河童
日本に伝わる架空の妖怪
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名称
「かっぱ」は、「かわ(川)」に「わらは(童)」の変化形「わっぱ」が複合した「かわわっぱ」が変化したもの[6]。また柳田國男は『妖怪談義』において「川童」と表記している[7]。河太郎(かわたろう)とも言う[6]。
ほぼ日本全国で伝承され、その呼び名や形状も各地方によって異なる。地方名の数は80余に及ぶという[8]。『物類称呼』(1775年)に、越中(富山県)の「ガワラ」など地方名称がとりあげられている[9][10]。『本草綱目啓蒙』(1803年)も20ほどの地方名を列挙する[11]。
古くは東国では「かっぱ」[注 3]、西国(九州や畿内[9])では「かわたろう」や「がわたろう」と大まかに呼びわけたことが江戸期の資料にうかがえる[15][9][注 4][注 5]。
異称にカワロウ(
カワコ(川子)は、中国地方や瀬戸内海沿岸に及んで広域に用いられるが(例:岡山県笠岡市[28])、コウゴと発音されることも多い[29]。このカワコは、ラフカディオ・ハーンも地元の出雲の語として記載している( § 島根県参照)[30]。
柳田國男の生地(福崎町)ではガタロウ(河太郎)と呼んでいたが( § 福崎町の河童参照)、ほどちかい明石市ではカムロ、カワカムロと呼ぶと聞きかじっており、その裏付けを生涯探り続けていたと『故郷七十年』で語っている[18][31]。
土佐ではガタロウ、カダロウ[注 9][9]、カタロと昔から呼ばれていた[12]。
また、エンコウ(周防、土佐、伊予[12][32])、異形エンコ(伊予松山[12])(またいずれかの形は、出雲、石見、長門でも見られる[32][33])という猿のような異称も流通してきた。これらの地方では、現代に入っても猿似だと報告されることが多かったという[32]。ただし矛盾しているのが、河童と猿は仇敵だとされている点である[32][34]。
地方によって、「スイコ」という語が河童の別名で用いられてもおり、東北地方や九州地方など各地に見る事が出来る。青森県に見られる水虎様と呼ばれる水神信仰にも、「水虎」という言葉の転用例が見られる[35]。これは津軽弁でなまって「おしっこ様」と呼ばれるそうである[36]。江戸期では、「河童・川太郎」の漢語訳名に「水虎」を充てる書物が多々あることにについては、以下 § 水虎と漢訳参照。
北海道松前地方では(駒引きにちなんで)コマヒキとも呼ばれた[26][37]。
また、カワウソと呼ぶところもある(愛媛)[38]。
ガメ(越中 / 富山県)とも呼ばれ、亀によく似た形状と考える地方も多い[39]。さらには、ドチロベ・ガメ・ドチ / ドツチが、岐阜・富山・石川の三県では同一視され混用されている[40][41]。ドチロベ等は腹は赤く、尾がふさふさとした生き物であるが[42]、齢千年を経て河童に[41]、あるいはカーラボーズ(河原小僧)という(おおむね人型だが、猩々のような頭で体[も]赤く、頭に水を保つ鉢がある)妖怪に変ずるという[43][42]。美濃でも、カワランベ(河童)とドチは、似て非なるものと区別することもある[39]。ドチ系統の名称にドチガメ(北陸地方)[38]などがある( § 類種の「メドチ」参照)。
なお江戸期に河童を「水虎」と漢語訳的に表記したことについて、附録解説として § 水虎と漢訳参照。
類例
良く知られる河童の地方名称(または近似種名)に、九州南部(や佐賀県[44])のヒョウスベがあり[45]、東北地方北部のメドチがある[46]。このメドチほか(ミヅシ・シンツチ・ミンツチ・ドチ)などは、ミズチ(蛟、怪蛇、「水の主」)の系統の名前とみなされている[47][48]。 「ドチ」系統の呼称が美濃などにみられることは上述の通りである[39]。
ほかにも和歌山県のカシャンボ[49]、茨城県のネネコ(禰々子)が河童の一種とされる[50][注 10][注 11]。
セコは、河童が冬の季節に山にこもるとそれになりかわるという九州に伝わる存在である( § 冬に山入り参照)。奄美諸島のケンムン(ケンモン)も[52]同系で、『南島雑話』の図の添え文には、「カワタロ」(川太郎)・「山ワロ」の類であるという付記がある[注 12][55]。
形態
現在一般的な河童のイメージは、体格は子供のようで[3][注 13]、全身は緑色系統で[59][注 15]、ぬめっている( § 体臭・粘質)[57]。頭頂部に皿があり[59][64][3](皿は円形の平滑な無毛部だが)、それ以外は長い頭髪を垂らしている[64][注 16]。
口は嘴のようにすぼまっており、背中には亀のような甲羅を背負っいて[64][59][3]、カメ・スッポン型の要素を踏襲するが、19世紀中葉以降、カエル似で滑稽な要素が強くなっている[59]。手足には水掻きがあるとする場合が多い[64][3]。
上述のように、河童のことをエンコウ・エンコと呼びならわしてきた中国地方や四国地方では、現代においても猿の形態と伝えるままの名残が残る[32]。 § 冬に山入りで取り上げるセコ系統も、川ワロから山ワロになるとされるわけで、多毛の分類に入るであろう。しかし、一般論をいえば、河童と言えば主にスッポン・カエルを想起させるイメージが主流、猿型は亜流と現在ではなってしまっている[65][66]。
頭の皿
頭の皿は、いつも水で濡れており、皿が乾いたり割れたりすると力を失う[67]、または死ぬとされる。
頭の皿については、すでに寺島良安『和漢三才図会』(1712年刊)[15]や越谷吾山『物類称呼』(安永4 / 1775年)に見られ、前者は漢文だが体格“十歳ばかりの小児”のそれだとしており、頭の皿が弱点であることも[注 17]、既にこの頃までには成立していたことがうかがえる[注 18]、後者には“其かたち、四、五歳ばかりの[童](わらは)のごとく、[頭](かしら)の毛赤うして、頂(いただき)に凹(くぼ)なる皿有り。水を[貯](たくは)ふる時は力はなはだつよし。性相撲を好み..”と、皿の水が力の源である旨も記述される[9][11]。
また、頭の皿の水を翻せば、河童を弱体化させて捕まえやすくなるという戦術も、すでに『老媼茶話』(寛保2 / 1742年)にみえる[68]。
体臭・粘質
体臭は生臭いとされ[注 19]、皮膚はぬめっているともいう[57]。
すでに江戸時代の文献にも、"腥(なまぐさ)臭が鼻に満ち、脇差で刺そうとしても中(あた)らず"、また体がぬめり("涎滑")で覆われて捕らえるのは困難である、と『大和本草』にみえる[69]。刀剣で斬っても傷を負わせられないが、削った麻殻(おがら)で刺すと貫通すると『和訓栞』に記載される[70]。
