劉楨
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曹操に招かれ丞相掾属となり、五官将文学・平原侯庶子に転じて、曹操の息子の曹丕や曹植と親しく交際した。後に宴席の場で、曹丕が夫人の甄氏に命じて挨拶させた時、座中の人々が平伏する中、一人彼女を平視した。このことを聞いた曹操に不敬を問われたが、死刑を許されて懲役にされた。 世説新語によると、曹丕は「貴方は何故法を守らないのか」と問い、劉楨は「法の網目が疎かでない事が理由です」と答えたという。 尚、この事件により共に曹丕の賓客として仕えていた呉質も連座し、朝歌へ左遷されている。刑期が終わると吏に任じられた[2]。建安二十二年の疫病の流行によって217年に死去。陳琳、徐幹、応瑒らが同じ病気で死去している。
王昶伝によると、王昶は彼の人柄について「博学で高い才能を持ち、誠実な生き方をし大志を抱いていた。しかし人柄と行為に均質性がなく、自己を拘束したり遠慮したりする事が少なく、長所と短所は差し引きゼロであった。私は彼を愛し重んじるが、わが子が彼を慕う事を望まない」としている。