カレンニー族の民族運動

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カレンニー民族進歩党(KNPP)の旗

カレンニー族の民族運動(カレンニーぞくのみんぞくうんどう)は、ミャンマー東部のカヤー州(旧称・カレンニー州)に居住するカヤー族およびカヤン族などのカレンニー諸民族が、民族自決権、高度な自治、あるいは分離独立を求めて展開してきた政治的・武装的運動の総称である。

カレンニーの運動は、ミャンマーの独立以前から存在する独自の国家理念に基づいており、自らをビルマ本体とは異なる法的地位を持つべき存在と定義している。1948年の軍事蜂起以来、半世紀以上にわたる武装闘争を経て、現在は政治的な自治政府の確立を目指している。運動の背景には、民族的なアイデンティティの防衛だけでなく、州内の天然資源(錫、タングステン、水力発電)の管理権を巡る中央政府との対立がある。

「カレンニー」とは、ビルマ語の「カインニー(赤カレン)」を植民地統治に携わったイギリス人が「カレンニー」と呼んだことが始まりで、ビルマ語起源の他称である。一方、カヤーとは、カヤー語で「人間」を意味する自称である。カヤーリープとも自称され「赤い人」という意味になる[1][2]

この際、「赤」という色は、民族衣装の色、または肌の色であるなどの諸説があるが定かではない。言語学上の分類においてもカレンニーとカヤーは同一の集団とされ、両者には自他称の違いしかない[1][2]

「カレンニー」という総称は少数民族としての政治的連帯と歴史的独立を示すために抵抗勢力(カレンニー民族進歩党 〈KNPP〉など)によって用いられる。一方、ミャンマー政府は、分離独立の政治目標と名称が結びつくことを避けるため、域内で最大多数を占める集団の名称である「カヤー」を採択し、1952年に州名をカレンニー州からカヤー州に変更した[1][2]

歴史

1917年のカレンニー諸州の地図

イギリス植民地時代の「カレンニー諸州」

19世紀以前のカレンニー族およびカレンニー州の歴史はよく分かっていないが、歴史上、ビルマ族の王朝の支配下に入ったことがないとされる[3][4]

1875年6月21日、コンバウン朝ミンドン王とイギリス総督との間で条約が締結され、「カレンニー諸州英語版」の独立が認められ、英領インド(ビルマ)に編入されることもなかった。この「独立」の具体的内容は不明であるが、後の民族運動における「独自の主権」という主張の強力な法的根拠となっている[3]

イギリス統治下で、カレンニー諸州は「辺境地域(Excluded areas)」に分類された。基本、辺境地位はイギリス植民地政府から無視されたが、カレンニー諸州は木材、錫、その他の天然資源が豊富な地域であり、1930年代までに州南部にあるマウチ英語版鉱山は、世界有数のタングステンの産地に成長した[3]

また、英植民地時代、カレンニー族の多くはバプティスト派またはカトリックのキリスト教に改宗し、第二次世界大戦中は、カチン族チン族カレン族といった他のキリスト教徒民族と同様、イギリス軍の第136部隊英語版の一員として日本軍と戦った[3]

1947年憲法とパンロン会議

戦後、カレンニー族の間でも独立の機運が高まり[注釈 1]、1946年9月11日、統一カレンニー独立国家評議会(United Karenni Independent States Council:UKISC)が結成され、カヤン族のビートゥレ(Bee Tu Re)が議長に就任した。UKISCは1947年2月に開催されたパンロン会議にも「既に独立しているので出席する必要がない」との立場から不参加を表明した。しかし、会議の終盤になってUKISCと対立するカレンニー族代表団が突如会場に現れ、ビルマ連邦への参加を承認する合意に署名した。これによりカレンニー州は、シャン州と同様に「10年後の連邦離脱権」を付与された状態でビルマ連邦の一部として組み込まれることとなった[5]

これに不満なビートゥレ一派は1947年半ばにカレンニー州の独立を宣言。しかし1948年8月9日、ビートゥレは連邦軍警察(UMP)の奇襲攻撃を受けて捕虜となり殺害され、怒った人々は、チェボジ(Kyebogyi)の首長(ツァオパー英語版)であるサオ・シュエ(Sao Shwe)に率いられて武装蜂起した。カレンニー州ではビートゥレが暗殺された8月9日を「カレンニー族抵抗の日」、サオ・シュエが決起した8月17日を「カレンニー軍の日」としている[6]