繋がった腕
両腕は体内で繋がっており、片方の腕を引っ張るともう片方の腕が縮み、そのまま抜けてしまうこともあるとされる[注 20][71][57]、これは、中国の伝承でテナガザルについての説明が混入したものだろうと考察される[71][72][注 21]。
現在のサル型
上述したように、猿型の河童を現代に至っても伝承している地域が中国・四国地方にみられ、エンコウという地方名が使われる[32]。エンコウという幻獣は、おそらく猿をベースに川棲の性質が加わった伝承と思われるが、九州の河童(ヒョウスボか川ワロか、呼称が地方で分かれる)も、季節が変ればその正体は山ワロであるという伝承( § 冬に山入りに詳述)と共通する点がある[73][32]。
行動
川や沼[3]、池[74]の中に住み、泳ぎが得意。海に住むと伝わるものもある[注 22][注 23][注 24]。
江戸時代にはとくに、水辺を通りかかったり泳いだりしている人を水中に引き込み溺死させたりする悪評が強かった[80]。たとえ河童が引きずり込みに力負けしても、絡まれた人間は精神疾患となるといわれた[80][注 25]。
いまでは河童にまつわる民話や伝承には、悪戯好きだが懲らしめられるパターン[62]( § 牛馬引きや厠で尻なでをして手を斬られたり[81]、捕まったりする型)が多い。許される見返りに、いわゆる「河童の妙薬」の製法を教えたり[62][81]、詫びをいれたり[82]詫び状を差し出す[62]、または魚を献上する[83]、仕事を手伝うなどをおこなって人間に報いたりつくしたりする説話が数々存在する(以下、 § 恩返しで取り上げる)。
改悛を示した河童が失った手の返還を求める型が定番だが[84]、斬り落とされた手などと称した「ミイラ」も各地に存在する[85]( § 河童のミイラ参照)[注 26]。
恩返し
特効薬

河童が武士に片腕を切り落とされ、刀傷に効く妙薬も献上したとされる話などとして伝わる[62][87][88]。
旧家が家伝の妙薬と称する代物は(例:徳島県阿南市富岡町の賀島氏伝来の「即功散」をはじめ)[注 28]全国にみつかり[94]、河童直伝だという医療薬法の例もまたしかりである[95]。
古くは春名忠成『西播怪談実記』(宝暦4 / 1754年)に「河虎骨継の妙薬を伝へし事」の記述があり、それによれば播磨国佐用郡で
詫び状
捕まって許された代わりに、馬に悪さしないなどと約束する話も全国各地にみられ[102]、多くは詫び状を差し出す話だが、悪戯な河童が武士に腕を斬り落とされ、詫び状(証文[103])を差し入れる話型だが[62]、その詫び状だと称する遺物も家宝や寺宝とするの例として至るところにみつかる[94][62]。
魚
また、悪さをした河童を許すと河童が魚を取って恩返しする伝説は、 § 福岡県[注 33]、 § 山形県[注 34]、 § 福井県[注 35]、岐阜県飛騨地方[注 36]などに見られる。愛媛県明浜町(現・西予市[注 37])にまつわる河童 / エンコの報恩譚でも鯛を届ける(「かっぱの狛犬」参照)[108]。
労役
相撲

相撲については、すでに「角力」[注 41]が好きだと『大和本草』[69]にあるが、これは「人と相抱きて力を角(くら)ぶ」と読み下すべきとされ[113]、力比べと解される[79]。のちの『和漢三才図会』に「相撲」好き、と書かれている[15][58]。
河童は力が強いが、仏前に供えた飯を食べた後に闘えば負けないとも言われる[注 42]。また相撲をとる前にお辞儀をすると河童もお辞儀を返し、それにより頭の皿の水がこぼれてしまうため、力が出せなくなるともいう[115][116]。河童が相撲を好むのは、相撲が元々、水神に奉納する行事だったためとも言われる[117][注 43]。
好物
キュウリが大好物というのが今では定番だが[118]、すでに『和漢三才図会』(1712年)にも川太郎が"瓜・茄・圃穀(ウリ、ナス、畑の穀物)を盗む"とあり[15][58]、『本草綱目釈義』に「黄瓜(キュウリ)と西条柿を好む」と書かれる[12]。キュウリを好むのは、河童が水神の零落した姿であり[119]、キュウリは初物の野菜として水神信仰の供え物に欠かせなかったことに由来するといわれる[120]。いまでも6月1日や15日に、神棚や洞に祀った河童に初物のキュウリをお供えしてからでないと人間が口にしてはならないという風習があり、古風に「水神さまへ」の供物とする地域もある[121]。
また、瓢(ひさご、ひょうたん)は、古来より水の神と関りが深く、相撲節会で奉納する試合でも片方の力士は瓢箪の花を挿すことになっていて相撲とも関連する。そして同じウリ科のキュウリは、瓢を小さくしたものにやや似ており、その断面が、神紋であるとか、祇園守りの紋所だという地域がある(折口信夫の考察)[122]。その一方では、キュウリの切り口が「五瓜に唐花紋」という牛頭天王の家紋に似ているため、逆に河童に恐れられて、河童除けになる、と福岡県柳川市では言い伝えられているという[72]。
江戸でも迷信深い者は、キュウリを買って川に流し、河童の機嫌をとって溺水や川での遭難事故を除けようとした[123]。あるいはキュウリに家族の名前を書いて流し、子供らが尻子玉を奪われないように祈願した[124]。
尻子玉

また、尻子玉 / 尻小玉(しりこだま)を抜くというイメージも現在では定番である[64]。尻子玉とは人間の肛門内にあると想像された架空の臓器で[注 44]、尻子玉を抜かれた人は「ふぬけ」抜け(ふぬけ)になるとも[125]、その人は死ぬともいわれる[126]。河童は、人間から尻子玉を抜きとっては、好物として食うとも[72]、あるいは肝をとって食うともいわれる[127]。
『夭怪着到牒』(北尾政美画、天明8 / 1788年刊)には、「河太郎尻子玉を抜く」の図があり(右図参照)、添え文では人間を川中に引きずり込み、腸(はらわた)を食らうが、その被害者は浮かばれずに亡霊になって漂い、共食いをするのだという[128][129]。
また、『北斎漫画』(第12編[130])に「河童を鉤(つ)ルの法」と題して、男がブランコのようなものに乗り、尻を突き出して誘い、魅了された河童が水からはい出る構図がある[131]。
水死体が見つかると、括約筋が弛緩して、まるで尻から玉を取り出したようにバックリ空いているので、それを河童の仕業としてそういった伝承が作られたと考えられる[132][133][134]。これに似た考察を南方熊楠もしている[47][注 45]。
