加茂谷 (岡山県美作地域)

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加茂谷(かもだに)または加茂郷(かもごう)は、岡山県美作地域吉井川水系の第一次支川の1つである加茂川[1]の上流域[2]に広がっていた歴史的地域である。2005年(平成17年)の市町村合併(平成の大合併)に伴って津山市に編入された苫田郡加茂町(1954年-2005年)の町域とほぼ重なっていた[3]ものの、加茂町(1954年-2005年)の北東隣に位置し同じ2005年(平成17年)に津山市に編入された阿波村も谷の一部に属する[4]

加茂谷は近世までに、後に鉄道路線因美線で結ばれる因幡国(現鳥取県東部)鳥取美作国津山とをつなぐ中国山地縦断路の1つとなった[5]。津山から加茂谷を通って因幡国智頭宿を北へ縦断する街道は加茂往来と呼ばれた[6]。加茂町(1954年-2005年)域の南側にある加茂川左岸の勝田郡滝尾村[7]のうち加茂川と支流津川川の合流地点である津川原や、その南に位置し街道の宿場の役割を担っていた妙原[8]、対岸の滝尾村と密接不離の関係にあった加茂川右岸の苫田郡神庭村吉見[9]も、加茂谷の南端部に位置し谷の圏域といってよい。

加茂谷では伝統的に農業・林業が生業の中心[10]であったが、中国山地の高山に四周を取り囲まれた谷地田棚田主体の山村群は日照が少なく寒冷で、土地も痩せており、農業生産性は劣悪だった[11]。それゆえ加茂谷では幕末維新の混乱期に入ると重税や凶作に対するフラストレーションが高まり[12]、一揆が続発した。1866年(慶応2年)に日本全国で頻発した世直し一揆が11月末に加茂谷の行重村で発生し[13]、一揆は津山藩領のみならず美作国全域への広がりを見せた(美作改政一揆)[14]。7年後の1873年(明治6年)5月末、西西条郡貞永寺村(現苫田郡鏡野町)で発生した美作騒擾(美作血税一揆)[15]は、賤民解放令反対血税反対の性格を持つ新政反対一揆であった[16]。しかしこの一揆は加茂谷においては解放令を死守した津川原村に対する大規模な襲撃・焼き討ちと化し[17]、老若男女18名が虐殺された[18]。そして一揆の処罰対象者で死刑となった15名のうち、首謀者を除く14名が津川原虐殺の加害者で[19]、ほぼ全員が加茂谷の住民であった。

日中戦争が始まった翌年の1938年(昭和13年)5月21日未明、西加茂村行重(行重村)で大量殺人事件(津山事件/都井睦雄事件[20])が発生すると、加茂谷は好奇の目に晒された。集落で孤立していた裕福だが病弱な21歳の若者が、散弾銃日本刀を買い揃え[21]、短時間(約1時間半)で集落の住民老若男女30名に対する大量殺人を決行したのち[22]自殺した[23]。当時の捜査当局やマスコミが事件の背景に村の性道徳の乱れや立ち遅れがあると断じたこともあり[24]、村民や被害者遺族は偏見と差別に長く苦しんだ[25]

加茂谷は戦後日本の高度経済成長のあおりを受け、1958年(昭和33年)を皮切りに急激な過疎化に直面した[26][27]。加茂町と阿波村は2005年(平成17年)、勝田郡勝北町久米郡久米町とともに津山市の一部となり、津山市は鳥取県と境を接することになった[28]

現在は全域が津山市域に属する加茂谷を流れる加茂川の流域は、中国山地脊梁部の南麓に位置する[29]。川の最上流部は三十人ヶ仙、角ヶ仙、桜尾山など標高1000メートル級の山々に囲まれ、これらの山頂・稜線は東西に隣接する鳥取県八頭郡智頭町及び岡山県苫田郡鏡野町との境界線をなしている[30]。鳥取県鳥取市との境界線をなす北端部から北東端部の黒岩高原にかけての地域は、標高900~1000メートルと高く中国山地の脊梁分水界でもある[31]。加茂谷の中心部は加茂川とその支流倉見川の合流地点であるが、この周囲には600~800メートル級の山々が並ぶ[32]

加茂谷より北の中国山地には花崗岩類が広く露出している[33]。加茂川沿いの因美線美作滝尾駅三浦駅間のトンネルより北は、河原の礫や岸壁に白色の花崗岩の露出が目立ち始める[34]。中国山地の花崗岩類は、約1億年前から5000万年前にかけての中生代白亜紀後期から古第三紀始新世に、地殻下部から中部にかけての深部でマグマが貫入し、冷えて固まったものである[35]。花崗岩類の間には、一部閃緑岩も見られ、これも花崗岩類と同じく同じ白亜紀後期に形成された深成岩である[36]。花崗岩・閃緑岩など深成岩の周囲には、約2億年前から1億7000万年前、古生代末期から中生代三畳紀にかけて変成された三郡-智頭変成岩などより古い時代の岩石や地層が母岩として広がっており、鳥取県との県境の中国山地脊梁部の北斜面、角ヶ仙の山頂付近などに三郡変成岩の構成岩類が分布する[37]。加茂谷中心部の北東に位置する矢筈山(矢筈岳)一帯には、古第三紀期の酸性の凝灰岩や溶岩等の火成岩類が分布し、矢筈山の山頂付近を火成岩が覆い、その下に花崗岩が分布する[38]。これら花崗岩上の地質の多くは、花崗岩の貫入によって熱を受けて接触変成を起こし、ホルンフェルス化している[39]。ホルンフェルスは緻密で硬い岩石であり、中国山地の隆起で地表岩石や地層が侵食を受ける中、侵食に抵抗し続けているホルンフェルス化した地層が分布する場所が、現在、加茂谷の山となって残っていると考えられる[40]

加茂谷の北東端の黒岩高原から、谷の北西の大ヶ山にかけての山々の連なりの頂上には極めて平坦な地形があり、この地形では玄武岩安山岩の溶岩や火山砕屑物が花崗岩類の上を覆っている[41]。黒岩高原と大ヶ山は、粘性が小さく流動的な玄武岩溶岩が形成した一つの平坦な溶岩台地だったと考えられるが[42]、加茂川水系の侵食によって開削・分断され、黒岩高原はメサとして、大ヶ山はビュートとして残った[43]。黒岩高原と大ヶ山の間には加茂川の支流阿波川が流れ、阿波地区(旧阿波村)の村落が細長く展開する[44]。黒岩高原の南にある阿波地区の布滝は同じく玄武岩溶岩に形成された六角の断面をもつ柱状節理の上を流れている[45]

加茂谷の花崗岩分布地帯では、江戸時代以降、鉄穴流しによる砂鉄の採集が盛んに行われた[46]。このため、花崗岩の切り崩しによって生じた人工的な平坦地や急な崖が、現在も山地部に認められる[47]。また、大量の土砂が流されたことで下流に砂礫が堆積して谷を埋め、山間部にもかかわらず広い平坦地が出現している場合がある[48]。旧加茂町の面積159.5平方キロメートルのうち、山林が143.5平方キロメートルで90パーセントを占めたが、水田が8.6平方キロメートルで5.4パーセントを占めた[49]。水田の面積は一戸あたり0.8ヘクタールで岡山県南部の約2倍であったが[50]、その背景には江戸期の鉄穴流しによる平坦地の増加に伴う耕地造成があったと考えられる[51]。また、加茂谷を含む津山圏域は花崗岩層の露出面積が広いために、記録が残る鉱山跡は3か所と近隣地域に比べて少ないが、うち2か所が加茂谷にあり、含黄銅鉱石英脈や結晶質石灰石を採掘していた[52]

先史時代の遺跡・古墳

旧加茂町域では1975年(昭和50年)時点で少なくとも3か所から縄文時代の遺物が出土しているが[53]、遺跡と呼べる規模のものは発見されていない。しかしその後2023年(令和5年)までの発掘調査の成果として、美作地域では縄文期の拠点的集落が、津山市堀坂地区と鏡野町久田地区(吉井川沿い)の2か所で把握された[54]。このうち加茂川沿いの堀坂は加茂谷と津山盆地の境界をなし、加茂川は堀坂の北部で西に流れを変えて南流し、堀坂の南部で東向きに流れる[55]。堀坂地区遺跡群は5つの遺跡から構成され、このうち最も重要な堀坂星ヶ坪遺跡は加茂川の形成する自然堤防上にある[56]。同遺跡からは縄文時代後期の土器が多数出土し、土器には宮滝式土器と呼ばれる、外面口縁に巻貝によって施される凹線模様を持つ鉢類が数多くみられる[57]。また、サヌカイト製の石鏃剥片磨石、叩き石なども出土している[58]

弥生時代の遺跡としては、旧加茂町域で最も広い平地が広がる加茂川左岸の桑原・公郷地区で、主に弥生時代後期の集落跡から竪穴建物跡や甕形土器などが発掘されている[59]程度である。弥生時代の美作地域は、玉作りの受容や鉄器の利用が認められ、山陰地方からの人・モノ・情報の流れが行き交う交流拠点として賑わっていた様子がうかがえる[60]。土器の様式・型式の広がりから想定される美作地域を経由する山陰・山陽間の主たるルートとして、吉井川⇒人形峠天神川へ北上する西部ルートと、吉井川⇒吉野川志戸坂峠千代川へ北上する東部ルートとが想定されており[61]、加茂川水系はそのいずれからも外れていた。

古墳時代の後期から終末期にあたる6世紀後半、加茂谷には万燈山古墳(津山市加茂町塔中)が築造された[62]。直径24メートル、高さ4メートルの円墳で、1971年(昭和46年)11月に本格的な調査が実施された[63]。羨道と玄室の境目である玄門で、玄室が片方だけに幅を広げる[64]片袖式横穴式石室をもち、全長12メートル、玄室長6.5メートル・幅2.1~2.5メートル・高2.7メートル、羨道長5.6メートル・幅1.6~1.8メートルで[65]、この規模は現在の津山市域で発見された横穴式石室としては最大である[66]。石室内に陶棺・石棺・木棺が合わせて9つあり、それぞれの棺には2~3体の人骨が収められ、石室内に埋葬された遺体は20体以上だったと推定されている[67]

古墳時代後期、美作地方の比較的大きな石室をもつ古墳は、津山市南部の吉井川流域に偏在していたが[68]、津山市域最大規模の石室をもつ万燈山古墳は吉井川の支流である加茂川を15キロメートルもさかのぼった山間部にあった[69]。万燈山古墳および同じく加茂谷にあった室尾石生谷口古墳(石室全長8.5メートル、津山市加茂町青柳)には、瑪瑙及び碧玉製の勾玉水晶製の切子玉など、出雲地方で生産された玉類が多量に副葬されていた[70]。また万燈山古墳からは、岡山県や他の山陽地方には他に出土の例がなく、山陰地方の鳥取県東部から兵庫県北部に出土が集中している渦巻文杏葉(馬に装着する鉄製の小型垂れ飾り)が出土しており、加茂谷と山陰東部地域との結びつきを示す資料とみてよい[71]。加茂谷のこれら2つの古墳は、加茂谷がこの時期までに山陽地方から山陰地方へ通ずる交通の要衝の1つへと成長し、そうしたルートの掌握に役割を果たした支配者一族の墓だった可能性を示している[72]

古代・中世

古代令制国下の諸郷

続日本紀』によれば、710年(和銅3年)の平城京遷都に連動した全国的な行政機構再編の一環として、713年(和銅6年)に律令政府備前国から北部の英多郡勝田郡苫田郡久米郡大庭郡真島郡の6郡を割いて美作国を設置した[73]。国府は苫田郡苫田郷のあった現在の津山市総社の国府台寺周辺にあったことが1970年(昭和45年)以降の発掘調査で確認されている[74]

加茂谷の属した苫田郡は、『日本三代実録』によれば863年(貞観5年)に苫東郡苫西郡に分割された[75]。この分割は、苫田郡に15郷が属し、この数があまりに多く土地が広すぎたことに伴う弊害を是正するためだった[76]。それでも苫東郡は9郡とまだ広大だったためか、同年中に大領職員令の規定を超えて1名増員され、2名体制となった[77]。加茂谷の属した苫東郡には『和名類聚抄』によれば苫田郷・高田郷・高野郷・綾部郷・美和郷・賀和郷・賀茂郷・林田郷・高倉郷の9郷が属し、令制の郡等級は中郡とされた[78]。加茂谷にあったのはそのうち次の3郷だったと考えられている。

