チンギス・カン

モンゴル帝国の初代皇帝(大ハーン) From Wikipedia, the free encyclopedia

チンギス・カンモンゴル語キリル文字Чингис хаанラテン文字化Činggis Qan または Činggis Qa'an漢字:成吉思汗、英語Genghis Khan1162年5月31日[1] - 1227年8月25日)は、モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年 - 1227年)。チンギス・カンは君主号であり、本名はテムジン(Temüjin)。後にクビライから廟号を太祖法天啓運聖武皇帝と追尊された。日本語での名前表記については複数の表記揺れがある(#名前の節を参照)。

戴冠式 1206年初春
別号 チンギス・カンᠴᠢᠩᠭᠢᠰ
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法天啓運聖武皇帝
太祖
出生 大定2年4月16日
1162年5月31日[1](諸説あり)
デリウン・ボルダク(現在のヘンティー山脈モンゴル国ヘンティー県ダダル郡?)
概要 テムジン(ᠲᠡᠮᠦᠵᠢᠨ) Temüjin、鉄木真, 在位 ...
テムジン(ᠲᠡᠮᠦᠵᠢᠨ
Temüjin、鉄木真
モンゴル帝国初代皇帝(チンギス・カン)
チンギス・カン肖像(国立故宮博物院蔵)
在位 1206年 - 1227年8月25日
戴冠式 1206年初春
別号 チンギス・カンᠴᠢᠩᠭᠢᠰ
ᠬᠠᠭᠠᠨ

法天啓運聖武皇帝
太祖

出生 大定2年4月16日
1162年5月31日[1](諸説あり)
デリウン・ボルダク(現在のヘンティー山脈モンゴル国ヘンティー県ダダル郡?)
死去 太祖22年7月12日
1227年8月25日)(65歳没)
六盤山涼殿峡中国語版(現在の寧夏回族自治区固原市涇源県
埋葬 起輦谷/クレルグ山モンゴル高原
配偶者 ボルテクラン、イェスイ(イェスゲン)、岐国公主、イェスルン 他 下記参照
子女 ジョチチャガタイオゴデイトルイコルゲン下記参照
家名 キヤト・ボルジギン氏
父親 イェスゲイ
母親 ホエルン
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モンゴル国政府宮殿 正面向かって中央に鎮座するチンギス・カン像

大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴル遊牧民諸部族を一代で統一し、中国中央アジアイラン東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。

死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神と崇められ、現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている[注釈 1]

生涯

チンギス・カンの先祖

チンギス・カンが生まれたモンゴル部は6世紀から10世紀にかけて大興安嶺山脈付近に存在した室韋(しつい)の一部族であった。室韋はまたの名を三十姓タタルと呼ばれ、多数の部族で構成されていた。9世紀ウイグル可汗国が崩壊すると、室韋はモンゴル高原に広がり、九姓タタル[2]という国も建てて繁栄したが、契丹族のがモンゴル高原を支配する頃には九姓タタルの名前は消え、阻卜中国語版(そぼく)、烏古中国語版(うこ)、敵烈中国語版(てきれつ)、達旦(たつたん)といった数部族に分かれ遼の支配下に入った。その頃バイカル湖の方面にも広がっていたモンゴル部族が南下してきてモンゴル高原の北東部に落ち着いた。1084年、モンゴル部は契丹帝国に使者を派遣したため、『遼史』には「萌古国」という名前で記されている[3]

チンギス・カンの生涯を描いたモンゴルの伝説的な歴史書『元朝秘史』によれば、その遠祖は天の命令を受けてバイカル湖のほとりに降り立ったボルテ・チノ(「蒼き狼」の意)とその妻なるコアイ・マラル(「青白き鹿」の意)であるとされる。ボルテ・チノの11代後の子孫のドブン・メルゲンは早くに亡くなるが、その未亡人のアラン・ゴアは天から使わされた神人の光を受けて、夫を持たないまま3人の息子を儲けた。チンギス・カンの所属するボルジギン氏の祖となるボドンチャルはその末子である。ボドンチャルの子孫は繁栄し、様々な氏族を分立させ、ウリャンカイジャライルといった異族を服属させて大きな勢力となった。

やがて、ボドンチャルから7代目のカブルが初めてモンゴル諸部族を統一して「あまねきモンゴル」のカン(qan)の称号を名乗った。カブル・カンの子孫はのちにキヤト氏と称し、モンゴル部の有力氏族となる。カブル・カンが亡くなると2代目カンに即位したのはカブル・カンの又従兄弟アンバガイ・カンであった。彼の子孫はのちにタイチウト氏と称し、キヤト氏と並んでモンゴル部族の有力氏族となる。アンバガイ・カンが近隣のタタル部族によって連れ去られ、金国によって処刑されてしまうと、三代目カンとなったキヤト氏のクトラ・カンはアンバガイの子カダアン・タイシとともにアンバガイ・カンの仇を討った[4][5]

生い立ち

チンギス・カンはイェスゲイ・バアトルの長男として生まれ、テムジンTemüǰin)という名を与えられた。『元朝秘史』、『集史』などが一致して伝えていることには、チンギスが誕生した直前にイェスゲイはタタル部族の首長であるテムジン・ウゲとコリ・ブカと戦い、このテムジン・ウゲを捕縛して連行して来たため、息子の名前をテムジンとしたという[6][注釈 4]

父のイェスゲイは、カブル・カンの次男のバルタン・バアトルの三男で、父と同じバアトル(勇者)の称号を持つ[6]。イェスゲイはキヤト氏とニルン系諸部族の首長となり、叔父のクトラ・カンの死後のモンゴル部族をまとめ上げた(カンは空位のまま)[6]。一方でモンゴル高原中央部の有力部族連合ケレイト部のカンであるトオリル(後のオン・カン)とも同盟関係を結び、アンダ(義兄弟)の関係にもなった。あるとき、息子テムジンの嫁探しのため、コンギラト部族のボスクル氏族長のデイ・セチェンの家へ行き、その娘のボルテと婚約をさせる[7]。デイ・セチェンは婚約の条件としてテムジンを一定期間デイ・セチェン一家においておくことをイェスゲイに頼んだため、イェスゲイはテムジンをデイ・セチェンのもとに預けて自家に戻ったが、途中で立ち寄ったタタル部族に毒を盛られ、程なくして死去してしまう[6][7]。それにともない、モンゴル部族内ではタイチウト氏族が主導権を握り、イェスゲイの勢力は一挙に瓦解してしまう[7]

幼少期

テムジンは、父の死の知らせを受けて直ちに家族のもとに戻されたが、残されたイェスゲイ一家は同族のタイチウト氏の首長であるタルグタイ・キリルトク(アンバガイ・カンの孫)らによってモンゴル部族を追い出されてしまう[8]。そんな中でもイェスゲイの妻のホエルンは配下の遊牧民がほとんど去った苦しい状況の中で子供たちをよく育てた[8]。テムジンが成長してくると、タルグタイ・キリルトクらがやってきて、イェスゲイの子が成長して脅威となることを怖れ、テムジンを捕らえて自分たちの幕営に抑留した[8]。テムジンは敵の目を盗んで脱走をはかり、運よくタイチウトの隷臣として仕えていたスルドス氏のソルカン・シラの助けもあって家族のもとへ戻ることができた[8]

ボルテ誘拐事件

流浪していたトオリル(左)を歓待するテムジン(右) (『集史』パリ本)

テムジンは成人すると、以前婚約していたボスクル氏族のボルテと結婚したが、まもなくしてメルキト部族の部族長トクトア・ベキ率いる兵団に幕営を襲われ、ボルテを奪われてしまう[8]。そこでテムジンはボルテを奪還するため、亡き父の同盟者であったケレイト部のトオリル・カン、テムジンの盟友(アンダ)であり、モンゴル部ジャダラン氏族長であるジャムカと同盟し、共にメルキト部を攻め、妻のボルテを救出することに成功する[8]

第一次即位

メルキトによる襲撃の後、トオリル・カンやジャムカの助けを得て勢力を盛り返したテムジンは、次第にキヤト氏族の中で一目置かれる有力者となっていった[9]。テムジンは振る舞いが寛大で、遊牧民にとって優れた指導者と目されるようになり、かつて父に仕えていた戦士や、ジャムカやタイチウト氏のもとに身を寄せていた遊牧民が、次々にテムジンのもとに投ずるようになった[9]。テムジンはこうした人々を僚友や隷民に加え勢力を拡大するが、それとともにジャムカとの関係は冷え込んでいった[9]。そんな中、ジャムカ勢力から流れてきたコルチ・ウスン[注釈 5]アルタン・オッチギン[注釈 6]クチャル・ベキ[注釈 7]サチャ・ベキ[注釈 8]らキヤト氏の有力者はこぞってテムジンをカンに推戴し、キヤト・モンゴルの君主とした[9][注釈 9]

十三翼の戦いで敗北

あるとき、ジャムカの弟タイチャルがジャライル部族のジョチ・ダルマラ[注釈 10]の領地の馬群をひそかに略奪し、返り討ちに合って殺害される事件が起こった[11]。これによって、激怒したジャムカは完全にテムジンと仲違いをし、タイチウト氏と同盟してダラン・バルジュトの平原でテムジンらキヤト・モンゴルと会戦した[12]十三翼の戦い1190年頃)と呼ばれるこの戦いでどちらが勝利したかは史料によって食い違うが、キヤト氏と同盟してテムジンに味方した氏族の捕虜が戦闘の後に釜茹でにされて処刑されたとする記録は一致しており、『秘史』によるとテムジンが敗北したとみられる[12]。ジャムカはこの残酷な処刑によって人望を失い、敗れたテムジンのもとに投ずる部族が増える。

ウルジャ河の戦い

1194年、タタル部族の部族長メウジン・セウルトが金朝に対して反乱を起こしたため、金朝は鎮圧のため、丞相の完顔襄を派遣した[13]。この時、テムジンは父の仇であるタタル部族を倒す絶好の機会であるとし、この討伐軍にケレイトのトオリル・カンと参加し、見事メグジン・セウルトを討ち取った[13]。この功績により、トオリル・カンは「オン(王)」の称号を(以降はオン・カンと表記)、テムジンは「ジャウト・クリ」の称号を金朝から授かった[13]

ジュルキン氏族を討滅

キヤト氏集団の中の有力氏族であるジュルキン氏は以前からテムジンに服従しておらず、しばしば不満を持っていた[14]。1196年、ジュルキン氏がテムジンらのタタル族討伐の留守中に問題行為を起こしたため、テムジンは武力でもってジュルキン氏を討ち、サチャ・ベキ、タイチュの両首長を処刑した[14]。テムジンは旧ジュルキンの民を「側近の隷民(エンチュ・イルゲン)」とした[15]。また、ジュルキン氏に味方していたカブル・カンの孫ブリ・ボコ[注釈 11]も謀殺し、反対派を一掃した[16]

ケレイトとの共闘

1197年、ケレイトと共に高原北方のメルキト部に遠征し、セレンガ河付近のモナチャ地方でメルキトの一部を破り、勝利した[17]。テムジンはこの戦いで得た戦利品をすべてオン・カンに献上した[17]1199年には高原西部のナイマン部を討った[18]。この時、オン・カンがジャムカにそそのかされてテムジンを裏切ったため、テムジンは撤退を余儀なくされたが、まもなくオン・カンが窮地に陥ったところを助けたため、仲違いすることはなかった[19]

1200年、テムジンとオン・カンは宿敵であるタイチウト氏を破り、タルグタイ・キリルトクを討ち取った[20]。続いて別のモンゴル部族であるカタギン氏族、サルジウト氏族、ドルベン氏族、コンギラト部族らが合同してキヤト・ケレイト連合に戦いを挑んだが、激戦の後潰走した[20]。そのため1201年、コンギラト部、イキレス氏、コルラス氏、ドルベン氏、タタル部、カタギン氏、サルジウト氏ら東方の諸部族は、ジャムカを盟主(グル・カン)に推戴して同盟を組み、キヤト・ケレイト連合を討ち破ろうとした[21]。しかし、テムジンはコリダイという者からあらかじめこの計画を聞いていたので、エディ・クルガンの地でジャムカ軍を破ることに成功した[21]。この戦いの中、テムジンは敵軍の射手であるジルゴアダイという者に経静脈を射抜かれ、瀕死の状態になった[22]。テムジンは僚友であるジェルメの必死の応急処置によって一命をとりとめると、自分を射抜いたジルゴアダイの名を「ジェベ」とし、自分の配下とした[22]

