石田本郷
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河川
川越市の北東部で、入間川右岸側の沖積平野(低地)に位置する区域。 東側で大字鴨田、南側で大字北田島、西側で大字谷中や大字菅間、北側で大字鹿飼と隣接する。地図によっては芳野台二丁目と隣接しているよう描かれるが、実際は古川排水路(麦生川の上流部)の河道が大字鹿飼のため隣接していない。また、鴨田を挟んだ東側の離れた場所に大きな飛地があり、そこでは東側で大字中老袋、南側で大字下老袋、西側で大字鴨田や芳野台三丁目、北側で大字上老袋と隣接する。 飛地の東境を古川と称する入間川の廃河川があり、その廃河川の上流部を改修した古川排水路が緩やかに蛇行しながら流れる。 地内は全域が市街化調整区域で[4]、多くは氾濫平野[5]で耕地整理された水田などの農地として利用されている。川越市立芳野小学校の西側の水田地帯は後背湿地である[5]。古川排水路(旧入間川)に沿って自然堤防があり[5]、そこに帯状の集落がある。飛地を通る県道沿いにも自然堤防上の集落があり、そこには工場も立地する。
歴史
もとは江戸期より存在した武蔵国入間郡河越領に属する石田本郷であった[7][8] 古くは山田荘三芳野里のうちにあり、さらに古くは戦国期より見出せる入間郡のうちの郷村の石田本郷であったと云う。 村高は正保年間の『武蔵田園簿』では380石余(田327石余、畑53石余)、『元禄郷帳』によると487石余、『天保郷帳』によると515石余であった[7]。化政期の戸数は60余軒で、村の規模は東西8町、南北1町半余であった。検地は1648年(慶安元年)に実施された[7]。鴨田村に飛地を領していた[7]。 1629年(寛永6年)に荒川(現、元荒川)の流れが付け替えられ(利根川東遷事業)、この辺り一帯は水害常襲地と化し、毎年のように水害に見舞われた。
- はじめは川越藩領で以降変遷なし[7]。
- 1680年(延宝8年)に入間川が松平伊豆守信輝によって直線的な流路に河川改修される[9]。水除堤はまだ設けられなかった。元の流れは現在の古川と称する廃河川となり、後年一部が古川排水路に改修された。
- 幕末の時点では入間郡に属し、明治初年の『旧高旧領取調帳』の記載によると、川越藩領であった[10]。
- 1871年(明治4年)
- 1873年(明治6年)6月15日 - 入間県が群馬県(第1期)と合併し、熊谷県となる。
- 1876年(明治9年)8月21日 - 第2次府県統合により、埼玉県の管轄となる。
- 1879年(明治12年)3月17日 - 郡区町村編制法により成立した入間郡に属す。郡役所は川越町に設置。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 石田本郷が北田島村、谷中村、鴨田村、菅間村、伊佐沼村と合併して芳野村となり、芳野村の大字石田本郷となる[8]。
- 1890年(明治23年) - 近くを流れる荒川の水害により地内が水没する被害を受ける。1898年(明治31年)にも同様に被災した[8]。
- 1947年(昭和22年)9月 - カスリーン台風の襲来により大きな被害を受ける[8]。
- 1948年(昭和23年)9月10日 - 川越市立芳野小学校を借用していた川越市立芳野中学校が地内に移転する[12]。
- 1955年(昭和30年)4月1日 - 古谷村が川越市に編入され、川越市の大字となる。
小字
- 豈町・坏町・四反町・前町・川端町・堤町[13]