呂馬童
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生涯
高祖元年(紀元前206年)、漢王劉邦は三秦平定の戦いに勝利し、関中の地を支配下に収めた。『史記』高祖功臣侯者年表によると、呂馬童はこの時に関中の好畤で郎中騎将の身分で劉邦に帰順したと思われる。
高祖2年(紀元前205年)、彭城の戦いの敗戦の後、項羽率いる楚軍の騎兵が劉邦が籠城する滎陽を攻撃したため、劉邦は軍中から騎兵の将を務められる人物を選抜しようとした。かつて秦軍の騎士であった李必と駱甲が推挙され、劉邦が二人を任命しようとしたが、李必と駱甲は「我々は元秦の民ですので兵士に信頼されない恐れがあります。どうか大王の側近で騎術に優れた人物の補佐として付けてください」と辞退したため、騎将には灌嬰が選ばれた。この時に呂馬童は灌嬰の指揮下に属したと考えられる。
高祖3年(紀元前204年)、韓信が斉の国都を占領すると、項羽は項佗を大将に、周蘭を亜将に、龍且を裨将に任じて斉を救援させた。韓信は計略を用いて楚軍を分断し、灌嬰軍が龍且を討ち取る功績を挙げた。呂馬童は灌嬰軍の騎司馬(騎兵隊長)としてこの濰水の戦いに参戦し、龍且を攻撃した。
高祖5年(紀元前202年)、項羽は垓下の戦いで敗北し、真夜中に僅か800人余りを率いて包囲網を突破して南へと逃れたため、劉邦は灌嬰に5,000の騎兵を率いて項羽を追撃するよう命じた。呂馬童は灌嬰の指揮するこの追撃部隊に属していた。
最後の戦いにおいて項羽は単独で漢軍数百人を殺したが、その身に十数カ所の傷を負い、振り返って呂馬童を見つけると、「若非吾故人乎(お前は私の旧友ではないか)[2]」と言った。呂馬童は項羽から顔を背け[3]、指を差して王翳に「これが項王だ」と告げた。項羽は「聞けば漢は私の首に千金と一万戸の邑を懸賞しているそうだな。お前には旧知のよしみでその恩賞をくれてやろう」と言い、自刎して果てた。王翳が項羽の首を得ると、他の騎兵たちは項羽の遺体を奪い合い、死者は数十人に及んだ。最終的に王翳、騎司馬の呂馬童、郎中騎将の楊喜、郎中の呂勝、楊武がそれぞれ遺体の一部を得た。
高祖7年(紀元前200年)、正月己酉の日、劉邦は項羽の首級に懸けていた褒美の封邑を五つに分け、呂馬童を中水侯に封じた。呂馬童は食邑1,500戸を領し、前漢王朝の礎を築いた功臣一覧の功績と家系録を記した『漢書』高恵高后文功臣表では序列第101位に列せられている。
侯位には30年間在り、文帝10年(紀元前170年)に死去した。