関羽
中国後漢末期の将軍、司隷河東郡解県の人(? - 220)
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関 羽(かん う、? - 建安24年12月初旬〈220年1月〉[1])は、中国後漢末期の武将。字は雲長(うんちょう)。もとの字は長生。
司隷河東郡解県(現:山西省運城市塩湖区)の人(→#人物)。封号は漢寿亭侯、諡は壮繆侯または壮穆侯(→#諡号)。子は関平・関興・女子、孫は関統・関彝(→#家族)。
生涯、蜀漢の創始者・劉備への忠義を貫き、人並み外れた武勇を持ち、義理を重んじたことから曹操など同時代の多くの人々から称賛された。死後には歴代王朝から爵諡を多数贈られ(→#評価)、のちに関帝(関聖帝君・関帝聖君)として神格化されると、中国国内に留まらず世界各地の華人・華僑から厚く信仰されるようになった(→#関羽信仰)。
小説『三国志演義』では蜀漢の「五虎大将軍」の筆頭として描かれる。作中ではその神聖視から諱で呼ばれることが避けられ、史実で美しいヒゲをたくわえていたことに由来する「
生涯
若き頃
出奔と出会い
家族や身分に関する背景情報は不明である。もとの字は「
劉備に従う
劉備が故郷で挙兵すると、関羽は張飛とともにその護衛となり、のちに劉備が平原相に就任すると、2人は別部司馬に任じられ、それぞれ部曲(軍団)を統率した[4][7]。張飛は関羽が数歳年長であったことから兄のように慕い[8][9]、劉備は2人に兄弟のような深い恩愛を与え、寝台をともにするほどの仲であった[10]。しかし、関羽と張飛は公の場においては劉備を主君として立て、常に側近くに仕えた[4][2]。こうした3人の関係性について、複数の研究者は彼らが「侠(義を重んじる者)」としての強い絆で結ばれていたと指摘している[11][12]。
その後、功績により徐州を得た劉備は、袁術との争いの最中に呂布の裏切りに遭い、曹操を頼ることとなった[13][14]。建安3年(198年)、曹操と劉備らが呂布を撃破すると、関羽は張飛とともに戦功を認められ、曹操から中郎将に任命された[15]。このとき関羽は、呂布の部将である秦宜禄の妻(杜氏)を娶ることを曹操に願い出たが、しかし、その美貌に目を留めた曹操が自らの側室としてしまったため、関羽は心中動揺したという[16][17]。
建安4年(199年)、劉備は後漢の献帝から曹操暗殺の密命を受けた董承らと結び、曹操に叛旗を翻して徐州刺史の車冑を殺害し、徐州を占拠した[13][18]。劉備が小沛へ戻るにあたり、関羽は下邳城の守備および太守の事務代行を任された[注釈 2][13][4][19]。
曹に降り劉に帰る
曹操に降る
建安5年(200年)、激怒した曹操が自ら東征して劉備を攻撃すると、劉備は袁紹のもとへ敗走した[13][4][20]。このとき下邳にいた関羽は、夏侯博や劉備の妻子とともに曹操軍に捕らえられたが[21][13][4][22]、曹操は関羽を手厚く遇し、偏将軍に任命した[4][23]。
顔良を斬る
関羽は曹操の配下である張遼(もとは呂布の配下)とともに、白馬(現:河南省安陽市滑県)にいた劉延を救援するため、袁紹配下の将・顔良の迎撃を命じられた[21][4][23]。関羽は敵軍の陣中において顔良の旗印と車蓋(車の上の覆い)を見とめると、そのまま馬を走らせて突撃し、顔良の首級を挙げた。このとき袁紹軍の中で関羽の猛攻に対抗できる者はなく、白馬の包囲網はついに解かれた。この大功に対し、曹操は即座に関羽を漢寿亭侯(爵位)に封じた[注釈 3][4][23]。
忠義を貫く
曹操は関羽の人柄と武勇を高く評価していたが、関羽は劉備への忠義を貫き、曹操の陣営に帰順する見込みはなかった[4][23]。張遼を遣わしてその真意を問わせたところ、関羽はこう答えた。「わたしは劉将軍と生死をともにすると誓った仲であり、その恩義を裏切ることはできません。ただし、曹公からの厚遇には感謝しておりますので、必ずや功績を立てて報恩いたします」。この返答を聞いた曹操は、関羽の義理堅さに深く感心した[4][23]。その後、関羽が袁紹軍の顔良を討ち取って大功を立てたので、曹操は彼が劉備のもとへ去ることを予期しつつも、あえて厚い恩賞を与えた[4][24]。関羽はこれらの賜り物に一切手を付けず封印し、曹操へ書状を捧げて別れを告げると、劉備のもとへ出奔した。曹操はその義侠心を称賛し、関羽を追撃しようとした配下たちを制止して、「追ってはならない」と言い聞かせた[4][25]。その後、関羽は劉備と再会し[13][20]、劉備が袁紹のもとを去って荊州の劉表を頼ると、これに同行した[4][25]。
荊州を鎮守する


(1853年・大英博物館所蔵)
建安13年(208年)、劉備が襄陽の名士である諸葛亮を三顧の礼で迎え入れて重用するようになると、関羽は張飛とともに強い不満を覚えた。しかし劉備は、「わたしと諸葛亮の関係は魚が水を得たようなものである(水魚の交わり)」と2人を諭した[26][27]。
同年、劉表が病死し、曹操が荊州へ侵攻すると、樊城から南下して江陵を目指した劉備の指示により、関羽は数百隻の船団からなる別働隊の指揮を執った[4][25]。途中、長坂の当陽で曹操軍の追撃を受けた劉備は敗北したものの、漢津で関羽の船団と合流して危地を脱し、ともに夏口へ向かった[4][25]。その後、諸葛亮と魯粛の仲介によって孫権が劉備へ援軍を派遣すると、孫権・劉備連合軍は赤壁の戦いで曹操軍を破り、曹操は荊州制圧を断念して撤退した[4][28]。
建安14年(209年)、孫劉連合軍と曹操軍の間で南郡攻防戦が始まる。関羽は北道を封鎖して曹操軍の援軍を防ごうとしたが、李通率いる曹操軍に突破され、包囲されていた曹仁は救出された。その後、曹仁らは江陵を放棄して撤退したため、周瑜らは江陵を占拠し、南郡の平定に成功した。その隙に劉備は江南の諸郡(武陵・長沙・桂陽・零陵)を平定し、公安(油江口)を本拠地とした[29][30]。そして関羽を襄陽太守・盪寇将軍に任命、長江北方の守備を任せた[注釈 4][4][31]。しかし、この荊州における所領の拡大と布陣は、のちに孫権との間で深刻な争いの火種となる。
劉備が益州へ進出して劉璋と敵対すると(劉備の入蜀)、諸葛亮・張飛・趙雲らは益州へ向かい、荊州の留守は関羽が単独で預かることとなった。この頃、襄陽に駐屯していた曹操配下の楽進と襄陽郊外の青泥で対峙したが、その攻撃を受けて蘇非と共に敗走している。このとき、文聘に関羽の輜重や軍船を焼かれたという[13][32]。
その後、荊州刺史・傅羣の主簿であった楊儀が関羽のもとに降ってきた。関羽は楊儀を功曹に任命して劉備のもとへ使者として派遣し、劉備はその才能を認めて手元で重用した[33]。のち劉備が益州を平定すると、関羽は張飛・諸葛亮らとともに多大な恩賞を受け[8]、荊州の軍事総督に任命された[4][31]。
孫権軍との衝突