  • 美和郷:郷域は加茂川と倉見川の合流地点の西の河岸段丘を中心とする、現津山市加茂町中原一帯と比定される[79]
  • 賀和郷:『和名抄』で前後に記されている美和・賀茂の「和」「賀」の衍字で実在しないとする説、「智和」の誤写とする説がある。現在の加茂谷の地名として津山市加茂町知和がある。領域は津山市加茂町小中原から津山市阿波にかけての加茂川流域と比定される[80]
  • 賀茂郷:諸説あるが加茂川と倉見川の合流地点の下流左岸(南東)の現津山市加茂町公郷とする比定が最も妥当とされる[81]

古代令制国の時代の加茂谷の遺跡としては、たたら製鉄場であったキナザコ製鉄遺跡(津山市加茂町黒木)がある。製鉄炉跡より下層から8世紀中頃の須恵器の広口壺が出土したことから、この時期に造営されたと考えられる[82]。8世紀までは吉備地域全域で広く製鉄が行われ、その生産の中心は備中地域南部にあったが、備中地域南部での製鉄はおそらく原料であった鉄鉱石の枯渇から9世紀には衰微した[83]。しかし美作地域は中国山地が豊富に含有する砂鉄を原料としていたため、製鉄の営みをその後の時代にも継続させることができた[84]

中世荘園公領制下の諸郷・庄

中世の荘園公領制下において、加茂谷には北美和庄・青柳庄[85]、(中世)賀茂郷・北賀茂庄・南賀茂庄[86]の存在が史料に見える。このうち、先に挙げた2つの庄については記録が残っている。

  • 北美和庄:『和名抄』の古代苫東郡美和庄を継ぐものと思われ、『吉記』承安4年(1174年)2月17日条にある、近江国延暦寺の訴えを後白河院に奏上した「美作国美和庄」から分かれたと考えられている[87]。室町時代には万里小路家領家職・公文職を所持した北美和庄が存在し、1428年(正長元年)以降万里小路時房の『建内記』に時おり触れられている[88]。初めは美作国守護赤松満祐の被官富田氏、嘉吉の乱以後は新たな美作国守護山名教清の被官大町氏・高山氏が代官となり、富田氏や山名氏による押領があった他、万里小路家も財政悪化のため庄を慢性的に仁和寺無量寿院など諸寺院からの借銭の担保とするなどした[89]
  • 青柳庄:現津山市加茂町青柳を遺称地とし、「青柳」の異称もあるため、周辺の山間部を含む一帯と推定される[90]。1331年(建武3年)、足利尊氏によって本圀寺に造営料所として寄進された[91]。貞和2年(1346年)5月19日付「高師直下知状」(『南狩遺文』)において[92]、足利政権による下鴨神社の神殿造立のための木材を青柳杣から供出させるが、木材を京まで運搬させる際に山河や津・港・関所の通行料を徴収しないようにとするお触れが出された[93]。文和2年(1353年)6月1日、足利義詮は青柳庄の地頭職を近江国園城寺に寄進したが、翌文和3年(1354年)4月8日には足利尊氏が佐々木道誉下司職として宛がっている[94]。これは領主が1年で交替したのではなく、中世の荘園公領制における重層的な得分として各々に与えられたと考えられる[95]

戦国領主草刈氏

戦国時代に入ると、美作国の支配権は山陰地方の尼子氏、備前国の浦上氏及び宇喜多氏、安芸国の毛利氏の3勢力によって争われることになった[96]。1566年(永禄9年)の月山富田城の戦いで尼子氏が滅亡し、10年後の1576年(天正4年)に美作最大の国人領主であった高田城真庭市勝山)の美作三浦氏が毛利・宇喜多連合軍に滅ぼされると、美作では備前・備中と同じく、羽柴秀吉との和睦を通じて織田信長に帰属した宇喜多直家と、中国地方の大半を支配下に収めた毛利氏の争いが本格化した[97]。美作東部は1579年(天正7年)に宇喜多直家が三星城後藤勝基を滅ぼして以降は宇喜多氏の勢力圏となったが、美作西部は尼子氏滅亡以降毛利氏の勢力下にあり、その毛利氏が美作東部に侵攻するための手駒となっていたのが、加茂谷に勢力を持つ草刈氏だった[98]

草刈氏は藤原秀郷裔を称した下野小山氏の流れを汲み、足利尊氏から因幡国智頭郡に所領を与えられて1338年(暦応元年)に因幡へ移り、貞和年間(1345~1349年)に美作国苫東郡の「青柳庄、賀茂郷、三輪庄[美和庄か]」等の地頭職に補任されたとする[99]。これを機に加茂谷に勢力を拡げ、草刈衡継は1532年(天文元年)から1533年(天文2年)にかけて矢筈山に高山城(現津山市加茂町山下)を築き、加茂谷に本拠を移して美作地域に進出[100]、1542年(天文11年)以来毛利氏に属した[101]。その子草刈景継は織田信長の中国攻めが本格化すると、情勢の変化に対応して毛利氏に属しつつ織田方に内通したが、毛利方に内通を察知され、1579年(天正7年)小早川隆景の命で切腹させられた[102]。天正10年(1582年)6月の備中高松城の戦い後の織田方(秀吉)と毛利方との和睦により、備中高梁川を境として西を毛利方が、東を織田方(秀吉)方が支配することとなると、高山城を中心とする加茂谷は宇喜多直家の支配下に入ることになった[103]。しかし景継の跡を継いでいた弟の草刈重継は、和睦に不満を持つ他の地元国人層と同様に宇喜多との戦闘を継続し、翌1583年(天正11年)8月には宇喜多氏の持ち城となった佐良山城(現津山市加茂町公郷)を攻めて戦果を挙げた[104]。しかし結局は同年12月に出された毛利輝元の退城勧告に従い、1584年(天正12年)または1586年(天正14年)に高山城を宇喜多方に明け渡して[105]、毛利氏に仕えるべく安芸へ移った。

草刈氏の築いた高山城は、物見川・物見峠を通って美作国(加茂谷)と因幡国(智頭宿)とを結ぶルートの要衝に位置していたため、加茂谷の南端部にあった医王山城(現津山市吉見)とともに、戦略上重要な位置を占めた[106]

近世の領主支配

豊臣期の備前・美作

1582年(天正10年)以降、美作国は備前国・備中3郡とともに、宇喜多直家の嗣子で結婚を通じて豊臣秀吉の一門に加わった宇喜多秀家の57万4000石の大所領の一部となった[107]。1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで西軍の敗将となった秀家が改易され八丈島へ遠流になると[108]、やはり豊臣一門だが徳川家康に内通して東軍勝利の功労者となった小早川秀秋が、宇喜多氏の領していた備前・美作両国57万4000石を与えられることになり、筑前名島城から備前岡山城に移った[109]。秀秋の生家木下氏は彼の出世を恃んで、播磨国姫路から岡山城の西の守りとなる備中国足守への領地替えまでしたが[110]、当の秀秋は岡山移封わずか2年後の1602年(慶長7年)に21歳の若さで急死し、小早川家は断絶・無嗣改易となった。翌1603年(慶長8年)、征夷大将軍任官を果たした徳川家康は外孫池田忠継に備前1国28万石を[111]、関ヶ原の戦いで東軍に属し真田信繁との戦いで功あったものの恩賞に与っていなかった美濃金山城森忠政に美作1国18万6500石を[112]、それぞれ与えた。

津山藩森家

美作の国人層は森忠政の入国に不満を示し、両者の間には当初緊張状態があった[113][114]。忠政は初め仕官を望む美作国人層を家臣団に召し抱えるも、入府5年後の1608年(慶長13年)には懐柔策を打ち切り、直臣にならなかった美作国人(土豪)を全て百姓身分としたが、彼らの家柄を考慮し頭百姓(おとなびゃくしょう)の格を与えて苗字帯刀を許した[115]。実際の農村支配に当たっては、国人層の力に依拠せざるをえず、彼らを大庄屋として支配機構に組み込んだのである[116]。森家津山藩の地方支配は6名ほどの郡奉行が1人当たり2郡を担当し、大庄屋はそのすぐ下に位置付けられ、その下に肝煎、肝煎の下に村庄屋がいた[117]。加茂谷で頭百姓の格を与えられた国人は、小中原村(津山市加茂町小中原)に拠点をもつ中西家だけだった[118]。同家は安芸へ去った草刈重継の姉妹が家臣の中西四郎右衛門に嫁し、夫婦の子孫が加茂谷でそのまま国人として続いていたもので、森家津山藩の下で東北条郡中の23ヶ村の大庄屋を務めた[119][120]

森家津山藩は元禄10年(1697年)8月、末期養子の失敗により4代95年で断絶・改易となった[121][122]。陸奥一関藩田村建顕を幕府派遣の上使とする城地受け取りの軍勢1万9500名が津山城下に集められ、同年10月城の明け渡しが完了した[123]。明け渡し翌日、上使田村建顕と大目付水谷勝信[124]の連名で森家家臣=津山藩浪人に対する高札が出され、浪人たちに許可制で引き続き津山領内に住むことを認める一方、浪人が暴力や社会的混乱を引き起こすことを厳しく禁じた[125]。家臣のうち運のよい者は森家の一門・親族が領する小藩西江原藩新見藩三日月藩や、次に入部する津山松平家に召し抱えられたが[126]、大部分の者は縁故を頼って帰農した[127]。加茂谷でも1727年(享保12年)の調査で、小中原村の後藤孫右衛門(60歳)、楢井村の宇佐美吉左衛門(35歳)と弟の甚助(25歳)という、森家時代に共に130石取りの武士だった2家の帰農浪人の存在が分かっている[128]

津山藩松平家

森家の改易で美作国は一旦すべて幕府領になり幕府代官が置かれたが、城の明け渡しから2か月後の1698年(元禄11年)正月には越前松平家松平宣富に津山藩を与えることが決まり、同年5月には封土受領が行われ、幕末まで続く松平家津山藩の支配が始まった[129][130]。津山松平家の津山藩主は前任者である森家の藩主たちと、大きく立場や状況を異にしていた。同家は2代将軍徳川秀忠の兄結城秀康を祖とする越前松平家の嫡流で、親藩の中でも将軍が遠慮するほど格式が高く、幕府制度の適用を受けない「制外の家」であった[131]。しかし秀康の嫡男松平忠直とその子松平光長は為政者としての資質に欠け、父子ともに乱行やお家騒動で大名の地位を失って蟄居・配流の憂き目を見た[132]。津山に入部した宣富は光長の養嗣子で[133]、津山藩主になったことで家を再興することができた。

宣富に与えられた封土は10万石で[134]美作1国を治める国主だった森家の石高18万6500石の半分強程度だったものの、待遇としては美作国主に準ぜられた[135]。当然ながら美作国は津山藩領と幕府領とに分かれて属することになった。津山藩松平家は美作国のうち、東南条郡東北条郡西北条郡西西条郡大庭郡の全ての村199村に、真島郡のうち43村、久米南条郡のうち12村、勝南郡のうち4村を加えた計258村を支配した[136]。1727年(享保12年)、宣富の後を継いだ松平浅五郎が11歳で死んだ際、幕府は改易にはせずにその従弟で9歳の松平又三郎(長煕)末期養子とする措置を認めたが、継嗣の幼齢を理由に封土は半分の5万石に減らされた[137]。減封となった津山藩は大庭郡・真島郡に有した全ての村と、東北条郡・西西条郡・西北条郡の一部の村とを合わせた計159村を幕府領に返還したうえ[138]、家臣団の削減をも余儀なくされた[139]

1812年(文化9年)、江戸幕府は幕府領支配の人員不足から[140]、美作国の西西条郡・大庭郡、備中国の阿賀郡川上郡の幕府領の諸村のうちから4万7000石を津山藩預地とした[141]。1817年(文化14年)、津山藩は11代将軍徳川家斉の子を7代藩主松平斉孝の養嗣子に迎え入れると、越前松平家嫡流の家格と将軍子息が次期藩主となることが考慮されて5万石加増が認められ、90年ぶりに10万石に復帰することができた[142]。将軍子息で8代藩主となった松平斉民は1836年(天保7年)正月、おそらく名実ともに美作1国の国主となることを望んで、石高を遠祖の松平光長が越後高田藩主時代に領していた25万石に戻してほしいとする内願を老中と勘定奉行に提出したが、却下された[143]。ただし勘定奉行明楽茂村の提案により、1838年(天保9年)に3万石分の藩領と幕府領との領土交換を認められた[144]。斉民は中国山地にかかる大庭郡・西西条郡・東北条郡の北部の山村を幕府に返還したうえで藩預地の認可を得て継続管理する一方、英田郡吉野郡勝南郡の幕府領の諸村と、瀬戸内海の小豆島を新領地として獲得した[145]。この領土交換を通じて斉民はより条件の良い領地を獲得し、津山藩の石高を10万石から10万3331石に微増させた[146]

