シャン族の民族運動
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前史

シャン族は、東南アジア大陸部に広く分布するタイ諸語話者(タイ族)の一派である。タイ王国のシャム族、ラオスのラオ族、中国雲南省のダイ族(タイ・ルー、タイ・ヌア)と極めて近い親縁関係にあるとされる[1]。
自称は「タイ」または「タイ・ヤイ」であり、「ヤイ」は「大きい」を意味し、他のタイ系グループと比較した際の自負が込められているとされる。一方、「シャン(Shan)」という呼称はビルマ語に由来する他称である。これは「シャム(Siam)」と同根の言葉であり、ビルマ族がタイ系民族全般を指して用いた呼称が固定化したものとされる[1]。

14~15世紀には、現在の中国雲南省徳宏タイ族チンポー族自治州からミャンマー北部にかけてムンマオ、13~16世紀には、ビルマ中央平原にアヴァという2つの王国を打ち立てた。特に後者は「過去にミャンマーを統治した」という歴史的記憶となり、現在でもビルマ族に対する対等意識として機能しているとされる[2]。
これらの王国は、ムン(Mong)と呼ばれる都市国家の集合体であり、各ムンは、「天の主」を意味するツァオパーのと呼ばれる最高権力者によって統治されており、これら諸王国の集合体が現在のシャン州の原型となったとされる[2]。
コンバウン王朝下でも、シャン諸王国は形式的にはビルマ王の宗主権を認めつつ、内部統治はツァオパーに委ねられてており、忠誠と貢納(朝貢)に基づく緩やかな支配構造であった。また、シャン族はビルマ王の戦争において強力な騎兵隊や兵力を提供する存在であり、軍事的階層においても高い地位を占めることが多かったとされる[2]。
英植民地時代
リンビン同盟

1885年、三度の英緬戦争を経て、コンバウン王朝は滅亡し、ミャンマーはイギリスの植民地となり、英領インドビルマ州となった[2]。
コンバウン王朝末期からツァオパーたちはたびたび反乱を起こしていたが、1885年、タイに亡命したツァオパーたちはケントン(チャイントン)に集まって、コンバウン王朝第10代君主ミンドン王の孫にあたるリンビン王子を担ぎ出し、シャン州における広範な自治権を求めるリンビン同盟(Limbin Confederacy)を結成した[2]。
1885年にイギリスがマンダレーを占領した後も、リンビン同盟は、イギリスに対して軍事的抵抗を試みたが、1887年までには大半のツァオパーが降伏した。ビルマ連邦初代大統領サオ・シュエタイッの息子であるサオ・ツァン(Chao Tzang)は、この反乱を「シャン族がビルマ王の支配からも、イギリスの支配からも独立した自律的な政治空間を求めた」と高く評価している[2]。
間接統治
イギリスはミャンマーを、ビルマ族が住む平野部を「管区ビルマ」(英語: Ministerial Burma)と少数民族が多く住む山岳部を「辺境地域」(英語: Excluded areas)に分離し、前者を直接統治、後者を間接統治した(cf.ミャンマーにおける分割統治論)。シャン州は間接統治の対象となり、イギリスはツァオパーの権威を認め、背後にイギリスの駐在官が控えていたものの、ツァオパーは領土内の立法、行政、司法の権限を保持した[3]。
しかし、ビルマ州に両頭制が導入される前年の1922年、イギリスは個々に存在したシャン諸王国を統合する形でシャン連合州(FSS)を設立した。これにより、各ツァオパーはその歳入の50%(後に27〜35%に軽減)をFSS政府に拠出する義務が課せられる一方、治安、刑事・民事裁判所の運営、官吏の任命、住民統治は「イギリス人監督官の助言のもとで」行われるとされて、行政権と立法権は剥奪された。ツァオパーたちは不満だったが、管区ビルマに統合された場合、すべての世襲特権を失う可能性があったため、これを受け容れたとされる。また、ツァオパーたちは、イギリスの開発投資が管区ビルマに集中し、シャン州を含む辺境地域の発展が遅れていたことにも不満を募らせていたとされる[3][4]。
近代教育の導入

