吉川和多留
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2011年シーズン開幕前のセパンテストでYZR-M1を駆る吉川 | |||||||||||||||||||||||||
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1968年9月26日(57歳) 東京都 | ||||||||||||||||||||||||
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吉川 和多留(よしかわ わたる、英: Wataru Yoshikawa、1968年9月26日 - )は、東京都出身のオートバイレーサー。1994年と1999年の全日本ロードレース選手権スーパーバイククラスチャンピオン。現在はヤマハのロードレース世界選手権MotoGPクラス用マシン、YZR-M1の開発ライダーと全日本ロードレース選手権に参戦するヤマハ・ファクトリー・レーシングチームの監督を務める。またMotoGPのテレビ中継(日テレG+)に時折ゲスト解説者として出演している[1]。
YZR-M1の開発ライダー
1990年に国内A級SP750チャンピオンを獲得すると、国際A級に昇格し翌1991年から全日本ロードレース選手権TT-F1クラスにフル参戦を開始。当初から一貫してヤマハのマシンに乗り続け、TT-F1クラスがスーパーバイククラスに改編された1994年に未勝利ながら、コンスタントにポイントを積み重ねた事で、初のチャンピオンを獲得した。
1996年シーズンは全日本を離れてスーパーバイク世界選手権にフル参戦し、ヤマハ勢としてはコーリン・エドワーズに次ぐ2番手となるシリーズランキング9位の成績を残した。翌1997年より全日本に復帰し、1999年には2度目のシリーズチャンピオンに輝いた。
鈴鹿8時間耐久ロードレース(鈴鹿8耐)には1991年から2005年まで15年連続で出場を果たし、中冨伸一とペアを組みYZF-R1を駆った2003年にベストリザルトとなる2位表彰台を獲得した[2]。2015年からは、ワークスチームとして鈴鹿8耐に復帰した「YAMAHA FACTORY RACING TEAM」の監督を務め、同年から2018年にかけてチームを優勝に導いた。2025年ヤマハ発動機のレース活動70周年にあわせ参戦する「YAMAHA RACING TEAM」の監督に就任する。YAMAHA MOTORSPORTS MEDIA CONFERENCEを開催 ファクトリー体制となる「YAMAHA RACING TEAM」の鈴鹿8耐参戦を発表
現在はヤマハのロードレース世界選手権MotoGPクラス用マシン、YZR-M1の開発ライダーを務めており、同クラス初年度となった2002年シーズンの第13戦パシフィックGP(ツインリンクもてぎ)ではワイルドカード枠で実戦デビューし、12位で完走を果たした。
2010年シーズンには、第4戦イタリアGPで脛骨開放骨折の重傷を負い長期欠場することになったバレンティーノ・ロッシの代役として、フィアット・ヤマハチームより第7戦カタルーニャGPに出場し15位となる。なお当初3戦の出場予定であった[1][3][4]が、ロッシの回復が早まったため第7戦のみとなった。