星野仙一
日本のプロ野球選手、監督 (1947-2018)
From Wikipedia, the free encyclopedia
星野 仙一(ほしの せんいち、1947年〈昭和22年〉1月22日 - 2018年〈平成30年〉1月4日[2])は、日本のプロ野球選手・監督、野球解説者、タレント、コメンテーター。
|
楽天監督時代 (2011年3月9日、阪神甲子園球場) | |
| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 |
|
| 出身地 | 岡山県児島郡福田村(現:倉敷市) |
| 生年月日 | 1947年1月22日 |
| 没年月日 | 2018年1月4日(70歳没) |
| 身長 体重 |
180 cm 80 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 投手 |
| プロ入り | 1968年 ドラフト1位 |
| 初出場 | 1969年4月13日 |
| 最終出場 | 1982年10月12日 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
|
選手歴 | |
| |
|
監督・コーチ歴 | |
| |
野球殿堂(日本) | |
| 選出年 | 2017年 |
| 得票率 | 78.6%(112票中88票) |
| 選出方法 | 競技者表彰(エキスパート部門) |
この表について
| |

岡山県児島郡福田村(後の福田町。1953年に倉敷市と合併)出身[3]。現役選手時代のポジションは投手で、1969年から1982年にかけて中日ドラゴンズ一筋でプレーし[4]、主戦格投手として先発・抑えの双方で活躍[5]、1970年代の中日を支え[6]、1974年・1982年には中日のセントラル・リーグ優勝に貢献した。また、1974年には15勝10セーブを記録、沢村賞に加えて最多セーブ投手のタイトルを獲得しているが[7]、後者はセ・リーグ史上初である。通算成績は500登板、146勝121敗34セーブ、1225奪三振、防御率3.60[7]。「気持ちで投げる」投手として知られ、特に対読売ジャイアンツ(巨人)戦で闘志を燃やし[4]、巨人キラーと呼ばれた[8]。
現役引退後は中日や阪神タイガース、東北楽天ゴールデンイーグルスの3球団で監督を務め、1988年・1999年には中日を、2003年には阪神をそれぞれセ・リーグ優勝させ、2013年には楽天を球団創設後初となるパシフィック・リーグ優勝と日本シリーズ優勝に導いた。また、2008年には北京オリンピック野球日本代表の監督も務め、4位まで導いた。2014年限りで楽天監督を退任し、2015年より死去まで株式会社楽天野球団取締役副会長を務めた。中日選手・監督時代は愛知県名古屋市千種区に在住していたが[9][10][11]、阪神監督に就任した2002年から晩年は兵庫県芦屋市に在住していた(後述)[12][13]。
愛称は「燃える男」[14]「闘将」「仙(さん・ちゃん)」など。「仙(さん・ちゃん)」の愛称は、中日入団時から1975年まで同姓の星野秀孝がチームメイトだったことから、その間の自身の名前表記が「星野仙」であったことに由来する[15]。血液型はO型[16]。
経歴
中学時代まで
生誕する直前の1946年12月12日、岡山県にある三菱重工水島(現:三菱自動車工業水島製作所)に勤務していた父・正田仙蔵はがんのため他界しており、父親の顔を知らずに育つ[17]。なお父親の姓は「正田」であるが[18]、仙一は「正田」姓を名乗っていた母親や姉2人とは違い、母方の姓である「星野」を名乗っていた(後述)[19][20]。少年時代は生活が貧しく、一家の食べ物は母親が働いて現物でもらっていたという[21]。仙一が4歳になったころには姉は2人とも小学校に入学し、母も大きくなった仙一を連れて仕事に出ることができなくなったため、長姉が仙一を学校へ連れて行き、授業中は自身の机の横に仙一を座らせて勉強していたという[21]。仙一が幼稚園へ通うようになると、姉たちは早朝の登校前に母が働いて手間賃代わりにもらってくる豆腐や油揚げを売り歩いていたという[22]。
倉敷市立第四福田小学校、倉敷市立水島中学校出身[23]。第四福田小学校入学は1953年4月のことだったが、入学時点で既に3、4年生程度に見えるほど大柄だったという[24]。小学4年生の時、姉に高校野球を見に連れて行かれたことをきっかけに野球を始める[25]。このころには母が、父が生前勤務していた三菱重工の寮の管理人の仕事に就いたため、一家4人が安心して暮らせる場所を得られた[24]。また三菱重工は社会人野球の強豪チームを擁しており、そこの選手たちが寮生活を送り、工場裏のグラウンドで練習していたことから、仙一は小学4年生になって学校の野球部に入り、また学校での練習が終わると重工野球部の球拾いを手伝っていたという[26]。小学生時代のポジションは遊撃手だった[24]。少年時代はガキ大将だったが[24]、心優しい性格で、弱い者いじめは決してせず、小学校5年生の時には同じクラスにいた筋ジストロフィーの少年を登下校や校内での移動の際におぶって移動したり、このころには1人で中学生5人を相手に喧嘩を挑んだりしていたという[27]。少年時代から阪神タイガースのファンで、本人は「阪神が負けると、悔しまぎれに巨人ファンをどついたことがあった」と語っている[28]。岡山県には、それぞれ隣接する兵庫県や広島県に本拠地を置く阪神や広島カープのファンが多く、少年時代の星野の最も好きなチームは阪神、次に好きなチームは広島で[29]、もしプロ野球選手になるならば入団したいと考えていた球団は阪神か巨人であった[30]。
1959年3月に第四福田小学校を卒業、同年4月に水島中学校に入学した[31]。入学後、即野球部に入部し[31]、それから本格的に野球を始め、投手に転向、エースとして活躍し、打撃でも四番打者を打つようになる[32]。3年生のころには身長178 cmに成長、中学生離れした球を投げる投手として複数の高校の野球部長や監督らから注目されていた[32]。またこのころはエースで四番打者兼監督だった[31]。星野自身は「私は野球とケンカばかりしていた悪たれだったから、学校の成績は悪かった。野球があったから良かったが、でなけりゃ不良になっていたかもしれん」と語っていたが[33]、角田曰く、学業成績は小学生時代はトップクラスで、中学入学後に本格的に野球をするようになってからも並の成績だったという[34]。
倉敷商業高校時代
高校進学に際しては、当時は岡山東商とともに"岡山2強"と呼ばれていた倉敷工業への進学を当初希望していた。しかし当時はまだ数回しか甲子園に出場していなかった倉敷商業の野球部部長で、明治大学硬式野球部OBであった角田有三から[29]「君の力で、倉商を甲子園に連れていってくれ」と口説かれて進学。1962年3月に水島中学校を卒業して倉敷商に入学[31]、それからの倉敷商はどんどんと力を付け、志望していた倉敷工以上の成績を残すようになった。
高校時代は快速球投手として活躍したが、阪神甲子園球場で開催される全国大会(春の選抜大会、夏の選手権大会)には一度も出場できなかった[28]。また当時からプロ球団のスカウトたちの間でスピードボールには定評があったものの、中国地区では池永正明(下関商業高校)、亀井進(早鞆高校)といった甲子園組の影に隠れており、中央球界では無名だった[35]。2年生だった1963年には身長が180 cmあり、このころからエースになるが[31]、1963年夏の岡山大会準決勝に進むが岡山東商に0-1で敗退。この試合では平松政次と投げ合ったが、星野はこの試合で打席に立った際、自分の持っていたバットが滑って三塁の定位置まで飛んでしまい、これを三塁手から投げ返されて当てられそうになったことから、平松が次の球を投げた際、今度はバットを意識的に同じところへ飛ばした、と報じられている[36]。同年の秋季中国大会準決勝は津山商に1点差で敗れる。翌1964年夏も東中国大会決勝まで進んだが、鳥取県の米子南高に2-3で敗れ、あと一歩というところで甲子園出場は叶わなかった[注 1][37][38]。県内の1学年下には後の横浜大洋ホエールズに入団する平松や、東映フライヤーズで活躍した森安敏明がおり[28]、平松とは高校時代にも直接対決したことがある。また、ヤクルトスワローズで活躍した松岡弘も、いずれも高校時代の1年後輩、即ち平松や森安と同学年である[28]。星野が卒業し、松岡がエースとなった翌年も夏の岡山大会準決勝まで進んだが平松を擁する岡山東商に日没引き分け再試合で敗れ、倉敷商は甲子園出場を逃している。当時広島カープのエースだった池田英俊のピッチングフォームの分解写真を見て、自分のフォームを研究し、写真を通してではあるが高校時代の目標であり、恩師のような存在と記している[39]。また本格派の大型投手との評判を買い、高校卒業時には広島球団から勧誘を受けていたが、星野の母は一人息子であることから、明大進学を勧め、プロ入りを強く拒否していた[40]。当時広島のスカウトを務めていた野崎泰一は「高校の時多少無理しても取っておけばと後悔している投手の一人だ」と述べており、倉敷商の教師からも星野の母にプロ入りを勧める声が上がっていたが、星野の母はあくまで息子を大学に進学させることにこだわったという[41]。
明治大学時代
1965年3月に倉敷商業高校を卒業し、同年4月に明治大学に進学[31]、政治経済学部を履修する[42]。当時の愛称はダンボで[42]、大学時代は池袋に下宿していた[43]。また学部とキャンパスは違ったが同期生にビートたけしがいた[44]。大学は東京なら早稲田大学[45]もしくは法政大学[29]、大阪なら憧れていた村山実[46]の母校である関西大学と決めていたが[29][45]、倉敷商の野球部監督・矢吹怗一から「おれの母校の明大に行け」と命じられて明治大学に進学したという[45]。