一方、イギリスは、将来のシャン州を担うエリート人材育成を目的として、1902年にタウンジーにシャン首長子女学校(School for the Sons of Shan Chiefs、のちにカンボーザ・カレッジ〈Kambawza College〉に改称)を設立した[5]。
イギリス式の厳格な寄宿制学校で、裕福なツァオパーの子弟しか入学できなかった。彼らは英語・ミャンマー語の二言語教育を受け、中にはオックスフォード大学やケンブリッジ大学へ留学した者もいた。サオ・シュエタイッもこの学校の卒業生である[5]。
この学校の存在は、シャン族のエリート層が人的ネットワークを形成するとともに、シャン民族主義を育んだとされる[5]。
日本占領時代
第二次世界大戦時、ツァオパーたちは連合国側に付き、アメリカ軍、イギリス軍とともに日本軍(第15軍)と戦った。シャン州も戦場となり、多くの建物・インフラが破壊され、日本軍およびビルマ独立義勇軍(BIA)による残虐行為も発生したと伝えられる[6]。
日本軍は1942年3月8日にヤンゴンを占領し、1943年8月1日、バーモウを首班とするビルマ国を樹立した。一応、独立国であったが、実質、日本軍政の傀儡政権だったとされる。しかし、日本軍はビルマ国民軍(BNA)のシャン州への立入を禁止したので、ビルマ国のシャン州に対する支配は限定的だっと解されている[6]。
しかし、1943年8月18日、日本軍は、ミャンマー侵攻の際に協力的だったことのお礼として、ケントンとモンパンをタイに譲渡した(1950年に返還)。この決定には事前の協議がなかったことから、ケントンおよびモンパンのツァオパーたちを激怒させた。また、両地域に駐屯したタイ軍も、地元住民に対して、ビンロウの咀嚼禁止、男性の髷の禁止、女性の髪型の変更の義務化、そして、サロンではなくスカートの着用の奨励など文化規範を強制したことも反感を買った[7]。
サオ・ツァンは、この経験は、シャン族の一部の人々にとって、シャン民族主義への覚醒をもたらす契機となったと述べる[7]。
議会制民主主義時代

パンロン協定
1945年5月1日、イギリス軍・反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)はヤンゴンを奪還し、数か月後、日本軍はビルマから完全撤退した[7]。
イギリスは英領ビルマを復活させようとしたが、アウンサンをリーダーとするミャンマー側の要求は完全独立であり、両者の対立は激化した。しかし、イギリス本国では、クレメント・アトリーの労働党政権が成立し、インドの独立闘争が激化していたことから、イギリスの態度は徐々にミャンマーの独立容認に傾いていった[7]。
しかし、ビルマ族に対する懐疑の念と世襲特権を喪失する恐れから、ツァオパーたちは、この独立の動きに慎重だった。1946年1月、ツァオパーの主導のもと、ビルマ族、カチン族、チン族、カレン族の代表者が招聘され、シャン州南部のパンロンで第一次パンロン会議が開催された。ビルマ側の代表者は、のちにビルマ連邦首相となるウー・ヌと、英領ビルマ元首相で、のちにアウンサンを暗殺するウー・ソオだった。会議では実質的な成果は得られなかったが、会議後、統一ビルマ文化協会(United Burma Cultural Society)が設立され、サオ・シュエタイッが議長、ウー・ソオが書紀に就任した。[8]。
しかし、1947年1月、ロンドンでアウンサン=アトリー協定が締結され、1年以内のミャンマーの完全独立または自治領化が認められた。この際、複数のツァオパーが、「ミャンマー側代表団には少数民族の意向が反映されておらず、いかなる合意も無効である」と主張する電報をアトリーに送ったが、決定が覆ることはなかった[9]。
同年2月、シャン族、カチン族、チン族の代表者が招聘されて第二次パンロン会議が開催された。2月12日、パンロン協定が締結され、上記3民族は、独立後のビルマ連邦に参加する意思を表明した。アウンサンの尽力の成果と伝えられる。会議後、AFPFLの要請で統一山岳民族評議会(Council of the United Hills Peoples)が設立され、再びサオ・シュエタイッが議長に就任した[9]。
しかし、同年7月19日、アウンサンが暗殺され、パンロン協定の行方は不透明なものになった[9]。
独立直後の内戦とシャン族の態度

