潘勗

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出生 不詳
河南尹中牟県
死去 建安20年(215年
拼音 Pān Xù
元茂
潘勗
後漢
尚書
出生 不詳
河南尹中牟県
死去 建安20年(215年
拼音 Pān Xù
元茂
別名 潘芝
主君 曹操
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潘 勗(はん きょく、? - 建安20年〈215年〉)は、中国後漢末期の政治家、文人元茂(げんぼう)。元の名は潘芝司隷河南尹中牟県の人。建安末期の著名な文章家で、「冊魏公九錫文」の作者として知られる。

元の名を潘芝といったが、避諱によって改名した。献帝の時に尚書郎となり、後に尚書右丞中国語版に遷ったという。潘勗はかつて二千石だったが、才鋭敏にして物事に通暁し、旧事をよく習ったことから、詔勅により本職を兼任して、たびたび特賜を受けた[1]

建安18年(213年)、丞相曹操魏公となり、九錫を下賜された。それに際して、潘勗は「冊魏公九錫文」を作成した[1][2][3]

建安20年(215年)、潘勗は東海に転任することになった。しかし着任前、朝廷に留まり尚書左丞中国語版を拝命した。同年、50歳余りで死去した[1][3]

評価

建安末期の代表的な文章家として、黄初年代における王象衛覬と並び、名を挙げられている[4]

唐代類書芸文類聚』には、荀彧のために著した「尚書令荀彧碑」が収録されている[5][6]

劉勰文心雕龍』では「かつて潘勗は魏の九錫文を著した際、経典を思いそれに準えたが、群をなす才人たちは筆を隠して執筆をやめてしまった。彼の文章の骨[注釈 1]は髄まで俊逸だったためである」と評価された[8][7][9]

殷芸『小説』は、九錫文について「漢武以来このような制度はなかったが、潘勗はの憲章やの辞義に依り、その文章の温雅さは典誥のものと同風であったため、当時の朝廷の官吏たちは一字たりとも措くことはできなかった」と評価した。また同書によれば、潘勗の死後、王粲が名を馳せていた頃、人々は潘勗の著した九錫文を美妙であると評価した一方、それを王粲の作だと誤解した。太傅となった司馬懿が年末の臘日に賓客を招いた時、潘勗の子である潘満に対して「尊君(父の潘勗)の作った策文だが、その高妙さは信じがたいものだ。かつて耳にしたところでは、仲宣(王粲)も及ばないと考えたという」と言った。このことから、九錫文が潘勗の作であることが士人の間で知られるようになったという[10]

『潘勗別伝』では、「賢人に寛大であり大衆も容れて、天下の人々と喜びや悲しみを等しく、有無を同じくし、家財を自らのものとすることはなかった」と賞賛された[11]

家族

  • 潘瑾:後漢の安平太守。

兄弟

  • 潘満:平原太守を務めた。学問をよく修めたことで称えられた[1]

  • 潘尼中国語版:若い頃から頭角を現し、文章や使う言葉は温雅だったという[12]陸機へ詩を贈答したことがある[12]。位は太常まで登った[12]。伯父の潘岳と共に、その優れた文章を重んじられた[13]。甥の潘滔もまた博学・才量で知られたという[1]

  • 潘岳:西晋時代の代表的な文人の一人。詳細は該当記事を参照。

脚注

参考文献

関連項目

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