カレンニー族の反乱軍はカレン民族同盟(KNU)ともに戦っていたが、1951年、反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)政府はカレンニー州の名称をカヤー州に変更した。これはカレンニー族とカレン族[注釈 2]、そしてカレンニー州内のさまざまな民族の分断を図ったものと考えられ、カレンニー族の人々は憤慨した[7]

カレンニー民族進歩党(KNPP)の結成とフェデラルムーブメント

1957年、反乱軍のリーダー・サオ・シュエがマラリアで死去。彼の妻が後を継いだが三児の母親には荷が重く、代わりにトォプロという人物がリーダーとなり、1957年7月29日、カレンニー民族進歩党(KNPP)/カレンニー軍(KA)を結成し、マウチ南部の山中にあるクワチ(Kwachi)に本部を置いた[8][9]

議会制民主主義時代(1948 - 1962年)、政府は州都ロイコーとマウチ鉱山を支配下に置き、KNPPは主に農村部で活動していた。弱小勢力であったKNPPは他の武装勢力との同盟に活路を見出し、1956年にはKNU、モン人民戦線(MPF)、統一パオ民族主義者機構(UPNO)[注釈 3]、そしてカレンニー族の反乱軍によって結成された、初の少数民族武装勢力の同盟・民主諸民族統一戦線(DNUF)を引き継いだが、これは1958年にMPFとPNOが政府に投降したことにより消滅[10]。翌1959年には、ビルマ共産党(CPB)、カレン民族統一党(KNUP)[注釈 4]、チン民族前衛党(CNVP)、新モン州党(NMSP)と左派連合・民族民主統一戦線(NDUF)を結成した[注釈 5][11]

一方、シャン州とカレンニー州の「10年後の離脱権」の期限が迫った1950年代後半には、シャン州のツァオパー主導で1947年憲法体制を見直して中央政府と各地域の不平等の是正を求める運動(フェデラルムーブメント)が盛り上がり、カレンニー族の代表団も参加した。しかし、1962年に国軍総司令官ネ・ウィン軍事クーデターを敢行し、ビルマ連邦革命評議会が全権を掌握したことにより、運動は水泡に帰した[11]

カレンニー武装勢力の分裂

1963年にネ・ウィンが主催した和平交渉に、KNPPもNDUFの一員として参加したが、交渉は決裂した[11]。NDUFが成果を上げられなかったことで、その後、KNPPはビルマ族の武装勢力との共闘に慎重になり[12]、同盟関係にあったKNU、NMSPと異なり、1969年に元首相のウー・ヌが結成した議会制民主主義党(PDP)との同盟にも参加しなかった[13]

カヤン新領土党(KNLP)の旗

1964年6月には、ネ・ウィンの廃貨令に受け、カヤン族による武装組織・カヤン新領土党(KNLP)が結成された。KNPPとKNLPは共闘関係を結び、統一民族戦線(UNF)(1965年 - 1966年)、民族統一戦線(NUF)(1967年 - 1973年)といった同盟にともに参加した。これらの同盟はいずれも成果は上げられなかったが、1976年に結成され、ともに創設メンバーとなった民族民主戦線(NDF)は、ネ・ウィン時代にもっとも成功した少数民族武装勢力の同盟となった[10]

KNPPは、資源開発の利益が地元に還元されない現状を厳しく批判していた。とりわけ、かつて世界有数のタングステン産地であったマウチ鉱山の収益が地元住民にまったく及ばないことや、日本の戦後賠償により建設され1960年から稼働を開始したバルーチャン(ローピタ)水力発電所が、州内ではなくミャンマー中央部への送電に特化している事実は、住民の大きな不満の源泉となっていた[14][12]