1948年1月4日、ミャンマーはビルマ連邦として独立した。首相はウー・ヌ、大統領にはサオ・シュエタイッが就任した。大統領は実権のない名目的存在だった。同年9月に施行された憲法では、シャン州、カレンニー州、カチン州の存在が認められ、さらに前二者には10年後の連邦離脱権が認められた[11]。また、チン人には、民族的分裂が激しく、経済的貧しいことを理由に「州」より一段低い「特別省」という地位が与えられた[12][13]。
しかし、独立直後から、ビルマ共産党(CPB)やカレン民族同盟(KNU)などが反乱を起こし、ミャンマーは内戦状態に陥った。しかし、この際、シャン族、カチン族、チン族といったパンロン協定に署名した少数民族は、中央集権的な1947年憲法体制に不満を抱きながらも、反乱軍側に回らず、「ラングーン政府」と揶揄されたウー・ヌの政府を支援した。サオ・ツァンはその理由をツァオパーの保守的性向、共産主義に対する警戒心、ウー・ヌとの個人的信頼関係、そして何より、シャン族にとって、1947年憲法体制は「独立10年後の分離権」を平和的に行使するための大前提であったことを挙げている[14]。
一方、1950年には国共内戦に敗れた中国国民党軍(KMT、泰緬孤軍)がシャン州に雪崩込み、モンサッに拠点を築いた。彼らはシャン州東部を支配し、軍資金を調達するために麻薬ビジネスを拡大させ、やがてシャン州は黄金の三角地帯と呼ばれる一大麻薬生産地となった[15]。
1952年、政府はシャン州に戒厳令を発令し、ミャンマー軍(国軍)の部隊が派遣された。日本占領時代は軍隊のシャン州への立入は禁止されていたので、これが本格的なビルマ族の軍隊とシャン族の人々の邂逅だった。しかし、シャン州に派遣された国軍部隊は規律が緩く、略奪、強制労働、性的暴行を働き、シャン族の人々の対ビルマ感情は著しく悪化した[15]。
ツァオパーと平民との対立、シャン系武装勢力の誕生
| 設立年 | 団体名 | 備考 |
|---|---|---|
| 1946年 | シャン州自由連盟 | 反ツァオパー。第一次パンロン会議後に設立。
シャン州の独立を主張。独立直後に消滅。 |
| 1947年 | 統一山岳民族評議会 | ツァオパーの組織。
第二次パンロン会議後に設立。 |
| 1950年 | パオ民族機構 | 反ツァオパー。 |
| 1952年 | シャン州人民自由連盟 | 反ツァオパー。
シャン州自由連盟の一部が設立。 |
| 1952年 | インレー団結連盟 | 反ツァオパー。 |
| 1953年 | 全シャン州連盟 | 統一山岳民族評議会、パオ民族機構、
シャン州人民自由連盟が統合。 |
| 1955年 | シャン州山岳民評議会 | 統一山岳民族評議会が全シャン州連盟を離脱して
設立。「真の連邦制」を主張。 |