牛馬引き
牛馬を水に引き込むといわれる[3][135]。馬を水中にひきずりこむ説話は、各地にあり、東北(岩代、陸中)、関東(常陸、武蔵、相模)、中部地方(駿河、三河、甲斐、信濃、飛騨、美濃、能登、越後)、山城(京都府)・播磨(兵庫県)、中国地方(出雲、長門)、四国(阿波、土佐)、肥前等、ほぼ全土にいきわたるという[136]。
『和漢三才図会』にも、既に、例の伸縮自在の腕をあやつり、牛馬を水に引き入れ、尻から血をことごとく吸ってしまう、という伝承が記載される[13][58]。
弱点
鉄、鹿の角を嫌うとされる[137][138]。『和訓栞』(江戸時代 - 明治)には、鹿角やささげ豆を嫌うという。また刃物がだめでも麻幹(おがら)で突き刺せるともいうが[70]、麻幹は家に立てかけるだけで近江では河童を遠ざけるのに効果的と伝わる(滋賀県 § )。
冬に山入り
河童が季節に応じて山と川を往復する[140]、すなわち晩秋・冬になると山に籠り、晩春・初夏になると川にくだってくるという伝承は各地にある[141]。山に入ると、セコ / セココ、セコンボ、カルコ、カリ / カリル、コボなどと名称が変わる[142]。
セコの名称は、大分・熊本・宮崎・長崎県にみられるが[142][143]、セコ、セココ、は勢子のような大声出すから付いた名称という[144]。また、九州で河童のことをヒョウスボと呼びならわす地方では、山に入るとヤマワロとなる、といわれる[73]。山童(やまわろ)が春になると大挙して人里の屋根伝いに川に降りてきて、ガラッパになるとも伝えられる(熊本県)[142]。
奈良県吉野郡ではガンタロ(河童)が山に入ってヤマタロと化すという[142]。和歌山県では、ケシャンボになる[145][注 46]。
図像学
大別
河童について著述された『水虎考略』(1820年)や、『水虎十二品之図』によれば、甲羅をもつタイプは毛が生えておらず(以下、 § 亀人形態参照)、全身が毛におおわれた者には甲羅はない( § 類人猿携帯参照)とされ、二系統が存在するという[146][注 47]。
京極夏彦らの『妖怪画本・狂歌百物語』(2008年)では、江戸時代には統一像が定まっておらず、“大別して三種類の姿形”があったとし、「猿・人形タイプ」、「水虎タイプ」、「スッポン・亀タイプ」と、ひとつ増やした項目をもうけている[57][注 48]。
「猿・人形タイプ」は、濃い体毛に覆われる様が、猿似ともカワウソ似[注 49]ともされ、初期のヤマネコ似のタイプ( § 山猫型伝説参照)もこの大分類にふくまれる。頭髪はザンバラ髪である[57]。
“口先を尖らせた容貌で、背中に甲羅を背負う姿”なのが「スッポン・亀タイプ」とされる[57][131]。
「水虎タイプ」は、体は毛が無く、全身がウロコで覆われた形態である[57][注 50]。
いずれが主流となったかは、時代の流れとともに遷移したが、これについては、図像のある文献の考察も交えて § 時系列に後述するが、小澤論文ではスッポン・カメ型のみならず、カエルの形態が強く出ている作品の台頭や定着に注視している[148]。
時系列


18世紀以前の本草学・博物学書上における河童のイメージは、主に猿型[149](哺乳類型)で、両生類的ではなかった[150]。例えば、『下学集』(文安元年 / 1444年序、後に重版)には「獺(カワウソ)老いて河童(カワロウ)に成る」とあり[10]、『日葡辞書』(1603年刊)の「カワラゥ」の項では、川に棲む猿 (bugio) 似た獣と釈義される[注 51]。『和漢三才図会』「かわたろう」の項や[15][149]、平瀬徹斎『日本山海名物図会』(長谷川光信画、宝暦4 / 1754年刊)の相撲を取る図でも猿似である[149]。
『和漢三才図会』(1712年刊)の「川太郎(かわたろう)」は、毛でおおわれた猿似の河童の挿絵を伴っている(左図参照)[131]。また『西播怪談実記』(1754年)で腕を斬られた「河虎」河童( § 特効薬、および付属図を参照)も、いわゆる猿型で、全身が毛におおわれた描写になっている[97]。頭に窪みがあり、頭の皿のような描写も現れている[97]。
一方、山がなく猿に馴染みのない江戸の人々のあいだでは[66]、18世紀半ばをはじめに、カエルやスッポンに似せた両生類的な江戸型の河童の図像が確立しつつあった[153][66][131]。
カエル・スッポン型の早期例としては[154]、江戸・目黒に宝暦12 / 1762年年出没したという河童の記事が、後藤梨春『随観写真』(宝暦7年序、宝暦13年頃増補)に、河童の立ち姿の図入りで取り上げられている。これは平賀源内の戯作『根南志具佐』(宝暦13年刊)で立ちはだかる河童図(左図参照)との近似性が、吉田宰(つかさ)に指摘される。年代の前後関係は推定だが、おそらく梨春から源内が借用したものであろうとされる。二人は本草学の同門で、交流も深かった[155]。

いささか後年になるが、カエル・スッポン型の代表例としては鳥山石燕『画図百鬼夜行』(安永7 / 1778年)の「河童」図が挙げられる(右図参照)[156]。この絵は、(細かい点々や縞もようなどの筆づかいが)「水虎」のごとく鱗でおおわれた肌に(縞)模様がある、と解釈されており[注 52]、ぶよぶよな質感も表現しているという[156]。上述の『夭怪着到牒』(1788年刊)の河童も、(同じく細かい点々の筆づかいであるが)こちらは、カエルかカメのまだら模様と解釈されているのが、小澤葉菜の論文に見られる[158]。
19世紀初頭になると、『河童聞合』(1805年)という、豊後国日田藩代官[注 53]が、儒学者の広瀬三郎右衛門桃秋(1751–1834年)[注 54]に命じ、近辺界隈での体験談を、題名通り目撃者から取材させて記録した文献が現れた[159]。豊前国・筑後国からは、計6件の体験談(うち4件は相撲を取らされた話)をまとめている[160]。また、原画は現存しないが、彩色が加えられていたことが分かっている[注 55]。
その後に現れた古賀侗庵編『水虎考略』(文政3 / 1820年; 天保7 / 1836年写)[注 56][注 57]という「河童」に関する口碑資料集成は12点ものであるが、うち6点は日田藩資料の文言の丸写しであり、よってそれらに対応する6点の彩色図は、遺失した『河童聞合』の原画の模写にほかならない[164][165]。また、こちらの6点は、頭の皿にザンバラ髪の、いわゆる「猿人型」河童である、と考察される(まわしを[166]つけた個体の絵の対面にある、水かきのついた片足図も含めば7点の絵である[166][注 58])。『水虎考略』の残り半分である6点の絵は、いずれも「スッポン型」であるとされる[167]。