建安20年(215年)、荊州領有の正当性を主張する孫権は、問題が解決しないことに業を煮やして呂蒙らに命令を出し、長沙・桂陽・零陵の三郡を襲撃させた。呂蒙の謀略により零陵太守の郝普は降伏し、これを受けて関羽は3万の兵を率いて益陽へと布陣した。さらに劉備も自ら大軍の指揮を執って関羽の助勢に駆けつけ、一時は孫劉同盟の崩壊の危機に至った[13]。しかし、これを打開するため、関羽は背後で工作を行い、長沙郡の安成・攸・茶陵の三県や、揚州廬陵郡の永新県の官吏らが桂陽の陰山城で謀反を起こし、さらに長沙郡の安成県令・呉碭と中郎将の袁龍も関羽と気脈を通じ、再び反乱を起こした[34]。
こうした情勢に加え、この年に関羽が陣取る北で曹操が自ら大軍を率いて漢中の張魯を攻撃したことから、両陣営に和平の機運が高まった。結果として関羽と魯粛の会談が実現したが、会談は孫権側の魯粛のペースで進み、関羽はしばしば論破された[35]。最終的に、湘水を境界として長沙・江夏・桂陽を孫権領とし、南郡・武陵、そして一度は奪われた零陵を劉備領とすることで合意に至った[13]。
建安22年(217年)の魯粛の死後、陸口に赴任した呂蒙はひそかに計略をめぐらせ、表面的にはこれまで以上に関羽と親密に接した[36]。だが、関羽の荊州統治は恩徳と威信がよく行き渡っていたため、呂蒙はなかなか隙を見出すことができなかった[37]。その後、孫権から自身の子と関羽の娘との婚姻を申し入れる打診があった。しかし、関羽はこの使者を罵倒して縁談を拒絶したため、孫権を激怒させた[注釈 6][4][38]。
威を華夏に震わす
建安23年(218年)、侯音は宛で曹操に対して反乱を起こし、関羽と気脈を通じた。また魏に従わない反乱者や盗賊の中には、弘農郡陸渾県の孫狼のように関羽から印綬や称号を受けて魏に反抗する者たちもいた。建安24年(219年)春正月、曹操の部将である曹仁と龐徳は宛を陥落させ、侯音を斬った。

同年秋、関羽らは群臣と共に劉備を漢中王に推挙した。劉備が漢中王を称すると、関羽は前将軍・仮節鉞に任じられた。その直後、関羽は子の関平や都督の趙累らと共に樊城を守る曹仁を攻撃した[39]。救援に駆けつけた于禁率いる七軍は、折からの大雨による水害が発生して水没した[4][40]。関羽は船団を率いて攻撃をかけ、于禁および3万の兵を降伏させ、さらに樊城の北に駐屯していた龐徳を斬った。また、このとき荊州刺史の胡修や南郷太守の傅方らが関羽に降っている。関羽は樊城を完全に包囲し、さらに別将を派遣して呂常が守る襄陽までも包囲した。関羽が周辺各地へ印綬を配って工作したこともあり、梁・郟・陸渾といった曹操領内の群盗が一斉に蜂起し、中原は大いに震動した[注釈 7][4][38]。
この事態に狼狽した曹操は遷都まで考慮したが、司馬懿と蔣済は「于禁らの敗北は天災によるものであり、国家の基盤が揺らいだわけではない」と諫めた。さらに、孫権を利用して関羽を背後から攻撃させる策を提案したため、曹操はこれを受け入れた[注釈 8][4][38]。その一方で徐晃を派遣して曹仁を救援させ、さらに董昭の進言により「孫権が関羽の背後を攻撃する」という情報をあえて樊城の守備軍や関羽軍に漏らさせた。この情報により樊城の曹操軍の士気は大いに上がることになる。
関羽は当初、孫権に対する備えとして長江沿いに守備兵を置いていた。しかし、病気と称して前線を離れた呂蒙の後任として、陸口に赴任してきた陸遜の謙った手紙にあっさり油断して警戒を解き、江陵や公安の守備兵を前線へと送ってしまった[注釈 9][36][43]。
これを見た孫権は呂蒙・陸遜らに命じて関羽への攻撃を開始した[注釈 10]。当時、劉備は南郡を糜芳に、公安を士仁に守備させていたが、両者は日頃から関羽との折り合いが悪かった。そこに着目した呂蒙は巧みに誘いをかけて両者を寝返らせ、関羽の重要拠点である江陵・公安を無血で奪取した[4][38]。その後も陸遜らの働きによって荊州の劉備領は次々と攻略されていった。
最期と死後

(桜井雪館・フィールド自然史博物館所蔵)
襄陽・樊城を落とせなかった関羽は、やがて徐晃の攻撃を受けて敗北し、樊城の包囲を解いた[注釈 11][4][38]。その後、背後を突かれて関羽軍の基地や輜重が奪われたことを知ると、襄陽の包囲も解いて撤退を余儀なくされた[44]。
関羽は呂蒙のもとへ何度も使者を送り、状況を探ろうとした。しかし呂蒙は、使者に対して関羽の部下たちの妻子を厚遇している様子をわざと目撃させた。その使者の口から家族の無事を知った関羽の将兵たちは戦意を失い、やがて軍は四散して大半が孫権軍へと降伏していった[36][4][38]。孤立した関羽は当陽まで引き返したものの、孫権が自ら江陵に軍を率いてきていることを知り、西の麦城へと逃走した[1][36]。孫権から降伏を勧告する使者が派遣されてくると、関羽は偽りの降伏を見せかけて脱出した[1]。しかし建安24年12月初旬(220年1月)、臨沮において退路を断たれ、関平らと共に捕らえられ、ついに処刑された[注釈 12][注釈 13]。
『呉歴』によれば、関羽の首級は孫権の使者によって曹操のもとへ送られ、曹操はこれを諸侯の礼をもって洛陽に葬った[4][46]。一方の孫権も、当陽において関羽の遺体を諸侯の礼をもって手厚く葬った[47]。なお、関平と共に命を落とした者を除き、関羽の残された家族らは呂蒙のもとで手厚く保護された[36]。
章武2年(222年)、関羽を失ったことに激怒した劉備は呉征討を決意したが、その出兵準備の最中に張飛が部下に暗殺された[8][48]。その後、劉備率いる蜀軍は夷陵の戦いで呉軍に大敗を喫し、章武3年(223年)6月、劉備は白帝城で病没した[13][49]。
人物
出自・容貌