KNPPは、こうした経済的な疎外感に苦しむ住民の不満を背景に、KNUと同様、泰緬国境における密貿易を主な収入源として、約1,000人規模の兵力を維持し、独自の「解放区」を維持した。しかし、資源の争奪やミャンマー軍(国軍)の圧力により、これ以上の勢力拡大は阻まれた。こうした厳しい現実を前に、KNPPはこの頃から、国家としての独立を追求する当初の強硬な姿勢を修正し、ミャンマー連邦内における自治権の獲得へと、その政治的目標を現実的な路線へ転換していった[12]

カレンニー民族人民解放戦線(KNPLF)の旗

しかし、1970年代に入ると、シャン族やカレン族などの武装勢力を襲ったCPBの軍事的圧力および共産主義イデオロギーの影響がカレンニー族にも波及した[15]。まず、KNLPが1976年にNDFを脱退し、左派のパオ族の武装組織・シャン州諸民族解放機構(SSNLO)およびCPBと同盟関係を築いた。1977年には、KNPPの左派勢力がカレンニー民族人民解放戦線(KNPLF)を結成した。両者の対立の原因はイデオロギーだけではなく、KNPPがカヤー族中心組織だったのに対し、KNPLFはカヤン族中心の組織で、民族対立の側面もあったと指摘されている[16]。1982年には両者の間で武力衝突も起きた。いずれにせよ、KNPLFの離脱はKNPPにとっては大打撃だった[15]

1990年代の停戦合意

国軍の四断作戦とカレンニー武装勢力の迷走

1988年9月18日、クーデターにより国家秩序回復評議会(SLORC)が樹立されると、8888民主化運動に参加した学生や若者たちはKNPP領土にも逃れてきた。KNPPは彼らを支援し、その領土内に全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)の事務所を設けた。しかし、相変わらずビルマ族の武装組織との共闘には慎重で、KNPPはNDFを拡張したビルマ民主同盟(DAB)にも、ビルマ連邦国民評議会(NCUB)にも参加しなかった[17]

しかし、1989年にCPBが崩壊し、残存勢力のワ州連合軍(UWSA)、ミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)、民族民主同盟軍(NDAA)、カチン新民主軍(NDA-K)がSLORCと停戦合意を締結すると、国軍が泰緬国境のKNU、KNPP、NMSPに対する軍事作戦に集中する環境が整った。国軍はこれらの地域で四断作戦(four cuts)[注釈 6]を展開し、カレンニー州でも多くの村が破壊され、2万人以上が難民となってタイへ逃れ、その2倍の数の人々が国内避難民となった。またこの時期、ロイコーアウンバン英語版間の鉄道工事に30万人以上のカレンニー族住民が駆り出され、亡くなったり、避難民となる事態が生じた。このような状況下、1991年にKNLPの分派であるカヤン民族守備隊(KNG)がSLORCと停戦合意を締結し、1994年にはCPBの支援を失ったKNPLFとKNLPもSLORCと停戦合意を締結した。各武装勢力の領土はそれぞれ、「カヤー州特別自治区(Kayah State Special Regions)1、2、3」に指定された[17]

1990年総選挙におけるカレンニー政党の健闘

一方、カレンニー各武装勢力が路線闘争で迷走する中、1990年に実施された総選挙では、カレンニー州内の8選挙区のうち2選挙区においてカヤー州全民族民主連盟英語版(KSANLD)が議席を獲得した。また、隣接するシャン州やカレン州でも、カヤン民族統一民主組織英語版(DOKNU)が2議席を確保するなど、少数民族地域における民主化勢力は一定の成果を収めた[17]

しかし、SLORCはこれらの選挙結果を完全に反故にし、両党とも活動停止処分を受けた。この圧政によって政治的な対話の道が閉ざされたことで、弾圧を逃れた民主化活動家の一部はKNPPの拠する山岳地帯へと身を投じ、武装闘争の道を選択した[17]