野球部入部後、制球力と変化球に磨きがかかり[35]、1年生から一軍メンバーとして活躍し、東京六大学野球リーグでは1965年春季リーグで1イニングながら初登板を果たす[注 2]と、同年秋には7試合に登板して1完投、1完封、3勝3敗を記録[47]、それから1968年秋季リーグまでプレーし、通算65試合に登板して22完投、8完封、23勝24敗、投球回372イニング2/3、199奪三振、93与四死球、79自責点、防御率1.91を記録したが[48]、リーグ優勝はできなかった[49]。4年生だった[50]1968年度は主将を務めており[51]、当時の背番号は10だった[47]。2年生だった1966年にはエース格になるも、春季リーグ前に右足首を捻挫して1か月ほど練習を休んだ[52]。同年の春季リーグでは12試合に登板して4完投、3完封、5勝3敗、64投球回を記録したが、登板試合数、投球回はいずれもこのシーズンが最多である[47]。同年秋には対立教大学2回戦で明大史上7人目(6度目)のノーヒットノーランを記録した[50]。この試合ではゲーム中盤で監督の島岡吉郎が星野を交代させようとしたが、先輩である高田繁が「監督、星野はまだノーヒットノーランですよ」と続投を進言したという[50]。しかし田淵幸一・山本浩司・富田勝の「法政三羽ガラス」率いる法政大学や[28]、谷沢健一、荒川堯らを擁する早稲田大学に阻まれ、一度もリーグ優勝には届かなかった。3年時の1967年には右腕の血行障害(動脈閉塞)に悩まされたが、日本大学病院に通院して完治した[40]。4年時の1968年秋季リーグは、投手陣に同期の池島和彦、打線も小野寺重之、辻哲也など実力者が揃い優勝が期待されたが、3位に終わる。同年秋の明治大学100年記念大会では六大学チームの一員として選抜された[53]。大学時代は「学生球界きってのホームランバッター」と称された田淵に1本も本塁打を打たせなかった[53]。本人曰く「他校で認めたのは田淵だけ。でも打率は1割も打たれてない。浩二にも打たれてないと思いますよ。僕はへなちょこには打たれるけど、スターは抑えるんだ(笑)」と語っている[28]。
大学時代は野球部の監督を務めていた島岡吉郎の薫陶を受け、卒業後も「オヤジ」「明治大学野球学部島岡学科出身」と慕うなど、その後の人生に大きな影響を受けた。また島岡から体罰を受けることがない(島岡が37年間で指導した歴代部員1000人超の中で、一度も殴られなかったのは高田繁と星野だけ[54])というくらい寵愛された。星野曰く、「俺は要領がよかったから」とのことだが、島岡は「星野は理屈が多くてな。1発殴ると50発くらい理屈が返ってきそうなのでなあ」[54]と、星野を殴らなかった理由を語っている。島岡からは「命懸けでいけ」、「魂を込めろ」、「誠を持て」の3つの教えを徹底的に仕込まれたという[55]。
プロ野球選手時代
ドラフト1位で中日入団
1968年11月12日に開催されたプロ野球ドラフト会議で、星野は水原茂が監督に就任したばかりの中日ドラゴンズから1位指名を受けた[56][57]。担当スカウトは塚越正宏[56]。同年12月20日に球団から星野の入団が発表され[53][58]、星野は同月23日に球団と正式に選手契約を締結[59][60]、1969年1月8日には背番号22を着用することが発表された[61][62]。契約金は当時の規定で最高額となる1000万円、1969年シーズンの年俸は180万円と報じられている[53]。契約金は世話になった人たちや母に分配したが、母がもらった分はすべて借金の返済に充てられたという[63]。中日は当時、球団総務の土屋亨、担当スカウトの塚越、そして選手の一枝修平と、明治大学野球部出身者が複数おり、また高校時代の同期である菱川章も所属していた[56]。同年の中日は春先時点では、大橋穣(亜細亜大学)を中心に狙っていたが[40]、投手陣が壊滅状態になっており[35]、即戦力投手を必要としていた[40]。そこで東京六大学秋季リーグ戦で星野の投球を観察し[40]、同リーグ閉幕直後から「大学球界NO.1」と評されていた星野の獲得を目指し、 土屋や塚越が下交渉を続けており、ドラフト指名後は塚越が担当、土屋が側面から交渉を続けていた[35]。ドラフト会議(11月12日)から入団合意(12月20日)まで1か月以上を要したが、島岡によれば同時期の高田の結婚式や星野家との相談などから入団決定が遅れたという[35]。星野自身は阪神ファンであり[64]、ドラフト会議前には読売ジャイアンツ(巨人)、中日、そして阪神タイガースの3球団を希望球団に挙げていたが、パシフィック・リーグ球団に指名された場合は社会人野球入りする方向だったという[56]。また少年時代から阪神のエースだった村山実に憧れていたため、中日入団時は村山と同じ背番号11の着用を希望していたが、当時11は徳武定祐が着用していたため[65]、その倍数の22を選択[66]、新人年の1969年から2年目の1970年まで22を着用した[65]。
ドラフト会議前には大学の先輩である豊田がマネージャーを務めていた社会人野球の日本楽器から内定を得ていた[36]。ドラフトに際しては、巨人と星野との間に「田淵幸一を1位指名できなかった場合に外れ1位として指名する」との密約が事前にあったとされ[67][68]、実際に巨人のスカウトは熱心に星野を勧誘していたという[67][28]。当時のドラフト会議は12球団が指名投票順を決める予備抽選を行い、その1位球団から欲しい選手を指名していく方針であり、後年のように重複指名はできなかった[67]。同年のドラフト会議の予備抽選の結果は、東映フライヤーズ、広島カープ、阪神、南海ホークス、サンケイアトムズ、東京オリオンズ、近鉄バファローズ、巨人、大洋ホエールズ、中日という順だった[69]。そのため、ドラフト会議当日に阪神が田淵を指名し、阪神より指名順が遅かった巨人に指名順が回ってきた時点では、星野は巨人より先の指名順のどの球団からも指名されていなかったため、巨人からの指名を確信していた[67]。しかし巨人は星野ではなく高校生投手の島野修を1位指名し、星野は「ホシとシマを間違たんじゃないか」と憤慨した[28]。
この出来事が、現役時代から指導者時代に至るまで一貫する打倒巨人のスタンス(後述)を形成させたといわれる。なお、巨人が星野の指名を回避したのは、星野が肘か肩を故障している情報を入手していた説[注 3]、星野の性格が巨人のチームカラーに合わないと判断した説[注 4]がある[70][71]。星野は現役引退後、NHKの解説者時代に当時の巨人監督であった川上哲治から、「スカウトから君のヒジが悪いという情報を聞いていた」と聞かされたという[28]。中日は事前に島岡に対し、星野を指名するかもしれないという挨拶を行っていなかったため、指名直後に水原自身が島岡のところへ挨拶に出向いたという[63]。1969年3月に明治大学を卒業した[66]。
入団後
1969年から1982年まで14年間にわたって中日でプレーし、エースとして活躍、気迫の投球で先発としても抑えとしても投手陣を牽引した[5]。
「通算146勝はその力を考えれば少ない」と評されているが[46]、チーム事情から14年間の選手生活のうち、先発中心で起用されたシーズンは5年ほどしかなく[64]、通算500試合登板のうち先発は半数に満たない243試合にとどまっており[46][72]、このように同時期の他球団のエースと比べて救援登板が多かったことが勝ち星が伸びなかった要因と評されている[73]。しかし2桁勝利を8回(1970年、1973年 - 1977年、1979年、1981年)、うち15勝以上を4回(1973年 - 1975年、1977年)、2桁セーブを2回(1974年、1977年)記録しており[46]、広尾晃は仮に星野が先発中心で起用されていれば通算200勝(日本プロ野球名球会への入会条件)達成も可能ではなかったかと評している[74]。
なお500登板は球団史上4位、146勝と投球回2128イニング2/3はそれぞれ山本昌と杉下茂に次ぐ球団史上3位、1225奪三振は球団史上6位、243先発は球団史上5位、121敗は山本昌(165敗)に次ぐ球団史上2位である[72]。このような活躍から、引退後に星野に捧げる詩『炎の球』を作詞した山口洋子(作詞家)は星野を「ミスタードラゴンズ」と呼んでいた[5]。
1969年
入団1年目の1969年は、広島東洋カープとの開幕戦、そして翌日のダブルヘッダー1回戦とそれぞれ救援登板の用意のためブルペンでかなりの球数を投げていたが[75]、開幕3試合目となるダブルヘッダー第2試合(広島市民球場)で[28]、監督の水原から先発登板を命じられる[75]。しかし2回裏に興津立雄に3点本塁打を被弾、敗戦投手になった[28]。5月5日の対広島戦(福井県営球場)で先発し、プロ初勝利を挙げた[28]。水原は当日、球場入りしてから、中堅から本塁へ向かって強い風(投手にとって追い風)が吹いていることから、この追い風が球速はあっても制球力が悪かった星野の制球力をカバーするのではないかと考えて星野を先発で起用したと語っている[28]。同月8日の対巨人戦で黒江透修からサヨナラ二塁打、7月10日の滝安治からサヨナラ二塁打を打たれた[64]。7月13日の対阪神戦(阪神甲子園球場)では、6月中旬に婚約した後の妻・扶沙子(後述)が観戦する中で先発したが、2回に5被安打を喫してノックアウトされており、仙一のプロ入りから挙式までに扶沙子が観戦した試合はこれが唯一となった[76]。またこの年の10月10日の巨人対中日戦で金田正一(巨人)が通算400勝を達成した試合の中日の敗戦投手が星野であり、自身も「歴史的な試合で名を残せて良かった」と後々まで語っていた[77]。
最終的にはチーム最多の49試合に登板して8勝9敗、防御率3.11(セ・リーグ13位)を記録、規定投球回に到達した[7]。完投が6、試合当初(先発したが、完投できずに降板した試合数[78][79])が10、すなわち先発登板は16試合だった[80]。一方で交代完了が27あることからわかるように、49登板のうち半数以上が救援登板であった[7]。このようなリリーフエースとしての活躍からセ・リーグの新人王争いに名を連ねたが、勝ち星の少なさから受賞を逃した(田淵が受賞)[81]。同年12月7日に扶沙子と結婚、翌1970年に長女が、1972年に次女がそれぞれ誕生している[66]。
1970年 - 1973年
1973年までは主に救援の切り札として活躍していた[82]。入団2年目の1970年には黒い霧事件の影響でチームの投手陣が壊滅状態になり、エースの座に押し上げられ[5]、41試合に登板して6完投、1完封、10勝14敗、防御率3.64(セ・リーグ19位)を記録した[73]。完投が6、試合当初が18、すなわち先発登板は24試合であり、交代完了は11だった[83]。また失点90はリーグ最多であった[83]。同年までの2年間で先発、救援の双方で起用され[84]、1年目は投球回187イニング2/3、2年目は投球回205イニングを記録した[73]。
入団3年目の1971年に背番号を中日のエースナンバーである20へ変更し[65][64][85]、引退まで着用した。同年に肘を痛めてからは速球が影を潜めたが、変化球を駆使し、先発・リリーフとして活躍した[64]。同年は35試合に登板して投球回103イニング2/3を記録、9勝5敗、防御率3.46を記録したが、プロ入り後初めて規定投球回未到達に終わった[73]。完投が0、試合当初が6、すなわち先発登板は6試合であり、交代完了は24だった[86]。同年8月27日から1973年7月15日まで対巨人戦21試合に登板して10連勝を記録した[87]。