- 出自に関する情報は「河東郡解県の人」であること以外は史伝に記されず、家族や身分については一切不明である[50]。歴史学者の渡邉義浩は、劉備・張飛と「侠」としての強い繋がりがあったことから、平民の出と見なしている[51]。
- 関羽の本来の字は「長生」であり、時期は不明であるがのちに「雲長」へと改名した。渡邉は、字と諱には関連性や同義性を持たせる慣習があったことを指摘し、「長生」では「羽」との関連性がないことから、こうした命名の慣習をのちに学んで改名したと推測している[50]。
- 出身地が中国最大の塩湖である「解池」の近郊であったため、「塩の密売に関わっていた」という伝説がある。また、地元・山西省の伝承では「暴利をむさぼる塩商人を殺害して官吏に追われ、幽州へ亡命したのち[52]、姓名を変えて〈関羽〉と名乗った」とも言われる[53]。
- 年齢は不詳である[注釈 14]。『三国志演義』では「58歳で没[54]」、「身長9尺(約208cm)」、「赤ら顔」、「得物は青龍偃月刀」などと描かれるが、これらはすべて後世の創作である。しかし史実においても立派な鬚髯(しゅぜん:あごひげとほほひげ)をたくわえており、諸葛亮からは親しみを込めて「
髯 ()」と呼ばれていた[55]。
性格・逸話

(葛飾応為『関羽割臂図』・1840年代)
- 『春秋左氏伝』を好み、ほぼ暗誦することができた[56][9]。
- 敵味方に分かれながらも張遼や徐晃とは深い親交があり、『傅子』では張遼のことを「兄弟」と呼び[57][25]、『蜀記』では徐晃を「大兄」と呼んでいたとされる[16][58]。
- 『蜀記』によれば、かつて劉備らが許昌にいたころ、曹操とともに狩猟へ出向いたことがあった。その最中、曹操の護衛らが散らばった隙に、関羽は劉備に対して曹操を暗殺するよう進言したが、劉備はこれを受け入れなかった。のちに長坂での敗戦を経て夏口へ落ち延び、川のほとりで身を寄せ合っていた際、関羽は「あのとき私の進言に従っていれば、このような窮地に陥ることもなかったものを」と不満を漏らした。これに対し劉備は、「あのときは国家の大事のために彼の勢力を利用する必要があったのだ」と諭したという[注釈 16][16][31]。
- 建安24年(219年)に龐徳から毒矢を受けた際[60]、毒が骨にまで染み込んでいたため、医師に関節を切開させて毒の染み込んだ骨を削り取らせることにした。関羽は部下たちと宴会の最中で手術を受け、痛むそぶりも見せずに酒を飲んで肉を喰らい、平然と談笑していたという[注釈 17][4][39]。
- その一方で、自負心が強く傲慢な面があり、同僚を軽んじる傾向があった。
- 糜竺の弟で糜夫人の兄である糜芳や、将軍の士仁とは折り合いが悪く、荊州治中の潘濬とも親交を結ぼうとしなかった[61]。
- 張飛とともに、劉備が諸葛亮をあまりに厚遇していることに嫉妬したが、劉備に諭されると態度を改めた[62][63]。
- 馬超が劉備に帰順した際、諸葛亮へ手紙を送り「馬超の力量はどの程度か」と尋ねたところ、「馬超は張飛と並び立つ者だが、髯の絶倫には及ばない」との返信をもらい、大いに喜んでその手紙を客人に見せびらかしたという[4][31]。
- 関羽が前将軍に任じられた際、黄忠が後将軍に任じられると知ると、「あんな老兵と同格になれるか!」と激怒して就任を拒否しようとした。しかし、使者の費詩から君臣のあり方を説かれて諫められると、深く反省して即座に拝命した[64]。
家族

| 関羽 | 劉備 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 関平 | 関興 | 娘 | 劉禅 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 関統 | 関彝 | 女 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
- ※参考資料:[4]、[65]を基に作成。
- 関羽の子孫は蜀漢の列侯の一人として続き、関興は蜀漢の官僚として将来を嘱望されたが、20数歳で早世している[4]。
- 炎興元年(263年)、蜀漢の滅亡の際、関羽に殺された龐徳の子である龐会が、関羽の一族を皆殺しにしたという記録が残る[16]。ただし、王隠の『蜀記』は裴松之がたびたび注釈で指摘するように、創作が多く信憑性に欠けるとされ、『三国志』を著した陳寿や、蜀の地誌『華陽国志』を著した常璩らは、いずれも「関羽の一族が皆殺しにされた」という話を記していない。
- 関羽の娘(名は不詳)は、民間伝承に登場する「関銀屏」のモデルとされる(→関銀屏)。また、清代の地方史の記録では、関平と趙雲の娘(趙氏)との間に「関樾」という子が生まれたとされている(→関樾)。
- 南朝宋の河東郡の関康之[53]、唐代の宰相である関播は、関羽の末裔とされる[66]。現代においては、関羽62代子孫を名乗る関新剛なる人物が中国に在住しているが、実際に子孫であるかどうかは定かではない[53]。
祠墓
評価
同時代の評価