カレンニー民族進歩党(KNPP)の停戦合意破綻

ある意味で、私たちは戦争に疲れていました。だからこそ停戦に入ったのです。武器を放棄することを決めたことは、問題ではありません。それは…私たちの人々が非常に高い代償を払ってきたからです。何百人もの人々が命を落とし、何千人もの人々が障害を負いました。金銭面での国家の損失は甚大です。そして、この戦争のせいで、カレンニー州はいまだ発展していません。私たちは今こそ平和を実現し、人々を発展させ、私たちの土地を開発すべき時だと考えています。だからこそ停戦協定を結んだのですが、残念ながら、停戦は期待した成果をもたらさなかったのです…カレンニーの人々が武器を取ったのは、戦争が好きだからでも、平和に暮らしたくないからでもありません。彼らは自らの国家のアイデンティティと主権を守るために武器を取ったのです。しかし、ご存知のように、この戦争は約50年も続いており、誰も勝利を収めていません。ビルマ族もカレンニー族も、勝利を収めていません。長年にわたる戦闘と双方の数千人の命の喪失を経て、カレンニーの人々は、問題を解決する唯一の方法は政治対話しかないと信じています。カレンニー指導部は、政治対話は停戦を通じてのみ達成できると信じています。そのため、停戦後、カレンニー指導部は政治対話が続き、それはSLORCによって開始されるべきだと信じていました。だからこそ、カレンニー指導部はSLORCとの停戦を選択したのです。テディ・ブリ(Teddy Buri、元KNPP外務省事務次官)

しかし、KNPLFやKNLPが先行して国軍と停戦に至ったことで、住民の間で和平を求める圧力が高まり、1995年3月21日、ついにKNPPもSLORCとの停戦合意を締結した[18]

だが、この和平はわずか3ヶ月で崩壊した。KNPP側は、住民へのポーター徴用の停止や、支配地域への国軍進駐の禁止を含む「60項目の条件」を提示しており、SLORCもこれに同意したと理解していた。しかし国軍は直後から、道路建設などのためのポーター料徴収を再開し、数千人の住民を強制連行した。さらに、約束を反故にしてKNPPの支配地域に部隊を送り込んだ。1995年7月、戦闘が再開され、国軍による徹底的な掃討作戦である四断作戦が再開された。その結果、カヤー州全域で再び凄惨な戦闘が繰り広げられ、約2万人がタイ国境の難民キャンプへ、さらに数万人が国内避難民(IDP)となった。この時破壊された村々の多くは現在に至るまで再建されておらず、多くの住民が故郷への帰還を阻まれたままとなっている[18]

カレンニー武装勢力の分裂と停戦資本主義

また、KNPPは深刻な内部分裂にも見舞われた。こうした分裂の背景には、停戦の是非を巡る路線対立に加え、特定の地域における資源利権の配分といった複合的な要因が存在したとされる[18]

1995年の停戦決裂時には、和平継続を望む一部勢力がKNPPから離脱し、国軍の支援下でカレンニー民族民主党 (Karenni National Democratic Party:KNDP)として再編された。続く1999年には、カヨ族を主体とするグループが離脱してカレンニー民族平和発展党(Karenni National Peace and Development Party:KNPDP)を結成。さらに2002年には、パクー・カレン族を中心とした分派がカレンニー民族連帯機構(Karenni National Solidarity Organisation:KNSO)を結成した。こうした分裂は組織の弱体化を招いただけにとどまらず、勢力間の武力衝突へと発展した。2005年には、すでに国軍傘下に入っていたKNPLFが、国軍の支援を受けてKNPP本部を攻撃。数ヶ月に及ぶ戦闘により、兵士のみならず住民側にも多大な犠牲者が出た。このように、資源利権や民族内の多様性を背景とした離合集散を繰り返したことにより、カレンニー族の抵抗運動の核であったKNPPは、否応なしに弱体化の道を辿ることとなった[18]

1990年代後半から2000年代にかけて、州内では概ね戦闘が停止し、国軍によって住民がポーターに徴用されるなどの人権侵害は減少したと報告されている。一方、ローピタ水力発電所やマウチ鉱山の開発、大規模な森林伐採が進められたが、これらの経済活動による利益は、もっぱら中央政府や国軍、および停戦グループの幹部のみに渡り、地元住民には還元されていないとも指摘されている。さらに、野放図な伐採による森林破壊土地の強制収用、違法薬物生産の増加しているとも報じられた(cf. 停戦資本主義[18]