| 1957年 | シャン州団結連盟 | ツァオパーの組織。
連邦離脱、武装闘争、シャン共和国の建国を主張。 |
| 不明 | シャン州国民団結連盟 | ツァオパーの特権維持、連邦離脱を主張。 |
ツァオパー、大臣、民族代表院(上院)議員、官僚、政党関係者などシャン族のエリート層には、国防に関する権限がなかったため、このような事態に対して無力であった[15]。
一方、1930年頃から平民出身者によるシャン民族運動も連綿と存在しており、彼らは右表にあるようにさまざまな団体を組織して、ツァオパーの伝統的権威を「封建的」と批判するとともに、連邦離脱、シャン州の独立などを主張した。また、ツァオパーの一部は、憲法体制下での連邦離脱を断念して、武力闘争を訴える者もいた[16]。
「10年後の離脱権」の期限が過ぎた1958年に成立したネ・ウィン選挙管理内閣の下でも具体的な動きはなく、憲法に規定された両州の連邦離脱の是非を問う住民投票も実施されなかった。それどころか、1959年には、年金および一時支度金と引き換えに、上院議員となる権利、一部課税権、行政裁判権などのツァオパーの世襲特権が廃止された[17]。サイ・ツァンによれば、この動きはシャン州の独立を断念したツァオパーたち自身が1952年から推進していたもので、1957年に実質達成され、1959年の特権廃止は形式的なものだったのだという[18]。
しかし、シャン族の平民民族主義者たちは、これを中央政府によるシャン州に対する過干渉と見なし、1958年5月21日、サオ・ノイというケントンのツァオパーの兄弟で、シャンの王族の血を引いていると主張する、雲南省出身のシャン族の青年が、32人の仲間とともに、ヌムスックハーン(勇敢なる青年戦士)という武装組織を結成した。これは初のシャン系武装組織と呼ばれており、5月21日は、現在でも「シャン抵抗の日」として祝日となっている[19]。
フェデラルムーブメント
ヌムスックハーンの出現は、ツァオパーたちにも衝撃を与え、なんからの改革が急務とされた。彼らはシャン州、カチン州、チン特別区、カレンニー州、カレン州(1952年に設置)に加えて、自治権を求める声が高まっていたモン地域、ラカイン地域の代表者も巻き込んで、1947年憲法体制の見直し、具体的には中央政府と各地域の不平等の是正を求める運動を推進した(フェデラルムーブメント)[16]。
1961年6月8日から16日にかけて、各地域の代表224人、オブザーバー104人を招聘してタウンジー会議を主催し、次のような5項目の声明を決議した[16]。
サイ・ツァンによれば、フェデラルムーブメントはあくまでも法的および憲法上の枠組み内での問題解決を図ったものとされるが、この時期台頭していた国軍の目には、連邦破壊の危険な兆候と映ったようである[16]。

