ブルトゥスとアルンス
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| ドイツ語: Tod des Konsuls L. J. Brutus im Zweikampf mit Aruns 英語: Brutus and Arruns | |
| 作者 | ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ |
|---|---|
| 製作年 | 1726-1729年 |
| 種類 | キャンバス上に油彩 |
| 寸法 | 383 cm × 182 cm (151 in × 72 in) |
| 所蔵 | 美術史美術館、ウィーン |
『ブルトゥスとアルンス』(独: Brutus und Aruns, 英: Brutus and Arruns)、または『アルンスとの決闘での執政官ルキウス・ユニウス・ブルトゥスの死』(アルンスとのけっとうでのしっせいかんルキウス・ユニウス・ブルトゥスのし、独: Tod des Konsuls L. J. Brutus im Zweikampf mit Aruns, 英: Death of Consul L. J. Brutus in a duel with Aruns)[1]は、18世紀イタリア・ロココ期の巨匠ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロが1726-1729年にキャンバス上に油彩で制作した絵画である。現在、ウィーンの美術史美術館に所蔵されている[1][2]。
過去には、『討ち死にした2人の兵士』(うちじにしたふたりのへいし、伊: Due guerrieri colpiti a morte)という題名で知られていた。
本作は、古代ローマの歴史を表す10点の連作のうちの1点であった。これら10点は、サン・パンタロン教会近くのドルソドゥーロ地区にあるドルフィン家の宮殿カ・ドルフィン大広間を装飾するためのもので[1]、ドルフィン家の人々が登場するヴェネツィアの栄光を描くニコロ・バンビーニの天井画の下に設置された[3]。ティエポロが1725-1730年の修業時代の終わりに制作した画家最初の連作である。
この連作を当時もっとも有名であった画家ティエポロに注文したのは、70歳で駐コンスタンティノープル大使として赴任すべく出発しようとしていたダニエーレ3世ジョヴァンニ・ドルフィン (1654-1729年) であった。ティエポロへの依頼を決めたのは、ジョヴァンニの兄ディオニジオ・ドルフィン (1663-1734年) に勧められたからで、ディオニジオはすでに画家にウーディネのパトリアルカーレ宮殿のフレスコ画装飾を依頼していた[4]。
ティエポロが英雄を表す新たな様式を創造したのは本作においてである。その様式は劇作家シピオーネ・マッフェイの教えに感化されたもので、後期バロックのテネブリスムから決定的に離脱し、ロココの明るいキアロスクーロへと向かうものであった。ティエポロは、この新しい様式で描く画家のうちで著名な存在となった[5]。
歴史

1872年、ミケランジェロ・グッゲンハイムの仲介で、大広間の10点の連作はオイゲン・ミラー・フォン・アイヒホルツ (Eugen Miller von Aichholz) 男爵に売却され[6]、連作は大きな鏡に置き換えられた。男爵は連作中の5点を自身のウィーンの宮殿に掛け、他の5点の『コリオラヌスに祈るウォルムニアと息子たち (Volumnia e i figli che pregano Corialano)』、『マニウス・クリウス・デンタトゥスの勝利』、『ムキウス・スカエウォラとポルセンナ (Muzio Scevola e Porsenna)』、『カルタゴ議会前のファビウス・マクシムス (Fabio Massimo davanti al senato cartaginese e Dittatura)』、『キンキナトゥス1世に与えられる独裁権 (Dittatura offerta a Cincinnato I)』をサンクトペテルブルクの貴族アレクサンドル・アレクドロヴィッチ・ポロフツォフ (Aleksandr Aleksandrovič Polovtsov) に売却した。5点はポロフツォフからスティーグリッツ (Stieglitz)・アカデミーに譲渡されたが、1934年にはエルミタージュ美術館に移された。
オイゲン・ミラー・フォン・アイヒホルツ男爵のウィーンの宮殿に掛けられた5点の作品は、1919年にトリエステの銀行家カミッロ・カスティッリオーニ (Camillo Castiglioni) に売却された。そのうち、本作と『ハスドゥルバルの頭を見つめるハンニバル (Annibale contempla la testa di Asdrubale)』[7]はウィーンの美術史美術館に寄贈された[2]が、男爵は残りの3点の『ウェルケラエの戦い (Battaglia di Vercelli)』、『カルタゴの征服 (Conquista di Cartagine)』、『マリウスの勝利』をスイスに輸出する許可を得た。その後、それら3点の絵画は1934年にアメリカの個人蔵となり、次いでニューヨークのメトロポリタン美術館に寄贈された[8]。
作品
1980年にフランシス・ハスケルが (Francis Haskell) が説明した通り、本作はプブリウス・アネウス・フロルスの物語から細かな想を得ている。描かれているのは、共和政ローマの最初の執政官ルキウス・ユニウス・ブルトゥスと、王政ローマの最後の王タルクィニウス・スペルブスの息子アルンテ・タルクィニウスがセルウァ・アルシアの戦いで差し違える場面である。この戦いは、スペルブス王がローマから追放された後、共和政ローマがエトルリア人に対して起こした戦いで、王政ローマを決定的に終焉させることになった。画面はブルトゥスが倒れたところを表しているが、アルンスも命を落とした[2]。本作では、ティエポロの非常に闊達な筆致と複雑なキアロスクーロにより、悲劇的な場面が強調されている[9]。画家が力強いキアロスクーロのコントラストを用いていた初期様式の頂点を示す作品である[10]。
なお、ティエポロの連作は、ほぼ間違いなく上述のウーディネのフレスコ画と同時に描かれたと思われる。これら油彩画は冬の間に制作され、フレスコ画は気候的により適した夏の間に制作されたが、それはティエポロにとって慣例となる制作方法であった[8]。