1972年は新監督に就任した与那嶺要から抑えの切り札として指名され[84]、48試合に登板して投球回98イニング2/3を記録、9勝8敗、防御率2.00を記録した[73]。同年は1試合も先発登板がなく[注 5][84][89]、リリーフ専門は投手コーチを務めていた近藤貞雄のプランだったという[66]。一方でリーグ最多の43交代完了を記録している[90][91]。しかし同年オフの契約更改ではまだNPBでセーブ制度が導入されていなかったことから、勝ち星数だけが話題となり、十分な評価をしてもらえなかったため、既にセーブ制度が導入されていたMLBの方式で自身のセーブポイントを26と計算、それを1セーブポイントあたり0.5勝(=13勝)に換算してほしいと要求し、当初の25%増額提示から45%増額となった[92]。
1973年は再び先発でも起用されるようになり、44試合に登板して投球回166イニングを記録、3年ぶりに規定投球回に到達すると、7完投、1完封、3無四球、16勝11敗、防御率3.04(セ・リーグ18位)を記録した[73]。完投が7、試合当初が8、すなわち先発登板は15試合であり、交代完了は21だった[93]。
1974年
1974年には先発・救援とフル回転し[82]、初代最多セーブのタイトルを獲得する活躍で、巨人のV10を阻み、チームにとって1954年のセントラル・リーグ優勝を達成(別項参照)して以来20年ぶり、2度目のセ・リーグ優勝に大きく貢献。優勝を決めた試合では完投勝利し[73]、胴上げ投手となった[73][94]。またこの試合では打撃でも先制打点を記録している[8]。
同年の投手成績は49試合登板、15勝9敗、10セーブ、投球回188イニング、自責点60、防御率2.87で[46]、15勝は自己最多であった[82]。内訳は各5球団から各3勝ずつであったが、特に巨人戦では最多となる14試合に登板、3勝3敗4セーブ、投球回60.1、防御率2.40を記録していた[46]。同年のチームは巨人戦で8勝を記録したが、うち7勝に星野が絡んでいることになる[46]。また阪神戦では12試合に登板して5球団で最多となる投球回42イニング1/3を記録、3勝2敗4セーブを記録している[46]。最も防御率が良かった相手は大洋の1.23(22イニング、3自責点)、逆に最悪は阪神の3.86(42イニング1/3、18自責点)だった[46]。同年もリーグ最多の28交代完了を記録した[95][91]。完投が7、試合当初が10、すなわち先発登板は17試合であった[96]。ロッテオリオンズとの日本シリーズでは実質的に3度リリーフに失敗するなど振るわず、最終戦となった第6戦目には弘田澄男に決勝タイムリーを打たれ、チームも2勝4敗で敗れた。
以上の成績から、星野のフル回転なくして優勝はなかったと評されているが、セ・リーグMVPは星野ではなく、2年連続三冠王(首位打者・本塁打王・打点王)を達成した巨人の王貞治が受賞した[46]。星野はこれに納得できず、それ以降は「MVPは優勝したチームの選手に与えられる賞」と言い続けていた[46]。
沢村賞受賞
一方で同年オフの沢村賞選考では、堀内恒夫、松岡弘、外木場義郎、金城基泰、そしてチームメイトの松本幸行とともに一次候補に上がり、一次審査で松本、外木場、松岡が外れ、次いで金城が防御率の悪さを理由に候補から外され、最終的に候補は星野と堀内の2人に絞られる[82]。星野は勝利数、勝率、防御率の3項目でいずれも堀内を下回っており(堀内は19勝、勝率.633、防御率2.66の一方、星野は15勝、勝率.625、防御率2.87)[82]、特に完投数は堀内が21、星野は7と圧倒的に堀内の方が上だったが[97]、20年ぶりのセ・リーグ優勝への貢献、そしてセーブ数の差(星野は10、堀内は1)が決め手になり、決選投票の結果、14票対10票で星野の受賞が決まった[82]。中日からの沢村賞投手選出は、1967年の小川以来7年ぶり、球団史上4人目にして6回目(1951年 - 1952年および1954年の杉下茂、1961年の権藤博、小川に次ぐ)であった[97][82]。
例年では沢村賞受賞者は20勝以上を挙げた投手に限られており、星野本人は15勝にとどまった自身が沢村賞を受賞できたのはセーブを稼いだこと、そして優勝への貢献が評価されたためであると語っている[82]。以上の活躍から、前年比50%増額となる年俸1450万円で契約更改しており、またシーズンオフの副収入も約50%増えたという[98]。
1975年 - 1977年
1975年も40試合に登板し、217イニング2/3を投げて17勝5敗4セーブを記録、防御率2.77(リーグ5位)の好成績を残す[46]。同年9月10日には投手ながら自身が本塁打を放った[99]。同年は完投が6、試合当初が20、すなわち先発登板は26試合、交代完了は13であった[100]。また当時は連盟表彰はなかったが、同年にはセ・リーグの最高勝率.773を記録した[101]。
1976年は20試合に登板して6完投、3完封、1無四球試合、10勝6敗、投球回132イニング2/3、防御率3.92(セ・リーグ14位)を記録したが、7月7日に最後の10勝目を挙げたものの[73]、同月13日の登板中に右股付け根を肉離れした[102]。その状態で同年のオールスターゲームに出場したことが原因で故障が悪化し、後半戦は投げられず[102]、これ以降は引退まで故障との戦いに明け暮れることになる[5]。同年は完投が6、試合当初が14、すなわち先発登板は20試合であり[103]、プロ入り後初めて救援登板が1試合もなく、登板した全試合が先発登板となった[74]。
1977年は42試合に登板して自身最多の18勝を記録し[64]、防御率3.53(自己最高のリーグ4位)[46]と好調を維持する。同年は完投が13、試合当初が17、すなわち先発登板は30試合であり、交代完了は10であった[104]。シーズンオフにはセ・リーグ唯一の20勝投手である高橋里志や、自身と同じく18勝を挙げて巨人のリーグ優勝に貢献した小林繁とともに沢村賞の候補に挙がったが、高橋や小林に比べて成績の内容が劣り、一次選考で脱落した[105]。
この3年間にはいずれもリーグ最多となる3完封を記録した[46]。1975年は安田猛、佐伯和司、外木場義郎、間柴富裕と同数[106]、1976年は池谷公二郎、新浦寿夫、松岡弘と同数[107]、1977年は江本孟紀、小林繁、古沢憲司と同数であった[108]。
1978年 - 1981年
1978年8月17日に横浜大洋ホエールズ戦で福嶋久晃からサヨナラ安打を放ち、9月19日、20日のヤクルトスワローズ戦でそれぞれ船田和英、杉浦亨から2試合連続でサヨナラ本塁打を放った[109]を打たれた。同年は5勝に終わり、前年までの連続2桁勝利は5年で途切れたが、自己最多となる14セーブを記録した[46]。同年は完投が2、試合当初が7、すなわち先発登板は9試合で、交代完了は22であった[110]。
1979年は28試合に登板して154イニング1/3を投げ、10勝7敗、防御率4.68(セ・リーグ19位)を記録した[111]。同年は完投が4、試合当初が21、すなわち先発登板は25試合で、交代完了は1であった[111]。
1980年は29試合に登板して129イニング2/3を投げ、6勝12敗、防御率5.05の成績だった[112]。同年のセ・リーグ規定投球回は130だったため[113]、1/3イニング足りなかった。同年は完投が4、試合当初が18、すなわち先発登板は22試合で、交代完了は4であった[112]。同シーズン終了後、新監督に就任した近藤貞雄からの希望、そして星野の将来を考えた球団側の思惑から、翌1981年シーズンからは投手コーチを兼任するよう球団代表の鈴木恕夫から要請を受け[114]、同年12月24日には翌1981年シーズンより投手コーチ補佐を兼任し、一軍投手コーチの権藤を補佐することが発表された[115]。このため同年の契約更改では、1981年シーズンの年俸は200万円減額(前年比10%減額)の1900万円とされながら、その年俸にコーチ料の360万円をプラスした、実質前年から増額の2260万円で契約更改した[116]。
1981年8月26日の対巨人戦(後楽園球場)で、珍プレーとして有名な宇野ヘディング事件が起きた時にマウンドに立っていた投手は星野だった(打者は山本功児)[117]。当時、巨人は前年より連続試合得点記録を更新し続けており、この時星野は、後輩の小松辰雄と「どちらが先に巨人を完封するか」を賭けていた(捕手の中尾孝義談)[117]。だが宇野勝の失策により得点を許したため、星野はカバーに入っていた本塁ベース後方でグラブを叩きつけた[117]。同年は23試合に登板し、142イニングを投げて10勝9敗、防御率3.929(セ・リーグ15位)を記録したが[118]、2桁勝利、規定投球回到達は同年が現役生活で最後だった[46]。同年は完投4、試合当初19[118]、すなわち全23試合が先発登板であった[74]。
1982年
1982年シーズンは、通算150勝まで7勝に迫っていたが、肘と股関節を痛めていて練習でダッシュが出来ず、一人で黙々と外野のフェンス際をランニングしており、その姿を見ていた選手達は勝たせてやりたいという雰囲気だったという[119]。ベンチも4回までリードした展開で星野を投入し、それで何勝かしたが、一度3点リードしていた場面でマウンドに上がったところ、2打席連続本塁打を打たれ、1点差まで迫られ投手コーチの権藤が「セン、次代わるぞ」と言ったところ、星野が「こんなところで代えるなら最初から投げさせるな」と激怒し、湯飲み茶わんをベンチの床に叩きつけるという出来事があり、その際に粉々に割れた茶碗の破片を上川誠二が掃除していた[119]。
6月30日の対巨人15回戦(ナゴヤ球場)では9回1死まで投げたが、同点に追いつかれて勝利投手になれず、その試合を最後に先発ローテーションを外され、このころから引退を意識するようになった[120]。同年8月21日の対横浜大洋ホエールズ19回戦(横浜スタジアム)では6回裏にマーク・ブダスカ、そして代打の竹之内徹に連続本塁打(竹之内はプロ初本塁打)を打たれた[120]。そして10月12日の対阪神26回戦(ナゴヤ球場)で8回表に敗戦処理として登板し、通算500試合登板を達成したが、当時セ・リーグの本塁打王争いをしていた掛布雅之に2点本塁打を打たれるなど3失点を喫し、これが現役時代最後の公式戦登板となった[120]。