1962年2月24日と3月1日、ヤンゴンでウー・ヌ、そしてシャン族、カチン族、チン族の代表を招聘して、各地域の将来を話し合う「連邦セミナー」が開催された。しかし、3月2日、ネ・ウィン率いる国軍がクーデターを起こし、セミナー参加者、閣僚、有力政治家30人以上を拘束。サオ・シュエタイッも拘束され、その際、サオ・シュエタイッの10代の息子であるソー・ミィミィ(Saw Myee Myee)が、国軍兵士に銃殺された。サオ・シュエッタイも1962年11月21日に獄死した[20]。
シャン州でも、ツァオパー、政治家、地域の指導者、実業家、官僚、警察官など身分の高い人物が拘束され、起訴も裁判もなく、4~6年間投獄された。クーデター当時タウンジーに滞在していたシポーのツァオパーであるサオ・チャーセンは、タウンジー郊外の軍の検問所で連行された後、そのまま行方不明となった[18]。
社会主義時代

武装勢力乱立とシャン州軍結成
1962年にビルマ革命評議会が全権を掌握した時点で、シャン州にはヌムスックハーン(のちにシャン民族独立軍〈SNIA)に改名)、ヌムスックハーンから離脱したシャン州独立軍(SSIA)、シャン民族統一戦線(SNUF)、タイ民族軍(TNA)などのシャン系武装勢力が乱立していた[22]。
1963年には、革命評議会に要請に応じて、SNUF‐SSIA合同チームが軍政との和平交渉に臨んだが、結局、交渉は決裂した[23]。同年、革命評議会は、シャン州にカクウェイェー(KKY)という制度を導入。これは、反乱軍と戦うことの見返りに、武装勢力にシャン州内の政府が管理するすべての道路と町をアヘン輸送のために使用する権利が与える制度で、麻薬ビジネスでKKYが経済的に自立しつつ、反乱軍と戦うことを促進するものだった。ロー・シンハンやクン・サの民兵組織など多くのシャン州内の武装組織がKKYに転じ、シャン州における麻薬ビジネスはますます盛んになっていった[24][25]。

このような状況下で国軍、KMTに対抗するためには、シャン系武装勢力の統一は急務で、クーデターで夫と息子を殺され、タイのチェンマイに亡命していたサオ・ナン・ハーン・カムは、亡命先でシャン州戦争評議会(Shan State War Council: SSWC)を結成し[26]、SNUF、SSIA、オリーブ・ヤン(楊金秀)の兄・ジミー・ヤン率いるコーカン革命軍(Kokang Revolutionary Force)を統合して、シャン州軍(SSA)を結成した[27]。
SSAの幹部はサイ・ツァンはじめ知識人層で構成され、規律ある組織との評判を得、1971年8月、より高度な政治指導を目指す政治部門シャン州進歩党(SSPP)の結成した[28]。しかし、麻薬ビジネスに関与しなかったことによる慢性的な資金不足と絶え間ない内紛により、シャン系武装勢力の統一というSSA結成当初の目的は達成できなかった[29][30][31][27]。
ビルマ共産党(CPB)の脅威

1968年1月、CPBの3つの部隊がシャン州に雪崩れこんできて、8月までにシャン州北東部に広大な「解放区」を築いた[32]。CPBは中国共産党の支援を受けて潤沢な資金と兵器を有しており、それらを梃子にしてシャン系武装勢力を懐柔を推進した[33]。
サオ・ツァイらSSA/SSPP指導部は反共思想だったので[34]、CPBからの兵器の無償供与の提案を拒否したが、常態的な兵器不足に不満を募らせていた現場指揮官たちには不評だった。やがてCPBへの対応をめぐってSSA/SSPPは、CPBとの同盟を模索する北部軍区と、それを拒否するサオ・ツァイ、らの南部軍区の2つの派閥の分裂状態となった。兵士の大半が北部出身だったので、北部軍区が優勢だった[35]。
この状況を打開すべく、サオ・ツァイらは反共少数民族武装勢力との同盟関係を模索したが[36]、ロー・シンハンとの同盟関係構築に失敗したことにより、大きな痛手を負い[37]、1976年にサオ・ツァイはSSA/SSPPを離脱し、SSA/SSPPは南北に分裂。北軍区はますますCPBとの同盟を強化する一方、南軍区は著しく弱体化した[35][38][39]。
クン・サの台頭

SSA/SSPPが分裂し、1970年後半から中国共産党の支援が減少してCPBも弱体化する中、シャン州で台頭してきたのは、「麻薬王」クン・サ率いるシャン連合軍(SUA)だった。

