呂臣
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元々は陳勝・呉広の乱で秦に蜂起した反乱指導者にして張楚の君主陳勝の涓人(近侍の雑用係)を務めていた。陳勝が御者の荘賈に裏切られて殺害されると、呂臣は将軍として新陽に赴き、青い頭巾を着用した蒼頭軍を組織した。
二世2年(紀元前208年)12月、秦軍を破って陳を奪還し、秦に寝返っていた荘賈を誅殺したが、秦の章邯に陳を攻められて劣勢となったため、陳から撤退した。その後、呂臣は英布の軍と合流し、秦軍を清波で撃破して再び陳を奪還した後、父の呂青と共に項梁の軍に合流した。
同年9月、項梁が章邯に敗れ戦死した。当時、呂臣は項羽・劉邦と共に陳留を攻撃中であったが、項梁の戦死の報を受けて兵士たちが動揺したため、諸将は軍を率いて東へ撤退し、呂臣は彭城の東に、項羽は彭城の西に、劉邦は碭に駐屯した。懐王(後の義帝)は秦軍の勢いを恐れ、呂臣と項羽の軍を自らの直轄とし、呂臣を司徒に、呂青は令尹に任命された。
高祖5年(紀元前202年)、楚漢戦争が項羽の死によって終結すると、呂臣は呂青と共に漢に帰順した。
高祖6年(紀元前201年)に父の呂青が新陽侯に封ぜられた。食邑1,000戸を領し、その功績は陳嬰と同等と評価された。
恵帝4年(紀元前191年)に呂青が亡くなると爵位を継ぎ、新陽侯となった。文帝6年(紀元前174年)に呂臣は逝去した。