同年、チームは8年ぶりのリーグ優勝を果たしたが、自身は18試合に登板して3勝5敗という自己最低の成績に終わり[120]、「生きがい」としていた対巨人戦では1勝もできなかった[5]。同年は完投1、試合当初9[121]、すなわち先発登板は10試合で[74]、交代完了は2、投球回は66イニング、防御率は5.32であった[121]。また西武ライオンズとの日本シリーズでは登板機会はなかった[120]。
同年には投手陣の若返りを図る監督の近藤貞雄の起用方針により、ベンチを温めることが多く、また登板しても敗戦処理であることが多くなり、起用法に不満を募らせていたところ、日本シリーズ前に権藤が1戦目で小松辰雄、2戦目で三沢淳をそれぞれ先発投手として起用する方針を示した際、近藤が「三沢?あんなのが2戦目か?」と発言したことに星野が反発、翌1983年も引き続き指揮を執ることが決まっていた近藤の下ではプレーしたくないと考えたことが、星野の同年限りでの引退、そしてコーチとしての残留打診を蹴っての退団の引き金になったと報じられている[120]。
引退
同シーズンオフには長年バッテリーを組んできた木俣達彦とともに、翌1983年シーズンの戦力構想から外れ、日本シリーズ敗退が決まった翌日の10月31日付『中日新聞』で、木俣とともに同シーズンのリーグ優勝を花道に現役を引退すると報じられた[122]。同年11月21日にナゴヤ球場で開催されたドラゴンズフェスタではファンに向けて「長い間ありがとうございました。私はついに燃え尽きましたが、球場とマウンドには永遠に勝利が続きます」と挨拶したが、引退後の『中日スポーツ』評論家時代、実際には監督の近藤から戦力外通告を受けて引退を決意したと明かした上で、「(燃え尽きたと)ああ言わなければファンが納得せん」と語っている[123]。29日に中日ビル内の「クラブ東海」で記者会見を行い、正式に現役引退を表明した[5]。翌30日にはNHKから、翌1983年から同局の野球解説者に就任することが発表され、記者会見では中日からコーチ就任の打診もあったものの、ユニフォーム生活に疲れたことから解説者の道を選んだと語った[124]。なお、引退表明直前の11月17日に発売された翌1983年の球団カレンダーに星野や木俣の姿は収録されていなかった[125]。
1983年4月3日、ナゴヤ球場で開催された阪急ブレーブスとのオープン戦が引退試合となり[126]、先発として登板、4球を投げて先頭打者の福本豊に安打を打たれた[127]。引退の際、マウンドへ花束を届けに行ったのは親友である歌手の小田和正だった[128]。
巨人キラーとして
ドラフト会議時の因縁から巨人相手に闘志と反骨心を燃やし、長嶋茂雄・王貞治らが活躍したV9時代を含む巨人を相手に、通算35勝31敗8セーブ[129]と勝ち越しを記録し、巨人キラーとしてその名を轟かせた。対巨人戦の通算勝利数(35勝)は江夏豊と並んで歴代6位タイ、中日球団では山本昌(43勝45敗、勝率.489)に次いで歴代2位であるが、巨人戦で通算30勝以上を記録した投手のうち、通算で勝ち越している投手は極めて少なく[129]、2024年5月12日時点では平松政次(51勝47敗、勝率.520)、星野(35勝31敗、勝率.530)、川口和久と石川雅規(ともに33勝31敗、勝率.516)の4人のみで、最高勝率は星野である[8]。特に1971年8月27日(後楽園球場)から1973年7月15日までは対巨人10連勝を記録した[8]。星野本人は「野球中継は当時巨人戦が多く、当時の巨人主催試合の試合開始時間が18時20分で、地元の岡山での放送は20時頃に中継が始まるので、その間に監督から投手交代を告げられないように投げていた。家族や友達に自分が投げていることを見せたかった」と語ったことがある。王貞治には現役時代、通算対戦成績195打数62安打、打率.318、被本塁打は24本と打ち込まれており[16]、王からの通算被本塁打数は平松政次の25本に次ぐ通算2位である[129]。一方で長嶋茂雄は111打数26安打、打率.234に抑え込んでいる[130]。ただし本人曰く、王だけでなく長嶋にも打たれた記憶しかないという[129]。
また同時に阪神キラーでもあり、巨人を上回る通算36勝を阪神から挙げている[8]。通算146勝の内訳は対阪神が36勝、対巨人が35勝、対大洋が28勝、対広島が24勝、対ヤクルトが23勝である[8]。1973年10月20日の対阪神戦(中日球場)では、残り2試合で優勝へのマジックナンバーを1としていた阪神に対し2失点で完投勝利を挙げた[8]。しかし星野本人は阪神と優勝争いしていた巨人に優勝させたくないと考え、この試合では「巨人に優勝されるぐらいなら……」という気持ちで投げていたものの、阪神打線から熱を感じず、二塁手の高木守道から「セン、こんなチームに優勝させるわけにはいかんぞ」と言われ、その通りだと感じて抑えたと語っている[8]。この翌日には阪神甲子園球場で阪神対巨人戦が行われ、この試合に勝利した巨人はV9を達成した[8]。なお、この日阪神の先発投手であった江夏は「後で聞いたら仙ちゃんは『巨人より阪神に勝ってもらいたいからど真ん中に投げた』と言っていたけれど、あれはウソ。どう見ても必死で投げていたよ」と星野の話を否定している[131]。巨人以外の球団相手にも巨人戦のような気持ちで投げればもっと勝てたはずだと評されることもあったが、本人はそのような声を一笑に付していたという[46]。
現役時代の逸話
星野はテレビ番組で「監督に逆らえる選手がいないのがさびしい。選手交代された時に『大丈夫です。まだやれます』という気持ちがある選手が欲しい」と語ったことがあるが、1977年から79年まで一軍投手コーチを務めた稲尾和久は「打ち込まれてしまって星野自身が投手交代をベンチに要求してくるので交替させてやったら、さも交替させられたことが悔しそうにグローブを投げ捨てた」と、メディア向けの星野によるパフォーマンスであったと指摘している[132]。また中日のヘッドコーチ兼投手コーチ、監督を務めた近藤貞雄は「プライドの高い投手だった。盛りを過ぎてからでも、自分があくまでエースのつもりだった。」と指摘している[133]。
星野は野手の拙守を非難した事があり「そのような事を言うものではない」と注意した野手リーダーの高木守道と一触即発の事態を招いた前歴がある[134]。山本浩二に「お前の目から見て、ウチの若手の中にこれはという選手がいたら教えてくれ。その代わりカープの若手投手の中に掘り出しモノがいたら報告するからな」という約束をしていた[134]。それから数カ月がたち山本が星野に報告したのが宇野勝で1979年にプロ3年目を迎えた宇野の打撃練習を見て「確かUNOとか背中に書いてあったけど、彼の振りは素晴らしい。ええ選手がいるやないか。あれは一軍に定着させた方がええな。」[134]。山本の言葉を星野はそのまま監督の中利夫に伝え、中は「そうか浩二がそう言っていたか」と素直に聞き入れ宇野を積極的に起用するようになる[134]。そのような経緯があるだけに星野も宇野を大きく育てようと懸命だった[134]。自分が先発する試合では「ええか、3つまでエラーは許すからな」と言い渡してからマウンドに上がり、「男なら1試合1エラーに1ホーマーだ」とアドバイスしたこともあった[134]。それもこれも守備に気を取られて最大の長所である打撃に影響が出る事はチームにとって損失になると思っての事だった[134]。
当時の中日は星野派か否かという派閥があり[135]、田尾安志は派閥は全く気にせず星野とも仲良くやっていて[135]、平野謙は派閥が嫌いで一匹狼なところがあり[136]、中尾孝義はどちらかと言うと星野派だった[137]。
引退後
第1次解説者・中日監督時代
1983年から1986年までNHKで野球解説者、日刊スポーツ、Number[138]の野球評論家を務め、1985年には大塚範一、野中ともよとともにNHK総合テレビ『サンデースポーツスペシャル』の初代キャスターに就任[139]。ゴルフの「マスターズ」選手権では、必ず現地まで自ら出向いてリポートを行っていた。また、解説者以外でもバラエティ番組等にも出演し、タレント的な活動も並行して行っていた。
1986年には自民党の最高幹部から同年7月の衆院選への出馬を要請されたが、その際には「私は中日育ちだが、身柄はドラゴンズに預けてある。近い将来に男の勝負をしたい」と固辞していた[140]。同年10月17日に中日から、同年途中で休養した山内一弘の後任として中日の監督に就任するよう要請されて受諾[140]、29日に正式に就任が発表された。1年契約、契約金5000万円、年俸4000万円、背番号は「77」(川上哲治が巨人監督としてこの背番号でV9を達成したことに肖ったもの)[141]。同年にロッテ・オリオンズの監督に就任した有藤道世と共にNPB史上初の戦後生まれの監督となった[注 6]。球団からの監督要請を受ける時、「召集令状がきた」と感じたといい[142]、「笑ってください」と注文をつけてきたカメラマンに対し、「これから戦場へ行くのだ。笑えるか」と真剣に怒ったというエピソードが存在する[142]。現役時代にバッテリーを組んでいた木俣達彦を総合コーチ[142]、池田英俊を投手コーチ[39]、岡田英津也を二軍監督兼寮長[143]に招聘した。正岡真二は星野の打診で守備走塁コーチに就任した[144]。1軍コーチでそのまま残ったのは島野育夫のみで千原陽三郎から島野は「『コイツは必ずドラゴンズの監督になるから。そのときは島野、お前が助けてやれ』と…。まだ新人やで。千原さんも何を言い出すんやと思ったよ。けど、その通りになっとるもんな」[145]と述べている。就任後は谷沢健一に水面下で引退を勧告し[146]、谷沢は引退。ロッテと上川誠二、桑田茂、牛島和彦、平沼定晴と落合博満の4対1トレードを敢行するなど、大胆な補強を行い、ドラフト会議でも1986年に近藤真一、1987年に立浪和義といった即戦力に成り得る高校3年生を他球団との競合の末に1位で獲得し、以降は今中慎二、山崎武司、上原晃、音重鎮、大豊泰昭など、主力級が3年間で入団する[147]。投手では川畑泰博、江本晃一、宮下昌己、打者では仁村徹、彦野利勝、小松崎善久、中村武志といった実績のない若手を次々と起用して成功した[148]。
山本昌広をアメリカ合衆国への留学で才能を開花させ、先発の郭源治を抑え、遊撃手の宇野勝を二塁手、捕手の中尾孝義を外野手にコンバートするなど、チームカラーを一新する。特に正捕手だった中村への叱り方は厳しいもので、中村本人は第二次星野政権時代に「(第一次政権では)鉄拳制裁を受けなかった日にちを数えた方が早かった」と語っている。山本は「第一次政権で抜擢された若手で鉄拳を浴びていないのはおそらく立浪和義ぐらいではないか」と記している[149][150]。選手を怒鳴り、プレッシャーをかけ、「俺のプレッシャーに負けるような奴が、ここぞの時に踏ん張れるか、そんな奴は要らねぇ」と述べている[151]。
