古賀輝希
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プロ入り前
小学校3年生の時に野球を始め、佐賀市立思斉中学校では軟式野球部に所属。
佐賀商業高校3年時に夏の甲子園に4番として出場したが[2]、1回戦で先発投手だった山田龍聖を擁する高岡商業高校に敗れた[3]。進学した日本経済大学では2年時に右肩を脱臼し[注 1]手術を経験するも、4年時に福岡六大学野球連盟でベストナインを受賞した[5]。プロ志望届を提出せず、万全な状態でプレーができないことから社会人の企業チームへは進めず[4][6]、大学コーチの紹介で[7]長野県のクラブチーム・千曲川硬式野球クラブでプレーすることとなった[5]。2023年・2024年に全日本クラブ野球選手権大会に出場した。2024年4月に行われた埼玉西武ライオンズ三軍との練習試合では、左中間への本塁打を打った[6]。クラブチームでのプレーの傍ら、工場に勤務していたが、野球に専念するために2024年6月に退社を決断している[4]。
2024年10月24日に開催されたドラフト会議にて、埼玉西武ライオンズから7位指名を受けた[8]。11月8日、契約金2000万円、年俸750万円で入団に合意した(金額は推定)[9]。背番号は59[10]。担当スカウトは鈴木敬洋[6]。クラブチームからのドラフト指名は2018年楽天育成2位指名の則本佳樹(山岸ロジスターズ出身)以来6年ぶり、支配下の指名では2014年日本ハム5位指名の瀬川隼郎(室蘭シャークス出身)以来10年ぶりであった。
西武時代
2025年は開幕を二軍で迎え、イースタン・リーグの開幕戦では8番・三塁でスタメン出場した。しかし打席数の半分以上が三振という内容で、4月5日を最後に三軍戦での出場が続き、さらに間もなく右脇腹を故障した[11]。9月27日の二軍戦で初の公式戦本塁打を記録するも[12][13]、最終的に二軍公式戦16試合の出場で打率.159、1本塁打、3打点の成績だった[14]。10月1日に球団から戦力外通告を受けた[13][14]が、同月6日から開催のみやざきフェニックス・リーグの参加メンバーに含まれた[15]。11月19日、球団と来季からの育成選手契約を結んだ[16]。背番号は119に変更となった[17]。成田晴風、シンクレア、ラマルが派遣されているジャパンウィンターリーグ2025に、12月6日より途中参加で派遣された[18][19]。
選手としての特徴・人物
内側からしっかりバットが出てくる、癖がなく綺麗なバットスイングが特徴で、スイング時の回転が速い左の中長距離バッター[6]。古賀自身、バッティングフォームを分析するほうだと語る[7]。
クラブチーム・千曲川時代は生コンクリート工場にフルタイムで勤務していた[7]。仕事の終わる17時から22時までを野球の練習に充て[4]、土日は1日中練習[4]か試合[7]、仕事の休憩時間や寝る前、試合に行く移動時間で打撃の分析をするという生活を送り[7]、インタビューに対し、「本当に休みもないですし、限界ギリギリでした」[7]「でも、自分の中で2年と決めていたので、なんとか頑張ることができました」[4]と振り返っている。野球の練習を夜遅くまで続けていたが、7時半の始業時間に遅刻したことは一度も無かった[4]。2年目に退社を決断した際は、職場からも「自分の夢なんだから頑張って欲しい」を背中を押してもらえ、仕事が休みの選手が練習に付き合ってもらえた[4]。
担当スカウトの鈴木は2023年冬に長野県で行われていた野球教室で、三塁を守る古賀を初めて見ると、2024年は古賀を見続けると決めた。鈴木が年明けに練習を見に行くと、古賀の綺麗なバットスイングを目にし、何度も視察を重ねるうちに、「彼ならプロで通用する」という感覚がどんどん大きくなっていったという[6]。
寡黙な性格で、まったく折れない心を持ち、担当スカウトの鈴木は「毛が生えているくらいの心臓」と表現している[6]。日刊スポーツの埼玉西武担当・金子真仁は「自己表現がそんなに得意でないタイプ」と見ている[11]。
詳細情報
背番号
- 59(2025年[10])
- 119(2026年 - )