1973年にロー・シンハンが政府に逮捕され権力の空白区が生じたことにより、クン・サは黄金の三角地帯の麻薬ビジネスを一手に握った。1982年にタイ軍によってタイの根拠地から放逐されたクン・サは、ラフ族やパオ族の反乱軍、そしてSSAを駆逐して、泰緬国境沿いの町ホーモンに新しい拠点を築いた[40]。アメリカの麻薬取締局(DEA)の調査によれば、1974年から1994年までの20年間、ニューヨークで流通していたヘロインのうち、黄金の三角地帯で生産されたものの割合は5%から80%に増加し、クン・サがその取引の45%を占めていたとされる[41]。
1983年、クン・サは南北に分裂して混乱に陥っていたSSA/SSPPを襲撃し、南部軍区を制圧した。南部軍区の残党は北部軍区やシャン連合革命軍(SURA)に合流し、タイ革命評議会(Tai Revolutionary Council: TRC)を結成したが、翌1985年にSUAに吸収合併され、モン・タイ軍(MTA)となった[42]。
これにより、大半のシャン系武装勢力がMTAの下で統一された。しかし、クン・サの関心はむしろビジネスにあり、そのためにシャン民族主義を利用しているのではないかとも指摘されている[43]。
SLORC/SPDC~民政移管時代
2つのシャン州軍
1989年、CPBは下士官の反乱により崩壊し、ワ州連合軍(UWSA)、ミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)、民族民主同盟軍(NDAA)、カチン新民主軍(NDA-K)の4つの武装勢力に分裂した。前三者はシャン州に拠点を持つ武装勢力である。これらの武装勢力は即座にSLORC/SPDCと停戦合意を締結し、領土内における経済的自由を認められたことにより、麻薬ビジネスなどの違法経済を拡大し始めた[39]。
同年11月には、約1,500人のSSA/SSPPの兵士が政府に降伏し、停戦合意を締結した。SSA/SSPPの領土は「シャン州第3特区」に指定され、SSA/SSPPによる自治が認められた[44]。
また、1989年頃からMTAとUWSAとの間で麻薬利権をめぐって衝突が発生。国軍がUWSAを支援し、MTAは劣勢に立たされた。1995年には約2,500人の不満分子がMTAを離脱してシャン州民族軍(SSNA)を結成(2005年にSSA-Sに合流)。翌1996年、MTAついに政府に降伏した。ただ、これに不満なヨートスックら元SURAの将校たちがSURAを復活させ、やがて彼らもシャン州軍を名乗るようになった[45][46]。
このようにシャン州には2つのシャン州軍が併存する形になり、SSA/SSPPはシャン州軍(北)(SSA-N)、元MTA・SURAはシャン州軍(南)(SSA-S)と呼ばれるようになった。
融和と対立
すぐに乱立したシャン系武装勢力の統合が図られ、1996年、SSA-NおよびSSNAはシャン州平和評議会(Shan State Peace Council:SSPC)を設立。同年9月、SSA-Sを加えて、政治部門の「シャン州民族機構」および軍事部門「シャン州軍」を設立することが決定されたが、結局、実現しなかった[47][48]。
この後もシャン州では軍事衝突が頻発した。
1997年から1999年にかけて、国軍はSSA-Sに対して「四断作戦」を実施し、多くの国内避難民が発生した[49]。2002年と2005年にはSSA-SとUWSAとの間でも戦闘が発生し、2005年には本部ロイタイレンが一時包囲されるまで追い詰められた[50]。同年7月には、第758旅団が政府に降伏した[51][52]。
一方、停戦合意を締結したSSA-Nには、SLORC/SPDCから執拗な武装解除の圧力がかかり、2008年にミャンマー連邦共和国憲法が公布された後は、国境警備隊(BGF)への転換を迫られ、第3旅団と第7旅団が政府に降伏して民兵団となった[53]。2011年には、国軍が停戦を破棄してSSA-Nの本部ワンハイを攻撃[54]。2012年にはSPDCと州および連邦レベルの和平合意を締結したが[55]、国軍は戦闘機やヘリを用いた空爆を含む攻撃を継続し、ワンハイ周辺では人道的危機が常態化した[56]。
このような状況下、2011年5月21日には、SSA-NとSSA-Sが、SSA-Sの本部ロイタイレンで共同記者会見を開き、ヨートスックが「もはやシャン州軍に南北はなく、一つである」と発言し、再び両者の歩み寄りが見えた[57]。
しかし、2015年10月、SSA-Sが全国停戦合意(NCA)に署名すると、その合法的地位を利用してシャン州北部・中部へ領土を拡大し、SSA-Nやタアン民族解放軍(TNLA)と衝突を繰り返した[58][59]。
2017年、UWSA主導で中緬国境周辺の武装勢力の同盟である連邦政治交渉協議委員会(FPNCC)が結成されると、SSA-Nもこれに参加[44]。FPNCCは中国の影響力が及んでいるとされ、CPBとの繋がりから中国との関係が深いSSA-Nと、反共でタイの関係が深いSSA-Sとの同盟は困難であるとも指摘されている[39]。
SAC/SSPC時代