(明代・平原博物院所蔵)
曹操からは劉備に対する揺るぎない義理立てを高く評価された。関羽の死後、劉備が呉に対して報復を行うかどうかを曹丕が臣下に諮った際、臣下たちは「蜀は小国で、名将と呼べるのは関羽一人[注釈 18]」、「勇は三軍に冠たる将である」と評したように[67]、その武勇は当時の諸勢力からも、たびたび張飛とともに称えられた。
その一方で、元部下であった廖立からは「自分の勇名を恃んで猪突猛進したため、前後の戦役(樊城の戦い)でたびたび兵を失う原因となった[73]」と批判されるなど、その傲慢な性質は評価の分かれるところでもあった。蜀漢の楊戯も『季漢輔臣賛』において、張飛と共にその気宇の大きさと危うさを並び称している。
『三国志』を著した蜀漢・西晋の陳寿は、関羽・張飛の人物評をこうまとめている。
陳舜臣はこれを、関羽も張飛も、共に低い身分から士大夫に出世したが、関羽の場合は今や同じ身分となった士大夫に対しての傲慢な振る舞いとなり、張飛の場合は士大夫に出世したことを喜んで同じ身分の者には敬意を払ったが、下の者に対して傲慢になるという正反対の行動になったと解釈している[78]。
後世の評価
唐代には、唐朝以前の中国史を代表する名将64人の一人として、蜀漢から張飛と共に「武廟六十四将」に祀られている。さらに宋代に朱子学が興隆すると、道徳秩序の再構築と忠孝節義の奨励が進められたことから、蜀漢の諸葛亮・関羽・張飛は「三英」として顕彰される重要人物に位置付けられた[79]。以降、「義」の体現者として広く評価・神格化が行われ、「関聖帝君」として民衆の間でも厚く祀られるようになっていった(→#追封と栄誉、#関羽信仰)。
- (呉~西晋)陸雲:「関羽は滔天の勢いを誇り、雲のごとく西土に作興した。帝は将軍に詔し、その熊虎の如き猛き軍勢を整えしめた」[80]
- (西晋)張輔:「張飛・関羽は、みな人傑である」[81]
- (西晋)趙廞:「李玄序(李庠)は、まさに一時代の関羽・張飛のような人物である」[82]
- (西晋~東晋)葛洪:「皆が勇力がずば抜けている者を、上将の器であると言う。治乱をよく聞き知る者を、三九の才であると言う。しかし、張飛や関羽は万人敵であったが、みな首を喪い主君を辱め、しかるべきでない場所で首を差し出した」[83]
- (南涼)禿髪傉檀:「臣子が君父のもとへ逃げ帰ることは、古来より変わらぬ大義である。それゆえ魏武(曹操)は関羽の帰順を称賛したのだ」[84]
- (西涼)李暠(武昭王):「群雄の優れた足跡を讃え、関羽・張飛の卓越した気風を嘉みする。曹公に報いることを誓って劉備のもとへ帰還した、その義勇のなんと超越していることか! 断橋に拠って矛を横たえる姿もまた、雄々しく壮大な発露である」[85]
- (東晋)常璩:「初め、張飛の勇猛さは三軍に冠し、関羽と共に万人敵と称された。羽は小人をよく待遇したが士大夫には驕り、飛は君子を愛し敬ったが小人を顧みなかった。これこそが皆、敗れた所以である」[86]
- (前涼)張茂:「劉曜は呂布や関羽に匹敵しうるというのに、曹操には及ばないと論じるのは、どうして誤りではないと言えようか」[87]
- (北魏)宣武帝:「卿は進みては陳平が漢に帰順したような智謀もなく、退いては関羽が節義をまっとうして殉じた忠義に欠けている。窮城に閉じこもって長沔の地で憂悶するのみであり、機知も勇気も両方欠如している。なんとも嘆かわしいことではないか!」[88]
- (北魏)崔鴻:「劉淵の別将である劉翼は、驍勇さが人並み優れ、片手で殿の柱を持ち上げ、平陽門を跳び越えた。時の人は彼を張飛・関羽になぞらえた」[89]
- (南朝梁・北周)庾信:「公(田弘)は仕官すること45年、身に106回の戦いを経た。身体を貫く戦傷や刃に冒されるさまは曹参をはるかに超え、骨を削って薬を塗る治療は関羽の故事に多く重なる」[90]
- (南朝陳)呉明徹:「君(蕭摩訶)には関羽や張飛の名声があるのだから、あの顔良を斬るようなものだ」[91]
- (隋)虞世南:「利に動かず、爵位に縛られず、威に屈せず、害に折れず。心はきわめて誠実にして、義烈はきわめて激しい。偉大なる丈夫、真の豪杰。綱常はすべて備わり、古今これに絶ゆ」[92]
- (初唐)王勃:「先主(劉備)の寛仁にして衆を得たこと、張飛・関羽が万人敵であったこと、諸葛孔明が管仲・楽毅に比すべき傑物であったこと。この三者が力を合わせれば、天下を取ることも可能であっただろう」[93]
- 劉知幾:「関・張は傲誕をもって将軍とし、桑弘羊・霍光は満盈をもって職に居る」[94]
- 賀遂亮:「趙雲は一身全て胆、勇敢三軍。関羽は万人の敵、その声名は百代にわたって雄々しい」[95]
- 楊炯:「城を攻め野戦に臨むにあたっては張飛・関羽、奇策密謀においては荀攸・賈詡」[96]
- 杜甫:「誰が関羽・張飛と並び称されるだろうか。功績は耿弇・鄧禹の功臣に臨る。天資に応じること小さくなく、士を得るにあたって比類なき契りがあった」[97]
- 趙蕤:(虞世南は言う)あの孔明(諸葛亮)は、時代に命じられた稀代の奇才であり、伊尹や呂尚(太公望)の匹敵者であった。(中略)もし、彼を曹公(曹操)と地を換えて処り、その長算を存分に振るい、関羽・張飛の武略をほしいままにし、諸葛の文徳を尽くさせれば、覇王の大業は成し遂げられていたであろう」[98]
- 岑参:「敵騎が無数に襲来すれども、君を見ては敢えて対当することなし。漢の将軍ならば小衛青・霍去病であり、蜀の将軍ならば関羽・張飛を凌駕する」[99]
- 王維:「関羽の絶倫さによらずして、どうして虎臣の間に身を置き閣にその形を儀形することができようか」[100]
- (中唐)李徳裕:「蜀の先主は、関羽・張飛と寝起きを共にしたが、大勢の人の集まる場所では、彼らは終日そばに侍立していた。皆、この道を用いたからこそ、成功を収めることができたのだ。そもそも英傑を御し、猛将を使うのは、道徳を身につけた人物と会い、方正な士と交わるのとは違う。煩雑な礼儀で外見を飾り、浮ついた言葉で繕ってはならない。胸襟を大きく開き、肝肺を見せるべきである。気迫でその勇猛さを畏縮させ、恩愛でその心を結びつけるのだ。たとえ裸足で座って召し寄せたとしても、粗略とはならない。安禄山は、夷狄(異民族)の中の狡猾な者であって、将門の英豪や、在野の奇傑ではなく、その戦闘の気概、撃刺の才は、関・張からは遥かに遠い」[101]
- 郎士元:「将軍は天性の資質を秉り、義と勇は今昔に冠たり。馬を走らせて百戦の場を駆け、一剣をもって万人の敵たり。誰ぞ感恩の者と言うべきか、意は故郷へと思いを馳せる帰郷の客にある。流落して荊州・巫山の間にあり、徘徊して故郷とは隔てられている。別れの宴でこの宮宇に向かい、暮れゆく青天のもとで酒を洒ぐ。去りゆくのみで語る言葉もなく、悲しみを抱いて昔日の跡地へと向かう」[102]
- 元結:「いかなる人の恩信が田横を過ぎており、いかなる人の壮勇が関羽に等しいであろうか」[103]
- (晩唐)杜牧:「天下に双璧なき将軍、関西第一の雄。黄石公より兵符を受け、白猿翁より剣術を学ぶ。矯々たる雲長の勇気と、恂々たる郄縠の風範」[104]
- (晩唐〜前蜀)徐夤「雖も関張を倚みて萬夫を敵とするも、豈恩信を良図と作すに勝得んや。能く漢祚の三分せる業を均し、荊州の六尺の孤に背かず。緑水に魚有りて賢已に得られ、青桑蓋如くにして瑞先づ符す。君王幸いに是れ中山の後なるに、国を建つるに如何ぞ蜀都と号する」[105]
- 貫休:「龔遂や劉寛のように慈しみに満ちていようとも、張飛や関羽のようにはやたらに駆け回りはしない」[106]
- 皇帝僖宗:「前左武軍大将軍の宋皓は、関羽・張飛の勇気と智略を負い、韓信・白起の英雄の気風を有し、累次して戦功を著し、ふたたび宿衛の官に任じられた」[107]
- (五代十国) 後晋の出帝・石重貴:「(張彦沢を評して)猛きこと関羽・張飛のごとく、気概は荊軻や聶政を呑み込み、重要な任務を任されては常に多大な功労を著した」[108]
- (新羅)崔致遠:「いわゆる〈非常の人ありて、のちに非常の事あり〉という。絳侯(周勃)や灌嬰もまた一時の俊傑であり、関羽・張飛も累代の功名にあらずして、その氏名を金鼎や玉鐘に刻み、その儀形を雲台や煙閣に飾る。永くそのすべてを語り尽くして、誰ぞあえて先を争う者があろうか」[109]
- (北宋)徐鉉:「唐室は崩壊し、諸侯が角逐した。呉武王は春秋五覇の桓公・文公のような挙兵を行い、我が先君は関羽・張飛の用兵にならった。敵陣を打ち破り地を掠め、向かうところ前に行く手を阻むものなし。功績は時代に加わり、慶事は後代に鐘まった」[110]
- 孔平仲:「狄青、字は漢臣。李元昊が叛いた際、たびたび兵を率いて出陣し、四年の間に大小二十五度の陣を交え、流れ矢に当たることは八回に及んだ。人々は彼を〈狄天使〉と呼び、皇帝がその儀表をご覧になって言われた。〈朕の関羽・張飛である〉」[111]
- 陳淵:「当時、先主は関羽・張飛を得たればこそ、西川の弱を以て強に勝たしめることができたのだ」[112]
- 李邦直:「天下の義士たちは、雲長の徒が腕をまくって徐々に去っていくように、管寧の属が海に浮かんでこれを避けた」[113]
- 張士貴:「これこそ絳州の義軍都頭目である薛懐玉である。この人は勇ましきこと関羽・張飛のごとく、智謀は伊尹と同じくし、大任を担うにふさわしい」[114]
- 曹勛:「帝は関羽・張飛の勇を認め、その気概は豺虎の群れをも呑み込む。忠誠は白日に照り輝き、終始一貫して明君を輔翼した。その功績は星辰の如く耀き、哀悼と栄誉は鳳口の墳墓に集まる。家を伝えて賢嗣あり、血の涙は江上の雲に入る」[115]
- 張商英:「月は欠けても光を改めず、剣は折れても鋩を改めず。月は欠けても白く満ち易く、剣は折れてなお霜を帯びる。勢利は尋常の事なれば、志士の腸を屈せしむること難し。男児に死節あり、殺すべしにして量るべからず」[116]
- 朱熹:「ちょうど関羽が顔良を擒にしたようなもので、ただこの人の存在しか知らず、他に誰も目に入らず、まっすぐにその首を取って帰ったのである」[117]「関羽は才能を恃み気性が疎略であったため、自らその敗北を招いた」[118]
- 洪邁:「古来より威名ある将軍にして、蓋世の功勲を立てながらも、晩年に過ちを犯して全うできず、多くは功績を恃み能力を誇り敵を軽んじたことに失着している。関羽は万衆のなかにあって袁紹の二将・顔良と文醜をその手で斬り殺した[注釈 20]。そして曹仁を樊城に攻めたときには、于禁ら七軍をみな没し、関羽の威武は華夏を震わし、曹操は許都の遷都を議してその鋭鋒を避けようとした。その功名は盛大であった。しかしながら、呂蒙や陸遜の詐術を悟らず、竟に孫権の計略に堕ち、父子ともに囚われの身となり、大事を敗るに至った」[119]
- 陳亮:「そもそも関羽は勇を好みにして謀がなく、気概を恃みにして功績に驕っていた。このゆえにその形勢は極めて計略にかけやすかったのである」[120]
- 陳元靚:「剣気は雲を凌ぎ、実をこれ虎臣と曰う。勇は一国のごとく、万人の敵たり。蜀はその翼を展べ、呉はその鱗を折る。惜しいかなその中庸ならざる勇は、前後を通じて比類なきものであった」[121]
- コルイ:「崇宁廟に参謁すれば、遺容古貌は寒々たり。戈を奮って漢の王祚を扶け、将を斬って曹瞞(曹操)に報ゆ。忠烈は条山と並び、英霊は土を解して安んず。未だ呉・魏を雄にすることができずとも、常に後人に嘆息せしむ」[122]
- 迺賢:「昔、玉泉寺に遊び、馬を松樹の林に系ぐ。大影の上に独り坐し、浩歌して梁父吟す。老衲林の下より来たり、我に三古の印を示す。連環は螭紐を絡み、篆画は蒼暈を蝕む。将軍の筋は敵なく、勁気は九州に横たわる。志は漢の鼎を復することにあり、豈に身の封侯を事とせんや?昭烈の勢いは孤危にして、侯を恃みて堅塁と為す。威は曹家の阿を震わし、胆は中夜に起きて落つ。浮雲は幾たびか変滅し、瑑刻は実に模すべし。今人の千載の下、拂拭して空しく嗟吁す」[123]
- 李廌:「英雄を並べれば、関・張はその武を奮い、俊良を登用すれば、龐統や蒋琬はその職をよく務める」[124]「三方は各々虎視眈々と踞り、猛将みな群れをなす。屹然として万人の敵、唯だ髯(関羽)のみ絶倫と称す。節を仗じて気は世を蓋い、矟を横たえて勇は冠を競う」[125]
- 黄履翁:「古の烈士の才略といえば、向寵、柳渾、蔡道貴、鮑昭である。あるいは軍事に明るく、敵を万里の外から見抜き、あるいは勇猛さが関・張に比し、あるいは太原での治績が顕著である」[126]
- 汪藻:「重囲を決して勝ちを制す、張飛・関羽の万人の敵のごとくである」[127]
- (金)趙秉文:「壮なること敵を破るが如く、勢いはことさら賊を擒にするが如し。関羽の義勇や、張綱の奮烈に至っては、堅陣より鯨鯢(大魚・大悪人)を取り、進路に立ち塞がる豺狼を叱咤する」[128]
- (南宋)岳飛:「一死など取るに足らない。後世の書物に岳飛の名を知らしめ、関・張ら輩の不朽の功烈に我も連なることを望むのみ」[129]
- 劉克荘:「骨はすでに黄泉の下に朽ち果てたが、その伝記はいまだに青史の中に列せられている。猛き朴の時代に到りては相となり、関・張の運が去りては英雄となる」[130]「甘寧や関羽は今に至るまで伝えられ、名将が神となることは古来より然りである。生きて三万戸の封侯を受けずとも、死してなお数千年にわたり祭祀を受ける」[131]
- 陳著:「厦は傾き木は支えにならず、鼎は重く足が先に折れる。関羽や張飛も天寿を全うせず、儀秦や秦開もまた舌を失う」[132]
- 賈似道:「勝負どころでの関・張の勇猛さを知るべし、頭は小さく牙は長く、体は金の如し」[133]
- 陸游:「顔良や文醜を知って何ほどの益があるだろうか。関羽や張飛の死は痛ましい。同じく人中の驍将と称されながらも、太山は一筋の毛先にも及ばない」[134]
- 葉適:「耿豪はたとえ凶暴粗暴であって取るに足りないとしても、これに関張を比擬するのは、またしてもその細事にすぎない」[135]
- 員興宗:「我が故郷より遣わした騎馬兵は、斥候騎兵にすぎない。どうして誰でも彼でも関・張のようであろうか!」[136]
- 蕭常:「関羽や張飛は万人の敵たる勇猛さには富んでいたが、その行いを慎重に探ることを知らなかった。彼らは皆、国士としての風格を持っていたが、しかし羽は剛情で驕り、飛は暴虐で恩に乏しかった。これこそが彼らが敗れた所以である」[137]
- 胡琦:「孰れか雲長の大勇憤発し、心に義を忘れず、漢の昭烈に事え、生死を同じくすることを誓うに如かん。荊州を守ること九年、賊はこれを虎の如く畏れ、討樊の挙は、忠烈の気宇を鼓し、奸雄の胆を破る、壮なりと謂わざるべけんや! 惜しいかな事機垂成にして、禍は所忽するに生じ、乃ち其の志を守り、終始回らず、卓然として漢の忠臣たり、独り後世に称せらる。玉泉に廟食し、今に至って絶えず。四方の祈謁、霊応は響くが如し、亦た盛んならずや? 及んで其の事迹本末具存するを考うれば、国志の載せざる所は衆籍に散在し、文字交錯し、検尋を用い難く、これを覧る者病まざるはなし」[138]
- 張珣:「憶ふ昔の天下初めて三分し、猛将并び駆りて誰か群を軼する。桓々たる胆気は万人の敵、臥龍は独り髯将軍を許す。威は曹瞞を呑み込んで許を遷さんとし、中興の当日は元勲を推す。惜しいかな我が壮繆の功は就ならず、竟に豺兕をして還りて紛紛たらしむ。血食千年廟貌古く、歳時歌舞今だに勤む。君見ずや天都・霊武の巣いまだ覆らず、髀を撫でて常に漢寿君を思ふ」[139]
- (元)郝経:「関羽と張飛は昭烈と血を啜って義をもって立ち上がり、早くから君臣の分を定め、漢室の回復を期し、百度折れながらも王業を興した。唸るさまは二虎が風に嘯き、龍に従うがごとく、張飛がこれを挟み、雄猛さは一世を震わせ、「万人敵」と号された。関羽は曹操に報恩の書を送り去り、張飛は瞋目して矛を横たえて曹操と決した。その義烈は天に届き、漢はこのためにも滅びなかった」[140]
- 「羽の儀状は雄偉にして、岳々として義を尚び、厳として神人のごとし」[141]
- 「昔の魏武(曹操)の関侯に対するに、梁の髙祖(蕭衍)の賀抜勝に対するに、孔明の徐庶に対するに、みな謀臣猛将にして、反覆して去就し、その留まらざるを知り、意なお固く止むることなし」[142]
- 「雲長は万人の敵にして、而るに呂蒙がこれを襲取す。昭烈は一世の雄にして、而るに陸遜がこれを摧破す。漢の義師は、復た東征せず。ただ梁・益を保ち、呉は遂に荊・揚を蹈み跨ぐ。操は図るべからず、丕は乃ち曹氏より禅代す。遂に中国を有し、而して天下三分す、殆ど人謀にあらずして亦た天意なり」[143]
- 「馬を躍らせて将を万衆の中に斬り、侯印賜金は自ら封を還す。刀を横たえ書を拝して曹公を去り、千古凛々たる国士の風。荊・益を跨有して戦攻を事とし、許・洛を直指して一戎を期す。操は喘ぎ気うせて鋒を避けるを謀り、権は鯨梟にして象恭を示す」[144]
- (明)朱元璋:「常遇春に戒めて言った。〈敵を克つは勇に在り、全勝は謀に在り。昔、関羽は万人之敵と号されたが、呂蒙に破られたのは無謀であったればこそである。汝らは宜しく深くこれを戒むべし〉」[145]
- 李卓吾:「雲長は信義にして計略を設けず、その徐晃を待つを観れば明かなり。到底これ君子にして小人の如く、外はその貌を厚くして衷は甚だ薄き者にあらず」[146]
- 王夫之:「呉と蜀の友好関係は長く続かず、関羽はすでに死亡し、荊州も失われた。曹操は二国の亀裂に乗じ、憚ることなく矢継ぎ早に簒奪を進めた。この事態において、関羽がその責任を逃れることができようか、いや、できない。関羽が江陵を守っていた頃、たびたび魯肅と疑心暗鬼を生じさせていた。その結果、諸葛亮の(呉と蜀の同盟という)方針は十分に発揮されず、魯肅もまた苦悩させられたのである。魯肅が親善をもって関羽をなだめたのは、果たして関羽びいきであったからか、あるいは劉備を恐れてのことだったのだろうか。彼が求めていたのは(呉と蜀が)力を合わせて曹操に対抗することであり、その言葉はただ外交辞令として発せられたわけではない。しかし関羽はそれを理解しようとしなかったため、魯肅の心労がいかに並大抵のものでなかったかが知られるのである」[147]
- 「関羽は、可用の材なり、其の可用を失いて卒に敗亡に至るは、昭烈のこれをおごらせ、これに私したればなり、将を将とするの道にあらざるなり」[148]
- 方回:「万人が翰墨を執れども、一人の曹思王(曹植)なし。万人が干殳を握れども、一人の関雲長なし」[149]
- 龔開:「大刀の関勝は、どうして雲長の孫と言えようか。雲長の義勇、汝はその子孫なり」[150]
- (清)趙翼:「漢以後、勇者を称える者は必ず関・張を推す」[151]
- 乾隆帝:「関帝は傾きかけた漢王朝を全身全霊で支え抜き、その強い意志と節義は冷徹なまでに気高い。しかし、陳寿が『三国志』を編纂した際には、私見や感情が多く挟まれている。正史に残された諡号でさえ、未だに批判や批評の含意を帯びている。これではどうして真の事実を後世に伝えられようか。今まさに『四庫全書』の編纂にあたり、(関羽の諡号を)改めて〈忠義〉と称することとする。武英殿においてはこの帝室の旨を(『三国志』の)伝の末尾に刊刻させ、もって天下に対する大いなる公平無私の心を示すものである」[152]
追封と栄誉
神格化の歴史