テムジンとオン・カンの不和

1202年、キヤト・モンゴルは単独でタタル族を殲滅することに成功し、ようやくイェスゲイ・バアトルの仇を捕ることができた[23]。この戦いにおいて、キヤト氏族の長老であるアルタン・オッチギン、クチャル・ベキ、ダリダイ・オッチギンらが戦利品のルールに違反したため、テムジンは厳しい処分を下した[23]。同年秋、メルキト部、グチュウト・ナイマン部、ドルベン氏、タタル部の残党、カタギン氏、サルジウト氏、オイラト部らは再びジャムカを推戴してキヤト・ケレイト軍に戦いを挑み、カラウン・ジドン山付近で会戦したが、激しい大吹雪と寒波によってジャムカ軍の多くが被害に遭い、またもキヤト・ケレイト軍が勝利した[23]。このときテムジンはオン・カンの娘チャウル・ベキとテムジンの長男ジョチとの縁談を、オン・カンはオン・カンの嫡男イルカ・セングンの子トス・ブカとテムジンの娘コジン・ベキとの縁談を進めた[24]。これにイルカ・セングンが気分を害し、ジャムカ、アルタン、クチャル、ダリダイらと組んでテムジン暗殺を企てた[25]。言いくるめられたオン・カンは黙って従った[25]。しかし、暗殺は事前に情報が洩れて失敗したため、翌年(1203年)にキヤト・モンゴル軍とケレイト軍は戦闘となった[26]。キヤト・モンゴル軍は数においてはるかに劣勢だったため、テムジンはオノン川から北に逃れ、バルジュナ湖で体勢を立て直した[26]。同年秋、オノン川を遡って高原に舞い戻ったテムジンは、兵力を結集すると計略を用いてケレイトの本営の位置を探り、オン・カンの本隊を急襲して大勝した[27]。この敗戦により高原最強のケレイト部は壊滅し、高原の中央部はテムジンの手に落ちた。

アクサウト・ナイマンを滅ぼす

『集史』テムジンから逃げるナイマン人(フランス国立図書館、Supplément Persan 1113 f.43v)。

1204年、アクサウト・ナイマン部のタヤン・カンを裏切ったオングト部のアラクシ・ディギト・クリの密告により、アクサウト・ナイマンの侵攻を事前に察知したテムジンはそれに備えることができた[28]。一方のタヤン・カン陣営には反テムジン勢力であるジャダラン氏のジャムカ、ドルベン氏、カタギン氏、サルジウト氏、アルタン・オッチギン、クチャル・ベキらが加わり、カンガイ山の麓に陣を置いた[29]。軍備の整ったキヤト・モンゴル軍は先鋒に四狗(ジェルメ、スブタイクビライ、ジェベ)、マングト氏族、ウルウト氏族、テムジン自らが出陣し、中軍(コル)はジョチ・カサル、殿軍はテムゲ・オッチギンという布陣で、それを見たジャムカは「かつてないほど良好」とし、静かに戦線から離脱した[30]。日の沈むころには勝敗が決し、タヤン・カンは戦死、逃げ惑うナイマン兵は崖から落ちたり、互いに押し合って圧死したりして壊滅した[30]。戦の後、テムジンはタヤン・カンの愛妃グルベスを娶り、ナイマンの宰相タタ・トゥンガを配下とした[30]。ウイグル出身のタタ・トゥンガは学問や法律に長けていたため、テムジンは自分の息子たちにウイグル語とウイグル文字、ウイグルの法制・慣習を学ばせた[31]。タヤン・カンの息子グチュルクは叔父のブイルク・カンのもとへ逃れた[31]

クラン妃を娶る

1204年冬、テムジンはメルキト部族を攻撃し、ウアス氏族のダイル・ウスンを捕らえた[32]。ダイル・ウスンは娘のクランを差し出し、処刑を免れた[32]。テムジンは第二夫人としてことのほか寵愛し、のちにクラン妃との間にコルゲンという息子を生む[32][33]

ジャムカの処刑

キヤト・モンゴルとアクサウト・ナイマンとの戦いの後、ジャムカの部下はわずか5人となり、彼は単なる盗賊に成り下がっていた[34]。ある時ジャムカの部下がジャムカを捕らえてテムジンのもとに連れてきた[35][36]。テムジンはジャムカを捕らえた部下を殺したが、アンダの間柄ということもあり、ジャムカを殺すことは欲していなかったため、甥のアルチダイ・ノヤンにその身柄を渡し、処分を委ねた[32]。アルチダイ・ノヤンは躊躇なくジャムカを殺した[36][注釈 12]。テムジンはジャムカを丁重に埋葬してやった[37]

西夏への侵入

モンゴル高原を統一したテムジンは南の西夏帝国へ侵入し、エリンリキ城塞を数日間包囲して陥落させ、おびただしい戦利品を獲得して帰還した[38]

チンギス・カンに即位し、大モンゴル国を建国する

1206年初春、オノン川上流での大クリルタイによって、テムジン、チンギス・カンとして即位する。(『集史』パリ本)

1206年2月、テムジンはフフ・ノールに近いオノン川上流の河源地において功臣や諸部族の指導者たちを集めてクリルタイを開き、九脚の白いトゥクヤクウマの尾の毛で旗竿の先を飾った旗指物、旗鉾。纛。tuq〜tuγ)を打ち立てた[39]。この会議でカム(巫術師)であるココチュ(テプ・テングリ)の建議により、グル・カンやカンを凌駕する君主号として「強力なカン」を意味するチンギス・カンに即位すべきとしたため、テムジンはチンギス・カンに即位し(以降はチンギス・カンと表記)、大モンゴル国(イェケ・モンゴル・ウルス)を建国した[39][40]。時にチンギス・カンは44歳であった[39]。しかし、ココチュがあまりにも遠慮のない物言いで権勢をふるおうとしたため、弟のジョチ・カサルに命じて殺させた[41]

チンギス・カンは、腹心の僚友(ノコル)に征服した遊牧民を領民として分け与え、これとオングトやコンギラトのようにチンギス・カンと同盟して服属した諸部族の指導者を加えた領主階層を貴族(ノヤン)と呼ばれる階層に編成した。最上級のノヤン88人は千人隊長(千戸長,ミンガン)という官職に任命され、その配下の遊牧民は95の千人隊(千戸)と呼ばれる集団に編成された。また、千人隊の下には百人隊(百戸)、十人隊(十戸)が十進法に従って置かれ、それぞれの長にもノヤンたちが任命された。

テュルク・モンゴル系の騎馬軍同士の会戦(『集史』)

戦時においては、千人隊は1,000人、百人隊は100人、十人隊は10人の兵士を動員することのできる軍事単位として扱われ、その隊長たちは戦時にはモンゴル帝国軍の将軍となるよう定められた。各隊の兵士は遠征においても家族と馬とを伴って移動し、一人の乗り手に対して3・4頭の馬がいるために常に消耗していない馬を移動の手段として利用できる態勢になっていた。そのため、大陸における機動力は当時の世界最大級となり、爆発的な行動力をモンゴル軍に与えていたとみられる。千人隊は高原の中央に遊牧するチンギス・カン直営の領民集団を中央として左右両翼の大集団に分けられ、左翼と右翼には高原統一の功臣ムカリボオルチュがそれぞれの万人隊長に任命されて、統括の任を委ねられた。

このような左右両翼構造のさらに東西では、東部の大興安嶺方面にチンギス・カンの3人の弟のジョチ・カサル、カチウン、テムゲ・オッチギンを、西部のアルタイ山脈方面にはチンギス・カンの3人の息子のジョチチャガタイオゴデイにそれぞれの遊牧領民集団(ウルス)を分与し、高原の東西に広がる広大な領土を分封した。チンギス・カンの築き上げたモンゴル帝国の左右対称の軍政一致構造は、モンゴルに恒常的に征服戦争を続けることを可能とし、その後のモンゴル帝国の拡大路線を決定付けた。

グチュウト・ナイマンを滅ぼす

クリルタイの解散後、グチュウト・ナイマン部のブイルク・カンに対して進軍し、ウルグ・タグという山地の近くのショゴク川付近でブイルク・カンを奇襲し、殺害した[41]。一緒にいたタヤン・カンの子グチュルクはメルキト部のトクトア・ベキと共にイルティシュ川の流れる地方へ逃走した[41]

2回目の西夏侵入

1207年秋、チンギス・カンは約束した貢賦を完納していなかった西夏へ2回目の侵入をおこない、国土の一部を荒らした[42]

キルギズとケム・ケムジュートの服従

同じ年、チンギス・カンは二人の官吏をキルギズ族の王とケム・ケムジュートの王のもとに派遣し、臣従するよう説かせた[42]。両国はモンゴルのカンに臣従を誓い、貢物として白眼の大鷹を贈った[43]

オイラトの臣従とトクトアの死

1208年、チンギス・カンはグチュルクとトクトア・ベキを討つためイルティシュ川へ向かって進軍したところ、途中でオイラトのクドカ・ベキと遭遇した[44]。クドカ・ベキは抵抗することなく降伏し、オイラト軍を率いて案内役を買って出た[44]。ジャム川付近でグチュルクとトクトア・ベキと遭遇し、戦闘の末トクトア・ベキは討ち取ったが、その弟と子はウイグル王国の領土へと逃れ、グチュルクはカラ・キタイ(西遼)のもとへ逃れた[44]

3回目の西夏侵入

1209年秋、チンギス・カンは西夏皇帝の李安全の子を破り、兀喇海城を陥落させ、夷門の城塞を奪って首都である興慶府を包囲した[45]。チンギス・カンは河水をせき止めてこの都市を水攻めしようとしたが、築造した堤防が決壊したため撤退を余儀なくされた[45]。チンギス・カンは1人の官吏を興慶に派遣して和議を申し入れた[45]。李安全はこれを承諾し、その娘をチンギス・カンの妃としたため、モンゴル軍は撤退した[45]

ウイグルの臣従

1209年春、カラ・キタイの属国であるウイグル王国では少監という総督が圧政を敷いており、人民の憎悪の的になっていたため、我慢できなくなった国王(イディクート)のバルチュク・アルト・テギンはカラ・コージャで少監を殺害させた[46]。ちょうどその時トクトア・ベキの弟と子を追っていたチンギス・カンが派遣した官吏が来たので、バルチュク・アルト・テギンは臣従の意を示した[46]。先にバルチュクがトクトアの弟と子の保護を拒絶していたことを知っていたチンギス・カンは彼の臣従を心から歓迎した[47]

1211年春、西夏侵攻から帰国したチンギス・カンはオルドでバルチュク・アルト・テギンの使節団を迎えた[48]。バルチュク・アルト・テギンはおびただしい貢納品を献上した[47]。これと同時にチンギス・カンはカルルクの首長でカヤリクの王アルスラーン・カンと、アルマリクの王オザルの朝貢も受けた[47]

金朝への征服事業

1211年頃のモンゴル帝国と金帝国と西夏帝国の勢力図

金朝の使者を追い返す

1210年金朝の第7代皇帝衛紹王がチンギス・カンへ使者を派遣して自分の即位を通知し、貢納を要求した[49]。この使節は臣属であるチンギス・カンに対し、中国の典礼に従ってひざまづいて宗主の勅命を受けるよう厳しく要求した[49]。これにチンギス・カンは南に向かって唾を吐き、「衛王ごときボンクラが帝位につく資格があろうか、かくのごとき者に卑下する必要があろうか!」と一喝し、臣下の礼をとることを拒否した[50]

