石塚裕惺
日本のプロ野球選手
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経歴
プロ入り前
幼稚園年長時からクラブチームの勝田ハニーズで野球を始め、八千代市立村上東小学校6年生時には千葉ロッテマリーンズジュニアに選出された[3]。八千代市立村上東中学校在学時は硬式野球のクラブチームである佐倉シニアでプレーし、全国大会に出場した[4]。
花咲徳栄高等学校に進学し、1年秋から三塁手のレギュラーに定着。2年春から遊撃手を務めた[5]。3年夏の第106回全国高等学校野球選手権大会に出場し、新潟産業大附との初戦で1安打を記録したが、試合は敗れた[6]。その後行われたBFA U-18アジア選手権大会の日本代表に選出され[7]、4番打者を務めた[8]。高校通算26本塁打[9]。2学年先輩に藤田大清、同級生に上原堆我がいる。
2024年10月24日、ドラフト会議にて、読売ジャイアンツと埼玉西武ライオンズから外れ1位指名を受け、抽選の結果、巨人が交渉権を獲得した[10]。11月17日、契約金8500万円、出来高2000万円、年俸1200万円で仮契約を結んだ(金額は推定)[11][12]。背番号は23[12]。担当スカウトは大場豊千[13]。
巨人時代
2025年、3月9日の二軍練習試合での打席でファウルを打った際に左手を痛めた[14]。3月11日に左有鈎骨鈎骨折と診断され[14]、3月13日に左手有鈎骨鈎骨切除術を受けた[15]。5月20日の東北楽天ゴールデンイーグルスとの二軍戦で公式戦デビューを果たした[16]。7月20日のフレッシュオールスターゲームに選出されていたが、左TFCC損傷により出場を辞退した[17]。その後、9月14日までに二軍戦で54試合に出場して打率.325、3本塁打、23打点、出塁率.425の成績を残し、同日に右脇腹痛で抹消された吉川尚輝に代わって一軍初昇格を果たした[18]。9月23日の広島東洋カープ戦では、通算4打席目となる打席で玉村昇悟からプロ初安打を放った[19]。シーズン終了後の11月からは荒巻悠、田村朋輝、代木大和とともにオーストラリア・ウインターリーグへ派遣され、アデレード・ジャイアンツに所属して約1か月半プレー[20][21]。21試合の出場で打率.327、3本塁打、25打点と活躍した。帰国後の12月23日に、30万円増の推定年俸1230万円で契約を更改した。また、翌年1月には坂本勇人の自主トレーニングに参加した[22][23]。
2026年は「結果が出なくても一軍経験を積ませてあげよう」という監督の阿部慎之助の意向で、オープン戦全16試合に出場。しかし打率.125、0本塁打と結果を残せず、開幕二軍スタートとなった[24]。二軍では15試合に出場し打率.298、3本塁打、10打点と結果を残していた。4月21日には遊撃手のレギュラーであった泉口友汰が練習中の打球直撃により救急搬送されたことに伴い、同日の二軍戦を急遽切り上げ、試合開始直前に一軍に合流。5回で代打で出場するも遊ゴロに倒れた[25]。翌22日にはプロ初の先発出場を果たし、プロ初打点も記録したものの、26日に下半身のコンディション不良を発症し、登録抹消となった[26]。2か月ほどリハビリを続け、6月24日に三軍戦で実戦復帰を果たした[27]。二軍に昇格後打率を.318まで上昇させると、吉川尚輝と門脇誠が故障離脱した背景もあり、7月22日に一軍再昇格を果たし、即先発出場。この試合こそ無安打に終わったものの[28][29]、以降の試合ではコンスタントに安打を記録し、三塁手として継続的に起用され始めた[30]。