八方池
長野県北安曇郡白馬村にある池
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八方池(はっぽういけ)とは、長野県北安曇郡白馬村にある池。飛騨山脈(北アルプス)北部の長野県と富山県にまたがる後立山連峰主稜線から長野県側へ突き出す八方尾根稜線上近くの、標高2,060メートルの高地に所在し、年間の3分の2におよぶ約8か月の期間は氷雪に覆われる、面積2,321平方メートルの小規模な天然湖である[1]。
雪が解けて水面が現れる夏季になると周囲は高山植物の花々が咲き誇り、八方池には多くの登山者やハイカーらが訪れる[2]。晴天に恵まれると八方池越しに後立山連峰の急峻な山々が間近に迫る絶景が目前に広がり[3]、気象条件が良いと池の水面が鏡のようになり、白馬三山など北アルプスの切り立った峰々が水面に映り込み[4]、美しいリフレクションを見せる[5]。
八方池は中部山岳国立公園の特別保護地区内に位置し[6]、2017年にアメリカの大手ニュース専門放送局CNNが選定した「日本でもっとも美しい場所36選(英語: Japan's 36 most beautiful places )」の一つに選ばれ、Happo Pondとして紹介されている[7]。
地理

八方池のある白馬村は長野県北西部にある村で、春から秋にかけては登山やトレッキングなどアウトドア、冬はスキーやスノーボードなどウィンタースポーツに訪れる人々で賑わい、1998年長野オリンピックの際には村内の八方尾根スキー場が会場に使用されるなど、隣接する小谷村・大町市を合わせ「白馬バレー/HAKUBA VALLEY 」と呼ばれる日本を代表する山岳リゾートを形成する地域である[8][9]。
八方池の位置は八方尾根スキー場から後立山連峰の唐松岳(標高2,620メートル)へ続く登山道「八方尾根」の中間地点付近、尾根稜線上の比較的平坦な地形の広がる八方山(標高2,005メートル[10])の西方500メートルにあり、水面の標高は2,060メートルである[1]。池の周囲には尾根上の登山道から分岐した木道の遊歩道が設けられており[11]、ゴンドラ、リフト終点にある山小屋村営八方池山荘(標高1,830メートル)から片道1.5キロメートル、標高差約230メートル、徒歩約1時間から1時間30分ほどで訪れることができるため、無雪期の春から秋にかけての好天時には登山者だけでなく、一般の観光客らも多く訪れる人気の山岳景勝地として知られている[4][8][12]。
池の成因と現地調査

八方池は非常に小さな湖沼であるものの、日本国内では数少ない高山帯における湖沼の一つとして古くから学術的な調査の対象とされ、日本の湖沼学の先駆者である田中阿歌麿により1930年(昭和5年)に刊行された『日本北アルプス湖沼の研究』で詳細に記述されている[1]。八方池の調査結果については同書の第二章第一節で三村邦雄により概述されているが、実際に現地調査を行ったのは中村道太郎という人物である[1][注釈 1]。
中村による現地調査は1927年(昭和2年)6月27日と同年10月4日に行われたが、これが八方池における最初の学術調査である[1]。調査では実測に加え、水深毎の水温計測、水質、溶存酸素量 [注釈 2]の計測が行われた(#水質と生物相セクションの図表参照)。実測により流出部は池の北端にあり、雪解け時期や大雨などにより池の水が溢れると、南又入(姫川水系支流の松川上流部)へ流れ下る。したがって八方池は姫川水系に属している。池の最深部は4.4メートル、面積は2,321平方メートル、湖岸形状はほぼ円形で、最も幅の広い長軸の長さは78メートル、湖岸線の長さは181メートル、詳細な湖盆図(等深線)が作成され、貯水容積は5,098立方メートルと推定された[1]。
周囲の地形や残雪の状況などから八方池の集水範囲は、池の東から南にかけた山腹斜面であるが、この斜面の面積は池の表面積のわずか3倍程度しかなく、一般的な湖沼における集水域の面積比から考えると極端に狭い。ただこの斜面は八方尾根の北側斜面に位置するため積雪量が多く、それに加え日照時間が短く残雪の残る期間が長いため、その雪解け水が夏季の期間も継続し、安定した水の供給源となっていると考えられている[1]。
1927年(昭和2年)の7月と10月の2回に及ぶ現地調査の内容を踏まえ、概述を行った三村邦雄は八方池の成因について次のように判断している。池のすぐ南側が八方尾根主稜線の頂であるが(右上画像参照)、八方尾根の主稜線上は全体的に平坦な地形をしている[13]。この平坦面の一部が東西方向に亀裂が入り、北側の半分が滑り落ち小さな谷地形が形成された。東西方向に形成されたこの小さな谷地形も、その後の雪崩を伴う土石の崩落等により谷地形の周囲が砕屑物で閉塞されたため、ここに雨氷水が溜まるようになった。これが八方池である[1]。
このことから八方池の成因は塞ぎ止め湖(堰止湖)と判断されており、1996年(平成8年)に村誌を編纂した白馬村村誌編纂委員会によれば、今日においてもその判断に異論は出ていないという[1]。
開氷期間と水温