(韓美林作・荊州区関公義園)
政治面から見ると、乱世の中で主君に対して終始一貫して忠誠を尽くした関羽は、為政者にとって絶好の模範(賞賛すべき人物)であった。そのため、歴代王朝から次々と追封を受けることになった。
- 北宋:皇帝徽宗より「武安王」、「崇寧真君」
- 南宋:「義勇武安王」
- 明初:神号「協天護国忠義関聖大帝」
- 熹宗皇帝より「三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君」
- 清代:順治帝より「忠義神武関聖大帝」
- 宣統帝より「忠義神武霊佑仁勇威顕関聖大帝」
- 光緒帝より「忠義神武霊祐仁勇威顕護国保民精誠綏靖翊賛宣徳関聖大帝」
多くは王朝初期と末期に追贈がされており、政策の一環や国内外の情勢が垣間見える。なお、清朝が公認した後述の関帝信仰は、満洲を劉備、蒙古を関羽に準えた兄弟結盟を背景とし、蒙古との関係を維持する目的もあった[153]。
諡号の諸問題
蜀漢から贈られた「壮繆」の「繆」とは、「評判(名誉)と実態が一致しない」という意味を持つ悪諡(不名誉な諡号)であり、「穆」の場合では「人徳を広く施し義を守る。心中の誠実な気持ちが相貌に表れている」という意味を持つ美諡である[154]。そのため、関羽の諡は美諡か悪諡か、しばしば研究者間で議論となり、以下の見解が知られる。
- 美諡:明代の政治家・程敏政「古代において〈繆〉と〈穆〉は通じて用いられており(例:秦の穆公を「繆公」と表記するなど)、『左伝』や古本『礼記』でも同様である。したがって〈壮繆〉の〈繆〉は〈穆〉と同義であり、徳を称える美諡である。歴史書(『三国志』)によれば、当時の世論もこれを名誉[155]と見なしており、後世の学者が悪諡と決めつけるのは道理に合わない」[156]
- 悪諡:清代の学者・梁章鉅「〈壮〉〈繆〉はどちらも決して美諡であるはずがなく[注釈 21]、当時なぜこのような諡号が贈られたのか理解に苦しむ。実際、のちに「武英殿本」などの官版書籍では〈忠義〉に改められ、乾隆帝の諭旨も刊載されている」[158]
- 中華民国の学者・盧弼は、「程敏政の説は極めて妥当であり、梁章鉅の説は正しくない。後代になって諡号を改めること自体はともかく、本来の歴史書の伝記本文まで改変してしまうことは決してあってはならない」として、程敏政の説を支持している[159]。
関羽信仰
鬼神から善神へ