山西・河北への侵入

『集史』チンギス・カン紀所載の野狐嶺の戦いを描いた細密画(ミニアチュール)
対金戦争の戦線図。

着々と帝国の建設を進めたチンギス・カンは、中国に対する遠征の準備をすすめ、1211年に金朝と開戦した[51]。チンギス・カンはジョチ、チャガタイ、オゴデイ、トルイを伴い、その軍隊に極めて厳重な規律を課し、万人隊、千人隊、百人隊、十人隊に分けた行政・軍事組織を編成した[51]。モンゴル軍は広大なゴビ砂漠を縦断し、山西地方に向かって進軍した[52]。衛紹王はなぜモンゴルが攻めてくるのか理解できないまま、西北路招討使(西北の総司令官)の粘合合打(ネンガ・カダ)を派遣して講和を申し入れた[53]。しかし、この講和は受け入れられなかったため、衛紹王は平章政事の独吉千家奴(トンギ・チャンガヌ)、参知政事の完顔胡沙(ワンヤン・フシャ)、西京留守の紇石烈胡沙虎(ヘシェレ・フシャク)を進軍させた[53]。チンギス・カンは金の将軍定薛を破って大水濼、撫州を占領した[54]。8月、将軍ジェベは独吉千家奴と完顔胡沙が防衛体勢を完了する前に大同府を援護している撫州とその要塞烏沙堡を攻略した[54]。独吉千家奴と完顔胡沙は撫州を棄てて昌平州まで逃げ、部下の大半を失った[54]。チンギス・カンは西京大同府と宣徳州と撫州を攻略した[54]。金の将軍の招討九斤(紇石烈胡沙虎)と監軍の完顔兀奴(ワンヤン・ウヌ)、完顔胡沙が進軍していることを察知したチンギス・カンは招討九斤の部隊に嘘の情報を流して混乱させ、多数を戦死させた[55]。10月、完顔胡沙はモンゴル軍に追い詰められて会河堡で粉砕された[55]。続いてモンゴル軍は宣徳州、徳興府を攻略し、その斥候は居庸関まで進出し、ジェベがその要塞を占領した[55]。モンゴルの別動隊は金朝の首都である中都城下まで迫った[55]。皇帝衛紹王は南部に逃れようとしたが、親衛隊によって止められた[55]。完顔胡沙はその臆病な振る舞いのせいで罷免された[55]。11月、モンゴルの将軍の耶律阿海はいたるところで戦勝し、金皇帝の馬群を掠奪した[55]。同じころ、ジョチ、チャガタイ、オゴデイの諸皇子はそれぞれ一部隊の将として山西の長城以北の六州を奪取し、他の部隊も河北の諸都市を経略して海に達した[56]

1212年、モンゴル軍は昌州と桓州を奪い、将軍ムカリが長城以北の諸城塞を占領したのち、チンギス・カンは大同府を攻囲した[56]。紇石烈胡沙虎と完顔九斤は多数の軍隊で応戦したが、チンギス・カンによって撃退された[56]。8月、チンギス・カンは金の元帥左監軍の奧屯襄(オウトン・シアン)の部隊も撃破すると、大同府の包囲を解いて長城の北へ退却した[56]。秋、チンギス・カンは末子のトルイとアルチ・ノヤンの子チグゥに徳興府を包囲させ、この地を奪った[57]

1213年1月、将軍ジェベを遼東攻略のために派遣し、東京(遼陽)を奪取させた[57][注釈 13]。モンゴル軍に降った契丹人の耶律留哥はチンギス・カンの同意を得て遼王の位についた[57]。秋、チンギス・カンは再び徳興を破り、懐来の都市に向かって進軍し、金の行省の完顔綱と元帥の朮虎高琪を破り、その軍隊に対して大虐殺をおこなった[57]。8月、続いてモンゴル軍は居庸の北口まで押しよせたが、金軍の強力な守備兵のためこのルートはあきらめ、西に迂回して進軍して紫荊関の要塞を陥落させた。山西と河北の境界上の金軍を破り、中都の西に遠くない涿州易州の両市を攻略した[58]。これと同時に契丹人の将軍訛魯不児(オロブル)は居庸の北口要塞を献上して降伏した[58]

金の政変

金朝内で罷免された紇石烈胡沙虎によってクーデターが起こり、皇帝の衛紹王は廃され、代わって紇石烈胡沙虎自らが帝位につこうとしたが反対されたため、王侯の完顔吾睹補(ワンヤン・ウトゥプ)を第8代皇帝(宣宗)に即位させた[59]

第二次遠征

1214年4月、金朝皇帝宣宗との講和によってチンギス・カンのもとに嫁いで来た岐国公主(画面左の馬上の人物)。

金からモンゴルに帰順する者が続出したため、チンギス・カンはその脱走者をあつめて46の部隊を組織し、モンゴル軍に編入した[60]。1213年の末、チンギス・カンはケフテイ(怯台)とブチャ(薄察)両将軍に北京の北方を監視させて軍を3つの大軍団に分け、黄河以北の全域に侵入を開始した[60]。ジョチ、チャガタイ、オゴデイの右翼軍は山西を征服し、ジョチ・カサルの左翼軍は河北の沿海地方を攻略して遼西を掠奪し、チンギス・カンはトルイと共に河北・山東から黄河河畔に至るまで歴戦し、勝利を収めた[61]。モンゴル軍は北方の河北・山東・山西において錦繍・絹・幼年の男女の俘虜・家畜・馬匹などのおびただしい戦利品を獲た[61]

1214年4月、チンギス・カンは全軍を中都の西の大口要塞に集結させ、中都攻撃を停止して2人の使者を金の皇帝のもとへ派遣し、講和を申し入れた[61]。金の丞相の完顔福興(ワンヤン・フシン)はこれを受諾し、皇帝もそれに同意した[62]。チンギス・カンは帝室の一公主を差し出すよう要求したので、皇帝は先帝の娘である岐国公主を養女として贈り、加えて巨額の金と莫大な財物・男児500人・幼女500人・馬三千頭を送った[62]。チンギス・カンは撤退すると、おびただしい数の男女の俘虜を虐殺した[62]。5月、皇帝は中都が国境から近いため、首都を南の卞京(現在の開封市)に遷都した[63]

第三次遠征

1215年、開封への遷都を責めて、モンゴル軍、中都を包囲する。(『集史』パリ本)

チンギス・カンは金の皇帝が南へ遷都しようとしていることと、チョダの反乱が起きたこと聞き、講和条約を破棄してサルジウト氏のサムカ・バアトルの一部隊と、将軍石抹ミンガン率いる女真軍を派遣し、反乱者チョダと合流して中都を包囲させた[64]。8月、中都には皇太子の完顔守忠がいたが、モンゴル軍の侵攻を知った皇帝吾睹補が卞京に呼んだため、中都は茫然自失の状態となり、モンゴル軍に包囲されるとたちまち食糧不足に陥った[64]

1215年5月、モンゴル軍は中都に入って大虐殺をおこない、皇宮に火を放った[65]。この戦いの最中、チンギス・カンはモンゴルに降伏していた遼朝の後裔である耶律楚材と面会したが、彼の高い背丈、長い顎髭、重みのある声はチンギス・カンのお気に入りとなった[66]。チンギス・カンは彼が占星術に通じているのを知り、彼を宮廷に留め置き、片時も傍らから離さなかった[66]。その後も作戦のたびに耶律楚材の意見を聞くようになり、占星術に照らし合わせて幸運かどうかを予言させたり、骨卜をさせて未来を鑑定させた[66]

1216年11月、チンギス・カンは卞京に圧力をかけるため、将軍サムカ・バアトルに命じて西の潼関を包囲させた[67]。金皇帝は身に迫る危険を感じてチンギス・カンに使者を派遣して講和を申し入れた[66]。それに対してチンギス・カンは黄河以北にある金の全領土の割譲と金皇帝の称号を棄てて河南王になることを要求したが、金皇帝はこれに同意できなかった[66]

メルキトの絶滅

1216年春、トクトア・ベキの弟クドゥとトクトア・ベキの3子がアルタイ山中に兵力を集結していることを知ったチンギス・カンは将軍スブタイとトクチャルに命じて討伐に向かわせた[68]。まもなくクドゥと2子は戦死し、三男のクルトガンは捕虜となり、ジョチのもとへ連れていかれた[68]。ジョチは彼の弓の技術が巧みであったことからチンギス・カンに助命を願い出たが、メルキト族との因縁が深いことから生き残りを作ってはならないとし、クルトガンも死刑にした[68]

トゥマト族の征服

1217年トゥマト族の首長タイトウル・ソカルがチンギス・カンの不在に乗じて反旗を翻したため、チンギス・カンはボロクル・ノヤンを鎮圧に向かわせた[69]。しかし、ボロクルは敵を打ち破ると同時に戦死してしまう[69]。チンギス・カンはのちに彼の遺族に多大な厚情を示した[69]。一方、トゥマト族を征服するために隣族であるキルギズ族に対しても出兵要求をしていたが、キルギズはこれを拒否したため、チンギス・カンはジョチの一軍を派遣し、鎮圧に向かわせた[69]。ジョチは凍結したケム・ケムジュート河を渡り、キルギズ族を服従させて帰還した[69]

カラ・クムの戦い

一方、スブタイらは敗走したメルキト部残党を追撃してホラズム・シャー朝の支配圏にまで入り、これを察知したホラズム・シャー朝のスルターン・アラーウッディーン・ムハンマドが出撃、モンゴル軍とホラズム軍はカラ・クムの地で激突することになった(カラ・クムの戦い)[70]。結果としてホラズム側はスルターン自ら精鋭軍を率いて臨んだにもかかわらず、一分遣隊に過ぎないモンゴル軍に押され、息子の救援によってようやく危地を脱する有様であった[71]。モンゴルのホラズム侵攻において、アラーウッディーンは一度も自ら軍を率いて出征することなく、オアシス都市に籠城しての防戦を徹底させたが、この戦略方針には「カラ・クムの戦い」における手痛い失敗が多大な影響を与えたと指摘されている[72]

ムカリを「国王」とする

1214年4月にモンゴルと金朝の間で一時的に和議が結ばれた際、将軍ムカリは金朝の遼東遼西の攻略に派遣され、1215年中に遼西(ラオハ河流域)の要衝の北京大定府と(北京の戦い)、遼東最大の都市である東京遼陽府を攻略した[73]。しかしモンゴルと金朝の和議が破綻すると、一度モンゴルに降った張致が遼西で叛旗を翻すも、再び南下したムカリ軍が張致を討伐し「遼河から西、灤水より東」すなわち遼西地方は完全にモンゴル帝国に降った[74]

この功績を受け、1217年、チンギス・カンは彼に「国王(ゴイオン)」[注釈 14]という称号を授け、厚い恩賞を施した[76]。チンギス・カンはこの称号を彼の子孫にも伝える権利も与えた[69]。これと同時にチンギス・カンはムカリを中国における都行省承制行事(総司令官)に任命し、戦闘隊形に整列したその軍隊に対して自分に対するのと同じようにムカリに臣従せよと命じ、その委任した権限のしるしとして証状と金印を交付した[76]

第4次西夏遠征と高麗の降伏

1218年、チンギス・カンは4回目となる西夏遠征をおこない、第8代西夏皇帝の李遵頊(神宗)は首都がモンゴル軍に包囲されそうになったので、甘粛西涼に避難した[75]。同じ年、朝鮮半島の高麗王国領に後遼政権が侵攻し、これを「モンゴル(蒙古)元帥」の哈真と札剌率いるモンゴル帝国軍1万・蒲鮮万奴が派遣した完顔子淵率いる東夏国軍2万の連合軍が現れ、高麗国に協力して「丹賊(=後遼政権)」を討伐することを申し出た[77]。高麗はこの申出を受け入れてモンゴルとの間に和議を結び、モンゴル・高麗連合軍は後遼政権を滅ぼした(江東城の戦い)[78][75]。以後、高麗は毎年モンゴルに通好することとなったが、1225年正月に高麗から帰る途中のモンゴルの使者が殺害される事件があり、これが後の高麗侵攻の遠因となる[79]