松平家時代の津山藩の地方支配は、森家時代の郡奉行に代わって2名の郡代が統轄し、その下に複数名の代官が置かれ、それぞれ津山城下の郡代所・代官所で執務した[147]。その下の農村部は20名の大庄屋が統轄し、各大庄屋を筆頭に大庄屋⇒中庄屋(森家時代は肝煎と称した)⇒村庄屋の序列で構成された農村役人機構は「触(ふれ)」、後には「構(かまえ)」と呼ばれた[148]。松平家の下でも大庄屋は苗字帯刀を許された[149]。津山松平家の統治開始時に加茂谷を統轄していた大庄屋は加茂小中原村の中西家と綾部村(現津山市綾部)の多胡家の2家で、それぞれ小中原触と綾部触を統率した[150]。幕末期には加茂谷の村々は全て綾部触の流れを汲む綾部構の管轄下にあった[151]

加茂谷の領主変遷

加茂谷の諸村は、1727年(享保12年)の津山藩領土半減以来、領主の帰属が幕末まで地域によって津山藩と幕府領に分かれてしまう。変遷は次のとおりである[152]

旧加茂町・旧阿波村の村グループ
全て東北条郡に属する
1727年(享保12年) -
1817年(文化14年)
1818年(文政元年) -
1838年(天保8年)
1839年(天保9年) -
1867年(慶応3年)
おおよそ「北部」:宇野、知和、物見、塔中、倉見、河井、西黒木、阿波[153] 幕府領 幕府領
1787年(天明7年)~1794年(寛政6年)下総佐倉藩
幕府領
おおよそ「中部」:小淵、青柳、青柳室尾分、戸賀、東黒木、斎野谷、山下、小中原 幕府領 津山藩領 幕府領(津山藩預地)
小中原のみ津山藩領に留められる
おおよそ「南部」:公郷上、公郷下、行重、楢井、楢井青山分、成安、成安下原分、中原、桑原、百々、原口、下津川 津山藩領 津山藩領 津山藩領

加茂谷の幕府領は、美作倉敷代官所・久世代官所・但馬生野代官所・備中倉敷代官所・因幡鳥取藩預地・播磨三日月藩預地の管轄をめまぐるしく行き来した[154]

このほか、加茂谷の最南端部にある村々も以下のような変遷をたどった。

  • 吉見:東北条郡に属し、1698年(元禄11年)の津山松平家入部以降も津山藩領のまま[155]
  • 妙原及び津川原:勝北郡に属し、1697年(元禄10年)の森家改易以降は幕府領となり、1747年(延享4年)以降は常陸土浦藩領に属した福井村など郡西部の16村の一部となった[156]

近世の農業と年貢

零細な農業

1838年(天保9年)の領土交換で松平斉民が手放した加茂谷の村々が、新たな支配者である幕府代官所に提出した『村明細帳』が示すように[157]、加茂谷は農業生産性が劣悪な地域だった[158]。四周を中国山地に取り囲まれた谷間の山村は日照が少なく寒冷で、耕地の大半は谷地田棚田、土壌は黒ボク土であればましで砂地や石砂地の村も多かった[159]。水田の肥料としては、代掻き田植えの間のごく短期間に入会地の山野で採取した草木を運搬して田に敷き並べる他になく、この地域の農民にとって田植えはきわめて過酷な重労働だった[160]。1860年(万延元年)、領内視察で加茂谷を訪れた備中倉敷代官の大竹左馬太郎が村の庄屋たちに念押ししたように、この地の農民は自給用の雑穀として夏の畑で大豆・小豆・ヒエ・ソバを、冬の水田で裏作として大麦を怠りなく栽培し、いつ襲うか分からない凶作と飢えに備えなければならなかった[161]。しかしせっかくの努力で実った畑の果実も、中国山地に数多く生息するイノシシシカ食害によってしばしば失われた[162]

森家津山藩領

加茂谷だけでなく、そもそも美作国全体が、周辺地域に比べて耕地に恵まれず、農業生産力の低い後進地域だった[163]。にもかかわらず、美作国の藩主たちは実体よりもかなり過大な財政基盤を構築しようと試み、検地の際に領地の生産性の実情に全くそぐわない石高を設定して、年貢の増徴を繰り返した[164]。この過酷な年貢徴収の手法は森家初代藩主森忠政による慶長検地から導入され、検地高の不当な石高設定のために農民側から激しい抗議を受けて、やむなく田畑の実収高を検地帳に加筆して事なきを得たが、検地高は実収高の2倍前後だった[165]

2代藩主森長継は耕地開墾を推進する一方、山林検地や寛文検地を行いさらなる年貢増徴をはかった[166]。長継は年貢の賦課方式を検地で定めた石盛(標準収穫量)で複数年度固定賦課する定免法から、年ごとの検分で年貢の賦課量を変動させる段免法に変更した[167]。その際、年貢の租率算出方法として、西国で広く行われていた、石高から免除分(自然災害による収量減や名主給与米)を控除した額を基に算出する厘取法ではなく、森家の出身地である東国で広く行われていた、田畑の等級と面積だけで算出する反取法を採用した[168][169]。その結果、例えば加茂谷の斎野谷村(現津山市加茂町齋野谷)の1692年(元禄5年)の年貢が、村高(村の米生産量全体)109.963石に対して定米(年貢米)105.117石、年貢率93.8%に達するという極端な事態を招いた[170]。森家統治期の美作における年貢率は平均して70~80パーセントと超高率を維持し[171]、森家は無理やり捻出した税収を、幕藩体制の中で外様大名としてしばしば課せられた幕府への手伝普請、例えば5代将軍徳川綱吉に命じられた江戸・中野犬小屋建設などに供出した[172]

松平家津山藩領

1697年(元禄10年)の森家改易で一時的に全域が幕府領となった美作国は、翌1698年(元禄11年)には津山松平家の入部で幕府領と津山藩領とに分割された。このとき、加茂谷のほぼ全域(旧加茂町域・阿波村域)は津山藩領に組み入れられた[173][174]。森家の年貢は七公三民、津山藩松平家のそれは六公四民で森家よりも負担が軽かったが、幕府領の年貢は五公五民とさらに軽かったため、津山藩領に組み入れられた地域からは不満が出た[175]。初代藩主松平宣富が入部してわずか半年で高倉騒動と呼ばれる一揆が発生し、藩はいったん百姓側の要求を受け入れたが、その後大庄屋を含む一揆の指導者13名を捕えて処刑し、予定通りの年貢を徴収した[176]。松平家津山藩は森家の年貢賦課方式である段免法を継承したが、税率を17%程度引き下げたうえ、租税算出方法を免除分の一切ない反取法から西国のスタンダードである厘取法に戻している[177]。しかし藩領に組み込まれた加茂谷の斎野谷村の1705年(宝永2年)~1726年(享保11年)の年貢率の平均は75パーセント、青柳村の1699年(元禄12年)~1726年(享保11年)のそれは66パーセントで、生産性の低い山村では公式の「六公四民」(60パーセント)を上回る高率が維持されたことが窺える[178]

1726年(享保11年)、藩勘定奉行久保新平の財政改革に伴う年貢の4パーセント追徴課税(「四部加免」)に怨嗟の声が上がる中、江戸藩邸での幼い藩主松平浅五郎の早世と幼齢の末期養子を理由とする5万石減封の報が美作に届き、それを引き金として津山藩領西部真島郡大庭郡の北部、旭川上流山中地方の農民が山中一揆を起こすと[179]、一揆は津山藩領の広範囲に広まった。西部の騒ぎが一時的に静まった直後、藩領の東部にあった加茂谷の農民たちも一揆に立ち上がり、谷の農民約2000人が津山の一宮地区に押し寄せて年貢の一部免除を要求したが、藩から手当の支給を言い渡されて鎮静化した[180]。その後、西部の山中地方で蜂起が再発すると、藩は武力鎮圧に乗り出して51名もの農民を処刑した[181]

幕府領

1727年(享保12年)、津山藩領の5万石減封に伴い、加茂谷では「南部」が津山藩領に留まった一方、「中部」・「北部」が幕府領に編入された[182]。幕府領では8代将軍徳川吉宗主導の享保の改革の一環で、年貢のより効率的な増徴を目的として、年貢の賦課方式をそれまでの検見法のみから、検見法と年貢量複数年固定の定免法の併用方式に変更した[183]。さらに検見法の租率算出方法も、検地で定めた田の等級に応じて租率を決める従来の畝引検見に代えて、田一筆ごとに坪刈(一坪分の稲を刈り取ってサンプル米を得ること)を行い、実際の出来高を基準に租率を見直す有毛検見を採用した[184]

美作国のうち、1727年(享保12年)に幕府領に編入された地域では1736年(享保21年)まで定免法が[185]、続く1737年(元文元年)から1766年(明和3年)までは有毛検見による検見法が適用され、1767年(明和4年)・1768年(明和5年)頃から定免法が復活した[186]。加茂谷の幕府領のうち、いずれも「中部」に属する斎野谷・青柳・小淵の3つの村については、享保年間から明治初年までの年貢割付状が現存しており、年貢貢納の推移を見ることができる[187]。1727年(享保12年)から1733年(享保18年)までの7年間、斎野谷・青柳・小淵の定免法による年貢率の平均はそれぞれ78パーセント・67パーセント・66パーセントと高率で松平家支配期の年貢率の維持が図られていたが、1734年(享保19年)は水干害に伴う凶作のため破免検見取が適用され、翌1735年(享保20年)も風害に伴う凶作で検見取が適用されて、この2年間は年貢率が以前の7年間平均から20パーセント程度低下した[188]

1737年(元文元年)から1751年(宝暦元年)頃の年貢率平均は、享保年間には及ばないものの、斎野谷・青柳・小淵が70パーセント・64パーセント・60パーセントで、高率の年貢を安定的に納めることができた[189]。しかし1755年(宝暦5年)の台風に伴う凶作を契機として取米高が激減し、1768年(明和5年)に加茂谷の幕府領で定免法が復活した年の年貢率は、斎野谷・青柳・小淵が53パーセント・62パーセント・47パーセントと大幅に低下した[190]。美作の幕府領全体では、享保の改革が志向した年貢増徴策が忠実に実施されたものの、農業生産力の低い加茂谷では高い年貢率の維持は困難であり、代官所側も享保年間と比較して2割程度の年貢減免を認めざるを得なかった事情がうかがえる[191]。その後も加茂谷の年貢率は低下の一途をたどり、1848年(嘉永元年)以降の幕末期の年貢率平均は、斎野谷・青柳・小淵が38パーセント・41パーセント・35パーセントという低さで、享保年間に比べ半減、年貢における幕府の定法と言われた「五公五民」をはるかに下回る「三公七民」の状況であった[192]

近世の諸産業と交通網

道路交通と高瀬舟水運の試み

美作国には古代より、岡山地域の南部の幹線道山陽道に対して、北部の幹線道であった出雲街道が東西に横断していた[193]。また美作中心部の津山からは伯耆国へ抜ける伯耆往来が鏡野奥津上齋原人形峠と、因幡国へ抜ける街道が勝北奈義黒尾峠と北上していたが、中国山地を越える因幡・伯耆と美作との陰陽連絡路は中国山地の縦断を伴う険しい山越えの峠道だった[194][195]。加茂谷にも近世初期までに、因幡国へ通ずる国境の峠として、物見峠・本谷峠・堂鋪峠・八本峠・険阻峠の5つの峠道が成立していたが、国絵図などでいずれも「坂難所」と表現された険しい峠だった[196]。津山から物見峠を越えて因幡国智頭宿を北へ縦断する街道は加茂往来と呼ばれた[197]。加茂谷から津山への交通でも、加茂谷の農民たちは、加茂川支流倉見川の支流沿いに荒坂峠を通って上横野一宮へ抜ける荒坂越や、加茂川左岸を南下し松ヶ乢⇒津川原妙原を経て堀坂へ抜ける松ヶ乢越の峠道を通り、年貢米の俵を牛馬に乗せるかあるいは自ら背負って、津山河岸あるいは河岸まで津出しせねばならなかった[198]

岡山地域の道路網は、同地域の吉井川旭川高梁川の三大河川の水運と緊密に結びついており、高瀬舟が行き交う三大河川の航路は江戸時代初期に整備された[199]。吉井川の支流加茂川では、当初は河岸まで通じていた高瀬舟の航路を、加茂谷の中心部塔中村(津山市加茂町塔中)まで遡上させるための航路開発が、1723年(享保8年)に行われた[200]。地域の庄屋層が、加茂谷の農民たちが険しい峠道を越えずに年貢米を運び出せるようにとの配慮から、おそらく津山藩松平家の援助を得て、民間で開発に踏みきったものだった[201]。しかし高瀬舟での輸送費は陸上運搬のコストと大差なく、加茂谷の農民たちは陸上運搬で得られる駄賃の利益を失うことを恐れたため、加茂谷の高瀬舟航路は1726年(享保11年)秋の1年の通船のみで廃止となった[202]