(作者不詳・1736年 - 1795年頃)
関羽が死んでから唐代以前までの約400年の間、人々からの注目や人気はさほど高くなかった。例えば六朝時代の『神仙伝』、『捜神記』、『拾遺記』、『世説新語』や殷芸『小説』などといった小説は三国時代の人物に多く触れているが、関羽への言及は皆無に等しい。唐代になると詩文の中に詠われるようになるが、なお一般的な賛美にとどまっていた[160]。また荊州地区における怨霊伝説の一種ともなっている。関羽は「関三郎」という祟りをなす鬼神として范攄『雲渓友議』や孫光憲『北夢瑣言』といった筆記小説に登場しており、後者においては「関妖」という呼称も見られる[161][162]。
しかし宋代になると、政治的理由(前節)と庶民文化の隆盛に伴って人気が徐々に上昇し、元代では関羽は数多くの雑劇の演目で主役となった[163]。明清時代にはさらに美化と神格化が進み、清代においてはついに「関聖大帝」として聖賢の列に加わり、天子と同様に避諱の対象となった。元来は悪神であったイメージも士大夫階級の操作により一転し、関羽を象徴する忠義心をもとに神格化を重ねて、天祐を民に授ける神へと変化した[164]。
三教での扱い
- 道教:道教では、六朝時代における神格化された人間の一覧『真霊位業図』には曹操・劉備が確認できるが、関羽はいない。六朝時代ではまだ関羽の評価は固まっていなかった証拠といえる。北宋期『漢天師世家』で張天師が関羽を呼び出す話があり、この頃には人間に呼び出される程度の扱いであった。明初に書かれたとされる『道法会元』には「関元帥」と記されており、この時点でかなりの地位の向上がある。その後に「協天大帝関聖帝君」として神格化された。神格化されたのは仏教よりも後なのは確かである。
- 仏教:その仏教では唐代の『荊南節度使江陵尹裴公重修玉泉関廟記』に、隋代の智顗禅師の元に関羽が現れて、僧坊を提供し守護神となったとする話が載り、南宋期に書かれた『仏祖統紀』には智顗禅師の元に関羽の霊が訪れ、仏法に帰依したいと請われた禅師が煬帝に奏して、関羽を「伽藍神(伽藍菩薩)」に封じたとしている。現在では「関帝菩薩」とも呼ばれている。
- 儒教:儒教では五文昌の一人「文衡聖帝」とされて、「山西夫子」と呼ばれている。封じられた時期ははっきりしない。武より文の面が強調されており、台湾などでは受験の際に礼拝される。
関帝廟