開幕戦は1987年4月10日の巨人戦(後楽園球場)で開幕投手に杉本正を起用したが、近藤貞雄はこれに対して「開幕投手の指名は“今年のエースはお前だ。シーズンを通して頼りにしてるぞ”という監督の意思表示だ。とすれば小松しかいない。それが杉本だった。杉本もいい投手だが、シーズン通して頼れる投手ではない」[152]と述べている。杉本は吉村禎章、駒田徳広に本塁打を打たれ、西本聖に完封勝利をくらい、0-6で敗戦。2戦も先発の鈴木孝政が打たれて連敗。監督としての初勝利は巨人戦の3戦目(勝ち投手は小松)。この年は仁村徹は規定打席に達しレギュラーになった。6月11日、熊本・藤崎台県営野球場での対巨人戦で宮下昌己がウォーレン・クロマティの背中に死球を与え、両軍入り乱れての大乱闘に発展(宮下昌己によると星野監督からぶつけるように指示が出ていたと述べている)[153]。その際、巨人監督の王貞治に対し、胸ぐらをつかみ胸を小突き、拳を突き出し挑発ともとれるポーズをとり、喧嘩を売ったと批判された[154]。王に「我々が主役になってはダメだ」と諭されたが、「やられたらやり返すのが当たり前じゃないですか」と言い返した[155]。後年その際のことに触れ、拳を突き出した件については「拳で殴ることはないでしょう?」という抗議の意味であったと釈明している[156]。
1987年5月2日の広島戦では正田耕三のタッチプレーを巡り、両軍乱闘し、広島のコーチ伊勢孝夫と揉み合い、回し蹴りして[155]、伊勢と共に退場処分となり[157]、現役通して初の退場となった。監督1年目の退場は宇野光雄、金田正一、ジョー・ルーツに次いで4人目[155]。
1987年5月13日、広報の早川実が運転する愛車のメルセデス・ベンツ・ミディアムクラスの後部座席に乗車中、愛知県名古屋市中区に当時あった室内練習場に入ろうとした際に2トントラックが20~30キロの速さで追突。病院の診断で全治10日の頸椎挫傷の怪我を負う[158]。
オフに日本ハムと大島康徳、曽田康二と大宮龍男、田中富生の2対2、西武と平野謙と小野和幸のトレードを敢行するなど、レギュラークラスの選手を放出し、積極的な「血の入れ替え」を敢行した。また、巨人を自由契約となった仁村薫(仁村徹の兄)を獲得した。
1988年は小野、小松の先発2本柱が活躍したが、完投数は12球団最少の18だった。抑えの郭、鹿島忠、川畑の中継ぎ陣、米村明、山本昌広、上原晃の若手投手陣、彦野、立浪、ゲーリー・レーシッチ、落合、宇野、仁村、川又米利、中村の強竜打線が好調で、1点差試合が34勝15敗を記録した。郭がMVP、小野が最多勝、立浪が新人王を獲得した。西武ライオンズとの日本シリーズは1戦目、5戦目先発登板した小野、山本、杉本と先発投手が打ち込まれ、打線も4番落合(打点0)、5番宇野が低迷し、西武に1勝4敗で敗れた。西武の監督森祇晶は「星野監督は選手たちに相当にらみを利かせていた。勢いで公式戦を乗り切ったが、私は負ける相手ではない。中日は前年まで西武にいた(第1戦先発の)小野が清原に特大の本塁打を打たれた。(第1戦に)小松が来たらイヤだなと思っていた」と述べている[159]。中日生え抜きで優勝した監督は2018年時点で星野だけである。オフに巨人と中尾孝義と西本聖のトレードを敢行した。監督1年目の開幕戦で西本のピッチングを見ていつか獲得しようと決意し、2年後にトレードを実現させた[160]。
1988年4月19日の阪神戦(岡山球場)で宇野勝のタッチプレーの判定に抗議し、二塁塁審の友寄正人に暴言を吐き[155]、退場処分[161]、2年連続で両リーグで最初の退場処分を受けている[155]。上記2試合の監督代行は木俣[161]。
1991年は監督として初めて開幕戦に勝利し、前半戦は首位に立つも、後半戦は失速し、優勝した広島に3ゲーム差の2位で終わった。新人の森田幸一は抑えで活躍し、球団として初めて2年連続で新人王を輩出するなど、翌年以降のチーム采配にも期待が持たれた。しかし、9月に3勝12敗と不振で首位から陥落、優勝戦線から大きく後退したことに対する責任を取り、同年9月24日に辞意を表明した[162]。この辞任表明以前から、妻・扶沙子の健康状態などを理由に周囲には「5年を区切りに辞任」との意向を周囲に漏らしており、辞任表明に先立って22日には球団オーナーの加藤巳一郎や球団社長の中山了にそれぞれ辞意を伝えていた[162]。球団側はそれ以前から既に翌1992年も星野に指揮を執るよう要請する方向だったことから慰留に努めたが[162]、本人の辞任の意思は固く、24日夜までに「これ以上の慰留は無理」と判断し、翌25日には後任として高木守道に監督就任を要請した[163]。なおこの辞任を受け、『週刊ポスト』と『FRIDAY』の2週刊誌はそれぞれ、富士銀行の不正融資問題と星野の辞任の関連性などを報じたが、中日球団はこれらの報道を事実無根と主張し、抗議を申し込む意向を表明した[164]。
第2次解説者・中日監督時代
1992年はフリーの野球解説者として活動、中部日本放送 (CBC) の『サンデードラゴンズ』に月1回出演しており[165]、辛口の解説に定評があった[166]。1993年からはNHKと野球解説者としての専属契約を結び、7年ぶりにNHKへ復帰[165]、1995年まで務め、並行して1992年から1995年まで中日スポーツ客員。また、沢村賞の選考委員を務めていた(1994年から1995年まで)。
1994年8月には監督の高木守道のシーズン限りの退任、星野の監督復帰がほぼ決まっており、そこから巻き返しての10.8決戦で優勝こそ逃したが、高木が監督続投になった[167]。10・8を2日後に控えた10月6日、午後1時から名古屋市内のNHK名古屋放送センターで異例の記者会見が開かれた。星野の「辞退会見」である。「これだけの戦いをしているわけですから、今の監督が辞めるとか辞めないというのはおかしい。優勝しようがしまいが、守道さんにやってほしい。それを皆さんに伝えに来たわけです」と述べ、中日球団から要請を受け、内定していた監督復帰を辞退するというのである[168]。10・8決戦当日にはNHKのラジオ中継で解説を担当したが、中日が敗れて優勝を逃したことを受け、試合終了後に目を赤くしながら、一塁側ダグアウト横の通路で「もういい。コメントは、なしだ」と吐き捨てていた[169]。1995年の中日二軍スタッフは監督島野育夫、バッテリーコーチ加藤安雄、打撃コーチ高畠康真という面々で、彼らは当初、星野の下で一軍スタッフになることが予定されていたコーチ陣だった[167]。
しかし高木は1995年シーズン途中で休養、代行を務めたヘッドコーチの徳武定祐も同じくシーズン途中で解任となり、後半戦からシーズン終了までは二軍監督の島野育夫が監督代行代理を務めたが、リーグ5位に低迷した。これを受けて中日は星野に監督復帰を要請し[170]、1995年9月20日に星野の監督復帰が発表され[171]、星野は同年10月13日に契約金・年俸各1億円(いずれも推定金額)という契約条件で1年契約を締結した[172]。背番号は前回監督時代と同じ77[172]。同年オフには第1次政権発足当時の球団社長であった中山了に代わって佐藤毅が新球団社長に就任していたが[173]、佐藤は星野の自宅に出向いて「一蓮托生でやろう」と声をかけたという[174]。千葉ロッテマリーンズと仁村徹、酒井忠晴、山本保司と樋口一紀、前田幸長、平沼定晴の3対3、西武ライオンズと前原博之、清水雅治と山野和明、村田勝喜の2対2トレードを敢行した。ロッテからは加えて無償トレードで愛甲猛を、さらに韓国から宣銅烈を獲得した[64]。また日本ハムファイターズから武田一浩もトレードで獲得しようとしたが[175]、交換要員が折り合わずに交渉が難航していたところ、日本ハムに対し交換要員として下柳剛を提示した福岡ダイエーホークスとの争奪戦に敗れ、武田の獲得は失敗に終わった[176]。
第二次政権1年目の1996年は1番のダネル・コールズが29本塁打、山﨑武司が39本塁打(本塁打王)、大豊泰昭が38本塁打を打つ強竜打線を立てて8月中旬に優勝争いを繰り広げたが巨人の勢いに押され、10月6日のナゴヤ球場の最後の試合で巨人に優勝を決められ、巨人監督長嶋茂雄の胴上げを許した[177]。今中慎二が14勝、ノーヒットノーランの野口茂樹、新人の門倉健が後半戦だけで7勝を記録した[177]。同年9月20日の対巨人戦(東京ドーム)の試合終了後引き揚げてくる審判団を待ち受け[178]、上本孝一審判員に暴言を吐き[178]、もみ合いになった際に田中俊幸審判員を蹴るという暴行を働いた[178]。翌日セ・リーグから厳重戒告と制裁金100万円の処分を科された[178]。オフにレオ・ゴメスを獲得した[64]。
1997年1月30日に妻と死別。春にナゴヤドームが完成。球場が広くなったことで長打力偏重だったチームの体質改善が求められたが、間に合わず、星野自身も「最下位覚悟で優勝を狙う」と先行きを危ぶむ発言。山崎と大豊の成績が低迷し、チーム本塁打が179本から115本と激減[177]。投手陣は最多勝(18勝)の山本昌、10勝の門倉以外先発がおらず、チーム防御率4.33、失点644は共にリーグ5位、チーム得点は5位、チーム打率最下位と投打振るわず5年ぶりの最下位に終わった[177]。翌年は本塁打に頼った野球から本格的な転換を図った[177]。オフにアロンゾ・パウエルは退団し[179]、阪神と大豊泰昭、矢野輝弘と関川浩一、久慈照嘉の2対2トレードを敢行した。また、韓国から李鍾範、サムソン・リー、ロッテから南渕時高を獲得した。また、投手コーチの小松辰雄は退団し、後任に宮田征典が就任し[180]、水谷実雄を打撃コーチ、二宮至を外野守備走塁コーチ、仁村徹を二軍監督、梶本隆夫を二軍投手コーチに招聘。ドラフト会議では、大学の後輩川上憲伸が入団。
1998年は肩の故障で伸び悩んでいた野口がエース級へ育ち[181]、14勝し最優秀防御率、川上も14勝で新人王、中継ぎ陣では落合英二が最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得し、新人の正津英志も活躍した。チーム打率はリーグ5位だったが、本塁打は100本に減るもリーグ最少の失策数守り勝つ野球を実践し[177]、チーム防御率は12球団トップ(3.14)、失点はリーグ1位の458、盗塁はリーグトップを記録し、終盤の対横浜戦7連敗が響き2位に終わったが、翌年に期待持たせるシーズンとなった[177]。前年のパ・リーグ最多勝投手であり、1995年オフにもトレードで獲得を狙っていた武田をFAでダイエーから獲得した。投手コーチの宮田は一年で辞任し[182]、後任に山田久志が就任し[183]、高代延博を内野守備走塁コーチに招聘した[184]。ドラフト会議では、福留孝介、岩瀬仁紀が入団。