カラ・キタイ(西遼)を征服

このころ、ナイマンのグチュルクは西走してカラ・キタイ(西遼)に保護されていたが、グチュルクはそれにつけ込んで第5代君主(グル・カン)耶律直魯古(ヤリュート・チルク)から王位を簒奪していた[80]。1218年、チンギス・カンはこれを討つため、ジェベ・ノヤン指揮下の2万を派遣した[81]。グチュルクはカシュガルに逃亡したが、この街では以前からグチュルクによるイスラム教弾圧があったため、それを知っていたジェベが信仰の自由を宣言するなり、たちまち住民がグチュルクの兵士を殺害した[81]。モンゴル軍はすぐに敵を追撃し、バダフシャーンの山中においてグチュルクを捕らえて殺害した[81]

ホラズム・シャー朝への征服事業

ホラズム・シャー朝の支配領域

最初の使者

1218年、チンギス・カンはホラズム・シャー朝に3人のムスリム使節を派遣し、モンゴルの臣下になるよう通知した[82]ブハーラにおいてスルターンアラーウッディーン・ムハンマドは使節を引見し、その要望を聞いて最初意味がわからず、使節の一人であるホラズム人のマフムードに激昂しながらチンギス・カンは何者で、中国を征服したのが本当かどうか、モンゴルの軍隊はどのくらいかを問いただした[83]。マフムードはスルターンが激昂したのを見て「スルターンの兵力には到底及ばない弱い者です」と答えた[83]。これを聞いたアラーウッディーン・ムハンマドは安心し、友好的な回答を与えて3人を送り帰らせた[83]

オトラールの事件

チンギス・カンは一族の王侯たち、ノヤン、軍隊の首領たちに貨幣を持たせてホラズム・シャー朝の各地で貴重な産物を購入させようとし、それぞれに1人か2人の従者を出発させ、総勢450人近くのムスリム隊商(キャラバン)を組織した[84]。この隊商がスィフーン(シル)河畔のオトラールに到着したとき、この地の知事でガイル・カン[注釈 15]の称号を持つイナルチュクは隊商の持つ財貨を横領しようと彼らを逮捕し、スルターンにはチンギス・カンの間諜であると報告して死刑の許可をもらい、彼らを全員死刑にした[84]。この報を聞いたチンギス・カンは激怒し、涙を流した[86]。チンギス・カンはスルターンにガイル・カンを罰するか、身柄を引き渡すかを要求するため、テュルク人のブグラーという使者を派遣したが、ブグラーは殺されてしまった[87][注釈 16]

開戦

1218年、チンギス・カンはクリルタイを召集し、そこでホラズム・シャー朝との戦争が決定された[89]。モンゴル本土はテムゲ・オッチギンに委ね、1218年の末に進軍を開始し、1219年の夏にイルティシュ河畔に駐営して馬を休養させ、秋になって進軍を再開した[89]。この時、遠征軍にウイグル王のバルチュク・アルト・テギン、アルマリク王のスクナーク・テギン、カルルク族のアルスラーン・カンも従軍した[89]。ホラズム軍の兵力は40万であり、数でいえばモンゴル軍の兵力を凌駕していたが、ホラズム軍には規律・服従・耐乏・戦闘経験が欠けており、スルターンのアラーウッディーン・ムハンマドは不安に駆られた[90]

オトラールを陥落

オトラル址の空撮写真

1219年秋、チンギス・カンはオトラール付近に到着し、その軍隊を4つの部隊に分けた[91]。第一軍のチャガタイとオゴデイにオトラールを攻めさせ、第二軍のジョチにジャンドを攻めさせ、第三軍にバナーカトを攻めさせ、自ら率いる中軍(コル)はブハーラへ進撃した[92]。第一軍がオトラールを包囲したため、ガイル・カンは多数の守備兵を指揮し、カラージャ・カン[注釈 17]の1万も加わった[92]。5か月の包囲の後、軍隊も市民も気力を失ったので、カラージャ・カンは降伏を考えたが、ガイル・カンが死ぬまで戦うつもりだったため、夜に逃亡したところ捕まってしまう[92]。カラージャ・カンは助命を乞うたが信用されず殺された[85]。ガイル・カンはさらに1か月抵抗したが、モンゴル軍が城内に侵入し、捕らえられた[85]。チンギス・カンは彼を面前に連れてこさせ、溶かした銀をガイル・カンの両目と両耳に流し込むよう命令し、商人たちの復讐をした[85]。オトラールの城砦は徹底的に破壊され、モンゴル軍は殺戮を免れた住民をブハーラの正面へ連れて行った[85]

ジャンドを陥落

1219年から1221年にかけてのモンゴルによるホラズム遠征の進路図。

第二軍のジョチはジャンドへ向かう途中、スィフーン河畔のスィグナーク市付近で立ち止まってハサン・ハッジーを使者として派遣した[93]。ハサンが城門を開けるよう督促したところ、激昂した住民は彼に襲い掛かり、アッラーの御名を唱えながら惨殺した[93]。ジョチはただちに攻撃の命令を与えると、一週間休まず戦闘し、住民を殺戮した[93]。ジョチはハサンの子にこの地区の統治任せ、続けてウーズガンド、バールチンリグカント、アシュナースを陥落させて掠奪した[93]。ジョチがジャンドに近づくと、この国境地方の司令官クトルグ・カン[注釈 18]は夜中、城を出てスィフーン河を渡り、砂漠を経由してウルゲンチへ逃れた[94]。ジョチはチン・テムルを派遣してジャンドに降伏勧告をさせた[94]。またもパニックになった住民はチン・テムルに襲い掛かって殺そうとしたため、チン・テムルはモンゴル軍を遠ざけると嘘をついて帰還した[94]。その後モンゴル軍は城壁に梯子をかけて四方からジャンドの町へ侵入し、陥落させた[94]。ジョチはジャンドの司令官にブハーラ人のアリー・ホージャを任命し、続いてホラズム(アラル)海に近いヤンギカント[注釈 19]を攻略に向かった[94]。ジョチはターイナル・ノヤンにトルクメン人部隊を率いさせて大部分を虐殺した[95]

バナーカトを陥落

第三軍はアラク、スケト、トガイの三将軍であり、バナーカトに進軍した[96]。この都市にはカンクリ族の一守備隊がおり、3日の後に降伏を乞うたので、攻囲軍はバナーカトの住民を助命したが、軍人だけは殺害した[96]。住民の中から職人たちを集めてモンゴル軍の各部隊に分置し、大勢の若者は使役にした[96]。さらに第三軍はホジャンドに向かって進軍し、この市の司令官ティムール・マリクはスィフーン河の川中島に築かれた強固な城に立て籠もっていた[96]。この砦は両岸から矢石が届かなかったため、モンゴル軍は土着民兵5万人を導入し、山から石を運搬して次々と川を埋め立てていった[96]。ティムール・マリクは毎日6隻の船を両岸に接近させ、モンゴル軍に矢を浴びせた[96]。しかし、苦境に陥ったため河を下り逃れると、ジョチの軍隊がジャンドの付近で河を封鎖していたため、上陸して戦い、最後の一人になっても逃げ、ホラズム市のジャラールッディーンにもとへ合流した[96]

ブハーラを陥落

中軍のチンギス・カンは末子トルイと共にブハーラへ向かっていた[97]。チンギス・カンが近づくとザルヌーク部落の住民は城の中へ避難した[97]。チンギス・カンは侍従のダーニシュマンドを派遣して彼らに降伏するよう勧告させた[97]。ザルヌークの住民は降伏し、そのうち青年はブハーラ包囲の使役として連れて行った[98]。途中ヌール部落で略奪し、ホラズム・シャー朝に払っていた租税を次からモンゴルに払わせるようにした[98]1220年2月、チンギス・カンはブハーラに迫り、その都市を包囲した[99]。ブハーラは数日間休みなく攻撃されたが、ついに守備隊の首領たちは前門を開放し、敵軍を突破して脱走することを決意した[99]。モンゴル軍は彼らを追跡し、ジャイフーン(アム)河畔で追いついて殺害した[99]。翌日ブハーラのイマームたち、有力者たちが出てきてチンギス・カンに臣従の意を表した[99]。チンギス・カンは城内に入って街を探索し、内城に立て籠もっていたホラズム守備隊を殺害した[100]。陥落後、住民を外へ出し、モンゴル人は掠奪をほしいままにし、禁止を無視して市内に留まっていた者をすべて殺した[100]。最後に各地に火を放ち、モスクやレンガ造りの若干の宮殿を除いてすべてが焼き尽くされた[101]

サマルカンドを陥落

チンギス・カンはブハーラを去ってサマルカンドへ向かって進軍した[102]。サマルカンド攻略に先立ち、チンギス・カンはこの城塞都市が強固な防衛能力があって長期の包囲に堪えうることを知っていたため、周辺地方から占領しようと考え、三つの軍も合流させた[103]。包囲して3日後、市民の勇敢な者が多数出城してモンゴル軍に進撃してきた[103]。モンゴル軍はわざと退却するふりをして待ち伏せして彼らを粉砕した[103]。これを見た籠城軍は戦意を喪失し、守備隊の大部分であったカンクリ族はチンギス・カンに帰順した[103]。4日目にはサマルカンドのカーディームフディーは法律の博士たちを従えてチンギス・カンの本営に赴き、満足のいく約束を得たので、サマルカンドは開城された[104]。例の如く住民を外へ出し、留まった者を殺害した[104]。その夜、ホラズムの将軍アルプ・カン[注釈 20]は千人の兵を率いて内城から飛び出し、モンゴル軍の包囲を突破して脱出に成功したが、夜明けに内城は四方から攻撃されて夕方にはモンゴル軍に侵入され、イスラム寺院に立て籠もっていた残りのホラズム兵たちは火を放たれて死んだ[104]。降伏していたカンクリ人はペルシア人から分離され、その首領のバリシュマズ・カン、トガイ・カン、サルシグ・カン、ウラグ・カンらをはじめ、総勢3万人を殺害し、その家族・馬匹・貨物をモンゴル軍の取り分とした[104]。生き残ったサマルカンド住民から工芸家と職人3万人を抜いて皇子、王妃、将校たちに分配した[106]。他は兵役と捕虜となったが、捕虜のうち身代金を支払った者だけが市内に戻ることができた[106]

アラーウッディーン・ムハンマドを追撃

ホラズム・シャー朝の君主スルターン・アラーウッディーン・ムハンマド、カスピ海南東部のアーバースクーン島にて他界する。(『集史』パリ本)

1220年4月、スルターンのアラーウッディーン・ムハンマドは難を逃れ、ニーシャープールに到着した[107]。スルターンはモンゴル軍がすぐにはジャイフーン河を渡ってこないと考え、この地にとどまったが、チンギス・カンが派遣したジェベとスブタイの2万騎は3週間後にジャイフーン河を渡ってホラーサーンに入ってきた[107]。そのためスルターンは次にカズウィーンにいた王子ルクヌッディーン・グールシャーンチーのもとに逃れた[108]。しかし、ジェベとスブタイのモンゴル軍がニーシャープールを越え、ライ(現テヘラン付近)に到着したことが知らされた[108]。これを聞いたスルターンの周りの王侯貴族は恐怖のあまりおのおの自分勝手に逃げ出し、軍隊も散り散りとなった[108]。スルターンはカールーン城塞に逃げる途中、ついにモンゴル軍においつかれて矢を放たれたが、この時はスルターンだと気付かれなかった[109]。スルターンはカールーン城塞に1日滞在後、ギーラーンマーザーンダラーンと移動し、その時にはほとんど単身で、無一文であった[109]。マーザーンダラーンにはすでにモンゴル軍が来ていて掠奪中であったが、スルターンは現地のアミールの勧めでカスピ海中の小さな島に隠れることにした[109]。海に出る前に海岸の一村落に数日間滞在していたところ、モンゴル兵に襲われたため、かろうじて小舟に飛び乗り、なんとかアーバスクーン島についた[110]。しかしスルターンは肋膜炎を患っており、死期が近かった[111]。そこで皇太子のジャラールッディーン・メングベルディーにスルターン位を継承し、2~3日後に息を引き取った[111]