たたら製鉄

江戸期の中国地方は日本全国の鉄生産量の60~70%を占める一大産鉄地であり、現在の岡山県三大河川の上流山地でも盛んに鉄生産が行われた[203]。その一つ吉井川の支流加茂川水系が広がる加茂谷の北部に位置する阿波村[204]・倉見村、中部の青柳村、谷の南端部に位置する下津川村などで江戸期のたたら製鉄の残滓・遺構・記録が残っているが、このうち最も製鉄が盛んだったのは倉見川の流れる倉見村(現津山市加茂町倉見)であった[205]。下津川村は津山藩領であり、藩営鉄山の大村谷鉄山が1791年(寛政3年)以降20年程度営まれたことが記録から分かっている[206]

加茂谷の鉄生産の中心地だった倉見村は幕府領であった。1743年(寛保3年)に地元知和村の鉄山師が久世代官所の許可を得て倉見に大畑山鉄山を開いたものの、経営権を播磨国宍粟郡山崎(現兵庫県宍粟市)の同業者千種屋に譲り、千種屋も1748年(寛延元年)までには廃業してしまった[207]。この他、1744年(延享元年)に津山の商人が5年間の契約で仏香五輪原において[208]、倉見村の富農2名が1776年(安永5年)から3年間の契約で水目谷において[209]、鍛冶屋を経営した。また1827年(文政10年)には知和村・阿波村・宇野村・倉見村の4ヶ村で鉄穴流しを同時かつ大規模に行う計画が立ち上がり(実施されたか否か不明)、関係者がこの地の幕府領に知行地が含まれていたらしい一条家に許可を得ようとしたことが記録に残る[210]。時代が下って、1885年(明治18年)にも阿波村の地主・酒造業者の寺坂信輔が10年間の予定で倉見の金成山鉄山を経営することになった[211]。しかしこの時期以降、中国地方のたたら製鉄は、国内の洋式製鉄の成長と安価な欧米産鉄の輸入拡大で急速に衰退し、日露戦争が始まった1904年(明治37年)の官営広島鉄山の閉山とともに命運が尽きた[212]

林野の利用

農民たちは、山野で刈り取った草は田畑の肥草や牛馬の糧食たる飼葉として、伐採した木は家屋建材・薪炭材・農具原材料として利用しており、山の恵みは農村部の人々の生活を支える必要不可欠な要素だった[213]。近世の大名たちは、農民の林野利用に一定の規制を設けるようになるが、それは藩の財政・経済を領内で自給自足的に構築する必要があったためである[214]。森家初代津山藩主森忠政は、複数の「御林(おはやし)」と呼ばれる藩有林を設定し、加茂谷でも加茂川支流津川川の上流にある津川山(現津山市加茂町下津川の津川山国有林)のほか、因幡国との国境に近い倉見村に2か所、黒木村に1か所の藩有林が設定された[215]。森家2代藩主森長継は1655年(明暦元年)に山林検地を実施し、農民が家族ごとに個別利用する山林を「百姓持林」と定めてその所有権を認める代わりに、小物成(雑税)として運上銀を課した[216]。山林検地を通じて、美作国には森家津山藩による林野制度が確立され、林野行政を統轄する藩総山奉行の下、林野は藩有林(「御林」)・入会林(「野山」)・農民所有林(「百姓持林」)の3区分に分けられて管理・利用され、この制度は松平家津山藩や幕府領にも継承された[217]

幕府領となった倉見の「御林」で育った用木は、山岳地帯ゆえ不安定な倉見の農業生産=年貢納入を補うために農民に伐り出させ、売却して得た銀を年貢代わりに幕府が収公するという形で利用された[218]。代官所は、用木が売却できない時や損木が出た際は、加茂谷の幕府領の村々に払い下げて代銀を対価として得る方針だったが、寒村である加茂谷の村々に大量の用木・損木を購い市場で売りさばく経済力は乏しく、幕府が払い下げで実利を得ることは難しかった[219]

入会林(野山)については、各村が排他的に入会権を有する村中入会林、山林資源(草木・薪炭)の不足する村が近隣の村の入会林の資源(毛上)のみを対価を払って利用する他村毛上入会林[220]、複数の村々が権利関係に優劣がありながらも共同利用していた村々入会林[221]の3つの区分が存在した。入会林の利用は当初、農業用肥飼料の獲得と日常生活用の薪炭材の採取・炭焼きが目的だったが、江戸中期以降、林産物の商品化が進み、また加茂川の水運が開けてくると、状況が大きく変わった[222]。年貢皆済を口実に「野山稼」と呼ばれる立木の伐採・販売事業が始まり、幕府領「御林」の用木として育てられたスギヒノキの伐採許可を銀の上納と引き換えに得る者も出てきた[223]。村が入会林を村内外の有力な個人事業者に年限付きで貸与することも増え、個人事業者は人夫を雇って材木を大規模に伐採し、経済力を伸ばしていった[224]

幕末期になると林産物の商品化に伴う林野の商業利用はエスカレートし、山林の監視の緩さや権利関係の曖昧な慣行に乗じて、権利外の山林資源に手を出す者が現れ、例えば河井村(現津山市加茂町河井)では1867年(慶応3年)3月にそうした略奪行為に対する禁令を発している[225]。加茂谷の村々の林産物は、加茂川の本流吉井川を下って、津山、さらには備前国西大寺村金岡村に積み下ろされていた[226]。谷の北部の物見村は林産物の生産・移出で生活しており、その北部に位置し伝統的に木地師の集団を抱える[227]阿波村、そしてその他の谷の村々の多くも、材木を含む林産物を南の人口集中地に移出していた[228]

筏流しと井堰

加茂谷の山林で伐り出された材木は筏として組まれ、阿波川・物見川・倉見川といった支流を通り、加茂川に流し送られた[229]。材木は水量が少なく岩石の多い急流部では筏に組むことができなかったため、まず一本ずつを流す管流しで下流へ送り、水量が増え川幅が広く安定すると筏に組まれる筏流しに替えられた[230]。加茂川の筏流しは、加茂川に高瀬舟水運を遡上させる試みが行われた享保年間にはすでに始まっていた[231]。加茂谷で筏に組まれ川を下った材木の種類はマツクリ・スギ・ヒノキなどであり、一緒に積み下ろされる物品もほとんどが木工品やスギ皮などの林産物だった[232]。しかし、加茂谷の村々の筏流しは1785年(天明5年)以来、加茂川の下流の村々との間で争論を引き起こし、1854年(安政元年)に争いは頂点に達した[233]。加茂谷の村々が筏流しを春の彼岸(現3月下旬)から田植えの始まる八十八夜(現5月初め)まで行っていたのに対し、下流の村々は同じ時期に水田に水を引くための井堰を加茂川に設置せねばならず、両者の利害が対立したためであった[234]

はじめ、加茂谷の村々の筏流しが加茂川を下る際に井堰の越料(通行料)として銀を払っていたのは、加茂谷南端部の妙原村地蔵ボウキ井堰、及びその南の堀坂村釜の口井堰の2か所だけであった[235]。1785年(天明5年)、新たに堀坂村八重善十郎井堰など5か所の井堰が越料を要求したものの、美作久世代官守屋弥惣右衛門の裁決によってこの要求は退けられた[236]。12年後の1797年(寛政9年)、今度は妙原村の地蔵ボウキ井堰が越料増額を要求、堀坂村の八重善十郎井堰が新規越料を再要求したが、加茂谷側は井堰越料の負担増があると年貢の支払いが滞る恐れがあると、妙原及び堀坂の領主であった常陸土浦藩近長代官屋敷に嘆願し、結果として両村の要求は不認可とされた[237]。堀坂村の水不足は、1822年(文政5年)・1823年(文政6年)に堀坂村と妙原村の間にそびえる金比羅山の下を掘削し、堀坂村釜の口井堰から加茂川の水を通す堀坂暗渠の建設事業によって、堀坂村の54町歩の水田に安定的な農業用水が供給されたことで部分的に解消されたが[238]、筏流しと井堰の対立の根本的解決策にはならなかった。

1854年(安政元年)の争いは、加茂谷諸村が筏流しの終期を五月節入五日前(現5月末日)までとしていたのに対し、下流の村々では八十八夜までしか認めないと主張し、川に胴木を差し入れて筏流しを強硬手段で止めてしまったために起きた[239]。例年約2カ月間行われていた筏流しの通行が1か月に短縮され、何も知らずに川を下ってきた筏があちこちの井堰にぶつかって止められ、不当な越料を支払って通行せざるを得ない例もあった[240]。争論は同年11月まで続いたが[241]、津山藩郡代北島唯介の裁決によって、加茂谷の村々が求める時期まで筏流しを行うことが認められた[242]。加茂谷の筏流しは明治期に入ってもしばらく続いたが、道路網の整備と車両交通の発展に伴って明治末期には姿を消すことになる[243]

幕末維新と「強訴谷」

「非人拵え」と農村の身分秩序

岡山県の郷土史家柴田一は、近世末期の加茂谷は百姓一揆が頻発し「強訴谷」と呼ばれたとするが[244]、加茂谷が中心となった一揆としては、1866年(慶応2年)の美作改政一揆及び1873年(明治6年)の美作騒擾(美作血税一揆)の2件を挙げることができる。

美作地域では1726年(享保11年)の山中一揆の後も、1739年(元文4年)に因幡鳥取藩で起きた元文一揆の影響を受けて国境である横仙地方(現勝田郡奈義町)の幕府領で発生した元文騒動[245]、1825年(文政8年)に吉野郡(現美作市)の幕府領で発生し美作各地に飛び火した文政騒動[246]が起きていた。山中一揆の後、美作国の農民の抵抗運動は、計画的・集団的に流民化することで、年貢徴収を回避する形をとるようになった[247]。元文騒動以降、農民たちは「非人拵え」と呼ばれる非人の格好(鎌を持ち蓑を着る)をして物乞いをし(「袖乞い」)、村役人や富農の家で食事や酒の提供を強要し、領主の役所に要求を行うようになった[248][249]。農民たちが「非人拵え」にこだわったのは、百姓を非人同様の境遇に追いやった領主を非難する、そして非人を名乗ることで法を逸脱して領主の支配に服さず行動の自由を確保するという、2つの意味を含んでいた[250]。実際、文政騒動では松平家津山藩は150名近い農民を逮捕しながら、1人も処罰できずに釈放している[251]。改政一揆は、元文・文政の両騒動の後に続く、3度目の大きな「非人拵え」騒動であった[252]

美作地域の農村が貧窮の一途をたどり、貧窮化した農民が離村し流民化する状況があったことも事実だった[253]天保の大飢饉の最中であった1835年(天保6年)、加茂谷北部の宇野村(現津山市加茂町宇野)で、農業経営が立ちゆかなくなった貧窮農民(「潰れ百姓」)の扱いを本百姓の寄り合い「惣百姓」において村掟として定めた[254]。これは貧窮農民に対しては一定の身分的制裁を設けつつ、農業経営力を取り戻すまでは貢租負担分を惣百姓が立て替え負担して守ってやり、本百姓復帰のチャンスを与えるという性格のものだった[255]。貧窮化が進み百姓という身分を保つことが危ぶまれる社会状況に対し、百姓身分の存続を保とうとする農民たちの意識が形成される様子が垣間見える[256]

一方、1840年(天保11年)に斎野谷村(現津山市加茂町斉野谷)で定められた賭博禁止の申合せによれば[257]、当村で自宅を博打宿として提供したり、賭博に関わったりした者は村八分とし、何らかの特権を持つ場合は剥奪し、そして村内で牛が死んだ際に穢多村へ処理を命じる使いの役目をさせる、という制裁が待っていた[258]。農民たちは村落の荒廃が進むことへの危機感を強める中、穢多・非人とされた被差別民に対する「御百姓」の身分的優位を守ろうとしており、村落共同体の身分秩序を可視化するべく、賭博に関する制裁事項にこのような差別的項目を加えたのだと思われる[259][260]。しかし村落の近世的身分秩序が明治維新後の1871年(明治4年)、いわゆる解放令の公布に伴って否定されると、農民たちは自己防衛的な被害者意識から、「解放された」被差別民たちへの残酷な報復攻撃に打って出ることになる[261]

美作改政一揆

1866年(慶応2年)、全国的に世直し一揆の発生が相次ぐ中、その1つである美作改政一揆は加茂谷の東北条郡行重村(現津山市加茂町行重)西分の農民直吉を首謀者として始まった[262]。美作地域では1864年(元治元年)・1865年(慶応元年)と2年連続で凶作が続き、3年目の1866年(慶応2年)夏から初秋にかけての冷害と台風・洪水で中稲・晩稲の稲穂が大きく損害を受け、さらにこの後1カ月以上続発した地震によって社会不安が高まった[263]。加茂谷は特に大きな被害を被ったが、庄屋層を通じて津山藩に年貢減免の嘆願をしても、大して実効性のない手当金貸渡の沙汰があっただけだった[264]。当時の津山藩の財政は2度の長州征討で危機的状況にあり[265]、出兵経費の負担を無理な増税によって領内の農民に転嫁するしか術がなかった[266][267]

