東本宿
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地理
歴史
もとは江戸期より存在した武蔵国比企郡川島領に属する本宿村(もとじゅくむら)であった[7]。本宿村は「ほんじゅくむら」とも呼ばれた[7]。1693年(元禄6年)に検地が実施された際に老袋村より上老袋・中老袋・戸崎村・下老袋村・鹿飼村・川口村と共に分村したと云う[8]。分村後も7ヶ村は組合を結成して諸役を負担したと云う[7]。 村高は『元禄郷帳』によると150石、『天保郷帳』によると増減なしであった[7]。化政期の戸数は18軒で、村の規模は東西6町、南北8、9町であった。繭(養蚕)、藍葉、大麦などのほか[7]、良質な竹を産出することから、昔は竹箒の産地だったという[4]。1629年(寛永6年)に荒川(現、元荒川)の瀬替え工事により(利根川東遷事業)、この辺り一帯は水害常襲地と化し、毎年のように水害に見舞われた[7]。
- はじめは川越藩領で1694年(元禄7年)より幕府領となる[7]。
- 1680年(延宝8年)に比企郡と入間郡の境界を流れていた入間川が、松平伊豆守信輝によって直線的な流路に河川改作される[9]。水除堤はまだ設けられなかった。これにより本宿村は比企郡でありながら、入間川の右岸側に位置するようになる。元の流れは現在の古川と称する廃河川や古川排水路に沿っていた。
- 幕末の時点では比企郡に属し、明治初年の『旧高旧領取調帳』の記載によると、郡代・木村飛騨守支配所が管轄する幕府領であった[10]。
- 1868年(慶応4年)6月29日 - 旧幕府領が韮山県の管轄となる。
- 1871年(明治4年) 11月14日 - 廃藩置県後の第1次府県統合により、韮山県が廃止され、入間県の管轄となる[11]。
- 1873年(明治6年)6月15日 - 入間県が群馬県(第1期)と合併し、熊谷県の管轄となる。
- 1876年(明治9年)8月21日 - 第2次府県統合により、埼玉県の管轄となる。
- 1879年(明治12年)3月17日 - 郡区町村編制法により成立した比企郡に属す。郡役所は松山町に設置。それに伴い、郡内に同名の村が存在(現・東松山市大字西本宿)したことから東を冠称して東本宿村(ひがしもとじゅくむら)に改称する[12]。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 上老袋村が鹿飼村、中老袋村、東本宿村、下老袋村と合併して植木村となり、植木村の大字東本宿(ひがしもとじゅく)となる。
- 1890年(明治23年) - 荒川の水害により地内が水没する被害を受ける。1898年(明治31年)も同様に被災した[13]。
- 1896年(明治29年)4月1日 - 比企郡が改めて成立され、それに伴い植木村の所属郡が比企郡から入間郡に変更される。
- 1938年(昭和13年)5月1日 - 植木村南部の大字東本宿、大字下老袋が古谷村へ分割編入され、古谷村の大字となる。
- 時期不明(昭和17年頃) - 1910年(明治43年)8月に起きた明治43年の大水害を契機に、荒川の河川改修が(大正9年)より実施され、荒川や入間川の流路が現在の流路に変更され、広大な河川敷が整備された[14]。これにより地内の右岸堤防を挟んだ大半が両河川の広大な河川区域となる。
- 1955年(昭和30年)4月1日 - 古谷村が川越市に編入され、川越市の大字となる。それに伴い「ひがしもとじゅく」から「ひがしほんじゅく」へ呼称が変更される[12]。
- 1965年(昭和40年)11月3日 - 地区の一部に川越初雁カントリークラブ(現、リバーサイドフェニックスゴルフクラブ)が開場する[15]。
- 1996年(平成8年)3月26日 - 地内にコミュニティバスの川越シャトルの運行を開始する[16]。
小字
- 柳下・大道・窪・小屏風・大屏風[17]