ホラズム地方の占領

チンギス・カンはサマルカンドを奪取したのち、サマルカンドとナフシャブとの中間に位置する地方に軍隊を駐屯させ、1220年の春と夏を過ごした[112]。秋になって馬の休養が終わると、チンギス・カンはホラズム・シャー朝の首都であるホラズム地方に向けてジョチ、チャガタイ、オゴデイの指揮する一軍を派遣した[112]。一方で敵軍の退路を断つためにホラーサーン駐屯軍に砂漠の南辺に警戒線を張らせた[112]。この時ホラズムから脱走したジャラールッディーン・メングベルディーは警戒線を突破できたが、その二人の弟ウズラグ・シャーとアーク・シャーは戦死した[113]。派遣されたジョチ、チャガタイ、オゴデイらはホラズム州の州府グルガーンジュ(ウルゲンチ)攻略にかかった[114]。ジョチは父チンギス・カンからホラズム州を采邑として与えられることが約束されていたため、無傷で手に入れたかった[115]。そのため降伏勧告と弩砲による脅迫を交互に用いて籠城軍の士気を下げていった[115]。ある時ジャイフーン河の橋を奪取するために攻撃に向かわせた3千の兵が戦死した[115]。その後ジョチとチャガタイとの間に不和が起き、ホラズム軍が攻勢に出て6か月間も包囲が長引いた[115]。そのころタールカーン要塞攻略中のチンギス・カンはこのことを知るなり激怒し、ジョチとチャガタイを司令官から外してオゴデイを包囲軍の司令官に代えた[116]。オゴデイはその温厚さをもって首尾よく両兄を和解させ、軍の規律を取り戻し、ウルゲンチを陥落させることに成功した[116]。ジョチはその住民を城外に出し、工芸家と職人をモンゴル高原に送り、その他の者やモンゴル高原行きを拒否した者を虐殺した[116]。この虐殺を免れたのはわずかに若い婦女と幼児だけであった[117]

1221年、チンギス・カンがタールカーン近くの山間部に夏営地を置き、チャガタイとオゴデイはそこに合流したが、ジョチはひとり彼らと別れてスィフーン河北方へ移動した[118]

バダフシャーンとホラーサーンの征服

1220年から1221年にかけてチンギス・カンはサーマーン地方に冬営地を定め、その東方に位置するバダフシャーン地方を征服した[119]。1220年11月、ニーシャープールでチンギス・カンの娘婿トクチャル・ノヤンが敵の矢を受けて戦死した[120]。トルイはチンギス・カンからホラーサーン攻略を命じられ、まずは旧セルジューク朝の旧都メルヴを徹底的に破壊し、虐殺をおこなった[121]。続いてニーシャープールに向かい、1221年4月、トクチャルの復讐を名目に大殺戮をおこない、切り落とした首でピラミッドをつくり、犬や猫までも殺した[122]。ニーシャープールも二週間かけて徹底的に破壊され、その址には大麦の種が植えられた[123]。生き残った者は400人の職人だけであり、彼らはモンゴル高原へ送られた[123]。続いてトルイはヘラートに向かい、四方から攻撃をかけ、一週間ののち降伏させると、ムスリムの知事とモンゴル人司令官を置いてタールカーンのチンギス・カンのもとへ帰還した[124][注釈 21]

パルワーンの戦い

『集史』ヴァ―リヤーンの戦い(1221年)。

1221年春、ジャラールッディーンはガズナを出発し、バーミヤーンに隣接するパルワーンの平原に向かって進軍し、そこからヴァーリヤーン城塞を包囲していたモンゴルの一部隊を攻撃し、千人を殺した[126]。一週間後、シギ・クトクが率いるモンゴル軍が到着し、ジャラールッディーンのいるパルワーンに向けて進軍し、両軍がパルワーン平原で激突した[126]。モンゴル軍はホラズム軍を500人殺したが、駿馬を誇るホラズム軍に刺し殺され、シギ・クトクの軍はほぼ全滅した[127]

モエトゥケンの死

バーミヤーンのゴルゴラ城址。

1221年秋、チンギス・カンはスルターンのジャラールッディーンが大軍を率いてガズナ地方にいることを知り、進軍を開始した[118]。グルズィワーンの城塞を陥落させ、ヒンドゥークシュ山脈を越え、バーミヤーン城塞の正面に包囲陣を敷いた[118]。しかし、この時チャガタイの長男モエトゥケンが敵の矢を受けて戦死してしまい、彼を寵愛していたチンギス・カンは激怒してバーミヤーン城塞を徹底的に破壊し、一人残らず殺害した[128]。この時、チャガタイは不在であり、のちにチャガタイが来た時にチンギス・カンはモエトゥケンの死を隠そうとした[129]。数日後、チャガタイ、オゴデイ、トルイと食卓に着いた時、チンギス・カンは彼らに対し怒鳴りつけ、彼らが自分の命令に対して従順ではないと非難しつつ、チャガタイの方を見た[129]。チャガタイはおびえて跪き、父の命令に背くよりはむしろ死を選ぶと明言した[129]。チンギス・カンはさらに彼に何度も叱責を加えた後、最後にモエトゥケンの死を伝えた[129]

インダス河畔の戦い

インダス河畔の戦いでのジャラールッディーンの渡河

シギ・クトクは敗戦の事情を報告するためチンギス・カンのもとへ赴いた[130]。チンギス・カンは怒りを面に出さず、シギ・クトクは勝利に慢心していたからこの教訓を学ぶべきだといい、パルワーンを視察した[130]。その結果、戦場の選択が間違っているとし、敗戦の責任を取らせた[130]。チンギス・カンはガズナに到着すると何ら抵抗を受けなかったため、この都市にマーバ・ヤラワーチュという知事を置き、ジャラールッディーン追撃を続け、インダス河畔で追いついた[130]。チンギス・カンはホラズム軍がインダス川を渡ろうとしていたので、夜のうちに半円形の陣を敷いて包囲し、夜明けになって攻撃を開始し、アミーン・アル=ムルクの右翼を破ってその大部分を撃破し、アミーン・アル=ムルクはペシャーワル方面へ逃走したが、モンゴル軍によって殺された[130]。左翼も同様に粉砕し、ジャラールッディーン率いる中央軍700人はモンゴル軍に突撃をかけたが、正午になって馬首を返してインダス川に飛び込み、背中に盾を背負い、旗を持ちながら泳いで河を渡りきった[131]。他のホラズム兵も川を泳いで渡ろうとしたが、モンゴル軍の矢を浴びせられて皆殺しとなった[131]。チンギス・カンはジャラールッディーンの家族を捕らえ、その男子は殺害し、ジャラールッディーンの金銀を接収した[131]。ジャラールッディーンは北インドを支配していた奴隷王朝デリーに向かって退却した[132]

チンギス・カンはバラとドルベイの両ノヤンにジャラールッディーンを追跡させたが見つからなかった[133]。まずビーア城塞を陥落させ、ムルターンを包囲したが、モンゴル人にとって耐え難い猛暑のために包囲を解き、ムルターンラホール、ペシャーワル、マリクプールの諸州を掠奪して帰還した[134]

ガズナ、ヘラート、メルヴの虐殺

1222年春、チンギス・カンはオゴデイに命じてジャラールッディーンの補給路になりうるガズナの破壊を行わせた[135]。オゴデイは人口調査と称し、住民を市外に出させ、技芸と手工業に熟達した者を助けてモンゴル高原に送り、他をすべて虐殺し、廃墟とした[135]。6月、将軍イルジギデイはホラーサーンのヘラートを6か月包囲して陥落させ、一週間にわたって住民160万人を虐殺した[136]。さらにモンゴル軍はトルイの殺戮後に再び人口が回復しつつあったメルヴに立ち寄り、再び大殺戮をおこなった[137][注釈 22]

帰路

ガズナの後、オゴデイはスィースターン攻囲をチンギス・カンに申し出たが、酷暑のため帰還を命じられた[139]。チンギス・カンはパルワーンに夏営地を設置して周辺地方をことごとく掠奪させると、はじめてダルガ(ダルガチとも)という文官の知事を征服した都市に置いた[139]。チンギス・カンはモンゴル高原への帰還を決め、チベットを越えて帰ろうとしたがあきらめ、ヒンドゥークシュ山脈を越えバクラーン地区で夏営し、秋になってバルフを通過したときにバルフで虐殺をおこない、ジャイフーン河を渡った[140]。その後、ブハーラ、サマルカンドを経たあたりで、チンギス・カンはジョチに急使を出し、諸子と共に来るよう知らせた[141]。ジョチはチャガタイと不和になって以来、怨みを持ち続け、父や兄弟とも会わずスィフーン河の北方で狩猟に明け暮れていた[141]。これに見かねたチンギス・カンは使者を送って会合をもちかけ、草原の獲物を自分のもとへ駆り立てて来るよう命じた[141]。しかし、翌年(1223年)になってもジョチは父や兄弟と会おうとせず、ただおびただしい獲物と野生のロバを献上するのみであった[141]1224年、チンギス・カンは旧ナイマンとウイグルの国境のエミル川でトルイの子であるクビライフレグと会い、狩猟を楽しんだ[142]。そして1225年2月にモンゴル高原のオルドに帰還した[142]

ジョチの死

ジョチはチンギス・カンからカスピ海および黒海の北方地方の征服を命じられたが、実行しようとしなかった[143]。そのためチンギス・カンは怒り、何度も書簡を送って来会するよう命じたが、そのたびにジョチは健康がよくないと言って断っていた[143]。チンギス・カンはある時、ジョチの所領から来た者にジョチの容態を聞くと、すこぶる健康で狩猟をしていると断言したため、ついに激怒し、ジョチを討伐することを決めた[143]。チャガタイ、オゴデイを前衛部隊として出発させ、自らも出発しようと準備していたとき、ジョチの訃報に接した[143]。チンギス・カンはこれに深く泣き悲しんだ[143]。後で聞いたところ、ジョチが健康で狩猟していたというのは誤報で、別のモンゴル人のことであったという[144]。チンギス・カンは誤報を伝えた者を捕らえて罰しようとしたが見つからなかった[144]。ジョチは享年30余歳であった[注釈 23]

第5次西夏遠征

カラ・ホト城址

チンギス・カンは西夏がオン・カンの子イルカ・セングンを匿ったこと、王子を人質としてモンゴルに差し出さなかったことを理由に攻撃を決意し、1225年末にオルドを出発、チャガタイを監視軍として留守を任せ、1226年2月に西夏に侵入した[145]。チンギス・カンはオゴデイとトルイを随行させ、3月にエチナ砂漠の黒水城(カラ・ホト)をはじめ、多くの要地を占領し、甘州粛州の両都市を占領した[146]。秋になり、涼州府の搠羅・河羅などの県をとり、そこから沙陀砂漠を越えて、黄河の九渡に達し、応里県などを占領した[146]。この時、将軍たちはことごとく住民を殺して土地を牧場にすべきと提案したが、耶律楚材が反対し、土地に租税を課して商品に対する税を納めさせるよう進言した[146]。チンギス・カンはこれに同意し、耶律楚材に課税法の制定を委ねた[146]。12月、チンギス・カンは霊州を包囲した[146]。西夏将軍の嵬名令公の指揮する一軍が霊州の救援にやってきたが、チンギス・カンはこれを敗走させ、霊州を陥落して劫掠した[147]

1227年2月、チンギス・カンは黄河を渡って積石州を降し、3月に臨洮府を劫掠し、4月に洮州・河州・西寧の三州を破壊した[147]。同じころテムゲ・オッチギンによって信都府が攻略された[148]。5月、チンギス・カンは平涼府の西に大本営を置き、6月に徳順州などを攻略し、六盤山付近に進軍した[148]。一方でオゴデイとチャガンには金朝の西安周辺を攻略させた[148]。西夏の首都の寧夏は窮地に陥り、西夏皇帝の李睍は7月に使節をチンギス・カンのもとへ派遣して降伏を乞うた[149]。この頃チンギス・カンは重病にかかった[149]