2009年から2010年にかけては、SPDCはすべての停戦グループに対し、国境警備隊(BGF)または民兵組織への編入を要求した。これに応じてカレンニー州からもKNPLFがBGFに編入し、他の小規模なKNLP、KNG、KNDP、KNPDP、KNSOは民兵組織に編入された。「停戦資本主義」の下で、利権供与を通じて政府・国軍の統制下に組み込まれていたこれらの組織にとって、もはやこの要求を拒絶する術は残されていなかった。これにより、カレンニー州における民族自治の理想は大きく後退し、KNPPのみが唯一カレンニー州で活動する民族武装組織となった[19]

2010年代の変容と和平プロセス

2012年の再停戦合意と全国停戦合意(NCA)への未署名

統一民族連邦評議会(UNFC)

2011年に成立したテインセイン政権の下、さまざまな分野で改革が推進されると、カレンニー州でも和平の機運が盛り上がってきた。同年、KNPPは連邦制樹立を目指す少数民族武装勢力の連合組織・統一民族連邦評議会(UNFC)の創設メンバーとなった[20]。2012年1月12日、盟友であったKNUが政府と停戦合意を締結したことを受け、KNPPも、同年3月7日に州都ロイコーにおいて政府側と「州レベル」の停戦合意を締結し、続いて同年6月9日には「連邦レベル」の合意を締結した。これにより、1948年の蜂起以来、カレンニー州において60年以上にわたって続いてきた紛争が、初めて公式に停止した。 しかし一方で、KNPPは依然として公的には非合法組織であり、その活動には制限が課せられていた[19]

また、2013年より、政府は全少数民族武装勢力を包含する包括的和平の枠組みとして「全国停戦合意(NCA)」を提唱し、2015年10月に主要8組織との間で締結を見た。一方、KNPPは、政府・国軍側による一部勢力の排除を問題視し、署名を拒否した。具体的には、TNLAやAAなどが和平交渉の対象外とされた点に加え、これら非署名勢力に対する国軍の軍事攻勢が停止されなかったことが、包括的な和平を損なうものとして批判の対象となった[19]

その後、2016年に発足した国民民主連盟(NLD)政権下でも、連邦和平会議 - 21世紀パンロンにおいてNCA署名に向けた交渉が継続されたが、両者の溝は埋まらず、結局、2018年2月にラフ民主同盟(LDU)と新モン州党(NMSP)が署名しただけに終わった。この間、UNFCからは離脱グループが相次ぎ、残ったKNPPは和平プロセスにおいて非常に孤立した立場に立たされた[21]。2019年には違法伐採した木材を輸送する国軍のトラックをKNPPの検問所が没収したことが原因で、国軍がKNPP兵士3人と一般市民1人を処刑する事件が発生し、緊張が走った[22]

選挙政治と民族政党の再編

2010年代は、カレンニーの人々が武装闘争と並行して「議会政治」を通じて自決権を模索した時代でもあった[23]

2010年総選挙においては、カレンニー系政党の登録が認められず、民族代表院・人民代表院・州議会のすべてを国軍系政党・連邦団結発展党(USDP)が独占し、カヤン族のカヤン民族党英語版(KNA)がシャン州の州議会で1議席とカヤン民族問題担当大臣の議席を獲得しただけに留まった[23]

2015年総選挙においては、KNAに加え、カヤー族、カヨー族、カヤン族の政治活動家たちによって結成された全民族民主党(All Nationalities Democracy Party:ANDP)と元NLD党員によって結成されたカヤー統一民主党(Kayah Unity Democracy Party:KUDP)も選挙に臨んだが、NLDがカレンニー州でも圧勝し、これらのカレンニー系政党は一議席も獲得できなかった。敗因として、政党が乱立したこと、知名度・資金面においてNLDに著しく劣っていたことなどが挙げられる[23]

しかし、NLD政権下で中央集権的な政策が続いたことで、住民の間に失望が広がった。その象徴的な出来事が、2018年から2019年にかけて発生したアウンサン将軍像の建立をめぐる抗議活動である。州都ロイコーの公園に、地元住民の反対を押し切る形でビルマ族の英雄である将軍の銅像が建てられたことは、「ビルマ化」の押し付けであるとして若者を中心とした大規模な反対運動を巻き起こし、警察隊との衝突に負傷者や逮捕者を出す事態となった。この騒動を通じて、NLDはカレンニーの歴史や自決権を軽視しているという認識が定着し、地元政党による結集を求める機運が一気に加速した[24]

