森田駿哉
日本のプロ野球選手 (1997-)
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経歴
プロ入り前
富山県立富山商業高等学校では3年夏の第96回全国高等学校野球選手権大会にエースとして出場。日大鶴ヶ丘との初戦で完封勝利、小郷裕哉、海野隆司擁する関西との2回戦で1失点完投勝利を記録した[2][3]。日本文理との3回戦では飯塚悟史と投げ合ったが、自身の降板後にチームは逆転サヨナラ負けを喫した[4]。
2014年のBFA U18アジア選手権大会では日本代表に選出され、決勝の韓国戦に先発し、9回2失点(自責点0)の投球を見せたものの、惜しくも準優勝だった[5]。当時バッテリーを組んだ捕手の岸田行倫、内野手の岡本和真とは、後に巨人でチームメイトとなっている[6]。
高校卒業後は法政大学へ進学。1年春からリーグ戦に登板したが、その後左肘を痛め、2年冬に手術を受けて長期離脱した[7]。4年春から復帰したが、リーグ戦では大学通算で1勝に終わった。プロ志望届を提出したが、2018年のドラフト会議での指名はなかった[7]。
大学卒業後はHonda鈴鹿へ入社。
入社5年目の2023年7月に開催された第94回都市対抗野球大会ではトヨタ自動車の補強選手として出場し、前回大会で優勝したENEOSとの2回戦に先発登板して勝利投手となるなど、優勝に貢献した[8]。その後、同年10月26日に開催されたドラフト会議にて、読売ジャイアンツから2位指名を受け[9]、11月19日、契約金8500万円、年俸1500万円で入団に合意した[10]。背番号は47[10]。27歳を迎えるシーズンでのドラフト指名は、読売ジャイアンツの球団史上最年長となった[11]。
巨人時代

2024年は、春季キャンプで一軍スタートとなったが、2月13日に左肘炎症のため離脱[12]。4月23日に左肘関節鏡視下クリーニング術を受けた[13]。9月10日の二軍戦で公式戦初登板し、2回を3安打無失点4奪三振で初勝利を挙げた[14]。11月6日、150万円減となる推定年俸1350万円で契約を更改した[15]。
2025年は開幕から二軍で先発ローテーションを守り続けていた[16]。7月30日に初の一軍昇格を果たし、翌7月31日の中日ドラゴンズ戦(バンテリンドーム ナゴヤ)で延長10回裏に救援としてプロ初登板を果たすが、味方のエラーが絡み被安打0、自責点0(失点1)で敗戦投手となった。なお、2リーグ制以降の巨人で初登板投手がサヨナラ打を打たれて敗戦投手となるのは史上初である[17]。この時期のチームは、先発ローテーションの一角を担っていた井上温大が不振で[18]、西舘勇陽とフォスター・グリフィンがコンディション不良で相次いで登録抹消され[19][20]、深刻な先発投手不足に陥っていた背景もあり、8月6日の東京ヤクルトスワローズ戦(東京ドーム)にてプロ初先発が決定した[21]。結果、6回無失点、被安打2と好投し、プロ初勝利を記録した[22]。次の12日の中日戦は中5日で先発登板することとなったが[23]、7回無失点の好投で2勝目を記録した[24]。しかしその後の白星は9月3日のヤクルト戦(京セラドーム大阪)で3勝目を挙げた[25]のみにとどまり、9月18日のヤクルト戦ではサインミスを連発して3回4失点でノックアウトされ、試合後には監督の阿部慎之助から「あれでは捕手が何人いても死人が出る」と苦言を呈された[26]。翌日に登録抹消となり[27]、以降は一軍登板なくシーズンを終えた。最終的に9試合の登板で3勝4敗、防御率3.58という成績だった[28]。11月18日、150万円増の推定年俸1500万円で契約を更改した[29][30]。
選手としての特徴・人物
詳細情報
年度別投手成績
- 2025年度シーズン終了時
年度別守備成績
- 2025年度シーズン終了時
記録
- 初記録
- 投手記録
- 初登板:2025年7月31日、対中日ドラゴンズ16回戦(バンテリンドーム ナゴヤ)、10回裏に8番手で救援登板、0回2/3を1失点で敗戦投手[33]
- 初先発登板・初勝利・初先発勝利:2025年8月6日、対東京ヤクルトスワローズ15回戦(東京ドーム)、6回無失点[34]
- 初奪三振:同上、1回表に内山壮真から空振り三振[34]
- 初ホールド︰2026年7月20日、対広島東洋カープ9回戦(東京ドーム)、8回表一死に3番手で救援登板、0回2/3を無失点[35]
- 打撃記録
背番号
- 47(2024年[10] - )
代表歴
- 2014年 BFA U18アジア選手権大会 日本代表
- 2023年 アジア競技大会 日本代表
- 2026 アジア プロ野球チャンピオンシップ 日本代表