昭和2年(1927年)の6月27日に行われた現地調査では湖面が完全に開氷しておらず、同様に平成5年6月5日に行われた調査でも、北岸の流出部の一部がわすかに開氷していたに過ぎず、昭和2年の10月4日の時点ではすでに氷結していたとの記録から考えると、両者の調査時期には約70年という差があるものの、この70年間で八方池をとりまく地理的・気象的環境に大きな変化はなく、水面が現れる開氷期間は、おおむね6月の半ばから10月の半ばまでのわずか約4か月間ほどであり、八方池は1年の3分の2の期間は氷雪に閉ざされている[1]。
水温についての詳細は左記別表に明記したが要約すると、結氷期間の水面(0メートル)温度は当然摂氏0度であり、6月の開氷とともに次第に水温が上昇し、8月には年間最高となる16度に達し、その後10月初旬には9度、11月下旬の完全凍結直前に再び0度という年間経過を繰り返していると考えられている。一方、水底層の水温は最低でも約1度を保ち、8月の10度を最高として、その後は水表面の水温低下よりも遅れながら徐々に下降しているものと考えられている[14]。
当時の『日本北アルプス湖沼の研究』では「夏季の雪解け最盛期には池の水量が増え水位が上がる」と記載されているが、昭和2年当時、現地調査時に同行した麓の村の案内人は「時期による水位の変動はほとんどない」と述べている[1]。
最も融雪量の多くなる時期の平成5年8月24日に計測された水深が4.5メートルと、4.4メートルとされる最大水深とは10センチメートル程度の差でしかなく、また流出口の状況から考えても八方池は年間を通じて水位変化がほとんど無いと判断され、昭和初期の村人の意見が正しいと推定されている[14]。
水質と生物相

八方池の水質については前述の昭和2年と平成5年の2回調査が実施されている[注釈 5]。今日、八方池の湖畔に設置された解説板には弱酸性のpH5.6と記載されているが、これは昭和2年の調査結果を元にしており当地における雨水の数値に近い[14]。
平成5年に行われた調査によれば、6月の表面水pH6.3、8月は表面水pH6.42、水深4メートルでpH5.73であった[16]。ただし昭和2年の調査は比色法によるもので、平成5年調査時の電極を用いたイオン電極法による数値と直接比較することはできない。一方で平成5年の調査時には湖水の供給水源のひとつと考えられる、池の南側八方尾根稜線上に位置する第3ケルン周辺の地下水も測定しpH6.26の数値を得ており、これと周囲の融雪のpH6.0が八方池のpH値を左右していると考えられている[14]。
池中の溶存酸素量に関しては昭和2年の時点で早くも測定されており、これに平成5年の調査を勘案すると八方池における溶存酸素量の季節的変化は、冬季の水面が凍結している期間の表層は大気と遮断されているため酸素の供給はなく飽和度は75から80パーセントほどである[15]。中層では極わずかな植物プランクトンの発生により100パーセント超の飽和度を示すこともある。氷が溶ける夏季に入ると水温の上昇とともに植物プランクトンの発生によって飽和度が100パーセントを超えるが、八方池では全炭素量の制限を受けるため最高でも110パーセントほどで、秋の気温の低下とともに再び100パーセントになるころ水面の結氷時期を迎える[17]。
池の規模が小さく水深が浅く、全体として寒冷な気候条件であることから、年間の水中酸素の変化の推移は、飽和度70パーセントから110パーセントの間で増減を繰り返していることが八方池の特徴である[17]。水中の懸濁物質(SS)は開氷期である6月の調査時であっても重量濃度は4.6mg/Lであり、同時に測定した周辺の積雪中76.9mg/Lの20分の1でしかない[15]。これらのことから八方池の湖沼型は調和型貧栄養湖(Oligotrophic)である[18]。