一揆の首謀者直吉らは11月24日夜、行重村の真福寺の鐘を鳴らし、松明を使い横野(現津山市上横野下横野)に通じる荒坂峠を越えて津山から大勢の仲間が寄せ集まるように見せかけて[268]、加茂谷から加茂川筋を南下しながら勢力を増やし、津山城下に着いた一揆勢の本隊は2000~3000人となった[269]。一揆勢は近世後期の美作地域で起きた一揆と同じく「非人拵え」で、酒を求め酔って村々の庄屋の屋敷で乱暴な振る舞いに及ぶ者もあった[270]。一揆勢は直吉の名で11か条に及ぶ嘆願書を提出し、津山藩と交渉した[271]。内容は年貢減免の要求や献納金の廃止、陣夫役(戦時に農民を軍属として徴発すること)の廃止など、藩の収奪強化策全般にわたっており、藩政の一新を求める性格を持っていたゆえに改政一揆と呼ばれている[272]。農民蜂起は領主を問わず美作国全域に波及した[273]

一揆勢が津山城下エリアの入り口である宮川大橋に迫った際、小競り合いから関門の衛士たちが一揆側に銃を発砲、農民5名が即死し負傷者も出た[274]。その後一揆の別動隊が到着して勢いづいた一揆勢は宮川大橋の関門を破って城下エリアに突入、武家屋敷街を脅かし米屋を襲撃した[275]。藩側の役人の説得で11月25日夜一揆勢がいったん大橋の外の河原に引き揚げた後、翌26日早朝に首謀者の直吉は嘆願書の藩への提出と引き換えに郡代所へ出頭・自首した[276]。一揆を平和裏に鎮めるため、津山藩は12月1日、蔵米を放出して領内の困窮した農民たちに手当米3万3150俵を与える措置を取ったが、絶対不可侵であった藩の蔵米を農民救済のために放出させたことが一揆の「改政」の成果であった[277]

潔く自首した直吉に対する津山藩内の助命の声が大きかったこともあり[278]、直吉と加茂谷の首謀者仲間5名、そして津山藩領の他地域に飛び火した諸一揆の首謀者6名は永牢(終身刑)を言い渡され収監されたが、王政復古直後の1868年(慶応4年)2月、明治天皇の元服に伴う大赦により釈放された[279]。直吉ら改政一揆の指導者たちは義民として加茂谷の人々に長く称えられ、一揆の起点で直吉の一族仁木家の檀那寺でもある真福寺境内には、1956年(昭和31年)建立の改正一揆九十周年記念義民顕彰碑が建てられている[280][281]。1966年(昭和41年)には加茂町で「改正(政)一揆百年祭」が挙行された[282]

1825年(文政8年)の文政騒動と同様、美作改政一揆には被差別民の参加が見られ、「非人拵え」(非人騒動)という形態をとることで、非日常的な一揆において身分秩序を越えた共闘が可能となった[283]。被差別民たちは一揆勢の農民たちと共に行動し、農民たちは平時なら忌避していた彼らと一緒に食事をすることも厭わず、彼らが対等な振る舞いをしても気にしていなかった様子であり、農民たちの穢れ意識や差別感情が克服され始めていた可能性はある[284]。しかし明治維新に伴う新政府の諸政策が農民たちの抱くユートピア的な世直し願望を裏切り、逆に彼らの生活世界を脅かすようになると、農民たちは新たな権力機構やそれらに順応する被差別民たちに対し容赦ない暴力を発動させることになる[285]

明治新政のもたらす動揺

1868年(慶応4年)1月、鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争で日本は内戦状態に突入した。美作国を含む岡山地域では、鶴田藩での農民一揆(鶴田騒動)など多少の混乱はあったが、松平家津山藩を始め諸藩が比較的早く明治新政府への帰順を決めたことで、従来の藩がそのまま存続した[286]。備中・備後・美作の旧幕府領は新たに設置された倉敷県の管轄に入った[287]。1871年(明治4年)7月の廃藩置県に伴い各藩が一斉に県と改称され、続く11月の各県統合に伴い美作地域に北条県が置かれた[288]。北条県では中央政府から他県出身者が首脳として派遣され、下級官吏を現地採用とする人事方式が採られ、薩摩藩出身の淵辺群平が初代参事に任命された[289]。北条県はさらに1876年(明治9年)に岡山県に合併され、吉野郡の一部が兵庫県に編入された[290]

明治新政府の一連の諸改革は、幕末の不安定な世相の中で暴力を伴う世直し一揆に駆り立てられ、苦しい現状からの解放を熱望する農民たちの期待[291]を裏切る内容だった。廃藩置県に伴う旧藩主の知藩事解職と東京移転の措置に対し、岡山県・北条県では旧藩主引き止めの抵抗運動が起きた[292]。1871年(明治4年)には備中・美作地域に「均田徳政」などの流言が流れるなど、農民たちの間には現実とはかけ離れた世直し願望がくすぶり続けていた[293]。同年11月に北条県が創設され旧津山県庁に新しい参事・権参事らが入ったことに加え、小学校令地租改正令徴兵令賤称廃止令(解放令)などの公布・通達が矢継ぎ早に行われたことで、北条県の人々はひどく動揺した[294]。また人々は新政府の官吏が着用する洋風の制服や、お雇い外国人工部省鉱山寮技師長のJ・G・H・ゴッドフレー一行が県内の鉱山視察に来た際に持ち込んだビールワインなどの洋酒を不審の眼差しで見ていた[295]。当時、未知の外国人(異人)が日本人の生き血を飲むという流言と、徴兵告諭の中の兵役義務を示す表現としての「血税」に対する誤解とが結びついて、徴兵されると外国人に生き血を取られるという言説が、日本各地に広まっていた[296]

さらに北条県の人々は、1871年(明治4年)8月末の賤称廃止令に伴って被差別民が「傲慢ノ態度」を取っていると感じ、憤慨していた[297]。江戸期は被差別民の宅地に対する税が役務と引き換えに免除される習慣が長く続いており、賤称廃止の布告を出した政府には、この無税地を消滅させて全国一律的な地租改正への準備を進める土地行政上のねらいがあったと考えられる[298]。しかし多くの人々がこれを「解放令」と捉え、被差別民はこれを歓迎する一方で、農民たちは強く反対する動きを見せた[299]。同年10月に加茂谷の大部分の属する東北条郡及び西北条郡の村役人たちが倉敷県庁に提出した、解放令の施行延期を求める嘆願書には、これまで次々出される新政策について逐次農民たちに説明し納得させてきたが、百姓と被差別民との間の身分差を廃する解放令だけは、百姓たちの悲憤の声が大きく説得しかねるので、延期してほしい旨を訴えている[300]。津山県庁は同月に解放令を一時停止すると声明を出したが、直後の県統合で新たに発足した後継の北条県庁は翌1872年(明治5年)2月に解放令停止を撤回するなど、行政側の対応も一貫しなかった[301]

美作血税一揆

1873年(明治6年)5月26日から6月2日にかけ、西西条郡貞永寺村(現苫田郡鏡野町)で発生した美作血税一揆(美作騒擾)は、この年に西日本各地で多発した新政反対一揆の一つだった[302]。同村の総代を務めていた筆保卯太郎らの首謀者たちは、「血税」の言説を利用して、近隣の円宗寺村の河原に白衣を着た血を取る者が来たという噂を流して近隣の農民たちを集めることに成功し、一揆を開始した[303][304]。一揆勢は津山市街西寺町愛染寺を襲撃後に県庁を目指すが、北条県参事の要請に応じて集まった旧津山藩士族の部隊から威嚇射撃を受けて市街地から退散した[305][306]。西走した一揆勢は二宮村高野神社に拠点を置いて勢力を盛り返し、美作西部方面(現真庭市など)に進出して各地を襲撃した[307]。攻撃対象となったのは主に新政の目に見えるシンボルであった小学校・官舎・掲示場・被差別部落であり、新政に協力していると見なされた戸長・副戸長などの村役人を務める富裕地主の邸宅も次々に襲われた[308]

加茂谷でも諸村が貞永寺村の一揆に呼応して蜂起するが[309]、この加茂谷の一揆勢が5月28日に起こした津川原虐殺(津川原騒動[310])によって、美作血税一揆は新政反対一揆の中でも突出して残虐なものだったと記憶されることになる[311]。加茂谷の一揆勢は南下して30日には久米郡英田郡の一揆勢と河辺村(現津山市河辺)で合流し、美作東部から津山城下への侵入を企てたが[312]、県の部隊が発砲して一揆勢を退けた[313]。翌日以降、岡山県からの援助隊・元真島藩士族・大阪鎮台派遣の部隊が到着し、美作の東西に広く展開した一揆勢は完全鎮圧された[314]

津川原騒動

加茂谷では西西条郡貞永寺村で始まった一揆から1日遅れて、5月27日夕刻に行重村・小中原村・塔中村・桑原村の農民約150名が村役人の邸宅を襲撃し始めたことで、一揆が始まった[315]。一揆勢はいったん因幡国(現鳥取県)との国境にある物見村まで北上した後、引き返して中部一帯を荒らし、加茂川左岸を南下して谷の南端部の下津川村(津山市加茂町下津川)まで下った[316]。美作血税一揆では、一般村の者たちは村全体で一揆に参加することを強制されたために参加人数が膨れ上がったが[317][318]、被差別部落に対しても一揆勢は「詫び状」を要求し、提出した場合は放火や襲撃を行わないとした[319][320]。「詫び状」では解放令以前の身分に戻り、以前の慣習通り「下駄や傘の使用は自村内に限り、村外に出る際は使用しない。隣村の平民の方のお宅へ行く際は門の外で草履を脱ぐ。途中で平民の方にお会いしたら頭を地面に付けて礼儀正しく挨拶する」という屈辱的な約束をさせられた[321][322]。加茂谷の一揆勢も、谷に存在する複数の被差別部落を襲撃して、村を焼き討ちにしない代わりに他地域の一揆勢と同じように「詫び状」を出させるように仕向けたが、下津川村の西にある津川原の部落だけが脅迫に屈服せず、解放令を死守しようとした[323]

津川原村は同じく勝北郡・旧土浦藩領であった南隣の妙原村に枝村として従属する立場にあり、行政上は妙原村の副戸長の配下に置かれていた[324]。しかし19世紀初頭に成立した『東作誌』によると、小規模村落だった妙原村の人口はわずか67人であるのに対し、津川原は330人と約5倍の規模であり[325]、経済状態も農業主体の前者より、輓馬による輸送業を担って北条県庁に炭を卸す仕事などを任され、現金収入の豊かな後者の方がずっと優位だった[326]。江戸時代、賤業とされていた筏流しによる加茂谷の林産物の輸送を加茂川流域で担っていたのは主に津川原であり、同村の長を代々務めていた宰務家は舟運によって得た財力を独占して大地主にもなり、幕末には美作全域にその名を知られる富豪となっていた[327]

このときの津川原の長であり宰務家の当主でもあった宰務喜一郎(通称は半ノ丞[328])は、解放令後に周囲の村々に平等な交際を求める廻状を出し、被差別民と百姓の間の身分差を示す礼儀や服装の慣習を守らなくなったことで、加茂谷の村々の反感を買っていた[329][330]。5月28日夕刻、加茂谷の一揆勢に勝北郡広戸村の一揆勢が合流し、さらに大規模となった群衆に津川原は包囲されたが、喜一郎は自分の家の算術教師(被差別民ではなかった[331])らと相談し、三方を川に囲まれた高台にある津川原村の防衛上の利点を理由に徹底抗戦を決めた[332]。そして村の入り口に木柵を建てて防御するとともに[333]肥桶を継ぎ合わせて紙を貼ったうえ黒く塗り、大砲のように見せかけたものを、「根床」の屋号で知られていた喜一郎自身の屋敷の門前にいくつも並べた[334]

津川原側は「寄せ来たら大砲を撃つ」と脅し、手招き[335]や尻をたたくなどの仕草で一揆勢を挑発した[336]。これに一揆勢はひるんだが、小中原村に住む元士族の参加者が大砲は偽物だと見破ると[337]、一揆勢は津川原村内に大挙して押し寄せた。一揆勢は山林に逃げ込んだ津川原村民を追い回し、喜一郎とその長男、算術教師らを捕え竹槍でめった刺しにして殺害した[338]。喜一郎の次男も捕えられ、未成年を理由とした母親の助命嘆願もむなしく、父と兄の殺害後すぐに同じ方法で殺害された[339]。津川原虐殺の被害者は幼い子供を含む老若男女18名(男11・女7)にのぼった[340]。村の家々には火がかけられ、喜一郎の屋敷「根床」の本邸及び土蔵3棟、納屋1棟が焼き払われたのを皮切りに、家屋100棟前後が全焼した[341]