そしてその後、河童の図解の転機となったのが、本草学者・栗本丹洲(1834年没)の『千蟲譜』(文化8 / 1811年序)の河童の絵で、口のすぼまったタイプの河童は、自然界のスッポンを見本にしたものと考えらる[168]。丹洲による著書には『水虎考』(成立年不明、天保14 / 1843年写)も存在する[169][170]。
その後に現れた『水虎十弐品之図』についても、いかにもスッポン似の妖怪図が含まれるといわれる[171][注 59]。『水虎十弐品之図』は、坂本浩然著・坂本純沢画の一枚刷りであるが[173][146][174]、これも他の資料で増補して変更などが加わっているが、12点ものの『水虎考略』やその初写本系統の流れをくんだ派生・踏襲の作品だとみなされている[175]。
いわゆる「スッポン・亀タイプ」は、だんだん猿型のイメージを圧倒して、淘汰していった[131][66]。

葛飾北斎『北斎漫画』(第3編[177]、右図参照[72])に単体で絵が描かれた体育座りポーズの河童は[178][179]、亀のような口ばしや甲羅を持っている反面[131]、(亀類らしからず)体は綿密に描かれた鱗で覆われているが[180]、おおむねスッポン型とみられる。ただしこれは、海棲のものだとされる[72]。
『北斎漫画』第12編「河童を鉤(つ)ルの法」にも描かれるが[130]、こちらははっきりとスッポンをモデルとした河童の図である[131]。
また、門下生の葛飾北雅に『河童図』と題して胡瓜に乗った河童の絵があるが、口がすぼまった形態の河童である。腰には蓑を巻いている[注 60]。


19世紀中葉には、カエルの特徴がより強く出た作品が登場しはじめる。三代歌川豊国『大日本六十余州之内・上総 白藤源太』(天保14 / 1843–弘化4 / 1847年)は、鋭い爪や甲羅がカメ似だが、口元やまだら模様はカエルを髣髴される。そして同期の歌川国芳『本朝剣道略伝・毛谷村の六助』(天保14 / 1843–弘化4 / 1847年)では甲羅すらなく、カエルの要素が強く出る(左図、および上図参照)[182]。
さらには“滑稽で愛嬌のある”イメージのカエル色が強い河童が、浮世絵師などによって形成された。その好例に、月岡芳年の『東京開化狂画名所・深川木場川童臭気に辟易』(明治14 / 1881年、右図参照)があげられる[183]。
スッポン型から推移して、この滑稽なカエル型(甲羅の有無はあるが)が、現在まで至ってイメージとして固定化している[184]。
日本画家の小川芋銭(1868-1938年)は、河童を好み多数の河童の絵を残したことから「河童の芋銭」として知られている。晩年には画集『河童百図(1938年)』を出版しており[185]、いきいきとした河童像を作り上げた[183]。
江戸期からのユーモア性をおびた河童は、のちの時代にも踏襲されている[183]。昭和期、清水崑の連載漫画、『かっぱ川太郎』(『小学生朝日』、1951-1952年)や『かっぱ天国』(『週刊朝日』、1953–1958年)などを通して[183]可愛らしいながらに滑稽なイメージの河童が大衆に浸透した[131]。
各地の伝承
河童に関連する有形の遺物としては、各地に河童神社(宮崎県磯良神社[186])、河童塚(宮崎県・徳泉寺[187])がある( § 寺社も参照)。
九州地方
九州には
筑後国(福岡県)の筑後川付近には、「河童族同士の戦争」の伝説や、「河童と地元民とのもめごと」、「河童にちなんだ地名」など比較的年代が明確ではっきりした記録が数多く残っている。
河童が大挙してやってきたという熊本県の伝承については、上の § 冬に山入りも参照。
福岡県
山口県では壇ノ浦の戦いに敗れた平家の男性どもはヘイケガニになったと伝わるが、女性たちは、福岡に落ち延びて河童になったともいわれる。そのひとりが海御前(「尼御前」、史実上の按察使局伊勢)である[193]。
この平家勢の千代尼御前が生き延びたと『筑後楽由来』や『水天宮縁起』ら文献に説明されており、久留米市瀬下町の尼御前社に祀られ、これが水天宮の起源で、巨勢川(巨瀬川)の水神の妻などともいわれるが、『音楽縁起』という文献によれば、緒方惟義に敗れた平家が巨勢川の河伯になったとされており、河童伝説との関りが探求される[194][195]。
『筑後楽由来』というのは、落ちのびた平家の残党が亡霊の河童となったのを鎮魂する「筑後楽」、通称「河童楽」[196][注 61]の縁起を語ったもので、楽の発祥地が筑後の千代中村だとしている[197]。ただ筑後(福岡県内)では久留米市の北野天満宮などでも催されるものの、じっさいはむしろ豊前・豊後地方でおこなわれる( § 大分県「宮園楽」等参照)[198][199]。寺社縁起の類の文献のなかに「平家河伯変身祭文」がみつかり、平家が河伯(河童)に変じたという伝承がうかがえる[199]。
久留米市の水天宮では毎年8月には、水の祭典という祭りが行われる。少なくとも昔には筑後では河童の事を水天宮[25](スイテングウ[3])と称したとされるが、だんだん水天宮をより上位の水神とし、河童はその眷族とされるようになった[200]。ある説話では河童が水天宮の神をおそれて犬鳴川に流れ着いた話があり[注 62]、水に近寄るとき「水天宮の申し子」だと唱えると、河童にひきずりこまれないという[202]。
うきは市吉井町(旧吉井町)の高橋神社は[注 63]、巨瀬川のほとりにあり、昔から毎年9月には“かっぱ相撲”が行われる[206][203][注 64]。
筑前国の伝承では、1783年(天明3年)、百道(福岡市早良区)に藩士屋敷が建てられたが、藩士が釣った魚を盗まれることがあった。藩士の息子である12、13歳の少年3人が見張っていたところ、「7、8歳位の色の黒い小僧」が魚の籠持ち去ろうとしたため少年たちが飛びかかったが、その正体は河童で3人がかりでも敵わず、皿の水をこぼしてようやく捕らえることができた。迎えに来た親の河童が嘆願し、「今後80年間百道の海岸で溺死者が出ないようにする」という証文を千眼寺(早良区藤崎に現存する)に預けた。それ以降、年に数人の溺死者が発生していた百道海岸では、80年間水難事故が無かったという[77]。
