王象
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見出された才
若い頃の王象は身寄りがなく貧しい状況にあり、僕隷として暮らしていた[1][2]。17、8歳の頃、羊の放牧を任された際にこっそり読書をしたことから、箠楚(笞刑・杖刑)を受けた[1][2]。しかし、人物鑑識の手腕で知られ[3]、地元の名士でもあった楊俊は王象の才能を称賛し[4]、彼を買い上げて家へ連れ帰るだけでなく、縁組の斡旋や家を建てるといった援助をした。それから両者は別れた[1][2]。
文名を博す
楊俊から卓抜と称賛されたことで、王象の文才は知られるようになった[1][5]。并州刺史の梁習からは常林・楊俊・王凌・荀緯(中国語版)とあわせて「州界の名士」として推薦され[3]、曹操は皆を県長とした[6][7]。建安年間、同郡の人間である荀緯らと共に、当時は太子だった曹丕のもとで礼遇された[1][5]。名だたる文人である王粲・陳琳・阮瑀・路粋らの亡き後、新世代の中では王象が最も優れた才能を持つとされた[1][5]。建安末期の潘勗と並び、王象は黄初年代を代表する文章家として衛覬と共に称えられた[8]。
延康元年/黄初元年(220年)、献帝の禅譲により践祚した曹丕が帝位に即き、後漢に代わって魏が建つと、王象は散騎侍郎(中国語版)を拝命し[2][5]、曹丕に近侍した[3]。建安24年(219年)当時、楊俊は魏諷の乱の責を自ら負って曹丕の不興を買い、左遷されていた[6][2]。曹丕が即位した際に南陽太守に復職した楊俊を、王象は称賛の言を述べてさらに推薦した[4][2]。また同年、王象は曹丕から詔勅を受けて『皇覧(中国語版)』の撰定を行うことになり、秘書監に任じられた[1][5]。彼の他には、劉劭[9]・桓範[10]・繆襲[11]・韋誕[12]などが『皇覧』の編纂作業に加わった[13][14]。王象は温厚な性格で、書く文章は温雅であった[13][5]。彼のことは都でも評判となり、「儒宗」と称えられたという[13][5]。王象は後に常侍に遷り、列侯に封じられた[1][5]。
無念の死
黄初3年(222年)、曹丕は南へ巡狩した[6][2]。彼は南陽郡の郡治である宛[6]に到着するより以前に、百官に対して干渉を禁じる詔勅を発していた[5]。しかし車駕が宛に到着した時、詔旨を理解していなかった宛の県令は市場の門を閉ざした[5]。曹丕はこれに対して「私は寇賊なのか?」と怒った[5]。また彼は以前から楊俊のことをよく思っていなかった[3]。楊俊はもともと、後継をめぐって曹丕と争ったことがある曹植と良い関係を結んでいた[6][2]。さらに、楊俊は曹丕と曹植の才を並べて論じはしたものの、その称賛の対象となるのはやはり曹植のほうだったため、曹丕はいつも根に持っていた[6][2]。
今回の些細な失態にかこつけて、曹丕は県令と太守の楊俊の双方を捕らえ[3]、勅して「漢の明帝はどれだけ二千石〔の官吏〕を殺しただろうか?」と尚書に訊ねた[5]。王象にとって楊俊は若年時の恩人だった[1]。詔文を見、楊俊が決して許されないとわかった王象は[5]、同郷の司馬懿[15]や荀緯と共に、曹丕の前で流血するほど叩頭して、死一等を減ずるよう願い出た[6][5]。曹丕は答えずに禁中に入ろうとした[5]。王象が彼の帝衣を引いて引き留めると、曹丕は振り返って「私は楊俊と卿(きみ)との本末を知っている。今、卿の言うことに聴従するならば、それは私を無みするということになる。卿は楊俊を無みしたいのか、それとも私を無みしたいのか?」と告げた[3][5]。曹丕の言葉の厳しさに、王象は引き下がらざるを得なかった[5]。曹丕は楊俊の処刑を定めてから出てきた[5]。楊俊は「己の罪は理解している」と言って自殺した[6][2]。王象は彼を救えなかったことを恨み、病を発して死んだ[1][5]。
脚注
注釈
出典
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 de Crespigny 2007, p. 836.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 『三国志』巻23楊俊伝
- 1 2 3 4 5 6 佐藤 1993, p. 67.
- 1 2 de Crespigny 2007, pp. 836, 954.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 『三国志』巻23楊俊伝注引『魏略』
- 1 2 3 4 5 6 7 8 de Crespigny 2007, p. 954.
- ↑ 『三国志』巻23常林伝
- ↑ 『三国志』巻21衛覬伝
- ↑ 『三国志』巻21劉劭伝
- ↑ 『三国志』巻9曹爽伝注引『魏略』
- ↑
司馬貞 (中国語), 『史記索隠』巻1五帝本紀, ウィキソースより閲覧, "《皇覽》,書名也。記先代冢墓之處,宜皇王之省覽,故曰《皇覽》。是魏人王象、繆襲等所撰也。" - ↑
(中国語) 『太平御覧』巻601文部十七・著書上, ウィキソースより閲覧, "《三國典略》曰:齊主如晋陽,尚書右僕射祖珽等上言:「昔魏文帝命韋誕諸人撰著《皇覽》,包括群言,區分義別。[...]」" - 1 2 3 劉 2014, p. 59.
- ↑ Theobald, Ulrich (2013年7月23日). “Huanglan 皇覽” (英語). ChinaKnowledge.de - An Encyclopaedia on Chinese History and Literature. Ulrich Theobald. 2025年10月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年2月7日閲覧。
- ↑ 佐藤 1993, pp. 68, 77.
参考文献
- 佐藤達郎「曹魏文・明帝期の政界と名族層の動向 : 陳羣・司馬懿を中心に」『東洋史研究』第52巻第1号、1993年、56–83頁、doi:10.14989/154426、hdl:2433/154426。
- 劉全波「《皇覧》編纂考」『中国典籍与文化』第1期、2014年、57–69頁、doi:10.16093/j.cnki.ccc.2014.01.014。
- de Crespigny, Rafe (2007). A Biographical Dictionary of Later Han to the Three Kingdoms (23-220 AD). Brill. doi:10.1163/ej.9789004156050.i-1311. ISBN 9789047411840
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