処罰と分断

美作血税一揆の鎮圧後、一揆勢の逮捕・処罰は厳罰を以て行われた[342]。1866年(慶応2年)の美作改正一揆はあくまで幕藩体制解体期における津山藩という一領主への反抗だったのに対し、血税一揆は結果として近代的中央集権国家としての明治新政府に抗うものと見なされたことが大きい[343]。北条県庁に設置された臨時裁判所における裁判の結果、処罰対象者は死刑15名、懲役刑64名、杖刑617名、笞刑7名、贖罪刑2万5947名、収贖刑256名、総計2万6916名に及んだ[344]。15名の刑死者のうち、一揆の首謀者とされた筆保卯太郎1名を除く全員が津川原虐殺の加害者だった[345]。彼ら14名のうち、加茂谷の者は宇野村2名、公郷村1名、成安村1名、物見村1名、妙原村2名の7名で、残りは妙原村・津川原村と同じ勝北郡から加茂谷一揆勢の加勢に来た広戸村などの者たちだった[346]。宰務喜一郎父子3名殺害の責任を負ったのは小林久米蔵ら隣村妙原村の2名であった[347]。刑死者15名の斬刑は一揆の翌年1874年(明治7年)7月2日に津山城下伏見町の北条県監獄内にて執行された[348]

美作血税一揆が引き金となって発生した加茂谷での大量虐殺、それに続く大規模な処罰は、美作地域の一般民と被差別民との間に深刻な分断をもたらした[349]。血税一揆は美作地域において、そして憲政史・地方自治史の文脈において、その後の地租改正反対運動自由民権運動、そしてその具体的成果としての1874年(明治7年)1月の北条県民会設置につながる[350]、地方自治の萌芽を生んだ「義挙」であったと評価された。美作地域の一般民は血税一揆を「穢多征伐」と呼びならわしたのに対し、被差別民たちは津川原村の抵抗を「平等と自由」を希求するゆえの「尊い犠牲」だと主張した[351]。第二次世界大戦後、歴史学界で農民一揆が再評価されたことと連動して、地域の農民一揆指導者を顕彰する動きが活発化する中で、筆保卯太郎の顕彰碑建立が計画されたが、部落解放運動組織の反対で頓挫している[352]

虐殺の加害者(死刑囚)と被害者双方の遺族となった者同士が共に暮らし続けた加茂谷の人々の間で、血税一揆を公に語ることは一種のタブーとなったものの[353]、この地域の部落差別はその後も長く尾を引いた[354]。加茂谷が特別に差別の強い地域だったのではなく、岡山地域あるいは日本全国で、「解放令」を死守し最も強力に差別に抵抗したのが津川原村であったことが、この事件における大きな要素であった[355]。宰務一族は事件後も津川原部落の主導権を保つと同時に、美作地域の被差別部落を糾合する立場に立ち、明治・大正期の岡山県における融和運動に強い影響力を及ぼした[356][357]

明治~昭和前期の近代化

近代町村制への移行

1871年(明治4年)8月の廃藩置県とそれに伴う地方行政制度の改変により、村方三役による村落統轄はようやく終わり、1872年(明治5年)3月の大区小区制が施行されると、加茂谷の村々は北条県第5区・第6区に分かれて所属した[358]。大区小区制の下で加茂谷諸村の所属は、1876年(明治9年)の北条県の岡山県への合併などを機会として何度か再編された[359]。加茂谷の諸村は岡山県第20区第5戸長役場の管轄となり、同戸長役場は小中原村(現津山市加茂町小中原)に置かれた[360]。1878年(明治11年)、自由民権運動を背景とした地方三新法によって県-郡-町村制度が復活し、いったん戸長公選制が導入されたものの[361]、1883年(明治16年)に戸長は再び官選に戻され、加茂谷の諸村は東北条郡第3部~第7部の5部戸長とその役場が管轄する体制に移った[362]。1888年(明治21年)4月、市制町村制の公布に伴い、町村には財政権や条例・規則制定権などが認められ、公選制の町村議会が最高意志決定機関と定められた[363]。これに伴い、加茂谷の諸村は、均等に自治機能を備えられる人口・財政規模になるよう大幅に統合され(明治の大合併)、1889年(明治22年)6月1日の町村制施行に伴い加茂村東加茂村西加茂村上加茂村の4か村が誕生した[364]。ただし、上加茂村となった地域に属していた諸村のうち、阿波村だけは1884年(明治17年)に一村のみで東北条郡第9部戸長の設置を認められて以降独立性を強めており[365]、加茂谷4か村と同じ日に一村のみで独立することとなった[366]。なお、加茂谷の中心部の地位を占めていた加茂村は、村議会の決定に基づき町政に移行、1924年(大正13年)7月1日加茂町となった[367]

加茂谷の町村制移行に伴う新しい諸町村と、移行に伴い大字となった近世までの諸村落との関係は、次の通りである[368]。ただし戸数・人口については、加茂4か村は1889年(明治22年)の[369]、阿波村については1899年(明治32年)のものである[370]

村名 戸数(戸) 人口(人) 村を構成する旧村落(大字)
加茂村(加茂町) 375 2,024 塔中、斉野谷、小中原、戸賀、原口、黒木、倉見、宇野
西加茂村 341 1,845 成安、百々、行重、楢井、中原
東加茂村 347 1,834 桑原、小淵、公郷、下津川
上加茂村 306 1,370 青柳、山下、河井、物見、知和
阿波村 209 1,143 阿波

加茂谷の5つの町村はいずれも1900年(明治33年)4月に成立した苫田郡に属した[371]。谷の南端部に位置する諸村のうち、加茂川右岸の吉見は1889年(明治22年)に南の綾部草加部と合併して神庭村の一部となり、同じ苫田郡に属した[372]勝北郡に属していた加茂川左岸の妙原津川原は、南の堀坂と合併して滝尾村となり、1900年(明治33年)4月に成立した勝田郡に属した[373]

農業と林業の進展

岡山県内のうち、備前・備中地域が大正期・昭和期と工業生産比率を高め続け、1938年(昭和13年)の時点では共に物産額の7割以上を工業生産物が占めるに至ったのに対し、美作地域は工業化が進まず、長く農業生産が主体であり続けた[374]。美作地域の農民は地租改正に伴い旧津山藩などの領主の課していた高率の貢租から解放され、加茂谷の属する東北条郡では租税額が減額となり人々は「歓舞」した[375]。しかし明治初期には地主制が発達してきており、北条県においても、地租改正の際の地価を割り出す基準に宛米(小作農が地主に納める小作料)が適用されるなど[376]、地主制が体制的に容認されたため、農民が政府への貢租と地主への小作料の二重負担に苦しみ、没落する傾向が強まった[377]。加茂谷は他の美作地域と同じく県南の備前・備中地域に比べて農業生産力が相変わらず低く、山村ゆえに農業条件が劣悪で、水田二毛作率も低かったため、農業経営は困難なままだった[378]。家内副業として促進された養蚕業が重要な地位を占めた[379][380]。1反当り米収量はそれでも徐々に向上したが、それは岡山県が奨励した愛国穀良都亀の尾などの改良イネ品種や、過リン酸石灰硫酸アンモニウムなどの化学肥料の積極的な導入によるところが大きかった[381]

加茂谷は土地面積の9割近くを森林が覆っており、谷の人々は豊かな森林資源に頼って生活を営んでいた[382]。1872年(明治5年)2月に地所売買譲渡ニ付地券渡方規則が公布され、林野も耕地・宅地と同様に所有権移転を前提とした地券交付の対象となったが、当時の林野は集団的な入会利用と複雑な入会慣行の下にあって公的な性格を帯びていたため[383]、農民からの反発は大きかった。1874年(明治7年)11月の地所名称区別改定の公布により、全国の土地は官有地と民有地の2つに区分されることになった[384]。加茂谷の自治体では、江戸時代までの農民所有林(百姓持林)は民有地第1種、入会林は民有地第2種と認定され[385]、旧藩有林(御林)は官有地に編入されて国有林の基礎となった[386]。江戸期までの村落である部落(大字)のレベルで権利を有していた入会林は、村落が排他的に権利を有する村中入会であれば部落有林として問題なく経営されたが、複数の村落が共同で権利を持ち利用する村々入会の場合は、権利をめぐる紛争や濫伐・盗伐が相次ぎ、林野の荒廃が目立った[387]。1910年(明治43年)、政府はこうした問題を解決すべく、入会林野を町村自治体レベルの基本財産に移行させる方針を示した[388]。これを受け、加茂谷の自治体間で入会林の分割・整理を進める連合会が発足し、1911年(明治44年)2月には整理指針が取り決められた[389]。しかし実際に入会林の境界画定の段階に入ると、各自治体の利害が錯綜して紛糾が絶えず、境界画定が完了し自治体間の入会林に関する協定が結ばれたのは1920年(大正9年)11月のことであった[390]。戦前期までの加茂谷における林産物では用材の割合は概して低く、薪炭材が大半を占めた[391]。多くの農家が副業として白炭生産に従事し、白炭は京阪神の大都市部家庭向けに暖房用燃料として販売・消費された[392]

加茂谷の用材生産は90パーセント以上が京阪神の大都市部への移出用であり、用途は建築資材、下駄などの日用品用材、荷車用・枕木・電柱など多岐にわたった[393]。林業振興のために明治後期・大正期に行政主導の造林事業が行われ、スギヒノキアカマツカラマツなどが植えられた[394]。阿波村の総面積の5分の1を占める広大な阿波山は、1918年(大正7年)までに鳥取県智頭町の山林王の1人米原章三の所有に帰し、米原家の経営する木綿屋商会の阿波支店が置かれ、トチブナミズメザクラなどの落葉広葉樹の製材・製品加工・造林・木炭生産が行われた[395]。阿波の事業所は製材工場・加工工場・水車動力発電所・乾燥場・倉庫・物品販売所を備えた大規模なもので、阿波支店の従業員は住み込みの者だけでも約30家族120~130人程度がいた[396]。材木の積み出しはトロッコで行われた[397]。加茂町でも同時期より倉見(現津山市加茂町倉見)や桑原(現津山市加茂町桑原)で複数の製材所が営まれた[398]

道路交通の近代化

1876年(明治9年)、太政官達第60号の公布に伴い全国の道路が国道・県道・里道に区分された際、加茂谷を通る道で県道に指定されたのは、いわゆる加茂往来のうち、谷の中心部小中原村に始まって加茂川沿いに下り、勝南郡河辺村で岡山県北部の国道(旧出雲往来、現国道179号)と接する区間(現岡山県道・鳥取県道6号津山智頭八東線)のみであり、他の道路はすべて里道とされた[399][400]。この県道は加茂谷の南部で松ヶ乢越という山道を通っていたが、1886年(明治19年)頃に堀坂から鳥取県境の物見まで大幅な改修工事が行われ、松ヶ乢越の難所も加茂川沿いの現在の道路に変更された[401]。県道6号線(加茂往来)において加茂谷と鳥取県智頭町をつなぐ物見峠の利便性は重要だったため、明治期に2度にわたり峠の切り下げ工事が行われた[402]。明治期の物見峠には茶屋があり、一服2銭程度の茶代で休憩が可能で、旅行者がよく利用し繁盛していた[403][404]。物見峠や阿波村の堂鋪峠、黒岩高原を横切る黒岩越などの県境の山越えの道は、大正期から昭和前期にかけては、鳥取県から魚売りが加茂谷に貴重な海産物をもたらすルートとしても機能した[405]

加茂谷は美作地域の中心都市津山と密接に結びついていたが、県道6号線に交通路・輸送路がほぼ一本化されるまでは、加茂川右岸・西加茂村の行重(現津山市加茂町行重)⇒大篠上横野一宮へと抜ける峠道も非常に重要な道路だった[406]。江戸時代、この峠道の山越えの道が通っていたのは荒坂峠だったが、明治期に入ってからの峠道の改修工事では、1912年(明治45年)の竣工開始までに、約3キロメートルの短縮となる利元峠を通るルートへの変更が取り決められた[407]。いまだ人馬による通行・物資輸送が行われていた当時の交通状況にあって、3キロメートルの短縮は非常に大きな利便性向上であった[408]。利元峠を越える峠道の改修はルート上にある西加茂村・高田村一宮村の協力で進められ[409]、加茂谷諸地域の金銭的支援も得ながら1916年(大正5年)に工事を完了、加茂谷と津山を南北につなぐ連絡路としてその後もしばらく機能することになる[410][411]