地行(福岡市中央区)には、酒を飲んだ河童が月の出た青天の夜に松の木に寄りかかって寝ていたという伝承が残る。ある夏の日、嘉兵衛という舟子の男が酒を飲みながら船を出して釣りをしていたところ、河童が酒を欲しがったので追い払ってしまった。しかし寝ている間に河童に船を乗っ取られ酒を飲み干されたので怒ったところ、河童は不漁の時にも魚を持ってくるので許しを乞うた。嘉兵衛はそのまま許したため、それ以来、嘉兵衛が不漁の時には河童が魚を船に投げ込んできたという。河童が寝ていたという松は、近代まで樋井川河口に残っていた[78]。
大分県

豊前国肥田(現・大分県日田市)で捕らえられたという河童の彩色画が川崎市市民ミュージアム蔵のコレクションにある(右図参照)[207]。大阪の絵師、春林斎豊住が1805年に写したという『河童真図』(明石市立文化博物館蔵[31])によれば、寛永三年に捕獲された[208]。模写図が『水虎十二品之図』にもあるが、小説家の原田種夫にその品質を酷評されている[注 59]。
前述したように、「河童楽」はこちらの大分県でさかんに行われるが[198]、『筑後楽由来』[注 65]によれば、楽の発祥地は筑後の千代の中村であったと認めるので、「筑後楽」などとも呼ばれることがある[197]。確証はないが、楽が起こったのは貞享3年(1686年)とする[注 66][209]。
中津市耶馬溪町に鎮座する雲八幡宮では、古くから「河童楽」といい(通称:河童まつり)、大団扇での河童封じの神事が行われている[206]。笛、かね、太鼓の楽を奏し、平家の落ち人の亡霊である河童の役を四人の子供がつとめ、青年四人が唐団扇(とううちわ)で仰ぐことにより荒ぶる河童の霊魂を鎮めるというもの[211][198]。
流派があり、雲八幡宮は「宮園楽(みやぞのがく)」、同・耶馬溪町大久保の伊勢山大神宮は「樋山路楽」、山国町の亀岡八幡神社では「白地楽」[199]、玖珠町の亀都起神社では「山田楽」(現在休止)など[212]。
長崎県
壱岐で採集した説話では、河童女が、豪家の夫のもとを去り行き、井戸に飛び込んで海に逃げて行くが、井戸底には椀が沈んでいたという話がある。このような名残を残していったのは、信田妻(で和歌を屏風に残していった事)にも似る、と折口信夫が考察する[213]。
同じ長崎県の平戸の類例では、河童女は妻ではなく下女働きであるが、皿一枚落として割ったため、武士の主人に斬りつけられ、河童となって海に逃げていった[214][注 67]。
五島列島南部の福江島の伝承では、相撲好きの男が河童の腕を一本もぎ取って勝利し、幾日経って腕を返してやると、十人がかりではこぶような青石を返礼として持ってきたという[215][216]。
また長崎県長崎市本河内町の水源地の水神社にも「カッパ石」が置かれており、昔、宮司の渋江氏が五月の節句に、悪戯好きな河童をもてなすと称して、そのじつ自分はタケノコを平気な顔で食べ、河童には硬くなった老竹の輪切りを食べさせ閉口させて懲らしめた逸話が残っている[216][217]。
佐賀県
旧・杵島郡橘村(現・武雄市に編入)の潮見神社には、橘氏傍流の渋江氏が、水神に仕える河童使いとして祀られ、その境内には「誓文石」が置かれていたが、渋江氏に捕縛されて、この石の上に花が咲くまで絶対に人は取らないと誓約させられた名残だとされる。渋江氏が五月五日に河童にタケノコを馳走してもてなしたが、これが発祥となり水神にも供えるようになったという[218](渋江氏と河童、タケノコについては § 長崎県も参照)。
熊本県
加藤清正と猿軍による討伐の伝承は[189]、上述の通りである[103]。
飽託郡石原村(いしわらむら、現・熊本市石原町)には以下の様な伝承が残る。村の子供が河童に取られたと聞いて、領主の
河童は水に12時間潜っていられるが、猿は24時間潜れたので闘うと猿に負けるという民話がある(八代郡上松求麻村、1952年に採取)[221]。
四国地方
高知県
文政3年(1820年)9月12日 、土佐幡多郡鍋島村(現・高知県四万十市鍋島)の庄屋・兼松多助が、四万十川大島六町島ノエゴにて、2尺5寸(約75㎝)の(河童かエンコウ)らしき怪物をボラ網で捕獲する。手足に黒く粗い体毛が生え、撫でると鰻のように滑り、顔は色白で猿に似るも体毛はなく、生臭い臭気を放っていたと岡本真古『三安漫筆』(安永9-安政3年)に記されている[注 69][224]。
中国地方
島根県
出雲八束郡西川津村の薬師堂に「川獺の証文」が保管されると伝わる。この川獺とは河童のことで、話中カワコとも呼ばれるが、草を食む馬を引こうとして逆に引きずられ河童が、しばらくは田畑の仕事(野良仕事[111])を手伝っていたが、尻を狙う癖が直らず村人は瓦で防いでいたが、ついにもう悪さをしないという証文に手で判を押させらせて放逐したという話である。[225][226]
ほぼ同じ説話は、ラフカディオ・ハーン(1894年)が所収するが[30]、河内川のほとりの河内村(かわちむら)らの地名は誤りだと指摘されている[注 70]。
広島県
広島市の猿猴川(えんこうがわ)には、その名前の由来となっている「猿猴(えんこう)」という生物の伝承がある。この猿猴は、伝承での形容から河童の一種であると考えられている。詳しくは「猿猴」の項を参照のこと。
近畿地方
滋賀県
『閑窓自語』(1793–1797年)に、近江国(滋賀県)内での河童(「かはら(かわら)」)の伝承が記されている。湖水、すなわち琵琶湖の水系に多くいて、人を捕ったり、かどわかしたり、夜更けに訪ねてきて呼んだりする。これを避けるには、麻幹(おがら。皮をはぎ麻繊維を採取後の茎。)を置いておくことで追い払うことが出来、また、ササゲ豆を身に帯びていると寄せ付けないといわれる[227][71]。
中部地方
福井県
若狭(福井県)三方郡美浜町佐田の吉岡又右衛家に証文が伝わるが、先祖が「織田浜」という場所で牛を引いていると、なにかに連れ去られようとするので誦経すると、河童が姿を現し、祇園祭に人畜の尻子玉を納めねばならないので盗もうとしたと白状し、命乞いに、今後はこの浜で人畜に危害を及ばさない、と一筆いれることを約した。あくる日には証文が届き、それからしばらく魚の付けとどけもあったが、あるとき鹿角に魚をかけて置いていたため、贈り物はぱったり途絶えてしまった[106]。
静岡県
長野県
千曲川の河童を佐久の今岡地区の人が捕まえ、臼に縛って魚を食べさせ飼っていた。ある夜、河童が夢枕に立って「屋敷にゴボウの種を絶やさないようにするから助けてくれ」と頼むので放してやった。それから後は屋敷にゴボウが絶えないという[231]。
関東地方
茨城県