崩御

チンギス・ハーンは息子たちに、帝国と権力に害が及ばないよう、互いの結束を保ち、争いを控えるよう助言した。『テヴァリ・イ・ギュズィーデ』(ヌスレット・ナーメ)の一葉。
臨終の床で息子たちに助言を与えるチンギス・ハーン。マルコ・ポーロの『驚異の書』に収められた15世紀の細密画。(フランス国立図書館、フランス語写本2810、144葉。)
チンギス・ハンの死。マルコ・ポーロの世界物語(フランス語写本2810、27葉)。

前年の1226年3月、チンギス・カンがオンゴン・タラン・クドクという地に幕営していた時、夢の中で死期が近いことを予感し、オゴデイとトルイを呼びつけ、敵に対しては協力し一致団結すること、オゴデイが後を継ぐこと、チャガタイのせいで紛擾しないこと、を伝えていた[150]

チンギス・カンが病にかかった時、諸皇子のなかで側にいたのはトルイだけだった[150]。その臨終の際、チンギス・カンは主だった将校に対し、金朝攻略の方法と、西夏君主が首都から出てきたら殺害することを告げた[150]。そして8日後の1227年8月18日、チンギス・カンは陣中で崩御した[注釈 24][150]。享年66歳であった[150]。チンギス・カンの遺骸はモンゴル本土へ移されたが、その訃報が広がるのを防ぐため、途上ですれ違った者たちをすべて殺害した[151]。この警護隊がケルレン河源に近い大オルドに到着して初めてその喪を公表した[151]。その遺骸は順次主な后妃のオルドに安置されたが、皇子・公主および諸将はトルイの招請により、帝国各地より駆けつけ、柩の前で嘆き悲しんだ[151]。葬儀が終わった後、遺骸はオノン、ケルレン、トーラの3河が源を発するブルガン・カルドン山脈中の一峰に埋葬された[151][注釈 25]

陵墓と祭祀

チンギス・カンの崩御後、その遺骸はモンゴル高原の故郷へと帰った。『元史』などの記述から、チンギスと歴代のハーンたちの埋葬地は「起輦谷」と呼ばれる地域にまとまって営まれたと見られているが、その位置は重要機密とされ、『東方見聞録』によればチンギスの遺体を運ぶ隊列を見たものは秘密保持のために人のみならず動物までも全て殺されたという。また、埋葬された後はその痕跡を消すために一千頭の馬を走らせ、一帯の地面を完全に踏み固めさせたとされる。チンギスは崩御の間際、自分の死が世間に知られれば直ちに敵国が攻めてくる恐れがあると考え、自分の死を決して公表しないよう家臣達に遺言したと言われている。

チンギス・カンの祭祀は、埋葬地ではなく、生前のチンギスの宮廷だった四大オルドでそのまま行われた。四大オルドの霊廟は陵墓からほど遠くない場所に帳幕(ゲル)としてしつらえられ、チンギス生前の四大オルドの領民がそのまま霊廟に奉仕する領民となった。から北元の時代には晋王の称号を持つ王族が四大オルドの管理権を持ち、祭祀を主催した。15世紀のモンゴルの騒乱で晋王は南方に逃れ、四大オルドも黄河の屈曲部に移された。こうして南に移った四大オルドの民はオルドス部部族と呼ばれるようになり、現在はこの地方もオルドス地方と呼ばれる。オルドスの人々によって保たれたチンギス・カン廟はいつしか8帳のゲルからなるようになり、八白室(ナイマン・チャガン・ゲル)と呼ばれた。

一方、チンギス・カンの遺骸が埋葬された本来の陵墓は八白室の南遷とともに完全に忘れ去られてしまい、その位置は長らく世界史上の謎とされてきた。現在中華人民共和国内モンゴル自治区全国重点文物保護単位であるオルドス市成吉思汗陵中国語版ウランホト市成吉思汗廟中国語版があるが、前者は1950年代に移動を重ねていた八白室を内モンゴルに戻して固定施設に変更して中国政府が建設したもので、後者は1940年代に当時の満州国に建てられたものであり、この場所やその近辺にチンギスが葬られているわけではない。

冷戦が終結してモンゴルへの行き来が容易になった1990年代以降、各国の調査隊はチンギス・カンの墓探しを行い、様々な比定地を提示してきた。しかしモンゴルでは土を掘ることを嫌う風習と民族の英雄であるチンギス・カンの神聖視される墓が外国人に発掘されることからこれに不満を持つ人が多いという。

2004年、日本の調査隊は、モンゴルの首都であるウランバートルから東へ250キロのヘルレン川(ケルレン川)沿いの草原地帯にあるチンギス・カンのオルド跡とみられるアウラガ遺跡の調査を行い、この地が13世紀にチンギス・カンの霊廟として用いられていたことを明らかにした。調査隊はチンギス・カンの墳墓もこの近くにある可能性が高いと報告したが、モンゴル人の感情に配慮し、墓の捜索や発掘は行うつもりはないという。

シカゴ大学ジョン・ウッズ英語版教授も2001年にヘンティー山脈の丘陵地において、高さ約2.7~3.6メートルの石積みの壁が断続的に約3.2キロ続く遺構を確認、『元朝秘史』にある「古連勒古(クレルグ)」に比定し、チンギス・カンはじめモンゴル王族(元朝皇帝)の陵墓である可能性が高いと示唆するが、発掘調査には至っていない。

また2009年、中国大連在住のチンギス・カンの末裔とされる80歳の女性が「チンギス・カン陵墓が現在の四川省カンゼ・チベット族自治州にあることは、末裔一族に伝わる秘密であった」と発表し、現地調査でも証言と一致する洞窟が確認されたため、中国政府も調査を開始した[153]

2015年、チンギス・カンの墳墓が周辺にあるとされるブルカン・カルドゥンが世界遺産となった。

子孫

オックスフォード大学のY染色体調査研究

2004年オックスフォード大学遺伝学研究チームは、DNA解析の結果、チンギス・カンが世界中でもっとも子孫を多く残した人物であるという結論を発表した。ウランバートル生化研究所との協力によるサンプル採取と解析の結果、彼らによれば、モンゴルから北中国にかけての地域で男性の8%、およそ1300万人に共通するY染色体ハプロタイプが検知出来たという。この特徴を有する地域は中東から中央アジアまで広く分布し、現在までにそのY染色体を引き継いでいる人物、すなわち男系の子孫は1600万人にのぼるとされる。研究チームはこの特有のY染色体の拡散の原因を作った人物は、モンゴル帝国の創始者チンギス・カンであると推測しており、この解析でマーカーとされた遺伝子は、突然変異頻度に基づく分子時計の推計計算により、チンギス・カンの数世代前以内に突然変異によって生じた遺伝子である可能性が高いという仮説を発表した([154]

この研究を主導したひとりクリス・テイラー=スミス(Chris Tyler-Smith)は、チンギス・カンのものと断定する根拠として、このY染色体は調査を行った地域のひとつ、ハザーラ人やパキスタン北部のフンザの例をあげている。フンザではチンギス・カンを自らの先祖とする伝説があり、この地域はY染色体の検出が特に多かったという。さらに、彼は東洋で比較的短期間に特定のY染色体を持つ人々が広がった根拠として、これらの地域の貴族階級では一夫多妻制が一般的であり、この婚姻習慣はある意味で、生殖戦略として優れていたためではないか、と述べている。

しかしながら、この論説に対しては批判もあり、特に集団遺伝学者でスタンフォード大学ルイジ・ルーカ・カヴァッリ=スフォルツァは、Y染色体の広範な分布について、共通の先祖を想定することには同意出来るものの、これを歴史上のある特定の人物の子孫であると特定するには正確さを欠いている、として異議を唱えている。さらに、分布の状況と一夫多妻制が原因しているとするテイラー=スミスの見方に対しても、「あまりに短絡的かつ扇情的」であるとして非難している[155]。(同研究グループは同様の別の研究で、東アジアの男性約1000人のうち3.3%に現れた特定のY染色体について、その共通祖先は清朝初代皇帝ヌルハチの祖父ギオチャンガに比定しているが、カヴァッリ=スフォルツァはこの断定にも同様に根拠が薄弱であるという理由で異議を唱えている)

オックスフォード・アンセスターズの遺伝学者ブライアン・サイクスも研究が発表された2003年に出版した著書『アダムの呪い』で上記の研究を紹介しているが、「状況証拠は有力だが、残念ながら証明はできない」としながらも、検出されたY染色体についてチンギス・カンのものであるとほぼ断定している。同氏は人類の繁殖と拡大にはY染色体による男性の暴力的な性格や支配欲が密接に関係しているとする見解に立っており、チンギス・カンに対する人物評についても「チンギスハーン本人が、みずからのY染色体の野心によって突き動かされ、戦でも寝床でも、勝利することになった」という見方をしている[156]。だが同氏の見解のとおりだと、英国にも一定頻度で同様のY染色体キャリアがいることについて説明が出来ない、との反論がある[157]

ケンブリッジ サンガー研究所の研究

大手遺伝子研究所であるケンブリッジ サンガー研究所のカーシム・アユブ博士(Qasim Ayub、PhD Sanger Institute、CAMBRIDGE)らはアジア人の起源について研究していた。アジア全域から集められた2000人以上の男性の血液サンプルを採取しDNAを抽出。分析の結果、対象サンプルの多くがある同一の家系に属していることが判明した。対象の8%にほぼ同一のマイクロサテライト(DNAの短い配列の繰り返し)が見られた。考えられるのは彼らには同じDNAを持つ共通の祖先がいるということ。その祖先がどの時代の人物かを割り出すと、およそ1000年前で、さらにその遺伝子の発祥地はモンゴルであることも判明した。モンゴルで同一の遺伝子集団が多く見られたこと、また時代を考慮すると、その祖先とはチンギス・カンである可能性が高いという。世界の3200万人がその遺伝子を引き継いでいると結論づけた。

評価

チンギス・カンが描かれたコイン

このようにモンゴルの建国の英雄として称えられるチンギス・カンだが、社会主義時代のモンゴル人民共和国では侵略者として記述されることがあった。

モンゴル人民共和国はスフバートルダンザンボドーチョイバルサンドクソム英語版、チンギス・カンの直系子孫であるモンゴル学者ビャムビーン・リンチェン英語版や王侯ナヴァーンネレン中国語版等のモンゴル民族主義者で構成されたモンゴル人民党(後にモンゴル人民革命党)がソビエト連邦赤軍の支援を受けて独立させた国家であり、建国後も常にソ連の東側陣営に属する衛星国だったが、当初はリンチノ英語版汎モンゴル主義者を抱えていることから革命のためにチンギス・カンを政治的利用させた。1960年代にはトゥムルオチル英語版政治局員らがチンギス・カンの生誕800周年を祝い、チンギス・カンの研究者を集めたシンポジウムを開いて切手も発行され、チンギス・カンの故郷とされたダダル郡に記念碑が建設された[158]1962年にトゥムルオチル政治局員のライバルだった当時の首相ツェデンバルは、中ソ対立とこの祝賀を機にトゥムルオチルを「民族偏向主義者」「中国寄り」であるということで追放した[159]。以後チンギス・カンは批判されていった。モンゴルでの民主化が進むと、かつては栄光に彩られた自国の歴史を再認識しようとする動きが急速に強まった。そして、新生モンゴル国ではチンギス・カンが再び称賛され、モンゴルの紙幣トゥグルグでもスフバートルとともにチンギス・カンの肖像が用いられ、かつてスフバートル廟があったモンゴル政府宮殿前には改装の際にチンギス・カンの銅像が建てられて大統領の就任宣誓が行われている。

