ジャン・ベーラ

From Wikipedia, the free encyclopedia

ジャン・マリー・ベーラJean Marie Behra, 1921年2月16日 - 1959年8月1日)はフランス人のレーシングドライバーで、ゴルディーニマセラティBRMポルシェスクーデリア・フェラーリからF1に出走した。ベーラはフランスニースで生まれドイツベルリンで死去した。

フルネーム ジャン・マリー・ベーラ
出身地 同・ニース
生年月日 (1921-02-16) 1921年2月16日
概要 ジャン・ベーラ, 基本情報 ...
ジャン・ベーラ
基本情報
フルネーム ジャン・マリー・ベーラ
国籍 フランスの旗 フランス
出身地 同・ニース
生年月日 (1921-02-16) 1921年2月16日
死没地 ドイツの旗 ドイツ
同・ベルリン
没年月日 (1959-08-01) 1959年8月1日(38歳没)
F1での経歴
活動時期 1952-1953,1954-1959
所属チーム '52-'53,'54 ゴルディーニ
'55-'58 マセラティ
'58 BRM
'59 フェラーリ
'59 ベーラ・ポルシェ
出走回数 53 (52スタート)
優勝回数 0
通算獲得ポイント 51 17
ポールポジション 0
ファステストラップ 1
初戦 1952年スイスGP
最終戦 1959年フランスGP
テンプレートを表示
閉じる

人物

ベーラは小柄だががっちりした体格で、体重は178ポンド(約80キロ)あった[1]。ベーラは肩が大きく、12回にわたる事故により受けた傷跡があった。1955年には事故によって片耳を引きちぎられた。ベーラは時に素晴らしいドライブをしたが、熱意に欠けるドライブを見せることもあった[2]

キャリア概要

ベーラはスポーツカー、グランプリカーのレースへ転向するまで、モト・グッツィでオートバイレースに参戦した。1952年にベーラは4輪の競技参戦を開始した。 ヨアキム・ボニエは、自身のレーススキルは主にベーラから学んだと述べた[1]。ベーラはF1の世界選手権レースでは勝利を挙げることはできなかったが、モータースポーツへの抑えられない欲望をコントロールし、生涯、強力な選手であると見なされ続けた。ベーラは1952年に行われた非選手権レースのランスグランプリでF1での勝利を挙げると、1959年までに多くのレースに優勝したが、選手権レースで勝つことは一度もなかった。

ゴルディーニ

ベーラは、1952年の11月にメキシコで開催されたパンアメリカンロードレースにゴルディーニから参戦し、オアハカ州に居た。ベーラは、メキシコの南部国境からエルパソに程近い シウダー・フアレスアメリカ=メキシコ国境まで、5日間で争われたこのレースの最初のステージに勝利した。初日、ベーラは19番目にスタートし、3時間41分44秒でゴールした[3]。競技2日目、ベーラはプエブラから約50マイル(80km)離れた地点のカーブでクラッシュした[4]。1954年4月のポーグランプリで、ベーラはレースの残り10分で先頭を追い抜き、優勝した。ベーラはマシントラブルのために何度もピットインしながらも、モーリス・トランティニアンを200ヤードの差で抑えた。ベーラは6気筒のゴルディーニをドライブしていた。[5]

1954年イギリスGPでは、F1世界選手権でベーラ自身唯一のファステストラップを記録したが、ファステストラップを記録したドライバーが7名いたため、ベーラには0.14ポイント(1ポイントの1/7)が与えられた。

マセラティ

1955年、ベーラは2年連続でポーグランプリを制したが、この年はマセラティのハンドルを握っていた。このレースはアルベルト・アスカリが19周目までリードしていたが、アスカリはブレーキトラブルで後退した。このレースは5万人の観衆を集め、16台出走のうち11台がフィニッシュした。[6]。ベーラとルイジ・ムッソはチームメイトとして1008kmで争われたモンツァの super-Cortemaggiori Grand Prix に出場した。二人は3000ccのマセラティをシェアし、6.3kmのサーキットのコースレコードとラップレコードを樹立し優勝した。[7]