こうした流れを受け、2017年にANDPとKUDPが合併して結成されたカヤー州民主党英語版(KySDP)にカレンニーの政治勢力が結集し[25]2020年総選挙においては、KySDPは民族代表院で3議席、人民代表院で2議席、州議会で3議席を獲得する健闘を見せた[26]

2021年クーデター以降の展開(カレンニー革命)

クンビードゥ

2021年ミャンマークーデターを契機として、運動は「カレンニー革命」と呼ばれる全面的な武装抵抗と独自統治の確立という新たな局面を迎えた[24]

同年4月9日、州内の少数民族武装勢力、2020年選挙で選出された議員、政党、市民組織、青年・女性組織などから構成されるカレンニー州諮問評議会(Karenni Srate Consultative Council:KSCC)が結成され、国民統一政府(NUG)と協力してカレンニー州政府を設立する方針を打ち出した[27][28]

5月31日には、傘下の武装勢力を統合してカレンニー諸民族防衛隊(KNDF)が結成された。KNDFの最高司令官はKA最高司令官・アウンミャッだが、実際に率いているのは元KNA党首・クンビードゥである[27]。KNDFは既存KNPPの軍事部門であるカレンニー軍(KA)から軍事訓練と戦略的指導を受け、協力して国軍に立ち向かっている[29]。また、国軍傘下のBGFであったKNPLFも2023年に抵抗勢力側に転じるなど、カレンニー諸勢力の一致団結が進んだ(cf. カレンニー民族人民解放戦線#近年の動向[30]

2023年6月6日、KSCCによりカレンニー州暫定執行評議会(IEC)が設立された。これはミャンマーの州レベルでは初となる「暫定政府」であり、独自の内閣の下で、行政、教育、保健、司法、警察などの行政サービスを運営している[31]

同年11月11日、カレンニー抵抗軍連合は1111作戦英語版を開始し、州内の国軍拠点の多くを制圧し、州面積の大部分を事実上の支配下に置くに至った。しかし、1027作戦敗北後の、いわゆる「10ヶ月のショック」(ISP-Myanmar)を経て、国軍は戦略的な立て直しを図り、2025年半ば以降再び攻勢に転じたことにより[32]、カレンニー抵抗軍連合も劣勢に立たされ、拠点を失い後退を余儀なくされている[33][34]

一方、長引く激しい地上戦と、国軍による無差別な空爆および重火器による攻撃により、カレンニー州はミャンマー国内で最も深刻な人道危機を抱える地域の一つとなっている。人口約30万人のうち、3分の2以上が国内避難民(IDP)となり、極限状態での生活を強いられていると報じられている[35]

カレンニー系武装勢力

カヤー州(カレンニー州)の主要武装勢力一覧[36]
組織名 略称 設立年 備考・変遷
カレンニー民族進歩党 KNPP 1957年 カレンニー族の主要武装組織。1995年に一時停戦するも決裂。2012年に再停戦合意。
カヤン新領土党 KNLP 1964年 カヤン族主体。1994年に軍事政権(SLORC)と停戦。
カレンニー民族人民解放戦線 KNPLF 1978年 KNPPの分派(共産主義派)。1994年停戦、2009年に国境警備隊 (BGF) へ編入。
カヤン民族守備隊 KNG 1992年 KNLPの分派。1992年に停戦。2009年に民兵へ編入。
カレンニー民族民主党 KNDP 1995年 KNPPの分派(通称:ドラゴン・グループ)。国軍の支援を受ける。2009年に民兵へ編入。
カレンニー民族平和発展党 KNPDP 1999年 KNPPの分派(カヨ族主体)。2009年に民兵へ編入。
カレンニー民族連帯機構 KNSO 2002年 KNPPの分派(パクー・カレン族主体)。2009年に民兵へ転換。
カレンニー諸民族防衛隊 KNDF 2021年 2021年クーデターを機に結成。クーデター後、もっとも勢力を拡大した武装組織の一つ。

脚注

参考文献

外部リンク

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