このような生物化学的酸素要求量(BOD)数値の低い水質であることから、八方池の生物相は植物プランクトン相ですら貧弱であり[18]、微細なピコプランクトンを除けば、接合藻の一種で糸状のツヅミモに属するDesmidium pseudostreptonemaが確認されているに過ぎない。一方の動物プランクトンはワムシ類3種(Keratella quadrata・Conochilus unicornis・Trichotria sp.)、甲殻類4種(Daphnia longispina・Cydrus sphaericus・Acanthodiaptomus pacificus・nauplius)、他にフカサ幼虫(Chaoborus)と水生昆虫3種(Rhabdoceras japonicus・Nemouera spp.・Sialis)、唯一の両生類としてクロサンショウウオ(Hynobius nigrescens)が平成5年の6月に確認、採集されている[19]。モリアオガエルが生息し、7月頃に産卵する[20]。
歴史
八方尾根道の整備と八方池

八方池のある八方尾根は今日でこそ北アルプスを代表する登山ルート、トレッキングコースとして広く知られているが、この尾根に人間が通れる「道」と呼べるルートが最初に作られたのは1917年(大正6年)秋のことで[21]、後立山連峰の稜線を富山県側へ超えた黒部峡谷の山深い場所にあった大黒鉱山と白馬側との間を、牛による物資輸送運搬を目的にした牛道であった[22][23]。
日本に近代登山の概念が広がり始めた明治後期も、今日の白馬村エリアのなかで登山者の注目を集めたのは白馬大雪渓を擁する白馬岳であったようで[24]、八方尾根が注目され始めたのは昭和初期の頃になってからである。それも登山目的ではなく、大正末期に日本に持ち込まれたスキー(山スキー)の滑降の適地としてのものであった[25]。冬山シーズン中の八方池は氷雪に閉ざされているため池の存在を知る人は少なかったが、夏山登山の目的で八方尾根が注目され始めるのは、尾根の麓に大規模なゲレンデが作られ、リフトが設置された昭和30年代以降のことである[26]。

麓から八方尾根の上部へ段階的にリフトやゴンドラが増設され、八方尾根の将来性を見込んだ白馬村では1964年(昭和39年)に、第1ケルンの近くに国民宿舎八方池山荘(現、村営八方池山荘)を建設し、1986年(昭和56年)には、これまでリフトで登れる最高標高地点であった黒菱平(標高1,680メートル[12])から、標高1,830メートル[12]の八方池山荘直下までリフト(今日のグラートクワッドリフト)を建設するに至り、山歩きをしない脚力に自信のない人でも八方尾根の中心部まで行ける時代になった[26]。
白馬村村内から後立山連峰の主稜線へ向かうルートには、遠見尾根経由で五竜岳方面へ向かうルート、猿倉から白馬大雪渓や白馬鑓温泉を経由する等、複数の登山ルートがあるが、これらの長い登山ルートの中にあって八方尾根コースは、標高1,800メートル付近まで歩かずに一気に標高が稼げることから、八方尾根から唐松岳へ向かうルートは一躍、多くの登山者やハイカーに利用されるようになり、それに伴い登山道やトレイルも整備され、八方池の知名度も飛躍的に高くなっていった[27]。
飯森神社奥社