1956年6月脚の手術を受け、モンツァグランプリ1000kmへの欠場を余儀なくされた[8]が、同年7月のルーアングランプリでポールポジションを獲得した。ベーラのマセラティは平均時速155.46kmで周回した[9]。また同年10月にマセラティをドライブし、2000ccのスポーツカーイベントとして開催されたローマグランプリを制した。優勝したベーラの走行距離は166.030kmだった。ベストラップは2分16秒9、平均174.003km/hで、これはカステルフサーノのコースレコードだった[10]

1957年4月ポーグランプリで最速のタイムを記録した。ベーラは2.77kmのコースを1分35秒7で周回し、これは自身の持つラップレコードから0.5秒遅れだった。レース距離は304.6km(約190マイル)で[11]、ベーラはポー市街地で開催されたこのレースを平均時速62.7マイル(時速約100.9km)で走りきり、勝利した[12]。 1957年5月、ベーラはミッレミリア用の車両テスト中に負傷した。ベーラは回復し、翌月の6月22日に開催されたル・マン24時間レースにマセラティから出走することになった[13]。ベーラは1957年8月にスウェーデンクリスチャンスタッドにある、ラベロフの6.537kmのアスファルト舗装のコースで開催されたスウェディッシュ6時間グランプリで勝利を収めた[14]。ベーラは翌月のモデナ・グランプリにも勝利した[15]

ポルシェ

ベーラはポルシェをドライブし、イギリス人ドライバーのグラハム・ヒルアラン・ステイシーを下して第6回ルーアン・グランプリを制した[16]。ベーラはオポルトで開催された1958年ポルトガルGPにはBRMから出走し、4位に入賞した[17]。ベーラはポルシェをドライブして9月に開催されたベルリン・グランプリに勝利した。ベーラは5.19マイル (8.35 km)のコースを20周し、48分14.8秒のタイムで優勝した[18]。最終的に1958年にヨーロッパで開催された8戦のスポーツカーレースでポルシェ・スパイダーをドライブし、複数回の優勝を記録した。F1にはBRMのみから参戦した[1]。ベーラは1958年10月にリバーサイドで開催されたレースでポルシェ・RSKをドライブして4位に入賞した。レース後、カサブランカで開催されたモロッコGPに出場するため、急いでレース場を後にし、飛行機でヨーロッパに戻った。ベーラは非常に急いでおり、飛行機に間に合わせるため、救急車に乗ってリバーサイドを後にした[19]

最後のシーズンと死

1959年、ベーラはフェラーリに移籍し、トニー・ブルックスのチームメイトになった。ベーラは4月にエイントリーで開催されたF1マシンによる200マイル (320 km)のレースで勝利した。ベーラは平均時速88.7マイル (142.7 km)を記録し、ブルックスが10秒差で2位に続いた[20]。ベーラはランスで開催されたフランスGPをピストン破損によりリタイアすると、激しい議論の末チームマネージャーのロモロ・タボーニを殴打し、即座にチームを追われた。

それから1ヶ月も経たないうちに、ベーラはベルリンアヴスで開催されたスポーツカーレースにポルシェ・RSKで参戦し、雨の中クラッシュした。このレースはドイツGPと併催で、グランプリの決勝前日に開催された[21]。ベーラは車両から投げ出されてコース外の旗ざおにぶつかり、その際に頭蓋骨を骨折し、死亡した。

このスポーツカーレースは、1500cc以下の小さな排気量の車両で争われた。3周が終了した時点で、ベーラはヴォルフガング・フォン・トリップスヨアキム・ボニエ(この2人はレースを1位と2位で終えた)に次ぐ3位を走行していた。 AVUSは特徴あるレーストラックで、アウトバーンの車線を2.5マイル (4.0 km)にわたり使用していた。北行きと南行きの車線は15メートルほど離れていた。コースの一方の端は時速30マイル (48 km)ほどで通過するヘアピンになっていた。もう一方の端は、9メートルほどの高さの急なバンク角のついたカーブだった。ベーラは降り続ける雨の中、時速110マイル (180 km)で走行中にコントロールを失った。ベーラのポルシェはリアを左右に振り始めると、つるつるで急なバンクをリアから滑り上がった。そしてポルシェはスピンし、バンクの頂上に到達したときには、ノーズが上を向いていた。車両はバンクの頂上に側面から激しく着地し壊れて停止したが、レースは続行された。ベーラは車両から投げ出され、バンクの頂上に並ぶ、参加者の国旗を掲げた8本の旗ざおのうちの1本に衝突した。ベーラが衝突した旗ざおは、ほぼ半分の高さのところで折れ曲がった。