1999年は1954年の西鉄ライオンズ以来45年ぶりとなる開幕11連勝を飾った勢いでそのまま首位を突っ走り、5月・6月はややもたつき一時は首位を明け渡したが、前年に引き続き守り勝つ野球で7月以降は白星を重ね自身2度目のリーグ優勝を果たした[177]。昨年に引き続き、チーム防御率は12球団1位。MVPの野口が19勝で最多勝、先発で2桁勝利投手はいなかったが岩瀬、落合、サムソン・リー、そして抑え宣とリリーフ陣が充実していた[177]。打線は関川が.330、久慈がチームトップの16犠打、ゴメスが36本塁打、109打点、福留は16本塁打を打った[177]。対広島は13勝14敗で負け越したが他の4球団には勝ち越した(対巨人15勝12敗、対横浜16勝11敗、対ヤクルト18勝9敗、対阪神19勝8敗)。福岡ダイエーホークスとの日本シリーズは前評判では中日圧倒的優位だったが[185]、山﨑が出場できず、関川が21打数2安打打率.095、井上一樹が13打数無安打と、打線が振るわず1勝4敗で敗れた[177]。オフに宣は現役を引退し、サムソンは退団した。
2000年、メルビン・バンチは最多勝、エディ・ギャラードは最優秀救援投手、岩瀬は2年連続で最優秀中継ぎ投手と投手陣のタイトルホルダーを多く輩出したものの、チーム防御率4.19でリーグ5位に低迷した。最終成績は、優勝した巨人に9勝18敗と大きく負け越し、8ゲーム差をつけられ[177]、1998年以来2年ぶりとなる2位となった。同年5月6日のナゴヤドームで行われた対横浜ベイスターズ戦では、球審を務めていた橘高淳に暴行を働き、96年以来4年ぶり、自身4度目の退場処分を受けた。この背景は、立浪和義の打席で見逃し三振を喫した際に、橘高が下した最後の投球のストライクと判定を不服とした立浪が橘高に抗議、その後両手で橘高を突いたとして、橘高は立浪に退場を宣告、立浪の退場宣告後、今度は星野がベンチから飛び出し、橘高に体当たりしたことで、橘高は星野にも退場を宣告した(この件では二人のほか、橘高を殴って肋骨骨折などの重傷を負わせた大西崇之も退場処分を受けた)。後日星野は5日間の出場停止及び50万円の罰金が科され、(同じく暴行を働いた立浪、大西もそれぞれ罰金及び出場停止処分が課された)また同時に第三者からの異例の刑事告発もされた(起訴猶予処分)。出場停止期間の監督代行はヘッドコーチの島野育夫が務めた。出場停止後に遠征先の広島で謝罪会見を行うも、会見時間は僅か50秒で、会見時終始腕を組んだ状態で、「ファンに迷惑かけた」と謝罪するも、審判への謝罪はなく、その後「言いたいことが山程あるけども今日は黙っておく」と審判への不満と取れる発言を行ったため、賛否両論が巻き起こった。
2001年は巨人キラーとして名を馳せた川崎憲次郎を獲得して臨んだが、その川崎がオープン戦で早々離脱した。投手陣は持ち直したが、打撃陣が振るわなかった[177]。開幕4番のオジー・ティモンズは期待外れ、ゴメスを呼び戻したが、打率・本塁打・盗塁・得点がいずれも低迷[177]。広島以外の4球団に負け越し、最終的な順位はセ・リーグ5位に低迷した。しかし井端弘和は規定打席到達、荒木雅博は後半スタメン、福留はシーズン後半外野に転向するなど将来に向けた布石が打たれた一年にもなり、未来に遺産を残した[177]。球団側は監督としての手腕や任期などを考慮し[186]、翌2002年シーズンも引き続き監督として指揮を執るよう要請する方向だったが[187]、本人は9月25日に辞任を表明した[188]。その辞任の記者会見では、辞任を決断した時期について「ずいぶん前から心は決まっていて、2、3週間前にオーナーに話した」と語り[189]、また「成績不振が理由のすべてではない。初監督の時は5年、今回は6年目。同じ人間が長い間権力の座に座ることは、組織上好ましくない」などと述べた[190]。なお、星野は次年から阪神タイガース、2011年から東北楽天ゴールデンイーグルスの監督・チーム関係者になったりと、中日とは疎遠になっていき、現役、コーチ・監督を合わせて23年、中日一筋で4度のリーグ優勝立役者だが、1954年以来53年ぶりの日本一には全く関わっていない[注 7]。
中日のオーナーを長く務めた加藤巳一郎からの全面的に信頼を受けていた[191]。
著書の中で「私が怒る時は、常に本気で怒る。叱るときは全身で叱る。自らの本心を隠したり抑えたりできないのは、私の長所であり、また、短所でもあるが、少なくともスポーツマンの世界で発揚する理想だと考えている。時には怒鳴り上げ、壁を蹴り、灰皿を投げ付けて怒る。私くらい怒っていることが周囲に丸分かりの監督もいないだろう」と記している[192]。
監督時代、第一製薬(のちの第一三共)の胃腸薬・センロックのCMに出演。「いつでも夢を」の替え歌をバックにベンチで興奮する姿(実際の公式戦中の映像を使用)やゴルフをラウンドする映像が流れた。また、監督就任前に、ライオンズマンション、ハウス食品の叉焼麺・坦々麺・カレーライスのCMにも出演している(田淵幸一・山本浩二と共演)。
阪神監督・フロント・第3次解説者時代
星野は中日監督を退任した直後、NHKから野球解説者復帰の打診を受け[193]、2001年12月5日時点では翌2002年からNHKの野球解説者に就任することが内定していた[194]。しかし同日、阪神タイガース監督を務めていた野村克也の妻・沙知代が脱税事件で東京地方検察庁特別捜査部に逮捕された[195]。克也は1999年から同年まで阪神を3年連続でセ・リーグ最下位に低迷させていたものの、シーズン中の8月2日には翌2002年シーズンも監督を続投することが球団から発表されていたが、同日時点で既に沙知代の脱税疑惑が報じられ、球団も東京国税局からの立ち入り調査を受けているという状況であり、球団は沙知代の逮捕を受けて翌6日には克也に辞任を勧告、克也もこれを受け入れて監督職を辞任した[194]。一方で阪神は沙知代が逮捕される前、脱税疑惑が表面化した時点でいずれ強制捜査になることは避けられないと判断しており、水面下で克也に代わる次期監督の選定に着手し、二軍監督の岡田彰布、前オリックス・ブルーウェーブ監督の仰木彬、そして星野の3人に候補者を絞って調整を進めていた[196]。結果、岡田と仰木の2人は親会社である阪神電気鉄道社内の意見を一本化できず断念し、残る星野について、野球に対する情熱と、球界屈指と言われた強い指導力を買い、候補者を残る星野に一本化した上で、阪神球団オーナーの久万俊二郎と球団社長の野崎勝義が野村の辞任した6日に会談を行った結果、星野を次期監督として招聘することで合意した[196]。そして翌7日、阪神球団の緊急役員会で星野の招聘が正式に決定され[197]、12日に久万と野崎が星野と会談して監督就任を正式に要請[198]、星野は「大まかなことでは合意に達した」と要請を受諾する意向を表明した[199]。そして15日に2回目の入団交渉を行い[200]、同日に内諾した上で、交渉以前から依頼を受けていたテレビ、ラジオの出演が終わった17日には久万と野崎に正式に監督就任要請を受諾する意向を伝え、記者会見でもその旨を表明した[201]。12月18日に阪神への入団発表が行われ、背番号は中日監督時代と同じ77と発表された[202]。当時の契約は2002年シーズンの1年契約で、年俸と契約金は各2億円だった[202]。中日時代からの片腕的存在島野育夫をヘッドコーチ[64]、田淵幸一をチーフ打撃コーチ[203]に招聘した。[204][205]田淵が阪神のコーチを断った場合、星野は阪神の監督を引き受けなかったと田淵に語っている[206]。投手コーチは前任の野村克也の要請で2001年の秋季キャンプから佐藤義則が就任していたが佐藤がお世話になっていた整体師が星野と知り合いで「佐藤さんだったら大丈夫ですよ」と助言してくれたおかげで佐藤は残留することが出来た[207]。
島野は10月に中日二軍監督に就任し、複数年契約の予定であったが、胃の手術のため正式契約はまだ済んでいなかった[208]。中日との交渉は難航し、最終的には星野が中日球団オーナーの白井文吾、球団社長の西川順之助らと会い話をつけた(西川は最初難色を示し、野崎も「私が逆の立場なら難色を示していただろう」と述べている)[209]。それまで中日の顔役だった星野が阪神の監督に就任したことを受け、名古屋を代表する商店街・大須からは反対の声が複数上がった一方、支持・容認の声も多く上がった[210]。
阪神との初交渉を控えた12月11日、巨人監督を勇退したばかりの長嶋茂雄とスポーツ報知の新年企画で対談した際、阪神のユニフォームを着るよう説得された。長嶋から「安芸キャンプでコーヒー飲ませてよ」と言われた際には返す言葉がなかったという[211]。
星野をオーナーの久万俊二郎に推薦したのは前任監督の野村克也だという。著書によると野村は任期途中で自分では阪神再建は不可能と悟り、「負け癖のある今の状態の阪神を再建できるとすれば、熱血指導型の西本幸雄さんか星野だ」と考えていた。当時の阪神はOB会が強い権力を持ち、ベンチにも入って選手を勝手に指導したりする場面もあり、野村との確執があったともいう。星野もオーナーに直談判し、「ここまで低迷したのは、失礼ですがオーナー、全てあなたの責任ですよ。」と発言した[212]。球団社長の野崎勝義も「星野新監督を誕生させたのは野村克也さんの直言がキーワードになった」と記している[213]
星野は著書の中で、『野村さんは阪神での3年間、「弱者が強者に勝つ野球」というものを標榜されていたそうだが、私の場合は「弱者を強者にする野球」だ。野村さんといえばご存知ID野球。野球は考えるスポーツ、頭でやるスポーツとして捉え、指導していくスタイルの人だが、私が阪神で選んだのは端的にいうと体の野球だ。これはどちらがいいとか悪いとかの問題ではなく、弱いチームの選手を鍛えて、戦っていくための順番として問題として考えてもらえればいいだろう』と記している[214]。
オフにオリックスからジョージ・アリアス、FAで日本ハムから片岡篤史を獲得した[215]。ただし片岡は野村の監督辞任や星野の就任が決まる前の11月の段階から阪神が入団交渉を行っており[216]、星野は監督就任発表翌日の12月19日、阪神監督としての初仕事として、片岡と阪神球団としては4回目の交渉を担当[217]、片岡は田淵のチーフ打撃コーチ就任が発表されたのと同じ翌20日に阪神入団を表明した[218]。またアリアスについては12月25日に阪神入団が発表され、彼の入団に伴って当初は翌2002年シーズンも契約する方針だったイバン・クルーズは解雇が決まった[219]。
