潘勗
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評価
建安末期の代表的な文章家として、魏の黄初年代における王象・衛覬と並び、名を挙げられている[4]。
唐代の類書『芸文類聚』には、荀彧のために著した「尚書令荀彧碑」が収録されている[5][6]。
劉勰『文心雕龍』では「かつて潘勗は魏の九錫文を著した際、経典を思いそれに準えたが、群をなす才人たちは筆を隠して執筆をやめてしまった。彼の文章の骨[注釈 1]は髄まで俊逸だったためである」と評価された[8][7][9]。
殷芸『小説』は、九錫文について「漢武以来このような制度はなかったが、潘勗は商・周の憲章や唐・虞の辞義に依り、その文章の温雅さは典誥のものと同風であったため、当時の朝廷の官吏たちは一字たりとも措くことはできなかった」と評価した。また同書によれば、潘勗の死後、王粲が名を馳せていた頃、人々は潘勗の著した九錫文を美妙であると評価した一方、それを王粲の作だと誤解した。太傅となった司馬懿が年末の臘日に賓客を招いた時、潘勗の子である潘満に対して「尊君(父の潘勗)の作った策文だが、その高妙さは信じがたいものだ。かつて耳にしたところでは、仲宣(王粲)も及ばないと考えたという」と言った。このことから、九錫文が潘勗の作であることが士人の間で知られるようになったという[10]。
『潘勗別伝』では、「賢人に寛大であり大衆も容れて、天下の人々と喜びや悲しみを等しく、有無を同じくし、家財を自らのものとすることはなかった」と賞賛された[11]。