小説家 |
| 言語 | 日本語 |
| 国籍 |
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| 教育 | 慶応義塾大学中退 |
| 主な受賞歴 | 直木賞(1941年) |
木村 荘十(きむら そうじゅう、1897年〈明治30年〉1月12日 - 1967年〈昭和42年〉5月6日)は東京府出身の作家。
牛鍋チェーン店「いろは」経営者木村荘平の妾腹の十男として、東京市深川区(現在の東京都江東区)の「いろは」第7支店に生まれる。4歳のとき実母が愛人と失踪したため、東京市浅草区(東京都台東区)吉原日本堤の"いろは"第9支店に預けられ、そこが人手に渡ると、ただちに裏の家へと預けられて育った。
慶應義塾大学中退[1]。第一次世界大戦中に渡英し、のち帰国[1]。異母兄の第2代木村荘平と不和を生じて骨董店の店員となり、政治家の愛人と密通して共に渡満。南満州鉄道の事務員や新聞記者(満州商業新報主筆[2]、満州日日新聞政治記者[3])などを経て、大連で「満蒙評論社」なる雑誌社を経営[4]。満洲では実母と再会し、彼女の死に水を取った。
24歳から10年ほど続いた満洲での生活を捨て、内縁の妻と共に帰国[4]。その後、小説の執筆に専念し、1932年(昭和7年)に「血縁」で第11回サンデー毎日大衆文芸賞を受賞[1]。ただ、世に出る機会には恵まれず、10年近くものあいだ、困窮生活を余儀なくされた[5]。そして1941年(昭和16年)、「雲南守備兵」で白井喬二と吉川英治に認められ、第13回直木賞を受賞した[6]。他の作品に自伝小説『嗤う自画像』などがある。
30年余り連れ添った内縁の妻と別れたのち、習っていた小唄の師匠と結婚[7]。昭和30年代以降、発表する作品数が減り、表舞台から姿を消した[8]。複数の愛人との間に30人以上の子をもうけた父親と、自らを含めた一族のことを小説にしたいという思いを果たせぬまま、70歳で死去した[9]。
腹違いの兄弟姉妹の多くが、文芸や芸術の方面に進んだ[10]。18歳で亡くなった異母姉木村曙は作家。異母兄木村荘太、同木村荘八はそれぞれ文芸評論家と画家。そして、異母弟木村荘十二は映画監督として知られる[10]。
- 楽土哀史・国境 アトリエ社〈新鋭大衆小説全集 第15巻〉 1937
- 赤道海流 富士出版社 1940
- 成瀬一等兵曹 博文館 1941.9
- 大地は轟く 大都書房 1942
- ベンガル土民兵 大都書房 1942
- 大陸挺身隊 成武堂〈国防文芸叢書〉 1942
- 美しき海戦 興亜日本社 1942
- 亜細亜横断 博文館〈少国民文芸叢書〉 1942
- 戦闘指揮所 輝文堂書房 1944
- 雲南守備兵 博文館〈国民文芸叢書〉 1946
- 捕物絵師 誠光社 1948
- 痴情 岡倉書房 1948
- 秘境に咲く華 少年少女快侠小説 梧桐書院 1948
- 魔境五千哩 光文社〈少年文庫〉 1955
- 浪人街道 桃源社 1955
- ぎやまん屋敷 同光社 1956
- 偽装の花嫁 学風書院 1956
- 私は自由です 穂高書房 1958
- 嗤う自画像 雪華社 1959
- 黄金地獄 桃源社 1960
- 庖丁太閤記 調理師界の王将 小泉皓一郎伝 鏡浦書房〈現代人物伝〉 1966