就任1年目の2002年にはチーム史上2度目の開幕7連勝を記録し、5月・6月首位を走ったが故障者が出始めて息切れ[220]、結果的に4位に終わる。優勝争いから脱落した9月に「今岡、井川以外は全員がトレード要員だから覚悟しておくように」と全選手に通告した[221][222]。オフに通告通りに24人の選手を放出し、広島からFA宣言した金本知憲、テキサス・レンジャーズを自由契約となった伊良部秀輝、中日を自由契約になった久慈照嘉、日本ハムから下柳剛、中村豊らをトレードで獲得するなど、投打の大型補強を行った。首脳陣とフロント陣では西本聖をブルペンコーチ[223]、達川光男をバッテリーコーチ[224]、山口高志を二軍投手コーチ[225]、岡田英津也、伊藤菊雄を編成部顧問[226]に招聘した。二軍監督の岡田彰布が内野守備走塁コーチに就任し、三塁コーチを任せた[227]。
翌2003年は、金本、伊良部、下柳、矢野、桧山進次郎、片岡、井川慶、アリアス、ジェロッド・リガン、ジェフ・ウィリアムスら主力選手の活躍に加え、今岡誠、赤星憲広、藤本敦士、吉野誠ら若手が急成長し、首位を独走、7月8日にはセ・リーグ史上最速となる優勝マジック49を点灯させた。結局、この年、圧倒的な強さでチーム18年ぶり、監督としては自身3度目のリーグ優勝を果たす[228]。巨人には17勝10敗1分けと18年ぶりに勝ち越した。しかしダイエーとの日本シリーズでは3勝4敗で敗れる。シリーズ終了後の10月28日に「健康上の理由」で退任することを正式に発表した。星野は後任に田淵を推薦するが固辞した為[206]、守備走塁コーチの岡田が昇格[229]。岡田は「一軍の守備走塁コーチになった時点では、自分が次期監督やと思ってないわ。でも周囲の雰囲気があったよな。実は、9月くらいに星野さんから直接言われていたんだ。「俺は辞める。次はおまえにやらすから、コーチの人事とか考えておけ」って。「星野さんの次は田淵さんかな」という見方も周囲にはあったんやけど、星野さんは「田淵にはやらさんから」とはっきり言っとった。だから、外部には言わないにしても、シーズン中の9月くらいから「来年は自分」という心構えはしていたね。」[230]、「幸い05年にリーグ優勝を果たすことができたけど、これも星野さんの築いた財産があったからこそ。そこにオレなりの考えを貫いて、優勝までもってこられた。ホンマ、感謝しかない。」[227]と述べている。
かねてから星野には高血圧症という持病があり、2002年のペナント開幕戦の対巨人戦では試合後に体調を崩しベンチ裏で記者を待たせ横になっていたことがあったり、2003年は野崎が覚えているだけで試合中4回倒れており、その都度島野ヘッドが敵陣にバレないよう指揮を執っていた[231]。
2010年に行われた阪神ファンが選ぶ阪神名監督というアンケートで2位岡田彰布に倍以上の差をつけ、1位になっている[232]。
2004年1月1日に阪神球団の「オーナー付シニアディレクター(SD)」に就任した。また、同年には兵庫県芸術文化協会より「県勢高揚功労」の表彰を受けた[233]。
SDを務める傍ら、アメリカンホームダイレクトやキリンビバレッジ、大和證券、さくら不動産などのテレビコマーシャルに出演し、タレントとしても活動。母校明治大学の評議員となった縁もあり、同大学のイメージキャラクターも務める。2004年10月からは大阪人間科学大学の客員教授にも就任している。
2005年7月、星野仙一を塾長とする「夢・星野スポーツ塾」がスタート(2008年閉鎖)。
2005年8月から9月にかけて同シーズンBクラスに低迷し、3年連続で優勝を逃していた巨人の次期監督候補として名前が挙がった。巨人の球団幹部が星野と水面下で複数回にわたり極秘接触し就任要請を行ったと報道されたが、9月10日に大阪市内のホテルで自ら会見し、阪神残留を正式表明した。「老舗中の老舗チーム(巨人)の幹部の皆様からお褒めの言葉を頂く事はありがたい」としながらも正式な監督就任要請は「なかった」と否定し、“巨人・星野仙一”は幻に終わった [234]。
2006年10月2日よりスタートした、日本テレビ系列のニュース番組『NEWS ZERO』にて、スペシャルコメンテーターとして不定期に出演した。
北京五輪監督
2007年1月25日、翌年にひかえた北京オリンピック野球日本代表の監督に就任。その翌日には「星野JAPAN」を自身の個人名義で商標登録出願した。「金メダル以外いらない」と公言して臨んだオリンピックだが、本選では4位で、上位3チームには5戦全敗という結果に終わった。
北京五輪の結果が4位に終わった事について、大会後の会見では「選手がかわいそうだった」と結果の出なかった選手達を擁護した[235]。一方で、選手との意思疎通を欠いたことや、参加国が同一条件であるにもかかわらず、日本と違うストライクゾーンや日本と違う午前中の試合を言い訳として挙げたことや、「批判は甘んじて受ける」と言いながら、帰国会見では「日本はすぐたたきにかかる。そんなことをしたら若い人が夢を語れなくなる。たたくのは時間が止まった人間だろう」といった発言が批判の対象となった[236]。
北京五輪後の2008年10月15日、星野も出席した第1回WBC体制検討会議において、星野が2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表監督に就任することが内定した。この時点で既に鹿取義隆・武田一浩らを投手コーチとするところまで予定されていたが、五輪で結果を残せなかった星野の監督就任に対して各方面より難色を示す声が多く、10月22日、星野は自身のHP上で就任をしないと最終的に宣言し、代表監督は巨人監督の原辰徳が兼任で引き受けることとなった。
楽天監督・フロント時代
2010年5月10日より、自ら初のラジオパーソナリティ番組『星野仙一の熱血・仙一夜』がMBSラジオにて放送される。
2010年10月、東北楽天ゴールデンイーグルスが次期監督として交渉すると報じられ、同19日に阪神SDの辞任と退団を発表した[237]。その後、同27日に宮城県仙台市内で正式に楽天監督の就任会見を行った[238]。選手・監督通じて初めてパシフィック・リーグ加盟球団に所属することとなった。背番号は中日、阪神監督時代と同じ「77」。再び田淵をヘッド兼打撃コーチに招き、三輪隆をバッテリーコーチ、仁村薫、関川、種田仁を二軍コーチに招聘した[239]。メジャーリーグ経験者の岩村明憲や松井稼頭央を獲得。
初年度となった2011年は3月11日に発生した東日本大震災の影響で、本拠地・クリネックススタジアム宮城(Kスタ宮城)が損壊したこともあり、公式戦開幕が2週間延期され、開幕当初は代替で阪神甲子園球場など関西地方でホーム試合を行なっていた。成績は仙台に戻ってからの5月以降に本拠地で5連敗するなど下降し、8月には7連敗で5位まで落ち込むが、同月後半には逆に7連勝するなどあって一時は3位に浮上し、オリックス、西武とのクライマックスシリーズ進出争いに加わったが、最終的には3位西武と3ゲーム差の5位に終わる。楽天の監督として日本野球機構の関係者に嘆願し、震災復興を名目としたこの年のオールスター第3戦がKスタ宮城で開催されることになった。オフには4番としてチームを牽引してきた山崎武司に星野自ら戦力外通告を行い退団させた。この年の山崎は故障で離脱し、2004年以来7年ぶりに規定打席を逃したものの統一球が導入され本塁打が減少する中でチームトップの11本塁打を打っていたが若返りを図るために戦力外を通告した。また、福田功をフロント[240]、早川実をスカウト[241]、田代富雄を二軍打撃コーチ[242]、中日監督時代の教え子大石友好を二軍バッテリコーチ[243]に招聘した。
2012年5月11日、対オリックス7回戦(京セラドーム)において、投手出身監督[注 8]、及び戦後生まれの監督としては初となる監督通算1000勝(876敗42分、2012年5月11日当時)を達成した[注 9][244]。2004年の王貞治以来、史上12人目の記録となった。ちなみに翌12日も勝利し、自身の名「仙一」と同じ1001勝目となった際、「おーっ、2000勝まであと999勝か」とコメントして報道陣を笑わせた[245]。戦力外にした山崎、メジャーリーグに移籍した岩隈久志の退団に加え、前半戦は田中将大、松井稼頭央、嶋基宏、ルイス・ガルシアら主力の離脱が目立ち、戦力低下が不安視されていた。しかし、釜田佳直、辛島航、枡田慎太郎、銀次などの生え抜きの若手を抜擢、リリーフだった美馬学を先発に転向させるなど、徐々に頭角を現す。これらの若手選手は「星野チルドレン」とも呼ばれた[246][247]。5月20日、福岡ソフトバンクホークスと入れ替わりで3位に浮上。その後も上位争いを続け、7月18日に球団創設8年目で初の前半戦を勝率5割以上、Aクラスターン入りの3位で終えた。後半戦は復帰したベテランが不調で引き分けを挟み、8連敗で5位に転落。8月中旬の西武戦では開幕戦以来となる同一カード3連敗を喫した。しかし9月に入ると勢いを取り戻し、7日からの西武戦で3連勝して4位に浮上。最終的に3位ソフトバンクと1ゲーム差の4位となった。最終戦に勝利し、勝率はちょうど5割となった。同年をもってヘッドコーチの田淵は解任されたが、田淵は「楽天にオーナーと仲良くてデーブ大久保が来て、俺は彼に書き回された。」[206]と述べている。

(左は聖澤諒)
2013年、前年オフに星野がオーナーの三木谷浩史に食事した際に「外国人にカネを掛けないと勝てないですよ、それが野球の有効投資。強くなれば人気も出る」と直言した。球団社長の立花陽三は、編成を担当していたアマ・スカウトグループマネジャー楠城徹ら5人を一斉解雇し、野村克也の名誉監督を更新しなかった[248]。現役メジャーリーガーのアンドリュー・ジョーンズ、ケーシー・マギー、斎藤隆を獲得し、ドラフトでは2位に則本昂大を指名し、その則本を開幕直前に行われたWBCに出場していた田中の疲労を考慮し開幕投手に抜擢した。4月19日の対千葉ロッテマリーンズ戦(QVCマリンフィールド)の8回表二死一塁の場面で、ジョーンズの打席、二死一塁カウント1ボール2ストライクから成瀬善久の投じた外角低めいっぱいのストレートを見逃し三振と判定される。これを不服とし球審の橋本信治に暴言を吐いたとして2002年8月23日の対巨人戦以来3892日ぶりとなる退場処分を受けた(通算6度目、楽天監督就任後初の退場処分)。前半戦は球団初の首位で終えた。9月26日の対西武戦(西武ドーム)で球団史上初のリーグ優勝を達成した。異なる3球団をリーグ優勝させた監督は三原脩(巨人・西鉄・大洋)、西本幸雄(大毎・阪急・近鉄)に続き史上3人目、セ・パ両リーグ優勝に導いた監督は三原(西鉄・大洋)、水原茂(巨人・東映)、広岡達朗(ヤクルト・西武)、野村克也(南海・ヤクルト)、王貞治(巨人・ダイエー)に続き史上6人目。2013年の巨人との日本シリーズでは4勝3敗で日本シリーズ制覇を達成し、楽天初と同時に自身初の日本一になった(自身唯一の日本一でもある)。66歳でのリーグ優勝と日本一は、2000年の長嶋茂雄を超えるプロ野球最年長優勝記録である。この年オフ24勝挙げシーズンMVPに輝いた田中がメジャー挑戦を表明しポスティングシステムでニューヨーク・ヤンキース入りを果たす。1度は反対の姿勢を見せていた三木谷に星野が「田中のおかげで日本一になれたんです。気持ちよく挑戦させてやりましょう。」と説得した[249]。マギーは同年限りで退団しケビン・ユーキリスを獲得した。