道路改修と同時に各河川への架橋も進められた。加茂村・東加茂村・西加茂村は、加茂川と支流倉見川の合流地点で村域を接していたが、県道6号線は東加茂村の桑原(現津山市加茂町桑原)と加茂村の塔中(現津山市加茂町塔中)の間に架橋された、長さ約30メートル・幅2.7メートルの軒戸橋上を通っていた[412]。明治期の軒戸橋は土橋であり、1882年(明治15年)8月の洪水で一部が流失したため、県費45円余をかけて修理された[413]。加茂川の対岸に位置していた東加茂村と西加茂村の間でも、前者の公郷(現津山市加茂町公郷)と後者の成安(現津山市加茂町成安)とを結ぶ三ツ岩橋の架橋が1892年(明治25年)に、前者の桑原(現津山市加茂町桑原)と中原(現津山市加茂町中原)とを結ぶ東西橋の架橋が1928年(昭和3年)にそれぞれ実現した[414]

加茂谷における交通手段の近代化は遅く、ようやく1898年(明治31年)に人力車2台・人力荷車35台があったことが知られる[415]。明治30年代以降は荷馬車・乗合馬車が行き来するようになった[416]。岡山県内での自動車の導入は1914年(大正3年)だったが、加茂村・西加茂村でも1922年(大正11年)に自動車が導入され、津山~知和(現津山市加茂町知和)間を運行する乗合自動車の営業が始まった[417]

因美線の開通

美作地域における陰陽連絡路線の鉄道開通構想は、美作諸郡の郡長たちが中心となって1889年(明治22年)に発足させた陰陽鉄道株式会社が始まりだったが、姫路-米子間を津山経由で通す同社の鉄道計画は、2年後の1891年(明治24年)に政府に不許可とされた[418]。その後、中国鉄道が1898年(明治31年)に岡山-津山間の津山線を開業したが、資金難に見舞われて津山以北の路線敷設計画は中断した[419]。1906年(明治39年)の鉄道国有法制定に伴う大規模な鉄道国有化により地方の鉄道計画が停滞したため、政府は1910年(明治43年)に軽便鉄道法を制定して諸規制を緩和し、地方鉄道の建設を促した[420]。これに呼応して、美作地域でも津山駅を起点として3つの路線が計画され、その1つに津山-加茂の両区間での建設を計画し、1912年(明治45年)に免許された津山軽便鉄道があった[421]。しかし建設資金が調達できず、1914年(大正3年)に免許失効となって加茂谷への鉄道延伸はこのときは実現しなかった[422]

山陰と津山を結ぶ陰陽連絡路線の建設は、岡山県側よりもむしろ鳥取県側からの強い要望によって実現することになった[423]。津山と鳥取県内のどの主要都市とを結ぶかについては、鳥取倉吉米子の3つの選択肢があったが、智頭町の山林王の1人で衆議院議員の石谷伝四郎が智頭を経由する鳥取-津山間の鉄道敷設を主張して強力な請願運動を行ったため、1913年(大正2年)に国会審議を経て同路線が予定線に定められた[424]。この軽便鉄道因美線(当初は軽便鉄道智頭線)は、1916年(大正5年)12月に鳥取で起工され、1919年(大正8年)12月には用瀬まで、1923年(大正12年)6月には智頭までの開通が実現した[425]

智頭線の建設・開通と呼応して、加茂村を始めとする岡山県側の沿道諸村も智頭-津山間の鉄道期成同盟会を結成して推進運動を進めたため、1919年(大正8年)5月には智頭-津山間の因美線建設追加予算が国会で成立した[426]。しかし1922年(大正12年)に加茂谷など苫田郡を通るプランに替わる、姫新線勝間田駅豊並村梶並村⇒右手峠⇒智頭駅を通る勝田郡の要望する比較線の建設運動が発生、苫田郡プランと勝田郡プランが競合することになった[427]。この争いには、双方の競合プランを支援する岡山県出身衆議院議員とその所属政党の対立が絡んでいた。津山出身で立憲国民党土居通憲は苫田郡派を、立憲政友会福井三郎は勝田郡派をそれぞれ支援する立場に分かれており、真庭郡落合町出身の福井には1910年(明治43年)に米子-津山間の鉄道建設案を国会に提出したが不成立に終わった経緯があった[428]。福井三郎の強い政治力を前に苫田郡派は苦戦を強いられたが、阿波村に事業を広げていた智頭町のもう一人の山林王米原章三[429]や当時の智頭町長が加茂谷経由路線の実現を強く要望し、1924年(大正13年)9月に智頭町役場で両県沿道町村長連合会の開催を実現させた[430]。その結果、同年12月に因美線・姫新線の1925年(大正14年)着工が決定されたと同時に、因美線が苫田郡・加茂谷を通過することが決まり、苫田郡派の勝利に終わった[431]

因美線の建設工事は南から北へと進められ、加茂谷では美作加茂駅が1928年(昭和3年)に開業した[432]。智頭駅までの残りの路線が開通するまでは、客席6人乗りに改造された乗合自動車が県道6号線と物見峠を通り、1日3往復して加茂-智頭間をつないだ[433]。1932年(昭和7年)7月1日の美作河井駅-智頭駅間の開通によって因美線は全線開通を見た[434][435]。加茂谷の人々は因美線を利用して生産物の米・牛・木炭・材木を輸送するようになり、因美線の貨物輸送は昭和30年代(1955年〜)にトラック輸送に取って代わられるまで続いた[436]

都市機能

加茂谷の市場集落(商業集落)となったのは、加茂川と支流倉見川の合流地点の手前、倉見川左岸にある加茂村(加茂町)の小中原(現津山市加茂町小中原)である。19世紀初めの『作陽誌』では小中原について16戸・人口74人の「小村といえども、加茂谷三十余郷の小府ともいうべく、商家ありてすこぶる賑満の地なり」とあり、江戸期から谷の商業地・要地と認識されていた[437]。明治期に入って人口移動が始まると、加茂谷から南の人口集中地域への人口流出と同時に、谷の奥地から中心地である小中原への移住も見られるようになった[438]。小中原では1911年(明治44年)4月4日深夜11時頃に銭湯から出火した火が燃え広がり[439]、5時間後の4月5日午前4時頃鎮火するまでに焼失戸数39戸・罹災者138名を数える大火となった(死傷者はいなかった)[440]。この小中原大火の焼失戸数・罹災者数から、そして同時期に芝居小屋が営業をしていたという証言などから、小中原がこの時期すでに人口増加が進み、市場集落に成長していたことが窺える[441]。大正期に入ると、小中原の市街地は東隣の塔中(現津山市加茂町塔中)に広がり、呉服・酒造・電力・乗合自動車などの会社6社が営業するようになった[442]。小中原商店街は共同での大売出しや頼母子講の組織・運営を通して、町の経済・金融の活性化を促進した[443]。さらに芸者の置屋も大正期半ばから昭和初期まで存在したという証言もある[444]。昭和初期には、小中原・塔中の人口は合わせて900人を超えた[445]。この時期、加茂谷での畜牛生産が盛んになったことを背景として、小中原に加茂家畜市場が開設されたため、牛の競り市が立つ日の前後には博労(牛の仲買商人)や畜産農家など市場・売買関係者が多く集まり、旅館・飲食店や商店に活気をもたらした[446]

駅前集落となったのは美作加茂駅の置かれた東加茂村の桑原(現津山市加茂町桑原)である。加茂川と倉見川の合流地点の東側で、反対の西側には倉見川左岸の小中原・塔中、倉見川右岸の中原(津山市加茂町中原)があった。江戸時代から物見峠を越えて因幡国と行き交う加茂往来の通り道だったため、往来に面して家並みが形成された[447]。1928年(昭和3年)3月15日、桑原に因美線の美作加茂駅が開かれると、加茂川の対岸の西加茂村から鉄道利用者が来られるように東西橋が架橋され、駅前が整地され、翌1929年(昭和4年)には幅員の広い駅前直線道路が整備されると、道路の両側に次第に商店・工場・民家が立ち並び、商店街・工業地区へと発展した[448]

加茂谷諸村の郵便・電話・電信などの通信インフラを担う加茂郵便局は、小中原・塔中に置かれていた[449]。阿波村のような奥地には医師もおらず、塔中・中原の市街地の開業医が馬に乗って往診に赴いたが、往診料は「足役」と呼ばれ、1925年(大正14年)頃は5円ほどかかり、谷の一般的な農家にはやや高額な負担だった[450]

戦争への従軍・協力

日本にとって最初の公式の近代戦争である日清戦争は1894年(明治27年)から1895年(明治28年)にかけて行われた。この戦争で加茂谷出身者の戦死者は4名だったが、このうち加茂村出身で日清貿易研究所所属の福原林平は軍通訳官・間諜として活動したために、上海で敵軍に捕まり処刑された(征清殉難九烈士[451]。加茂村塔中の軒戸神社には、福原の出身校閑谷学校校長で恩師の西毅一が福原の功績を称えた顕彰碑が建立された[452]。続く1904年(明治37年)から1905年(明治38年)にかけての日露戦争には200名以上の加茂谷出身者が従軍し、加茂谷諸村で26名の戦死者を出した[453][454]。戦争や出征軍人への協力・支援体制も本格化し、1905年(明治38年)1月9日には上加茂村知和の千磐神社で旅順陥落祝賀会が挙行されている[455]。戦死者に対しては、1923年(大正12年)に在郷軍人会を中心とする運動が実り、阿波村で小学校の実習田に忠魂碑が建立されるなどの形で顕彰が行われた[456]

1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件を機に日中戦争(日華事変)が始まると、政府は出征軍人の歓送や神社での戦勝祈願の励行を推進、翌1938年(昭和13年)4月には国家総動員法を成立させ、戦争協力体制を地方の末端まで構築しようとした。日中戦争期以降の長い戦争時代、軍人や警察官など国防・治安に携わる者たちが最も尊敬されるべき存在であり、徴兵検査で甲種合格となる男性が一人前の存在であった[457]。出征せず在村している男性には軍事教練が課せられ、在郷軍人会の指導下で竹槍訓練や歩行訓練に参加し、馬を所有する者には小中原から知和に北上する街道を使った乗馬訓練もあった[458]。地域社会が戦争に傾斜していく状況を背景として、1938年(昭和13年)5月に都井睦雄という若者が西加茂村で起こした事件は、加茂谷のみならず日本全国を震撼させることになった[459]

津山事件と戦時の村社会

1938年(昭和13年)5月21日夜半、苫田郡西加茂村大字行重字の貝尾・坂元両集落で発生した津山事件では、犯人自身の祖母を含む老若男女30名が殺害され、犠牲者のうち最も幼い者は5歳、最高齢者は86歳であった[460]。犯人の都井睦雄は事件後に荒坂峠の仙の城山(現津山市加茂町楢井の山奥)で自殺したが[461]、事件発生当時わずか21歳の若者で1年前に成人したばかりだった。都井家は加茂谷の北部に位置する倉見(現津山市加茂町倉見)の庄屋の家柄で[462]、睦雄も1917年(大正6年)3月に倉見で生まれた[463]。しかし都井本家の当主だった祖父・父・母が1919年(大正8年)までに肺結核(労咳)で死亡し[464]、一家は「肺結核の家系(労咳筋)」と噂されて村で忌避された[465]。当時、結核は不治の病と恐れられ、患者を出した家は家族全員が「肺病持ちの家系」と認識されて社会的差別にさらされており[466]、結核は一種の社会的スティグマであった。

2歳と幼い睦雄は本家の家督も祖父の弟に奪われ[467]、戸籍上の祖母(祖父の後妻[468])及び姉の3人で倉見を追われ[469]、祖母は自分の親戚を頼って出身地の貝尾集落に家と土地を購入した[470]。一家が「労咳筋」だと倉見で爪はじきを受けたことは秘密にされていたが、1935年(昭和10年)頃にその噂が貝尾集落で広まり、当時18歳の睦雄が差別の標的にされた[471]。睦雄の姉はその前年の1934年(昭和9年)に貝尾から利元峠を南に越えた高田村に嫁いでおり[472]、睦雄は結核への偏見による村人からの村八分の差別を一身に受けることになった[473]。そして同年12月31日、西加茂村中原の医院で結核の初期症状である肺尖カタルと診断されたことは[474]、睦雄の精神に強い衝撃を与えた。カタル自体はごく軽症で服薬治療により3か月後には治癒したものの[475]、睦雄は精神的に不安定になり、不眠や体調不良を訴え続けた[476]