ベーラは林の中に落下し、パドックの道路わきまで転がった。そこはドライバーや車両がしばしばプラクティスを待つ場所だった。病院の発表によると、ベーラは肋骨のほとんどを骨折し、致命傷となる頭蓋骨に見舞われていた[21]。アヴスはアウトバーンA115の一部であり、A115はドイツの高速道路システムの主要な部分を担っている。

追悼

8月1日事故死してから6日後、ベーラはフランスニースに埋葬された。この間に3度の葬儀が行われた。最初はベルリン、次にパリだった。ニースでは、3000人もの会葬者が道に並んだ。

ベーラは19歳の息子、ジャン=ポールを遺した。ベーラの死去により、名声あるフランス人ドライバーはモーリス・トランティニアンだけになった。トランティニアンはベーラの家族を慰め、フランスの若手ドライバーに「国際モーターレースでフランスの色を守ろう」と呼びかけた。このレース界のグループの活動に名を寄せなかった著名人にはエンツォ・フェラーリが含まれていた。エンツォ・フェラーリはベーラの死の10日前に、ベーラをファクトリードライバーから外しており、ベーラの葬儀の会葬者への追悼のメッセージも送らなかった[22]

レース戦績

F1

さらに見る 年, 所属チーム ...
所属チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 WDC ポイント
1952年 ゴルディーニ Type 16 SUI
3
500 BEL
Ret
FRA
7
GBR GER
5
NED
Ret
ITA
Ret
11位 6
1953年 ARG
6
500 NED BEL
Ret
FRA
10
GBR
Ret
GER
Ret
SUI
Ret
ITA NC
(21位)
0
1954年 ARG
DSQ
500 BEL
Ret
FRA
6
GBR
Ret
GER
10
SUI
Ret
ITA
Ret
ESP
Ret
26位 17
1955年 マセラティ 250F ARG
6*
MON
3*
500 BEL
5*
NED
6
GBR
Ret
ITA
4
9位 6
1956年 ARG
2
MON
3
500 BEL
7
FRA
3
GBR
3
GER
3
ITA
Ret
4位 22
1957年 ARG
2
MON 500 FRA
6
GBR
Ret
GER
6
PES
Ret
ITA
Ret
11位 6
1958年 マセラティケン・カバナ ARG
5
11位 9
オーウェン P25 MON
Ret
NED
3
500 BEL
Ret
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
Ret
POR
4
ITA
Ret
MOR
Ret
1959年 フェラーリ Dino 246 MON
Ret
500 NED
5
FRA
Ret
GBR 17位 2
ベーラ・ポルシェ/ジャン・ベーラ RSK GER
DNS
POR ITA USA
閉じる

ル・マン24時間レース

さらに見る 年, チーム ...
チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1950年 フランスの旗 オートモビル ゴルディーニ フランスの旗 ロジャー・ロワイエ ゴルディーニ・T15S S
1.5
50 DNF DNF
1951年 フランスの旗 エキップ ゴルディーニ フランスの旗 モーリス・トランティニアン S
1.5
49 DNF DNF
1952年 フランスの旗 オートモビル ゴルディーニ フランスの旗 ロバート・マンゾン S
3.0
(13hr) DNF DNF
1953年 アルゼンチンの旗 ロベルト・ミエレス S
3.0
84 DNF DNF
1954年 フランスの旗 アンドレ・サイモン ゴルディーニ・T24S S
3.0
76 DNF DNF
1956年 フランスの旗 オートモビル タルボ フランスの旗 ルイ・ロジェ タルボ・2500 スポール S
3.0
220 DNF DNF
1957年 イタリアの旗 オフィチーネ アルフィエリ マセラティ フランスの旗 アンドレ・サイモン マセラティ・450S スパイダー S
5.0
28 DNF DNF
1958年 ドイツの旗 ポルシェ KG ドイツの旗 ハンス・ヘルマン ポルシェ・718 RSK スパイダー S
2.0
291 3位 1位
1959年 イタリアの旗 スクーデリア・フェラーリ アメリカ合衆国の旗 ダン・ガーニー フェラーリ・250 TR/59 S
3.0
129 DNF DNF
閉じる

脚注

Related Articles

Wikiwand AI