茨城県の牛久沼には[注 71]、河童にまつわる伝説が多く残っている。悪さをする河童を捕まえ松の木にくくりつけたが、謝罪するので水難守護を約束させて逃がしてやった、といういわくの「河童松」が沼のほとりに残る[104]。また、河童の手を拾って返してやると、河童の妙薬の製法を教えたという定番も伝わる[233]。那珂郡大宮・上岩瀬(現・常陸大宮市)出身の真木了本という医者が、指のようなものを拾うと河童が返還を願い、「岩瀬万能膏」を教わったとされる[101]。

また、江戸時代に海で捕獲されたという例では、水戸浦に享和元年(1801年)に上がったとされる、亀かスッポン似の河童が図入りで朝川鼎の『善庵随筆』(1850年刊)に掲載される。これには四つん這いの図も含まれる(右図参照)。添え書きによれば、頭が甲羅に引っ込んで八分がた隠れる構造で、骨はなさそうで、また尻の穴が三つあったという。屁が「スッ/\」という音だったという( § 屁の河童参照)[234][235][注 72]。
神奈川県
神奈川県の茅ヶ崎市には、五郎兵衛という者に助けられた河童が、お礼に徳利を持ってきたという「河童徳利」の伝説がある。その徳利は静岡県で子孫が保有している。
目久尻川では、古くからの言い伝えに「川沿いの畑を荒していた河童を捕らえた農民たちが、怒りのあまり目玉をくり抜いてその血とともに川に流した」とある。「目をくじる(くり抜く)」が地名の由来とされ、川のほとりには、地域住民によって河童の像が祀られている。
埼玉県
熊谷宿(現在の熊谷市)にあったある商家の女将が、厠で荒川の河童にいたずらをされ、短刀でその片腕を切り取った。翌日現れた河童にいたずらをしない約束を取り付けて腕を返し、詫びの印として接ぎ薬の秘法を伝授され、女将はその薬を売って財を成したという[236]。
川島町にもまた、伊草の袈裟坊という河童が腕を切り落とされ、その腕を返した家に秘伝の薬が伝えられたという話が残っている。
志木市にある宝幢寺には、馬を柳瀬川へ引きずり込もうとしていた河童を寺の住職が改心させた伝承があり、その他にも同市内の引又河岸の船頭が河童に相撲を仕掛けられたり、相撲で河童を負かした話が伝えられている。
東北地方
上述のように青森県には河童を水神(お水虎さま、おしっこ様)として祀る風習があるが、 宮城県の磯良神社などでも「河童神さん」や「おかっぱ様」と称して水神として祀る例がみられる[238][239][186]。
岩手県
遠野市の常堅寺の裏手の足洗川によどむカッパ淵は、よく河童が出現するという名物スポットである[240]。『遠野物語』には、他にも小烏瀬川(こがらせがわ)の姥子淵(おばこふち)の河童の話があり、馬を引き込もうとして逆に引っ張られて村人に捕まり、もう馬に悪さをしないと約束させられて放免となった[241]。
釜石市橋野町の沢檜川に五郎兵衛淵があり、馬を引こうとして厩まで引きずられた河童が馬槽(うまふね)をひっくり返して隠れていたが見つかり、詫び証文を差し入れて淵に帰っていったと伝わる[242] 。
山形県
万亭叟馬作『由利稚野居鷹』(百合若大臣もの、北斎画、文化4 / 1807年序)には、出羽国(山形県)城下に近い里の村人に捕らえられた河童が、漢方薬の材料にもなろうと医師の悦斎(悅齎)に引き渡されたが、医師は手当して釈放してやると、その後、新鮮な魚を届けるようになった話が所収される[96][105]。
起源

河童が、中国の河伯信仰が大陸から渡来しておきたという説がある。これは、柳田國男による、妖怪が神の零落したかたちというテーゼを石田英一郎が河童に当てはめて[119]河童は水神がおちぶれたもの[3]としたところを起点とする。石田の『河童駒引考』では、さらに河童の牛馬引き(日本各地の伝承)のルーツに、水神に牛馬の供犠があったとみるが、日本ではその例をみつけることは難しいとしており、ユーラシア大陸の諸例を比較し[243]、中国では河伯を祀るのに牛馬を沈める慣習があることを対比させたものである[244]。
水神祭において河童を祀るのは、西日本に多い傾向があるとされ、高知県南国市下田の河伯神社では「エンコウ」と称して河童を祀る[245]。
また、水神祭の神の依り代として使われるヒトガタが、河童の形状の形成に影響したという考えも見られる[240]。
また、河童とはそもそも藁人形や
神護景雲の頃、常陸国鹿島の春日社を奈良の三笠山へ遷宮するにあたり、内匠頭某が99体の人形に対し匠道の秘法で加持した所、皆童と化し神力をもって仕えたため神社の造営が早く済んだ[2]。その後、不要になった人形を川に捨てた所、人畜に害を及ぼすようになったので、称徳天皇により化人の災禍鎮定の勅命が下され、化人たちに触れを出したら災禍が止んだという[2]。
江戸時代初期の建築彫刻の名人左甚五郎が、ある大名の館の建立の際に人形を作って命を吹き込み働かせた[2]。竣工後、人形たちを川に捨てようとした所、「これから先、何を食ったらよいか」と問うので、甚五郎が「人の尻でも食らえ」と言ったため人形は河童と化し、尻子玉を取る様になったという[2]。
豊後国の竹田の番匠はある城の造営の際、人形を作って魂を入れ仕事を手伝わせた[2]。怠けたり、言うことを聞かなかったりすると木槌で頭を叩いたので頭頂が凹んだ[2]。竣工後「お前どものようなものは人の尻でも取って食らえ」と言い渡したので人形は河童と化したという[2]。
これらの伝承は、築城・社寺造営などの際に建物の守護霊として人形を祀る風習の存在を物語っている[2]。
また、民俗学者小松和彦は「近世に登場した河童のイメージが生成されるにあたって、もっとも重要な役割を果たしたのは、農民とは異なる生業を営み、しかも賤視・差別されていた「川の民」であった」と述べている[247]。上述の河童の人形起源譚と近世の非人の起源譚がほぼ同一であり、そこにカワウソやスッポン、猿などの動物的イメージが加わって造形されたのが河童だというのである[247]。
この他にも、近世初期の禁教下において山中に隠れながら布教しようとしたキリシタン宣教師の存在が河童のイメージ形成に影響を与えたという指摘もある[247]。
河神(川神)[注 73]と山神は、もとは神格で、その居場所を変えることで、川の神とも山の神ともなりえたという信仰が、そもそもあったとされ、これが地域によって、河童が、季節によって山と川を巡る伝承になったのだろう、とも考察される[73](具体例では川のヒョウスボがヤマワロになるが[73]、地域によって名称がさまざまなことは § 冬に山入りに上述した)。
遠野の赤河童は、間引きで殺された赤子の霊魂の成れの果てであるとしている[62]。
皿の起源