清代には県に必ず孔子を祭る文廟と、関帝を祀る武廟を建立させた。孔子廟が中華人民共和国初期に多数破壊された結果、現在では関帝廟が単独で多く各地に残る結果となっている。一方、民衆の人気も高く、各地の中華街には関帝廟が建立されており、日本においては横浜中華街と神戸南京町の関帝廟が著名である。また民間伝承では玉帝に比する「左玉皇」とされていて、「関恩主」とも敬称される。なお、民間では関帝の聖誕日を旧暦5月13日もしくは旧暦6月24日としており、台湾では旧暦6月24日に祭りが行われる。
その他
創作上の関羽
『三国志演義』
『三国志演義』とは、羅貫中が元末明初頃に編纂したとされる、『三国志』を基にした歴史小説(フィクション)である。さまざまな刊本が存在し、一部内容に相違がみられるが、現在広く知られる『演義』の内容は、清代に毛宗崗が校訂した『三国演義』(通称:毛本)に依拠している。
『演義』において、関羽は次のように描写されている。
人物設定

作中、関羽の名は「雲長」、「関雲長」あるいは「関公」、「関某」と呼ばれ、一貫して諱を名指しされることはない。また、その活躍が壮麗に描かれるなど、関帝信仰(前節)に起因すると思われる特別扱いを受けており[165][166]、「義」を体現する「三絶」の一人「義絶(義の極み)」として描写されている。
関羽の設定は版本やテクストによって相違がみられるが、概ね以下の通りとなっている。
- 字:「李卓吾本」と「毛本」では、もとの字は「長生」ではなく「壽長(じゅちょう)」。
- 身長:「李卓吾本」では9尺5寸(約220cm)、「毛本」では9尺(208㎝)[注釈 22]。
- 容貌:2尺(約46cm)の髭、熟した棗(なつめ)の実のような紅顔、唇は脂を塗ったように艶やかで、鳳凰の眼に臥せた蚕の眉、相貌は堂堂にして威風凛凛[167]。
- 得物:重さ82斤(約18kg)の青龍偃月刀(冷艶鋸:れいえんきょ)と呼ばれる大薙刀。
- 愛馬:赤兎馬。

さまざまな媒体で関羽の象徴となっている愛馬の赤兎馬は、元の所有者である呂布の死後に曹操が所有しており[注釈 23]、降伏した関羽の心を得るべく譲ったことになっている。曹操からの贈り物は史実同様に手を付けず、全て封印した関羽であるが、「この馬は一日に千里を駆けると知っております。今幸いにこれを得たならば、もし兄者(劉備)の行方が知れました時、一日にしてお会い出来ましょうぞ」として、唯一これを喜んで受け取り、以降は関羽の愛馬として活躍する[170]。
また、養子として関平[注釈 24]、次男として関興、三男として関索が登場する。関興は史実では早世しているが、『演義』では張飛の息子の張苞とともに武将として活躍する。一方で関索については正史や裴松之の注にも一切記載が無い。これは、後世に作られた伝承『花関索伝』の登場人物を流用した架空の人物だと考えられている。
『演義』の事績
劉備が故郷の琢郡で、黄巾軍に抵抗するための義勇兵募集の高札を眺めていたところ、同郷の張飛に「一緒に立ち上がろう」と声を掛けられ、酒場へ入った。そこで酒を飲んでいると、赤ら顔の男・関羽が入店する。劉備はその尋常ではない風采に惹かれて関羽に同席を勧めると、3人はたちまち意気投合し、張飛の家の桃園にある