また、中華人民共和国でもチンギス・カンの生誕800周年はウランフ周恩来の後押し[160]で建設されたオルドス市の成吉思汗陵で盛大に祝われ[161]、チンギス・カンが死去した場所とされる六盤山涼殿峡中国語版は保護区となっている[162]日本軍占領下でバトマラプタンボヤンマンダフ松王の後押しによって建てられたウランホト市の成吉思汗廟もむしろ革命的なシンボルとして政府の資金で改修などがされており[163]歴史劇としてチンギス・カンの子孫[164][165]であるモンゴル族俳優のバーサンジャブを主演に据えたテレビドラマ「チンギス・ハーン」や映画が制作されて内モンゴル自治区ではチンギス・ハーン鎮中国語版などの地名やチンギス・カンの像があり、モンゴルを訪問した際に習近平総書記のような中国の指導者はチンギス・カン像に頭を下げて敬意を表し[166][167]、中国国内ではチンギス・カンの肖像を踏みつけるといった行為は年少者でも民族の英雄を侮辱した罪で逮捕・実刑を受けているが[168][169][170]、あくまで中国政府の主張する「中華民族の英雄」[171][172]としての崇拝が認められており、人権活動家で内モンゴル独立運動家のハダとモンゴル族の若者が集まってチンギス・カンの肖像を掲げてモンゴルの歌を放吟すると「国家分裂扇動」「スパイ活動」として逮捕・拘禁されている[173][174]

宗室

集史』チンギス・ハン紀によると、大ハトゥンと呼ばれる最上位の妃が5人いたことが述べられ、『元史』では大オルドを監督する4人の皇后の元に30人の妃たちが置かれていたこと述べる。イルハン朝ティムール朝時代の資料に準拠。漢字表記は『元史』「后妃表」による。

父母兄弟

  • イェスゲイ
  • ホエルン
    • 次弟 ジョチ・カサル
    • 三弟 カチウン
    • 四弟 テムゲ・オッチギン
    • 異母弟 ベルグテイ・ノヤン
      『元朝秘史』ではジョチ・カサルの下にもう一人ベグテルという、ベルグテイの同母兄と思しき弟がいたが、イェスゲイ没後の貧窮時に諍いを起こし、このベグテルをテムジンはジョチ・カサルと謀って射殺したため、これを知った母ホエルンはテムジンとジョチ・カサルを憤怒して叱責したという。この逸話は『元朝秘史』とその系統の資料にのみ現れ、『集史』『元史』『聖武親征録』など他の資料には載っていないため、ベグテルの存在そのものは疑わしいと考えられている。
    • テムルン - コンギラト部族の一派イキレス氏族の首長ブトゥ・キュレゲンに嫁ぐ

后妃

チンギスの皇后のうち、大ハトゥンは5人いたとし、ボルテを第1位、クランを第2位、イェスゲンを第3位、公主ハトゥン (كونجو خاتون Kūnjū Khātūn) こと岐国公主を第4位、イェスルン(イェスイ)を第5位とする。一方、『元史』「后妃表」によると、ボルテ、クラン、イェスイ(イェスルン)、イェスゲンはそれぞれ大オルド、第二オルド、第三オルド、第四オルドを管轄していたという。

大オルド

  • ボルテ・ウジン(孛児台旭真太皇后) コンギラト部族デイ・セチェンの娘(正宮 孛剌合真皇后)
    • 忽魯渾皇后
    • 闊里桀皇后
    • 脱忽思皇后
    • 帖木倫皇后
    • 亦憐真八剌皇后

第二オルド

  • クラン(忽蘭皇后) ウハズ・メルキト部族長ダイル・ウスンの娘
    • 哈児八真皇后
    • 亦乞剌真皇后
    • 脱忽茶児皇后
    • 也真妃子
    • 也里忽禿妃子
    • 察真妃子
    • 哈剌真妃子

第三オルド

  • イェスルン(イェスイ 也速皇后) トトクリウト・タタル部族出身。イェスゲンの姉。
    • 忽魯哈剌皇后
    • 阿失倫皇后
    • 禿児哈剌皇后
    • 察児皇后
    • 阿昔迷失皇后
    • 完者忽都皇后
    • 渾魯忽歹妃子
    • 忽魯灰妃子
    • 剌伯妃子
  • 岐国公主 金朝皇帝・衛紹王の娘

第四オルド

  • イェスゲン(也速干皇后) トトクリウト・タタル部族出身。イェスルンの妹。
    • 忽答罕皇后
    • 哈答皇后
    • 斡者忽思皇后
    • 燕里皇后
    • 禿干妃子
    • 完者妃子
    • 金蓮妃子
    • 完者台妃子
    • 奴倫妃子
    • 卯真妃子
    • 鎖郎哈妃子
    • 八不別及妃子

『集史』チンギス・ハン紀后妃表には5人の大ハトゥン以外の主な后妃や側室(クマ Quma)について記録されている。

子女

集史』ではボルテとの間に儲けた四男五女の他に男女数人を記録するが、『元史』では「六子」とする。これらの多くの男子のうち、 クビライの時代以降も存続したことが確認できるのは、ジョチ家、チャガタイ家、オゴデイ家、トルイ家、コルゲン家の5系統のみである(『集史』チンギス・ハン紀、『元史』宗室世系表ほか、『五族譜』や『高貴系譜』、『南村輟耕録』などのモンゴル時代以降の系譜資料に基づく)。

男子

  • ジョチ(1184?-1226) 母 ボルテ
  • チャガタイ(1185?-1242) 母 ボルテ
  • オゴデイ (1186-1241)母 ボルテ
  • トルイ(1189?-1232) 母 ボルテ
  • ウルジュカン(次五 兀魯赤、無嗣)
  • コルゲン(?-1238)(次六 闊列堅太子) 母 クラン
  • チャウル 母 イェスゲン
  • ジョルチダイ 母ナイマン部出身の側室
  • 氏名不明 母 タタル部族出身の側室

女子

名前

チンギスについて

「チンギス・カン」とはテムジンが即位の際にコンゴタン氏族出身のテブ・テングリ(ココチュ)というシャーマンから与えられた称号であるが、その意味については諸説ある。

集史』部族篇オロナウト族の項には、

「チンク čīnk」は「強固な」という意味であり、「チンギス čīnkkīz」はその複数形である。この称号を採った理由は以下のとおりである。当時カラ・キタイ Qarā Ḫitāyの大帝王の称号は「グル・カン kūr ḫān」であり、グル kūrの意味も同じく「強固な」であり、王が非常に強大でない限り、グル・カン kūr ḫānと呼ばれなかった。モンゴル語で「チンギス čīnkkīz」は「グル kūr」と同じ意味を持つが、より大げさで、複数形でもあるため、この語をつけることは、例えばペルシア語でシャハンシャー šahanšāh(王の中の王)というのと同じであった。『集史』部族篇オロナウト族の項

[175]

とあり、『蒙古源流』には

五色の瑞鳥が毎朝テムジンの天幕の前の石の上に留まって、「チンギス、チンギス」と鳴いたことから名付けた『蒙古源流』

とあり、ブリヤト・モンゴル人の学者ドルジ・バンザロフは「これはシャーマンの間で唱えられている光の精霊の名のHaǰir Činggis Tenggeriという言葉から出たに相違ない」とし、ポール・ペリオテュルク語のdenggiz(海、湖)という語に比定し、「海の精霊」を指したものであろうとした。[176]

カンとカアンについて

チンギス・カンの呼称は、歴史的に見て「チンギス・カン」系と「チンギス・カアン」系の2種類に大別出来る。

「チンギス・カン」系の資料

本来、13 - 14世紀当時の中期モンゴル語では「チンギス・カン」 (Činggis Qan) と称していたことが同時代資料の調査から分かっている。

これは、当時のウイグル文字モンゴル語ではイェスンゲ紀功碑などでも CYNKKYZ Q'N (Činggis Qan) と書かれ、第5代モンゴル皇帝クビライの大元ウルスで開発されたパスパ文字によるモンゴル語皇帝聖旨碑文でも ǰiṅ-gis qa-nu とある[177]

また13世紀のアラビア語・ペルシア語年代記では、イブン・アル=アスィールの『完史 (al-Kāmil fī al-Ta'rīkh) 』(1231年成立)やシハーブッディーン・ムハンマド・ナサウィーの『ジャラールッディーン伝 (Sīrat al-Sulṭān Jalāl al-Dīn Mankubirtī) 』(1240年代初頭成立)、ジューズジャーニーの『ナースィル史話 (Tabaqāt-i Nāṣirī) 』(1260年成立)といったモンゴル帝国外で成立した資料では جنكيز خان Jinkīz Khān (ペルシア語資料の刊本では現在のペルシア文字の چ č/ch や گ g が補われて چنگيز خان Chingīz Khān )などと表記されており、モンゴル帝国側の資料と言えるジュヴァイニーの『世界征服者の歴史』(1260年成立)でもやはり چنگيز خان Chingīz Khān などとなっている。ラシードゥッディーンの『集史』(1314年成立)では編者のラシード在世中に書写された紀年(1317年書写)を持つ現存最古の写本、いわゆる「イスタンブール本」(Revân köşkü No. 1518)では、(ウイグル文字での綴りを反映していると思われるが) چينككيز خان Chīnkkīz Khān とあって同書では「チンギス・カン」は一貫してこの綴りを用いている。このように13 - 14世紀のモンゴル帝国内外のアラビア語・ペルシア語文献ではチンギス・カンの「カン」 (Qan) の部分は、従来からあったテュルク語の χan (ハン)のアラビア文字転写である خان khān を用いた。

「チンギス・カアン」系の資料

一方で、後代のモンゴル語文献では「チンギス・カアン」 (Činggis Qa'an/Činggis Qaγan) という言い方もされている。

17世紀初頭に成立した『アルタン・ハーン伝』などでは、「チンギス・カアン」 (CYNKKYZ Q'Q'N /Činggis Qaγan) の綴りで表記され、サガン・セチェン蒙古源流』や『アルタン・トプチ』などの代表的な近代以降のモンゴル語年代記でも同様に表記されている。現存最古のモンゴル語による歴史書文献で明代に入って最終的な編纂をみる洪武刊十二巻本『元朝秘史』でも「成吉思可罕」 (Činggis Qahan) となっており、現存の『元朝秘史』は明代のものだが、14世紀末の「チンギス・カアン」系の資料である。

「チンギス・カン」と「チンギス・カアン」の対立

「カン」と「カアン」の違いについてだが、ハーンの項目でも述べられているように、「カアン」 (Qa'an/Qaγan) は、一般的な「王」や「君主」を意味する「カン」 (Qan) をしのぐ「皇帝」の意味として、第2代皇帝オゴデイによって古代の「カガン」 (Qaγan) の称号を復活させて用いられたと考えられており、第4代モンケ、第5代クビライによってモンゴル皇帝の称号として定着した。

13 - 14世紀にモンゴル帝国側の資料で「チンギス・カアン」 (Činggis Qa'an/Činggis Qaγan) と呼ぶ例は、皆無ではないが筆記者による書き間違いなどの可能性もあるレベルで、一般的ではなかったようである。

例えば、大元ウルスでの場合、少林寺蒙漢合璧聖旨碑の例を挙げると、タツ年(至元5年戊辰、1268年)正月25日の紀年を持つウイグル文字モンゴル語によるクビライの聖旨碑文には、チンギスは CYNKKYZ X'N/Činggis Qan と書かれ、オゴデイは単に X'X'N/Qaγan〜Qa'an と書かれている。およそ半世紀のちのネズミ年(皇慶元年壬子、1318年[いつ?]3月13日の紀年のある同じ碑石に刻された仁宗アユルバルワダによる聖旨碑でも、チンギスは「チンギス・カンの」 ǰiṅ -gis qa-nu/ǰiṅgis qa-nu 、オゴデイは「オゴデイ・カアンの」 "ö-kˋö-däḙ q·a-nu/Öködeï Qa'an-u 、クビライは尊号である「セチェン・カアンの」 sä-čän q·a-nu/Sečen Qa'an-u で呼ばれており、続く成宗テムルも同じく尊号の「オルジェイトゥ・カアンの」 "öˆl-ǰäḙ-tˋu q·a-nu/Öˆlǰeïtü Qa'an-u、武宗カイシャンも尊号の「クルグ・カアンの」kˋü-lug q·a-nu/Qa'an-u とあって、チンギスのみ「カン」 (Qan) の称号のまま使われており、オゴデイ以下他と区別がされている[177]

