上老袋
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河川
川越市の北東部で、荒川や入間川右岸側の沖積平野に位置する農業的土地利用の比重が高い区域。 東で上尾市大字平方、南で大字中老袋や大字石田本郷、西で芳野台や大字鴨田(飛地)、北で比企郡川島町大字出丸中郷や同大字曲師(飛地)と隣接する。南東端の境界線上に古川と称する廃河川がある。地内を入間川が緩やかな曲線を描くように流れ、背の高い右岸堤防が設けられている。埼玉県道157号川越狭山自転車道線が右岸堤防上を、埼玉県道339号平沼中老袋線が地内を縦断するように設けられた背割堤の上を通る。 地内は市街化調整区域で[4]、主に水田などの農地で、住宅は疎らで西側でやや纏まってみられる。 また、荒川や入間川の広大な河川敷が広がり、近郊緑地保全区域に指定されている[4]。
- 入間川
- 古川 - 入間川の旧流路のひとつ
歴史
もとは江戸期より存在した武蔵国比企郡川島領に属する上老袋村であった[5]。1693年(元禄6年)に検地が実施された際に老袋村より中老袋・下老袋村・川口村・鹿飼村・本宿村・戸崎村と共に分村したと云う[6]。分村後も7ヶ村は組合を結成して諸役を負担したと云う。 村高は『元禄郷帳』によると57石余、『天保郷帳』によると60石余であった[5]。化政期の戸数は30軒で、村の規模は東西17町、南北6町余であった。出丸中郷と中老袋のうちに飛地を領していた。1629年(寛永6年)に荒川(現、元荒川)が付替えられ(利根川東遷事業)、この辺り一帯は水害常襲地と化し、たびたび水害に見舞われた。
- はじめは川越藩領で1694年(元禄7年)より幕府領となる[5]。
- 1680年(延宝8年)[5]に入間川が松平伊豆守信輝によって直線的な流路に河川改修される[7]。水除堤はまだ設けられなかった。これにより上老袋村は入間川の右岸側に位置するようになる。元の流れは現在の古川と称する廃河川や古川排水路に沿っていた。
- 幕末の時点では比企郡に属し、木村飛騨守支配所が管轄する幕府領であった。
- 1868年(慶応4年)6月29日 - 旧幕府領が韮山県の管轄となる。
- 1871年(明治4年) 11月14日 - 廃藩置県後の第1次府県統合により、韮山県が廃止され、入間県の管轄となる[8]。
- 1873年(明治6年)6月15日 - 入間県が群馬県(第1期)と合併し、熊谷県の管轄となる。
- 1876年(明治9年)8月21日 - 第2次府県統合により、埼玉県の管轄となる。
- 1879年(明治12年)3月17日 - 郡区町村編制法により成立した比企郡に属す。郡役所は松山町に設置。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 上老袋村が鹿飼村、中老袋村、東本宿村、下老袋村と合併して植木村となり、植木村の大字上老袋となる。地内に植木村役場を設置[9]。現在の植木学校跡の碑がある場所[10]。
- 1890年(明治23年) - 荒川の水害により地内が水没する被害を受ける[5]。1898年(明治31年)も同様に被災した。
- 1896年(明治29年)4月1日 - 比企郡が改めて成立され、それに伴い植木村の所属郡が比企郡から入間郡に変更される。
- 1938年(昭和13年)5月1日 - 植木村北部の大字中老袋、大字上老袋、大字鹿飼が芳野村へ分割編入され、芳野村の大字となる。
- 時期不明(昭和17年頃) - 1910年(明治43年)8月に起きた明治43年の大水害を契機に、荒川の河川改修が(大正9年)より実施され、荒川や入間川の流路が現在の流路に変更され、広大な河川敷が整備された[11]。これにより地内の右岸堤防を挟んだ東半分が両河川の広大な河川区域となる。
- 1955年(昭和30年)4月1日 - 芳野村が川越市に編入され、川越市の大字となる。
小字
- 前通・蓮沼・台通上・台通下[12]