頭の皿について、民俗学者の折口信夫は『河童の話』(1930年)[248]の中で、田の神が笠をかぶっているとされるのが常であるが、ここから皿になったという一つの通説を説いている[248]。そして頭の皿が笠ならば、その甲羅も常世神の蓑を模したものである、と高崎正秀(1962年)は考察している[249]。
ただ、折口の『河童の話』にある考察というのは、さほど単純直截な比喩でまとまっておらず、様々な伝承の連想になっている。まず折口は、河童の皿と椀貸しの伝承を比較。「椀貸し」とは、椀貸し淵や塚に書付で頼んでおくと椀が借りられるという伝承で、その淵や塚が竜宮につながっているとされる場合が多いので、本来は水神・河童伝承であろうとする[注 74]。次に、椀貸しは、ちゃんと借りた数だけ返さないと、恩恵が受けられなくといういわば「椀数え」要素がある。これを皿などを数える童謡や、有名な皿屋敷の井戸の数える声と比較する。井戸というのは、昔、田の豊穣を祈って早乙女を泥に沈める風習[注 75]に着想し、皿数えの井戸も、女性を水神の生贄にした名残だとして、繫げてみせている。さらには「鉢かづき」の姫のように、器が頭の被りものになるおとぎ話があるが、皿を大きくすれば水神の笠ともなろうと述べ[注 76][248]、水神の笠が河童の頭の皿の原型でもあろうことを示唆している(上述、高橋のまとめによる)[249]。
高崎正秀は別の著書(1939年)でも、河童の皿の正体がなんであるかと問えば、それは鍋冠祭の鍋であり、椀貸し淵の椀である、と述べて折口説が説得に足りるという考えを示している[注 77]。
山猫型伝説
京極夏彦・多田克己の旧著(2000年)では、「山猫タイプ」をもうけており、そこでは対馬では河童のことを川虎とも
また両氏は、韓国語でも「川虎」を「カオーラ」と発音するとしており(実際はカホラン [가호랑] か?)[注 78]、伝承伝播(起源説)の可能性を示唆している[1][注 79]。
火車の混合
京極・多田共著の細分化においては「火車タイプ」ももうけているが[1]、「火車」とは江戸後期には猫型とされるようになった妖怪の一種であり、この火車(死体を盗みに来る)と河童(人をさらう)の混同については、すでに折口信夫なども着眼しているが、それより以前に南方熊楠が、紀州(和歌山県)で河童を「カシャンボ」と呼ぶのは、この火車の連想が影響しているからだという見解を示している[254]。
水虎と漢訳
江戸時代、河童に関する専門書の多くは「水虎」を漢語の異称としてもちいて発行されていた。すなわち中国伝承の「水虎」と河童を同定する意見があり、中国起源説に通ずるわけである。しかし、日本の河童(川太郎)は別物とする『和漢三才図会』などの意見もあり、その推移を以下に説明する。
早くは既に医師黒川道祐著の 『遠碧軒記』(1675年)で水虎を「かは太郎」(カワタロウ)と定義した例が見られる[255]。
これに反して、『和漢三才図会』(1712年刊)は、中国の『本草綱目』にある「水虎」と、本邦の「かわたろう」(河童)とをはっきり区別し、別々の項として立項している[13]。しかしその少し後に出た『書言字考節用集』(1717年刊)では、『本草綱目』の内容を丸写しした上で、項目上は「
以後も、「水虎」をもちいて河童を説いた書物に『水虎考略』、『水虎説』、『水虎考略後編』、そして一枚刷りの『水虎十二品之図』など同系統の図譜(推移はあるものの、古いものから複写されて引き継がれたり足し増しされた異曲同工な内容の図入り解説書)が存在する[注 80][146][257](成立年代や内容については、以下 § 図像学参照)。
柳原紀光『閑窓自語』(寛政5–9 / 1793–1797年)の「近江水虎語・肥前水虎語」の項目では表題に漢語をもちいたのみで、近江国(琵琶湖)で「かはら(かわら)」と呼ばれる化け物[注 81]、九州・肥前国より「かはたらう(かわたろう)」の伝承を伝える[227]。他にも雑学者山崎美成『三養雑記』(1839年)[注 82]の例が散見できる。
上述したように( § 名称)今では東北地方や九州地方など各地で「スイコ」という名称で河童を指す例がみられる(青森県の「お水虎様」など)[35]。
なお、直海元周(直海龍)著の『広倭本草 / 広大和本草』(宝暦9 / 1759年刊)では、中国の
河童のミイラ
現在に伝わる河童の全身ミイラは、三体が現存するとされ(山口直樹の調査による)、一つは佐賀県伊万里市の松浦一酒造の家伝、一つは東京を中心に活動していた見世物小屋が入手したもの、もう一つは大阪の瑞龍寺蔵のものである[260]。しかし、この他にも、栃木県益子町の妙伝寺にミイラが保管される[135][261][注 83][注 84]。
伊万里市山代町の松浦一酒造[注 85]の田尻家に伝わる河童の全身ミイラは[265][266]、簡易鑑定によれば[注 86]、胸椎数が16で、ヒトやサル類(の12個)とは不一致で、哺乳類が材料とされたとしても、何の種類までは絞り込むのは困難という結果だった[267]。
見世物小屋のミイラは、所有者は、先輩興行師から譲り受けた目玉展示品(「マブネタ」)だと説明しており、元は奈良市あやめ池[注 87]に出没した河童で、馬や子供を襲うので村人たちに捕まり、手足を縛られたまま天日にさらされ、ミイラ化したといういわれであり、現地の寺に納められていたが、廃寺になり、太平洋戦争後、流出して興行師たちの手を転々としたので、つごう60年は興行に使われていたので消耗がある(現在は保全のため非公開)[268]。
江戸時代には、人魚や河童のミイラ造形師がいたことはわかっているが、その詳細は実像までは明らかになっていない、とされる[269]。
福岡県の北野天満宮には「河伯(かはく)の手」と呼ばれる河童の手のミイラがあり、901年に菅原道真が筑後川で暗殺されそうになった際、河童の大将が彼を救おうとして手を切り落とされた、もしくは道真の馬を川へ引きずり込もうとした河童の手を道真が切り落としたものとされる[270][271]。
現代における目撃談
昭和以降の日本でも、河童らしきものの目撃談[272]や足跡が見つかった事件[273]があり、実話怪談集やオカルト本に収録されることがある。
足跡を残した例としては、1985年8月1日深夜に対馬南部厳原町久田で河童に遭遇し、翌朝三角形のヌルッとした液体の足跡が発見されたという話や、1991年宮崎県西都市のある留守宅に謎の生物が侵入し、屋内に黄色い液体の三角形の足跡が残っていたという話(その住宅付近には河童伝説が残っており今回も河童の仕業と指摘されたという)などがある[274]。
宇宙人の典型的外形であるグレイと全体的なシルエットが似ているため、目撃者がグレイと誤認したのではないかとする例が『新耳袋』に掲載されている[275]。