2021年ミャンマークーデター後、権力の空白を突いてシャン州でも内戦が拡大した。
UWSAの支援を受けたSSN-N・TNLA連合軍の攻撃を受けた、SSA-Sはシャン州北部・中部からの撤退を余儀なくされ、伝統的な拠点である泰緬国境地帯へと押し戻された[55][58]。
また、2024年10月からのMNDAA、TNLA、アラカン軍(AA)三兄弟同盟による1027作戦により、MNDAAがセンウィやラーショーを、TNLAがティーポーなどの主要都市を制圧し、長年シャン族が主導してきた地域が他民族の武装勢力の統治下に入るという事態が生じた。MNDAAやTNLAの統治下に入ったシャン族の人々は、重税、強制徴兵、土地収用、民族差別、アイデンティティの危機などに晒され、不満を募らせていると報じられている[39]。
また、シャン族の人々の不満は、危機的状況で適切なリーダーシップを示せていない南北シャン州軍にも向けられている[60]。一部の人々は、両グループは天然資源の搾取、麻薬ビジネス、オンライン詐欺などの違法行為で巨額の利益を得ていながら、シャン族の人々の窮状には無関心だと批判している[39]。
シャン州の主な武装組織
| 活動期間 | 名称 | 備考 |
|---|---|---|
| 1950 -1961年 | 中国国民党(KMT) | |
| 1939 - 1989年 | ビルマ共産党(CPB) | |
| 1945 - 1964年 | コーカン革命軍 | 後にSSAに合流。 |
| 1954 - 1964年 | ロイ・マウ民兵団 | クン・サの部隊。後にSUAに改組。 |
| 1956 - 1958年 | シャン州共産党 | CPBの分派。 |
| 1958 - 1960年 | ヌムスックハーン | 後にシャン民族独立軍(SNIA)と改名 |
| 1960 - 1964年 | シャン州独立軍(SSIA) | ヌムスックハーンの分派。後にSSAに合流。 |
| 1960年代 | シャン民族軍(SNA) | SSIAの分派。 |
| 1961 - 1964年 | シャン民族統一戦線(SNUF) | 後にSSAに合流。 |
| 1963年 - ? | タイ民族軍(TNA) | 1960年代半ばに東シャン州軍(SSA-East: SSA-E)と改称し、SSAに合流。 |
| 1964年 - | シャン州軍 (SSA) | 後にシャン州軍(北)(SSA-N)。 |
| 1964 - 1985年 | シャン連合軍(SUA) | クン・サの部隊。 |
| 1966 - 1985年 | シャン連合革命軍(SURA) | |
| 1975年 - | パオ民族軍(PNA) | |
| 1976 - 1980年 | シャン州革命軍(SSRA) | |
| 1978 - | タイ独立軍(TIA) | |
| 1984 - 1985年 | タイ革命評議会(TRC)/タイ革命軍(TRA) | SURAとSUAが合併 |
| 1985 - 1995年 | モン・タイ軍(MTA) | TRC/TRAから改称 |
| 1989年 - | ワ州連合軍(UWSA) | CPBから分裂 |
| 1989年 - | 民主民族同盟軍(NDAA-ESS) | CPBから分裂 |
| 1992年 - | タアン民族解放軍(TNLA) | パラウン州解放機構/軍(PSLO/A)との分派。 |
| 1995 - 2005年 | シャン州民族軍(SSNA) | MTAから分派。 |
| 1998年 - | シャン州軍(南)(SSA-S) | MTAから分派。一時期SURAを名乗る。 |
| 2009年 - | パオ民族解放軍 (PNLA) |