村社会での孤立は、睦雄にとって単なる村八分を意味するだけではなかった。当時、10代後半の睦雄はすでに同世代から母親世代まで幅広い年齢層の、集落の複数の女性たちと定期的に性的関係を持っていた[477]。娯楽の少ない山村部では、貞操権を重んじる社会道徳はまだあまり浸透しておらず、夫婦関係に強く縛られず性的関係を比較的自由に結ぶ前近代的な夜這いの風習が残っており[478]、睦雄が親密だった女性たちにも夫以外に複数の男性がいる年上の既婚者が含まれた[479]。女性たちが夜這いの相手に求めたのは二十代の男性たちだったが、1931年(昭和6年)の満州事変以降の戦争拡大により、この年齢層の健康な若い男性は多くが出征する状況になっていたため、睦雄のような10代後半の少年が代わりに求められた[480]。この女性たちが睦雄の噂を広め、率先して差別し、公の場で彼を避けて忌み嫌った[481]。一部の女性はそれでも睦雄と時おり性的関係を持つ場合があったが、代償に金銭を支払うことを要求した[482]。村の夜這いコミュニティから自分を排除した女性たちを睦雄は強く恨み、彼女らとその家族(夫や子供)を殺害の標的にした[483]。加茂谷の村々には江戸期の若連中[484]の流れを汲む青年団があったが、戦争での相次ぐ若者の出征のため機能停止状態にあり、睦雄と集落の人々の間を取り持つべき同世代・年長の若者仲間はほぼいなかった[485]

1937年(昭和12年)5月22日、睦雄は徴兵検査に臨むが、村で受けている「労咳筋」差別を逆手に取り、担当軍医に自身の肺尖カタル罹患歴や両親を結核で亡くしたことなどを申告、丙種合格とされて兵役逃れに成功した[486]。その2か月前の3月4日には成人に伴い祖母の後見期間が終わり、一家の戸主として自分名義の財産を自由に使うことが可能になっていた[487]。こうして「時間」と「カネ」を手に入れた睦雄は、計画的な大量殺人を周到に準備して実行に移すことになる。事件の舞台となった貝尾集落は、偶然にも、1866年(慶応2年)に美作改政一揆の起きた旧行重村西分の隣にあり[488]、1873年(明治6年)に美作血税一揆の最中で発生した津川原虐殺の発生地とは、直線距離で5キロメートルほどしか離れていなかった[489]

昭和中期以後の衰退

戦時町村合併と小学校問題

昭和恐慌が最も深刻化した1931年(昭和6年)6月24日、岡山県は地方財政の悪化を背景に、市町村長会議を開いて合併に関する協議を指示し、加茂谷の5町村のうち加茂町(1924年-1942年)・西加茂村東加茂村の3つが合併協議に入った[490]。協議は各町村財産である町村有林の処遇などを理由に進まなかったが、第二次世界大戦下の1942年(昭和17年)5月27日、地方財源を縮小するという国策遂行義務を優先して3町村は合併して新たな加茂町(1942年-1950年)が成立した[491]。しかし戦後のGHQ施政下で、民意を無視した町村合併の是非が蒸し返されることになる。

戦後、GHQの指示した学制改革に基づき、加茂町(1942年-1950年)では既存の学校舎の割当変更と学区再編を学制改革委員会で協議・検討し、1948年(昭和23年)3月20日に同委員会が提出した案は町議会により全会一致で可決された[492]。割当変更・学区再編案では、旧加茂町(1924年-1942年)域の加茂小学校(当時は現津山市加茂町小中原にあった)の校舎を新制加茂中学校の校舎に割り当て、同小学校の児童は、いずれ加茂町全域の小学校を新規建設し1校に統合するまでの間、旧東加茂村の東加茂小学校(現津山市加茂町桑原にあった)及び旧西加茂村の西加茂小学校(現津山市加茂町中原にあった)の2校に分散通学させることになった[493]。しかし加茂地区の住民は、西加茂小学校区・東加茂小学校区にはいずれも被差別部落が存在することから、被差別部落児童との共学を意味する議決に猛反対し、加茂小学校の存続を強く主張した[494]。加茂小学区の保護者は1948年(昭和23年)4月の新年度以降も議決された分散通学に従わず、児童を新制中学校の生徒と一緒に加茂小学校舎へ通わせ続けたため、教室が不足して廊下や階段、小中原の加茂劇場や公会堂で授業を受ける事態となった[495]。加茂町長の池内弘之と町議会は加茂小学区の主張に同調し、町長は4月12日に議決書の「小学校新築」を「中学校新築」に変更する議案を町議会に提出した[496]

東加茂・西加茂両地区に属していた2つの被差別部落は、1873年(明治6年)の美作血税一揆の際、津川原とは違って一揆勢に屈服し「詫び状」を差し出して襲撃を免れたが[497]、その屈辱を忘れてはいなかった[498]。東加茂・西加茂両地区は部落差別を背景とする加茂地区の運動に反発し、新校舎建設が町民の負担増となることから、いかなる新校舎建設にも反対すると主張する運動を展開した[499]日本共産党加茂支部も校舎建設反対運動を支持した[500]。東加茂・西加茂両地区住民は1948年(昭和23年)8月21日に町議会に押しかけ、学校新築反対を唱える示威行動を行った[501]。このため、8月29日に再び町長が町議会に提出した中学校新築議案は、混乱を避けるため無期延期とされた[502]。しかし10月23日、町議会は小学校新築を中学校新築に修正したうえで3月20日議案を実行することを議決し、11月20日には中学校建設の予算を成立させて建設を急ぎ、財源の一部となる町有林売却の入札を告示した[503]。この動きに対し、東加茂・西加茂両地区住民を主体とする加茂町政刷新同盟は12月21日、中学校舎新築に反対する陳情書を県知事・軍政部に提出したうえ、町長・町議会に対するリコールを要求した[504]

明くる1949年(昭和24年)1月6日、岡山軍政部のヤスハウ軍曹と岡山県監理課長が加茂町を訪れ、二分された町民の調停を試みたが失敗、中学校建設の可否を住民投票にかけることになった[505]。2月24日の住民投票には有効票3074票(有権者の約68パーセント)が投票され、軍政部も勧告で指示した小学校2校・中学校建設中止が決定された[506]。池内弘之町長と町議会は1月にそれぞれ辞職・総辞職しており、新たに選ばれた町長と町議会は、3月21日の町議会定例会で住民投票に基づく学校運営方針変更議決案を可決させた[507]

町村分離と「大加茂町」

これに対し、加茂地区は小中原・塔中を中心に分町して対抗する動きを見せ、1949年(昭和24年)1月22日に町村分離請求を選挙管理委員会に提出した[508]。分離請求を求める署名は法定の3分の1以上をすぐに超え、2月9日に分離請求が成立、対象地区での投票数の過半数以上の賛成で分町が可能となった[509]。岡山軍政部のプラット中佐が3月17日に来町し、シャウプ勧告の主旨に基づき地方財政緊縮の観点から分離を選ぶべきでないとの声明を出したが、翌3月18日の分離請求住民投票では有効票1472票(有権者の82パーセント)のうち賛成1083票、反対415票、無効19票の圧倒的多数で分町が決定した[510]。町村統廃合には岡山県知事の認可を要するため、岡山県議会は1950年(昭和25年)に加茂町の町村分離に関する特別委員会を設置し、委員会は7月10日に分離賛成9票、反対6票で分離承認の方針が定まった[511]。続いて県議会本会議での審議、8月30日の投票で分離賛成30票、反対16票で分離が最終的に確定した[512]

こうして1951年(昭和26年)1月1日、加茂町(1942年-1950年)から旧加茂町(1924年-1942年)[元の加茂村]域が分離して苫田郡新加茂町となり、旧東加茂村・西加茂村の残留地域が加茂町のまま存続する形となった[513]。加茂町・新加茂町は同年3月に新町長と新町議会を選挙で選び、いずれも新たに町政をスタートさせたが、分町後も町役場庁舎を共用していたため混乱を招いた[514]。また、加茂町と新加茂町の間には、町有林の山林売却に関する訴訟問題や、分割が必要になった農協資産の配分問題など解決しがたい難問が山積した[515]。新加茂町は1950年(昭和25年)9月から12月までの新町準備期間に準備費37万円を費やしており、準備費は新町準備委員会有志が私費を投じて捻出したものだった[516]。しかし準備費は高額だったため、新加茂町は町民に準備費を町税の形で負担させようとしたが、この税徴収には法的根拠が一切なく、町民の反対運動もあって断念を余儀なくされた[517]

分町に伴い、東加茂小学校・西加茂小学校及び加茂中学校の経営は極めて困難を来したため、他ならぬ保護者たちから問題解決の声が高まっていった[518]。加茂町・新加茂町は1951年(昭和26年)4月に小学校組合を結成していたが、学校組合会議は1953年(昭和28年)1月に小学校3校を置く方針を決定し、加茂小学校を斎野谷(現津山市加茂町齋野谷)に復活させることにした[519]。分町の直接的要因だった小学校問題はこれで解決に向かったため、合併の機運は大いに高まった[520]

折しも、1953年(昭和28年)は昭和の大合併が都道府県で本格的に推進され始めた年で、岡山県は加茂町・新加茂町・上加茂村及び阿波村を統合して新町を作らせる方針で指導を行い[521]、4町村から5名ずつ委員を選任して町村合併研究会が結成された[522][523]。しかし林業が好調であった阿波村では合併に反対する声が大きく[524]、加茂町・新加茂町・上加茂村の3町村のみでの合併が実現、1954年(昭和29年)4月1日に「大加茂町」と呼ばれた新たな加茂町(1954年-2005年)が発足した[525][526]。岡山県はその後も「大加茂町」と阿波村との合併を強力に指導し、県担当者による説明会も開かれたが、村内は合併交渉をめぐり紛糾し混乱を来した[527]。阿波村民は合併を進める村長及び村議会のリコールを要求し、1956年(昭和31年)9月10日、有権者の過半数402名の署名を選挙管理委員会に提出したため、村長及び村議会は辞職・総辞職を選んだ[528]。新しく成立した村議会は加茂町との合併を断固拒否して自立を保つとする決議を行い、岡山県知事による合併勧告(1956年(昭和31年)12月25日)及び内閣総理大臣による合併勧告(1957年(昭和32年)12月14日)のいずれをも受け入れなかった[529]

谷の過疎化と衰退

第二次世界大戦後も、面積の9割を山林が占める加茂谷は相変わらず農業と林業を主産業とする経済構造のままであり[530]、また大規模な経済事業なども多くはなかった。敗戦直後の混乱期、岡山県でも食糧増産を目的に緊急開拓事業が推進され、中国山地では蒜山高原の大規模開拓が実施された[531]。阿波村にも旧軍人・引揚者で構成された黒岩高原開拓団が17~18家族で入植し、1946年(昭和21年)から1948年(昭和23年)まで2年ほど開拓を試みたが、寒冷な気候や穀類イモ類の栽培に不適な土壌が祟り、無残な失敗に終わった[532]。同じく終戦直後、実業家の木原豊治郎が加茂谷など岡山県北東部の山林を次々に購入し、鳥取県智頭町の米原家が手を引いていた[533]阿波村の阿波山870ヘクタール、加茂町の倉見五輪原500ヘクタール、西粟倉村の大茅500ヘクタールなどを保有して材木の伐採・造林の事業を始めた(木原造林株式会社)[534]

加茂谷は戦後日本の高度経済成長の恩恵に浴するところが少なく、1958年(昭和33年)を皮切りに急激な過疎化に直面した[535][536]。谷で最も児童数の多い加茂小学校は1958年(昭和33年)の442名を頂点に1965年(昭和40年)には189名に急減した[537]。1975年(昭和50年)、加茂小学校倉見分校を除く加茂町内4小学校を統合した加茂小学校が開校し[538]、分町騒動の原因となった諸小学校の児童は共に席を並べて学ぶことになった。旧上加茂村域と阿波村の組合立中学校だった矢筈中学校は1962年(昭和37年)、308名を頂点に1970年(昭和45年)には142名に急減した[539]。1971年(昭和46年)、矢筈中学校は加茂中学校に統合され、加茂町と阿波村を学区とする加茂町立加茂中学校が開校した[540]

加茂町(1954年-2005年)は1954年(昭和29年)の成立時に1万246人の人口を擁したが、1970年(昭和45年)には7293人に落ち込んだ[541]。阿波村も1955年(昭和30年)には人口1428人だったが、1970年(昭和45年)には978人と千人を割り込んだ[542]。農業も林業も、機械化と引き換えに慢性的な担い手不足に陥った[543][544]。谷の中心である小中原の市街地も、1963年(昭和38年)に加茂家畜市場が閉鎖された辺りから賑わいを失い、停滞を余儀なくされた[545][546]。加茂町と阿波村は2005年(平成17年)、勝田郡勝北町久米郡久米町とともに津山市の一部となり、津山市は鳥取県と境を接することになった[547]

引用・脚注

参考文献

外部リンク

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