このように一般人が登山に親しむようになる以前の八方池は世間一般に知られていなかったが、池の畔に今日でも飯森神社奥社(奥宮)の石祠があるように、この池の存在自体は麓の村々では「唐沢の池」「唐沢の大池」などと呼ばれ江戸時代以前から知られていた[28][29]。
飯森神社とは白馬村南部の飯森地区(白馬村大字神城字飯森)にある神社で、八方池の畔にある飯森神社奥社の里宮である[30]。飯森地区は東日本旅客鉄道(JR東日本)大糸線の飯森駅があり、1956年(昭和31年)に北城村と合併して今日の白馬村が発足するまでは神城村と呼ばれていた地域で、古くから八方池や八方尾根との所縁が深い地区である[30]。
八方池畔の飯森神社奥社の石祠について、次のような言い伝えが、明治初期に氏子調により作成された『神社取調帳』の、飯森神社に関する文書に残されている[30]。
気象情報などない時代の人々は、台風などの突然の激しい風雨は、山上の池に棲む竜神の仕業だと考えており、この飯森神社も水神である水波能売命を祀る神社である[30]。
雨乞いの聖地

長国寺過去帳。
飯森地区の記録帳。
白馬村内を南北に流れる姫川の西側では、真夏でも残雪のある白馬連峰からの雪解け水を古くから水源としていたため、水は冷たいものの水不足に陥ることは少なかったが、姫川から東側の稲作を主要作物とする地域では、日照りが続くと深刻な水不足に悩まされてきた[29]。
一方、雪解け水に比較的恵まれた西側や、姫川の源流部にあたる神城地区も、水田面積のわりに稲作用の水路は細く、代掻きや田植えの時期に日照りが続くと、田んぼがひび割れたり、苗が枯れる被害が出た[30][32]。また当時は稲作以外にも換金作物として重要な麻作りが盛んであったため、日照りが続くと畑地の作物も枯れて収入源を絶たれてしまうなど、日照りは村人らにとって死活問題であった[33]。
村人たちは雨が降るのを願い各村の産土神社で千度参りや、お堂に籠る「おこもり」などを行って雨が降ることを祈った。それでも降らないときは、里に近い山の頂まで登って青木を伐採して積み上げ、これに火をつけて祈る「千駄焚き」と呼ばれる焚き上げを行ったり、滝壺へ石を投げ込んで竜神を怒らせるなどしたという[30]。
しかし、それでも雨が降らないときの最終手段が[30][33]、当時「唐沢の池」「唐沢の大池」と呼ばれていた今日の八方池まで村の総代らが登り泊まり込みで行う雨乞いの儀式であった[28]。八方池は白馬連山東麓の村人たちの間で雨乞いの聖地として知られていた[30]。
記録の残る明治期以降の八方池での雨乞いは、1886年(明治19年)7月と1926年(大正15年)7月の2回行われている。特に明治19年の八方池での雨乞いは規模の大きなもので、今日も飯森にある長国寺(ちょうこくじ)の和尚へ同行を依頼し、神城地区の各村から総代を含む40人あまりが泊まり掛けで参加した大掛かりなものであった[30][33]。
この年の6月の旱魃は酷いものだったと言われ、多くの人々が八方池へ登って行う雨乞いは当時も滅多にない特筆する出来事でもあり、本来であれば他の出来事は一切書くことのない寺の過去帳であるが、長国寺に残されている同年の過去帳の余白部分に、この時の八方池での雨乞いの出来事が記載されている[30]。
この内容から一行は八方池近くで野宿して降雨を祈ったことがわかる[33]。当時これほどの人数で泊りがけで高山へ登るような出来事は他になく、言うなれば集団登山による野営であった[30]。