また、河童が学校に現れるという話も多く、学校の怪談としても登場している[276]。徳島県のある小学校のゆうれい階段と呼ばれる階段に河童の足跡があるという話や、小学校の木造校舎の汲取式便所の個室から河童の手が出てくるといった話が存在する[276]。
大衆文化
河童伝説のある地の地域おこしなどを担うマスコットキャラクターのみならず、水に関する企業のマスコットに利用されている。また、水辺に「河童が出るので危険」のたぐいの注意書きにも利用される(以下、 § 注意書きの河童節にて詳説する)。
ちなみに『西遊記』に登場する沙悟浄は、日本ではしばしば河童に似た姿で描かれる。これは日本独自の翻案であり、原典においてはそのような設定はない(詳細は沙悟浄 § 日本の沙悟浄を参照)。
酒造元「黄桜」
酒造メーカー黄桜のイメージキャラクターは、初代カッパは清水崑が手掛けているが、のち二代目カッパは漫画家小島功によるもので[131]、昭和30(1955年)よりテレビのCMで広く知られるようになった[183]。
注意書きの河童

水辺に危険が付きまとうのは今も昔も変わりない[277]。警戒心の乏しい子供にはとりわけ注意喚起すべきところで[277]、古来、龍神などの水神と妖怪・河童は水辺の危うさ怖ろしさの象徴でもあったが[277]、河童の場合、現代社会でも官民ともにそのイメージを巧く活かしている[277]。特に危険と思われる水域に看板などの形で設置される注意書きに妖怪キャラクター・河童として用いられることは極めて多く、日本各地で見ることができる[277]。具体例として埼玉県の見沼代用水が挙げられる[注 88]。
同じ目的であれば、先述のとおり、古くから畏れ敬われてきた龍神などの水神も考えられるが、河童のほうが断然親しみを持って受け入れられているということか[277]、昔とは違って現代のものに限ってはもっぱら河童ばかりが用いられている[277]。
河童連邦共和国
1988年(昭和63年)9月9日、日本国内と台湾の河童愛好家や、河童伝説が残る地域の自治体で組織し、「かっぱサミット」などを行っている[279][280]。
カッパ捕獲許可証
岩手県の遠野市観光協会では、カッパの捕獲を許可する「カッパ捕獲許可証」を発行している(2004年から一般販売[281])。5年以上の更新をすれば「ゴールド許可証」になり市内の施設で買い物の際に提示すると5%割引になる[282][283][284][285]。
河童にまつわる施設・地名
設備等
水木しげるロードの河童
水木しげるロードは鳥取県境港市にある観光対応型商店街で、妖怪漫画家・水木しげるが描く妖怪キャラクターなどの青銅製オブジェが多数あり、その一つとして河童の像もある。
福崎町の河童
兵庫県神崎郡福崎町のそこここには、河童を始めとする怖ろしげな妖怪が多数潜んでいる仕掛けになっている[286][287][288]。辻川山公園にいる河童の河太郎(ガタロウ)は頭のお皿が乾いて動けなくなり、溜池の畔で固まっている[286][287][288]。弟の河次郎(ガジロウ)と2匹の子河童は一定時間ごとに溜池から出没する[286][287][288](2021年現在は子河童は出現しなくなっている[289])。河次郎は福崎駅前の水槽にも出現する。町内には「妖怪ベンチ」が点在するが、福崎駅前の妖怪ベンチでは河童が一人将棋を打っている[286][287][288]。
同町出身の民俗学者・柳田國男の著書『故郷七十年』に登場する河童のガタロをモチーフに、地域振興課職員の小川知男によってデザインされた[290]。
志木市の河童
埼玉県志木市は河童の伝承で知られている[291]。このことから、河童は市のマスコットキャラクターに制定されているほか、市内の随所に河童像が点在している[291]。
その他
- 大内かっぱハウス(千葉県銚子市) - 元銚子市長・大内恭平の個人コレクションなどを土日祝日に公開[292]。
- おもしろかっぱ館 - 長野県駒ケ根市天竜かっぱ広場[293]。
- 海洋堂かっぱ館
- JR九州田主丸駅駅舎(久大本線・福岡県久留米市)
- JR西日本弓削駅(岡山県久米郡久米南町) - 駅構内には町のマスコットキャラクターである河童(かっぱ)の「カッピー君」に纏わる様々なモニュメントが設置されている。
- 河童橋(長野県松本市) - 芥川龍之介の「河童」に登場。
- 領家かっぱ橋(埼玉県上尾市) - 上尾道路に架かる歩道橋。設置場所である領家地区の河童伝説に因む[294]。
- 河伯洞(福岡県北九州市若松区) - 河童を題材に好んだ小説家火野葦平の旧宅・記念館。
- キザクラカッパカントリー(京都府京都市伏見区) - 河童資料館が併設されている。
寺社
地名
その他
河童にまつわる言葉
- 河童の川流れ
- 得意分野であるにもかかわらず失敗してしまうことを、水泳の得意な河童が川で溺れる様子に例えたもの[300]。
- 河童の木登り
- 苦手なこと、不得意なことをする例え。
- 河童に水練
- 泳ぎの上手な河童に泳ぎ方を指南することから、知り尽くしている人に教える愚かさを例えたもの[300]。
- 河童に塩を誂える
- 川に住んでいる河童に塩を頼むのはお門違いであることから、見当違いの注文をすることの例え[300]。
- 屁の河童
- いつも水の中にいる河童の屁には勢いがないことから、「取るに足りないこと」を「河童の屁」と呼ぶようになり、後に語順が変わった[300]。「木っ端の火」が語源という説もある[300]。
- 陸(おか)へ上がった河童
- 「河童は水中では能力を十分発揮できるが、陸に上がると力がなくなる」とされるところから、力のある者が環境が一変するとまったく無力になってしまうことの例え[301]。
- カッパ巻き
- 河童がキュウリを好むことから巻き寿司のキュウリ巻きをカッパ巻きと呼ぶ[302]。
- 河童忌
- 小説家芥川龍之介の忌日7月24日[303]。彼が好んで河童の絵を描いていたことや、死の直前の代表作『河童』にちなむ[303]。
- 河童の妙薬
- 河童が製法を教えたという伝承に由来を持つ民間薬・家伝薬のこと。
- ガタロ
- 上方落語の演目『代書』『商売根問』などに登場する商売。川底を網でさらって得た鉄くずや貴金属などを換金して稼ぎを得る自営業を指し、その川さらいの姿が河童を連想させる事から商売の隠語として河童の関西名「河太郎」(がたろ)が当てられた。水泳が得意な人や、頭頂の毛髪が少ない人など、河童を連想させる人物のあだ名として使われることもある。