張遼の説得に条件を出す関羽
以降は劉備に付き従い、蜀漢の5人の将軍「五虎大将軍」の筆頭に位置付けられるなど、華々しく活躍する。
- 董卓配下の華雄を、曹操に勧められた酒が冷めないうちに斬って戻ってくる[172]。
- 袁紹配下の顔良のみならず、文醜をも討ち取る[173]。
- 張遼に説得され曹操へ投降する際、3つの条件[注釈 25]を出す。
- 曹操の元を去るとき、検問で手形がなかったことから見咎められ、将軍6人[注釈 26]を斬り殺して劉備の二夫人(甘・糜)を守りながら5つの関所を突破する[注釈 27]。
- 赤壁の戦いに敗走した曹操を華容道で待ち伏せるが、憔悴した曹操を見兼ねて旧恩により見逃す。このことを諸葛亮に咎められ死罪を言い渡されるが、劉備のとりなしで事なきを得る[175]。
- 荊州返還を求める魯粛との会談に単身薙刀を持って現れ、呉兵を恐れさせる[176]。
- 孫権軍に処刑されたあと、呂蒙を祟り殺す(後述)。
『演義』の基になった元代の小説『三国志平話』、講談や元雑劇、民間伝承などの創作が積極的に取り入れられている。華容道のエピソードは史実にはない完全な創作であるが、関羽の義を見事に表現したものとして、『演義』の数ある名シーンの中でも特に評価が高く、魯迅が絶賛している[177]。一方で、史実において呂布配下の秦宜禄の妻(杜氏)を娶ることを曹操に要望したエピソードは採用されていない。

6人の将軍を斬り、5つの関所を突破する
関羽が死後に呂蒙を呪い殺すエピソードは「義理堅い関羽の印象にそぐわない」「非現実的である」などの理由から削除されることもある。その内容とは、孫権は関羽を処刑した後、祝宴を開いて呂蒙を第一の功労者として上座に座らせ、呂蒙に親しく杯を渡す。呂蒙は恭しく杯を受け取るが、突然その杯を地面に叩きつけるなり、孫権の胸倉を掴んで押し倒し「碧い眼の小童、紫の髯の鼠め![注釈 28]このわしが誰か解るか?」と言い放つや、「黄巾賊を破って以来、天下を縦横に駆け巡る事三十余年、今、貴様の奸計にかかり、わしは最早生きて貴様の肉を食らう事はできぬが、死してこの呂蒙の魂を道連れにしてくれようぞ。我こそは漢の寿亭侯、関雲長なり!」と大喝。祝宴に列席していた一同が顔色を変えて平伏すると、呂蒙はばったりと倒れ、全身の穴という穴から血を吹き出して死んでしまう、といったように、関羽の魂が乗り移ったように描かれている[179]。またその首を贈られた曹操が戯れに「別れて久しいが、お変わりなかったか?」と声をかけると、眼と口を開いて睨み付け曹操を驚かせている。その後、曹操は関羽の亡霊を恐れ衰弱・病死したと語られ、曹操は死後、関羽を恐れ荊王の位を与えている[180]。
また関羽が斬首された後、その霊が玉泉山の普浄という僧の前に、同じくして死んだ関平と関羽の従者・周倉(架空の人物)、家臣の霊と共に現れ、呉や呂蒙に対する恨みを綴るが、普浄の説得により成仏する[181]。普浄という人物は話によっては、以前関羽を助けた人物だとも関羽が死んでから百年後にいた人物だとも言われており、フィクションなのか実在したのかさえもわかっていない。
関羽は死後も顕聖(亡霊や神としての出現)して物語に登場する。劉備の夢枕に立って「恨みを晴らしてくれ」と訴えたり、のち白帝城で病床に伏せる劉備の前に張飛の霊と共に現れて、死が近いことを予見させたりしたほか、関興が越吉との戦いで追い詰められた際には救出に現れている[182][183]。
京劇

(俳優・殷秋瑞:2011年)
- 『古城会』
- 『漢津口』
- 『水淹七軍』
役柄・設定
京劇での関羽役は、主な四つのキャラクターのうちの生(Sheng、ション=男役の総称。男役の中でも武人・英雄などは「武生(ウーション)」と細分化して呼ばれる)に分類されるが、特に「紅生(ホンション)」と呼ばれ[184]、「浄(ジン:剛直・粗暴な役)」と「武生」の両方を演じることが出来る[185]。顔は造作の線を除いて、忠義を示す赤一色に塗り、完璧な忠義を表現する[186]。
その一方、関羽を演じる役者は、化粧のとき故意にその顔に黒子や黒い線をつけるなど、完璧な隈取になることを避ける。これは神として扱われる存在に対して、劇中の関羽は人間の行う模倣であり、関帝そのものではないと言う、京劇関係者の関羽に対する礼儀と遠慮を表すための伝統である[187]。
主な登場演目
民間伝承

明代から続く地方劇・安順地戯で使用される
- 関羽が紅顔の理由
- 関羽が故郷で人を殺して役人に追われていた際、通りがかりの老婆に助けを求めた。老婆は追っ手をごまかすため、関羽の顔を力任せに殴って鼻血を出させ、顔を真っ赤に染め上げた。さらに、抜いた髪の毛をあごに貼り付けてヒゲに見せかけた。この急ごしらえの変装のおかげで、関羽は追手の役人を煙に巻いて逃げ延びることができたという[192]。
- 青龍偃月刀の伝承
- 関羽が若い頃、思うような大刀が手に入らなかったので、近隣の刀鍛冶の名人を村に招いて作らせることにした。関羽は「費用はいくらでも負担するから」と、高度な技術と費用を要する宝刀を所望した。何十本もの失敗を重ね、ついに光り輝く青鋼の大刀「青鋼刀」が完成した。しかし関羽はこれに満足しなかった。刀鍛冶は「これは〈青釭剣[注釈 29]〉と同様に、稀少な青鋼で作られた、じゅうぶん見事な宝刀ですよ」と説明したが、関羽はこれを聴き容れなかったので、刀鍛冶は再び鍛え直すことにした。最後の火入れのとき、満月が輝いて突然炉の中から眩い光が空に放たれ、上空を飛んでいた青龍を斬ってしまった。すると光は刀の中に戻って、龍の血が刀の先端を染めて焼入れとなり、ついに宝刀が完成した。関羽は大いに喜んで刀鍛冶に手厚い謝礼を与えると、宝刀が半月形をしていたので、「青龍偃月刀」と名付けた[194]。
日本での受容
関羽を主題とした作品
- 映画
- テレビドラマ
-
- 『武聖関公』
- 1974年、中国、主演:郎雄。
- 『関公保嫂過五関』
- 1984年、中国、主演:李隆華。
- 『三国志・関羽伝』
- 別邦題:『三国志 新武伝』
- 原題『関公』/『関公伝奇』
- 1993年、中国、主演:張山。
- 『関公』
- 1996年 - 1997年、台湾。
- 主演:陳俊生(青年)、勾峰(中年)。
- 『関公』
- 2001年、中国。
- 主演:李田野(青年)、王英権(中年)。
- 『武聖関公出解梁』
- 2002年、中国、主演:陳思成。
- 『武聖関公』
- 別邦題:『三国志 関公』
- 2004年、中国、主演:王英権。
- 『武聖関公』