張臶
From Wikipedia, the free encyclopedia
若き頃、太学に学んで広く諸学を修めたのち、鉅鹿へと帰郷した。
時に冀州に勢力を築いていた袁紹から幾度か招聘を受けたが、いずれも応じず、幷州上党郡へ移住した。幷州刺史の高幹が張臶を楽平県令に推挙したが、これも受けず、冀州の常山国へ移って身を隠し、のち任県へ転居した。門下は既に数百人に及んでいたと伝えられる。
建安13年(208年)、曹操が丞相に任ぜられたのに際して招聘を受けたが、やはり応じなかった。
魏の太和年間、明帝(曹叡)が災厄を祓い異変を正すことのできる隠逸の学者を求める旨の詔勅を渙発した際、諸郡は頻りに張臶を上奏して推挙し、出発の手配まで整えたが、張臶は老病を理由に入朝しなかった。官府の綱紀(法令や規律を司る役人)が名刺を携えて張臶に面会しようとしたところ、広平太守の盧毓はこれに対して「張先生は、所謂上は天子に事へず、下は諸侯と友せざる者なり。此れ豈に版謁して、光飾すべき所ならんや。」と諭して言った。そこでただ主簿(中国語版)を遣わし、書簡・羊・酒の礼を奉らせるに留めた。
青龍4年(236年)、「張掖郡に於いて玄川が溢れ湧き、波濤がうねり動き、宝石が河図を負して現れ、その姿は霊亀の如く、川の西に鎮座して、巍然として磐石のように立ち、質は素朴にして文は明らかである。麒麟・鳳凰・竜馬(駿馬)が燦然として形を成し、文字は天命を告げ、煌びやかに明白である」とする現象が報告され、太史令の高堂隆が上奏して「これは古の聖帝と雖も、未だ嘗て蒙ったことのないもので、誠に魏に瑞祥の天命が有る証であり、東序に伝えられる世の宝であります」としたことから、明帝はこれを天下に布告する詔書を渙発した。
任県の県令于綽がこれを携え、張臶に意見を求めた。張臶は「そもそも神とは未来を知るもので、既に過ぎ去ったものを追うことはない。瑞祥は先に現れ、その後に廃興がこれに従う。漢は既に久しく滅び、魏は既にこれを得ている。何を追って復興を求め、瑞祥を徴そうとするのか。この石は、今の時代の変異であり、軈て来るべき瑞祥なのである。」と密かに述べた[注釈 1]。
正始元年(240年)、戴鵀(戴勝)の鳥が張臶の門の陰に巣を作った。この時張臶は門弟に「戴鵀は陽の鳥であるのに、(門の)陰に巣を作った。これは凶兆である。」と言った。そこで琴を取り、歌い詠じ、詩二篇を作り、それから十日ほどして死去した。105歳であった。
死後、広平太守の王粛は「先に京師に居たとき、張子明(張臶)の名を聞き、来て彼を訪ねようとしたが、折しも既に亡くなっており、痛惜して已まない。この人は篤学にして隠居し、時勢と争わず、道を以て身を楽しんだ。昔、絳県の老人が泥中に埋もれていたのを、趙孟(趙武)がこれを引き立て、諸侯は和睦したという。高齢でありながら勤めて道を好んだのに、栄誉を受けることがなかったのは憐れむべきである。書が到着したなら、役人を遣わしてその家を慰問し、門戸を顕彰し、格別の待遇を加え、既に亡き者を慰め、後に続く者を勧めよ。」との教令を下した。
関連項目
脚注
注釈
出典
- ↑ 『三国志』魏書「袁張涼國田王邴管傳」管寧傳:時鉅鹿張臶,字子明,頴川胡昭,字孔明,亦養志不仕。臶少游太學,學兼內外,後歸鄉里。袁紹前後辟命,不應,移居上黨。并州牧高幹表除樂平令,不就,徙遁常山,門徒且數百人,遷居任縣。太祖為丞相,辟,不詣。太和中,詔求隱學之士能消災復異者,郡累上臶,發遣,老病不行。廣平太守盧毓到官三日,綱紀白承前致版謁臶。毓教曰:「張先生所謂上不事天子,下不友諸侯者也。此豈版謁所可光飾哉!」但遣主簿奉書致羊酒之禮。青龍四年辛亥詔書:「張掖郡玄川溢涌,激波奮蕩,寶石負圖,狀像靈龜,宅于川西,嶷然磐峙,倉質素章,麟鳳龍馬,煥炳成形,文字告命,粲然著明。太史令高堂隆上言:古皇聖帝所未甞蒙,實有魏之禎命,東序之世寶。」〈《尚書·顧命篇》曰:「大玉、夷玉、天球、河圖在東序。」注曰:「河圖,圖出於河,帝王聖者之所受。」〉事班天下。任令于綽連齎以問臶,臶密謂綽曰:「夫神以知來,不追已往,禎祥先見而後廢興從之。漢已乆亡,魏已得之,何所追興徵祥乎!此石,當今之變異而將來之禎瑞也。」正始元年,戴鵀之鳥,巢臶門陰。臶告門人曰:「夫戴鵀陽鳥,而巢門陰,此凶祥也。」乃援琴歌詠,作詩二篇,旬日而卒,時年一百五歲。是歲,廣平太守王肅至官,教下縣曰:「前在京都,聞張子明,來至問之,會其已亡,致痛惜之。此君篤學隱居,不與時競,以道樂身。昔絳縣老人屈在泥塗,趙孟升之,諸侯用睦。愍其耄勤好道,而不蒙榮寵,書到,遣吏勞問其家,顯題門戶,務加殊異,以慰旣往,以勸將來。」
- ↑ 坂口和澄「三國志群雄銘銘伝」P606、光人社、2005年
- ↑ 坂口和澄「三國志群雄銘銘伝」P606、光人社、2005年
- ↑ 坂口和澄「三國志群雄銘銘伝」P548、光人社、2005年
| 魏志 (魏書) |
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 蜀志 (蜀書) |
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 呉志 (呉書) |
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||