カリロエを救うために自らを犠牲にするコレソス
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| フランス語: Le grand prêtre Corésus se sacrifie pour sauver Callirhoé 英語: Coresus Sacrificing Himself to Save Callirhoe | |
| 作者 | ジャン・オノレ・フラゴナール |
|---|---|
| 製作年 | 1765年 |
| 素材 | キャンバス上に油彩 |
| 寸法 | 309 cm × 400 cm (122 in × 160 in) |
| 所蔵 | ルーヴル美術館、パリ |
『カリロエを救うために自らを犠牲にするコレソス』(カリロエをすくうためにみずからをぎせいにするコレソス、仏: Le grand prêtre Corésus se sacrifie pour sauver Callirhoé、英: Coresus Sacrificing Himself to Save Callirhoe)は、18世紀フランス・ロココ期の巨匠ジャン・オノレ・フラゴナールがキャンバス上に油彩で制作した絵画である。1765年のサロン・ド・パリに出品され、その結果、フラゴナールは王立絵画彫刻アカデミーに準会員として入会を認められた[1][2] 。作品は国王ルイ15世により取得され、ずっとフランスの王室コレクションにあったが、フランス革命後は国家の所有となり、現在はパリのルーヴル美術館に所蔵されている[1]。
本作は、しばしばフラゴナールが自身の生き生きとした様式をアカデミーの要請と折り合いをつけた試みとして説明されてきた。アカデミーの様式は、後に彼が著名となる親密で戯れを表した作品とは対照的なものであった。作品は、縦3メートル9センチ、横4メートルの大作である[3]。作品は、パウサニアス (地理学者) の著作『ギリシア案内記』 (第7巻、21) に記されている劇的な場面から採られている。
神話によれば、カリュドンのディオニューソスの司祭コレソスは、処女のカリロエに対する片思いに苦しんでいた。神は、彼女を罰するためにカリュドンの町に疫病を起こした。そこで、神託により、彼女を犠牲に捧げることが疫病を終わらせると宣告される。カリロエは祭壇に連れてこられ、まさに殺されようとしていた。フラゴナールが描いているのは、コレソスが愛するカリロエを殺すよりは自身を犠牲に捧げるために胸に剣を突き刺す場面である。カリロエは彼の横で卒倒し、人々は恐怖におののいている[1][4]。
フラゴナールの構図は18世紀半ばのフランスの歴史画に一般的な演劇性と劇的設定を反映し、舞台劇のようなものとなっている[1]。当時の歴史画は、ガブリエル=フランソワ・ドワイアンやシャルル=アンドレ・ヴァン・ローらに影響を受けたものであった。本作の場面は生贄を描く舞台として構成され、高い祭壇、赤い布、堂々とした柱が古代を想起させる。強い光がコレソスとカリロエを照らし、影になっている寺院内部と対照をなしている。コレソスとカリロエの周囲では、人々が様々な仕草や表情で恐怖から悲しみにいたる多様な感情的反応を示している。コレソスとカリロエは画面の焦点におり、カリロエが祭壇の下で意識を失って横たわる一方、コレソスは暗闇を背に照らし出され、自害しようとしている。彼の頭上では、「愛」と「絶望」を表す寓意人物像が場面の心理的ドラマを盛り上げている[5]。
作品のための準備素描がフランスのアンジェ美術館に所蔵されている。また、作品の雛形が1816年以来、マドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに所蔵されている[6]。フラゴナールは後にチョークによる同主題の素描も制作しており、その素描は現在ニューヨークのメトロポリタン美術館に所蔵されている[7]。
評価
1765年にサロン・ド・パリで展示された際、33歳であったフラゴナールは、フランスの歴史画再興のための主な期待の星であった。大作である本作はすぐさま大成功を収め、ドゥニ・ディドロら当時の批評家たちに称賛された。作品の力強い感情描写や洗練された技巧により、フラゴナールの評価はアカデミーの伝統において確立された[5]。サロンの後、彼は、王の建築監督官であったマリニー侯爵アベル=フランソワ・ポワソン・ド・ヴァンディエールの目に留まり、侯爵はゴブラン織工場でタピストリーを制作するために本作の対作品を委嘱した[8]。しかしながら、このような評価を得たフラゴナールは結局、歴史画家としての将来を惜しげもなく捨て、アカデミーの正式な会員となるための入会作品を提出しないまま、風俗画、装飾画の世界に移っていった[1]。
ギャラリー
- 油彩スケッチ、アンジェ美術館