グユクのインノケンティウス4世宛国書。15行目に「チンギス・カンと(オゴデイ・)カアン ( جنكيز خان و قاان Jinkīz Khān wa Qā'ān) 」と書かれている。(日本語訳[178])(ペルシア語バチカン図書館蔵)

イルハン朝でも上述の通り、チンギスは『世界征服者の歴史』などの جنكيز خان Jinkīz Khān (または چنگيز خان Chigīz Khān)あるいは『集史』のような چينككيز خان Chīnkkīz Khān と書かれている。オゴデイは「オゴデイ・カアン」 اوكتاى قاآن Ūktāī Qā'ān、クビライは「クビライ・カアン」 قوبيلاى قاآن Qūbīlāī Qā'ān となっている。しかしながら例えばチンギス・カアン جنكيز قاآن Jinkīz Qā'ān のような表記をされた資料はイルハン朝以降も見られない。このような جنكيز خان Jinkīz Khān と(オゴデイ・)カアン قاان Qā'ān のような表記の書き分けは、第3代皇帝グユクがローマ教皇インノケンティウス4世に宛てた国書にもはっきり確認される。13 - 14世紀のモンゴル帝国ではアラビア文字表記でも「カン」と「カアン」は厳然と区別されていたと見られるのである。総じてこの جنكيز خان Jinkīz Khān という表記はティムール朝時代以降も一般的に使われている。

イルハン朝周辺でもウイグル文字モンゴル語で書かれた資料がいくつか残されており、例えば『集史』編纂後程なく成立したと見られる系図資料『五族譜』 (Shu`ab-i Panjgāna) は各々主要なモンゴル君主の部分には人物名のアラビア文字表記とウイグル文字表記とを併記しているのが特徴となっている。そこではチンギスの場合、アラビア文字で جينككيز خان Jīnkkīz Khān と表記され、ウイグル文字では cynγkyz q'n/čiŋγis qan と表記されている。クビライの場合はアラビア文字で قُوبِيلَاي قآن Qūbīlāī Qa'ān と表記され、ウイグル文字では qwbyl'y q'q'n/qubilai qa'an と表記されている(アラビア文字表記は『集史』イスタンブール本とほぼ同一となっている。「カアン」のアラビア文字表記について『世界征服者の歴史』やグユクのインノケンティウス4世宛国書では قاان Qā'ān もしくは قاآن Qā'ān と4文字で表記されるが、『集史』イスタンブール本や『五族譜』では قآن Qa'ān と3文字で表記されており、2番目の文字にアリフの長母音記号であるマッダ記号が附されているのが特徴的である)。

漢語文献での「チンギス・カン」の呼称

後裔である元朝によってつけられた中国風の廟号は太祖、は法天啓運聖武皇帝といい、元の初代皇帝として扱われる。

漢語文献では、チンギス在世中の記録として、ムカリ国王の宮廷を訪れた南宋の使者孟珙撰(王国維の研究により著者は趙と校正された)の報告書『蒙韃備録』(1221年頃成立)やサマルカンド駐留中のチンギス・カンに謁見した長春真人(丘処機)の旅行記『長春真人西遊記』(1228年頃成立)が知られているが、いずれも「成吉思皇帝」と書かれている。南宋側の記録である『蒙韃備録』や『黒韃事略』(1237年成立)でもチンギスは「成吉思皇帝」や「韃主」と呼ばれているが、「チンギス」という音写に基づく呼称は一貫して「成吉思」や「成吉思皇帝」であり、ウイグル文字、パスパ文字、アラビア文字などのような「カン」と「カアン」の書き分けは生じていない。『元朝秘史』のような「成吉思可罕」という表記は漢語文献では稀であり、ほとんど確認されない(ちなみに、1346年に成立したチベット語文献の『フゥラン・テプテル』でも「太祖チンギス帝」 (Thaḥi dsuṅ Jiṅ gi rgyal po) とあって「カン」や「カアン」の部分は音写されていない)。

1266年にクビライによってチンギス・カン以来のモンゴル皇帝や皇后、イェスゲイ・バアトルトルイなどの主要モンゴル王族の廟号と諡号が設けられ、チンギスには廟号を太祖、諡号を聖武皇帝と贈られた。また、1309年12月3日に武宗カイシャンによってさらに法天啓運聖武皇帝と追諡された[179]。これらを受けて大元ウルスの末期に編纂された随筆『南村輟耕録』の歴代モンゴル皇帝を列記した巻第1 列聖授受正統 には「太祖應天啓運聖武皇帝 諱鐵木眞國語曰成吉思。」と記されている。

中期モンゴル語と近現代モンゴル語の音韻

以上のように、西方のアラビア文字圏ではイルハン朝以降もほぼ一貫して「チンギス・カン」系の表記のままであったのに対して、モンゴル高原では「チンギス・カアン」系に呼称が遷移した。近代モンゴル語 Чингис ХаанGenghis Khan.ogg [ʧiŋgɪs χaːŋ][ヘルプ/ファイル]の音韻に近い「チンギス・ハーン」という表記が、近年一般に流布して用いられたが、これは表記上の問題以外に音韻上の変化についても問題となる。パスパ文字モンゴル語やアラビア文字表記から、ウイグル文字などに見られる Qaγan は第2音節の -aγa- は -a'a- と軟音化して「カン」と発音されていたことが確実で、これが近現代音ではさらに χaːŋ のようにほぼ長母音化してしまっている。中期モンゴル語の q 音もパスパ文字モンゴル語表記やアラビア文字転写によって、「カ」に近い音であったが、現在では χ 音に移行している。χ 音は日本語の仮名転写では「ハ」行が用いられるため、中期モンゴル語としては「チンギス・カアン」と呼ぶべきものが「チンギス・ハーン」に変化しているのである。また、近現代モンゴル語でも「カン(ハン)」と「カアン(ハーン)」の区別は存在するが、チンギスは「ハーン(皇帝)」であるため、「チンギス・ハン (Чингис хан) 」とは呼んではならず、「チンギス・ハーン (Чингис хаан) 」と呼ぶべきだと現在のモンゴル人は考えている、との報告もされている[180]

一方で、ペルシア語文献でのアラビア文字(ペルシア文字)転写で多い、چنگيز خان Chigīz Khān を仮名転写すると「チンギーズ・ハーン」となり、近現代モンゴル語の「カアン」 (Qa'an) の発音転写とアラビア文字表記での「カン」 (Qan) の仮名転写が、「ハーン」という同一の転写になってしまう。「カン」と「カアン」という中期モンゴル語のレベルでは意味的に異なる単語が、依拠する資料で同一の仮名転写になるという弊害が生じることとなった。

「チンギス・カン」「チンギス・ハン」「チンギス・ハーン」

このため、「チンギス・ハーン」「チンギス・ハン」「チンギス・カン」と言った具合に、日本語文献での仮名転写が研究者や執筆者の間でバラバラの状態になり、混乱をきたすようになった。一般に日本の戦前や現代の中国などの漢字表記では、「成吉思汗」と書かれる。ただし、「汗」の読みは中国でも年代や地域により異なり、「ハン」「ホン」、閩東語閩南語では「カン」(ガン)となるが、古代の上古中国語では「ガーン」であった[181]。明治時代の日本ではジンギス・カンと振り仮名されていた[182]清朝時代の満州語では「ハン」と発音され、中期モンゴル語や近現代モンゴル語の「カン(ハン)」「カアン(ハーン)」の対立は見られないという。

主に、1980年前後から『アルタン・ハーン伝』に見られるような16 - 17世紀以降のモンゴル語文献の調査に基づく研究者の間では「チンギス・ハーン」という表記を採用する傾向にあり、一方で1990年代以降に中国で発掘された大元ウルス時代のパスパ文字モンゴル語碑文や『集史』などのモンゴル帝国時代のペルシア語文献の調査の進展によって、中期モンゴル語音韻の復元研究が進み、モンゴル帝国では「カン」と「カアン」が明確に区別されていたことが判明・認識されるようになった。このため13 - 14世紀のモンゴル帝国時代の研究者からこれらの同時代文献資料での表現に基づいて「チンギス・カン」という表記が推奨されるようになった(両者の弁別を強く訴えている研究者としては、モンゴル帝国史・大元ウルス史の専門家である杉山正明などが有名である。また、「チンギス・ハン」は「チンギス・カン」の現代モンゴル語読み (Činggis Qa'an) か、どちらかというとアラビア文字表記の چنگيز خان Chigīz Khān から再現したテュルク語発音(Čiŋγis χan と転写すべきか)に近い)。

かつてはジンギス・カンと書かれることが多かったが、これはティムール朝以降のペルシア語年代記などのアラビア文字表記でجنكز خان (jinkiz khān) のようにイルハン朝時代の『集史』では保たれていた چ č が ج j のままになっている写本が多く見られることによる。これらの事情によっての13-14世紀以降のアラビア語文献や ج j のままの文献の音写から転訛した欧米の諸言語の発音に基づいた、19 - 20世紀前半までの表記がベースと考えられる。しかしながら、現在では「チンギス・ハーン」や「チンギス・カン」が一般化しており、現在では「ジンギス・カン」はむしろまれである(なお、欧米ではモンゴル帝国時代に存在した「カン」と「カアン」の区別についての認識がまだまだ周知されていないようで、チンギスでもクビライでも Khan で一律表記される傾向にある)。

このように、13 - 14世紀のモンゴル帝国内部の中期モンゴル語やその影響にある文字表記では「チンギス・カン」と呼ばれている。13 - 14世紀の中期モンゴル語と近代・現代モンゴル語では q 〜 χ と音韻の変化が生じているが、それとは別に大元ウルスが崩壊した前後からモンゴル高原周辺ではチンギス・カンの称号について、「カン」系から「カアン」系へシフトしていったもので「チンギス・カアン」という言い方は、特に大元ウルスが崩壊した14世紀末以降に一般化していったものと考えられる。

以上、同時代のモンゴル語による表記は Činggis Qan で、チンギス・カンと発音したため、本項でもこれを使用する。その他の人名・部族名・地名の当時の発音については東洋史学者・白鳥庫吉がローマ字音訳した 『音訳蒙文元朝秘史』を参照のこと。

肖像画について

台湾国立故宮博物院には清朝の内府にあった『中国歴代帝后像』という画像集があり、有名なチンギス・カンの肖像やクビライ・カアンの肖像が含まれている[183]。チンギス・カンを描いた肖像画は事実上これ一枚といってよい[183]。しかし、この肖像画が描かれたのは大元ウルス成立以後であり、ある種の想像画である[183]。注目されるのは孫のクビライの肖像と比較すると顔立ちは全く異なるが、その輪郭はほとんど同じで、おそらくクビライの肖像画をトレースしてチンギス・カンを描いたのではないかと杉山正明は言う[183]。チンギス・カンの容姿を伝える記録は少なく、東西2例にある程度である[184]。ひとつは南宋趙珙の見聞記『蒙韃備録』で「その身は魁偉にして広顙・長髯・人物は雄壮、異とする所以なり」と述べる[184]。きわめて大柄で、額は広く、長々とほお髯が垂れ、人柄は勇壮で特別な人間だという[184]。もうひとつは中央アジア遠征中のチンギス・カンを見たという人の話をかつてゴール朝に仕えていたミンハージュッディーン・ジューズジャーニーによる記述で、「チンギス・カンは65歳、人並外れて長身、身体は頑健、猫のような目を持ち、灰色の頭髪がわずかに残る」という[184]。いずれの記録もロシアのワシーリィ・バルトリドが注目したものである[184]。当時、小柄な人が多かったらしいモンゴル遊牧民の中で並外れた巨躯な体形というのは重要なポイントである[184]

関連作品

小説

映画

テレビドラマ

漫画

チンギス・カンの登場するコンピュータゲーム

チンギス・カンの登場するボードゲーム

Strategy&Tactics229号 Khan Rise of Mongols S&T編集長のジョー・ミランダのデザインした2人用ウォーゲーム。シャルルマーニュシステムの第4作に当たる。

音楽

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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