2014年、5月26日に持病の腰痛が悪化、この日の対東京ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)を休養。同戦は一軍投手コーチの佐藤義則が指揮を執った[250][251]。その後の検査で腰椎椎間板ヘルニアと、難病(=特定疾患)の一種である胸椎黄色靱帯骨化症と診断され、翌27日、球団は星野の同日以降の休養を発表し、佐藤が監督代行を務めることを発表した[252]。その後手術を受け、無事に終了したことが6月17日に球団から発表されている[253]。6月30日にはこの年監督として指揮を執るはずであった、オールスターゲームの出場を辞退、星野は総監督に就き、佐藤がオールスターゲームの監督代行を務めることになった[254]が、7月2日付で楽天の監督代行に大久保博元が就いたことから(佐藤は一軍投手コーチに専念)、オールスターゲームの監督はいったん白紙に戻された。NPBは星野にオールスターゲームの監督を要請し、7月3日に星野がオールスターゲームで指揮を執ることが発表したが[255]、7月12日に球団から体調の回復が間に合わないとして、指揮を辞退することが発表された[256]。最終的には、千葉ロッテマリーンズ監督の伊東勤が全パ監督を務めることになった。7月24日の楽天の全体練習から監督に復帰[257]、翌25日の対日本ハム戦(楽天Koboスタジアム宮城)から試合に復帰したが[258]、この年チームは低迷。9月18日に今季限りでの監督退任を発表、同日行われた記者会見で星野は退任の理由を成績不振とこの年2カ月離れていたことを挙げている[259]。シーズン最終戦の10月7日の対オリックス戦に敗れ、最下位が確定。前年優勝チームの最下位は史上5度目で、星野は飯田徳治、別当薫、根本陸夫、近藤昭仁、野村克也に次いで史上6人目の両リーグで最下位の監督となった[260]。
2014年11月9日、楽天のシニアアドバイザー就任が発表された[261]。2015年9月、株式会社楽天野球団取締役副会長に就任[262](死去まで[263])。
晩年
2016年7月に急性膵炎を発症した際に膵臓がんが発覚したが、星野の意向で病については一切公にされなかった。この時点で肺に転移しており、手術はせずに抗癌剤治療を受けた[264]。2017年1月16日、2017年度野球殿堂顕彰者(エキスパート表彰)に選出された[265]。2017年11月28日と12月1日には、自身の「野球殿堂入りを祝う会」に出席していたが、その後体調が悪化し、年が明けた2018年1月4日午前5時25分に死去した[2]。満70歳没[2][263]。死没地は三重県の次女(後述)宅で[266]、越智正典によれば津である[267]。
星野の訃報は6日に楽天球団から発表された。球団は突然の訃報となったことについて「星野の意向であり、人前で強気であることを貫き“星野仙一”のスタイルを最後まで全うしようとした結果である」として理解を求めた[2][263]。葬儀は1月6日に故人の生前の遺志で密葬として三重県津市で執り行われた[268]。1月8日には、楽天の本拠地である楽天生命パーク宮城に献花台が設置され、楽天ファンらが訪れ花を手向けた。この日の来場者は9527人に上ったという[269]。星野が監督を務めた中日と阪神の両球団は3月10日に阪神主催で実施された阪神甲子園球場での両チームのオープン戦を星野の追悼試合とした。試合では半旗が掲げられ、阪神は星野の監督時代の背番号「77」を、中日は背中に監督時代の背番号「77」と左胸に中日選手時代の背番号「20」をつけた特別ユニホームでプレーした[270]。楽天球団は星野のお別れの会を3月19日にグランドプリンスホテル新高輪にて執り行い、楽天会長兼オーナーの三木谷浩史が謝辞と弔辞を読んだ[271]。一方、阪神球団は28日にハービスOSAKAでお別れの会を執り行った[272]。
3月26日、楽天は監督時代に着けていた背番号「77」を永久欠番にすると発表した[2][273]。また生前、野球界の発展に尽くしたことを称えるべく、明治大学硬式野球部及び明治大学硬式野球部OB会(駿台倶楽部)は東京六大学野球連盟に対して「星野仙一氏追悼セレモニー」の実施を要請、これを受けた同連盟では2018年東京六大学春季リーグ戦の東京大学 対 明治大学第1回戦(2018年4月21日、明治神宮野球場)の試合前に追悼セレモニーを執り行った[274]。墓は中日時代に暮らした愛知県名古屋市の霊園にあり[275]、またこれとは別に同県あま市の瑞圓寺には永代供養碑がある(後述)[276]。
選手としての特徴
投球フォーム
投球フォームは右手からのオーバースローもしくはスリークォーターで[277]、大学時代にはスリークォーターでボールをリリースしている写真が確認されている[42]。投球フォーム自体はオーソドックスなものであったが[42]、振りかぶってから左足を着地するまでの間にグラブを着けた左手を空へと突き出す動きが特徴だった[277]。このような独特の動きは、体の開きを抑えることと打者を幻惑することが目的だったと評されており、鹿取義隆は反動を活かすためだろうと評している[277]。
投球スタイル
『スポーツアルバム』によれば、星野は本格派だと思われがちではあるが、実際には丁寧にコーナーを攻める頭脳派投手で、スピード、変化球、コントロール、フィールディング、メンタルの各5段階評価は「スピード」「変化球」「コントロール」「フィールディング」が各4、「メンタル」が5であった[6]。若手時代は球速140 km/h台のストレートとシュート、カーブで打ち取る投球であり[278]、年齢を重ねるとともに投球術に磨きがかかっていったと評されている[46]。
現役時代にバッテリーを組んでいた木俣達彦曰く、星野は観察眼の鋭い投手で、自分の配球が相手打者の狙い通りになっていると感じると投げる途中でカットボールにして外角に外し、そこから仕切り直す癖があったという[75]。また星野本人は、3年目の1971年に酷使が原因で右肘を痛めて以来、打者が踏み込んで来そうになるとインコースにストレートを投げ込んで踏み込めなくし、甘い球で打ち取る「ケンカ投法」を身に着けたと語っている[278]。『スポーツ報知』記者の橋本純己は星野について、右肩の故障などで球威が落ちてから、直球の変化を研究し、胸元に投げるとシュート気味に変化し、膝元に投げれば落ちるボールを使うなど、巧みに変化するボールを用いる投球術を駆使して勝ち星を積み重ねたと評されている[279]。後述のように1970年代には故障から球速が一気に落ちたため、投球術や「顔」での威圧、マスコミを通じた相手選手への挑発などといった駆け引きを磨いたと評されている[73]。
晩年の星野と対戦経験のある八重樫幸雄によると、速球や変化球に特筆するものは無かったが、気持ちで抑える投手であった[280]。
球速
高校時代は中央球界では無名だったものの、無理のない投球フォームから放たれる速球をプロ野球のスカウトたちから注目されていた[35]。
大学時代はオーソドックスな投球フォームで投げる速球派投手であり[281]、長身から繰り出す速球は大学ナンバーワンと言われた[53]。また球速、球威、球の切れ味とも東京六大学野球リーグ随一の本格派投手という評価や[282]、低めに決まる速球に威力があるという評価が残っている[58]。大内隆雄曰く、大学時代の星野は最高球速150 km/hはあったのではないかといい、本人も「ひょっとしたら1年目なんか180キロ出てたかもね(笑)」と冗談交じりに語っている[283]。
一方で大学時代は、球威に自信がありすぎるためか力で押し切ろうとするあまり投球が単調になり、連打を浴びる欠点があるとも評されていた[282]。また本人曰く、大学時代は1年生のころが一番球速があり、2年生の春に足首を捻挫して練習不足のまま登板したところ、逃げの投球で勝ちを稼ぐようになってしまい、チームメイトからは「神宮で一番速い」と言われていた自分の本当の球速がよくわからなくなったという[59]。1年生だった1965年夏のオープン戦では4試合に登板して2四球と抜群の制球力を誇っていたが[284]、4年生になった1968年は肘が下がるようになったため、それまでに比べてコントロールが悪化し、2、3四球/試合出すようになったといい、奪三振が多い試合は被安打も多く、逆に完封した試合では奪三振が少ないと語っていた[59]。吉田正男はそれについて、スピードに頼る投手に共通な現象であると評していた[59]。
プロ入り後、右足内転筋や肘の故障によって球速は低下していき[73]、現役時代を総括した『スポーツニッポン』の記事では「投手として球速は並だった」と評されている[120]。鹿取はプロ野球選手時代の星野について、球速は極端に速くはなかったが、内角を執拗に攻めるなど相手打者の嫌がる投球術を有していたと評している[277]。
変化球
主な変化球はスライダー、カーブ、シュートで[6]、大学時代は特にシュートが良いと評され[282]、シュートとフォークボールはプロですぐ使える切れ味と落差があるとも評されていた[40]。本人はプロ入り当時、変化球はフォーク、スライダー、シュート、カーブと一通り投げられるが、スライダーとシュートは「わり合いおもしろいタマ」を投げられる一方、カーブとシンカーは「高校生にも打たれそうなヤツ」と語っていた[59]。一方でプロ入り後にフォークを覚えたが、あまり落ちなかったという文献もある[278]。またスライダーとフォークは、中日入団2年目の1970年に右肘を痛めたことを機に投球スタイルを変える過程で習得したものだとも報じられている[87]。
好調時には重みのあるシュート、低めを突くアウトドロップがよく噛み合っていると評されていた[285]。一方で新人年である1969年のオープン戦では2ストライクから打たれることが多く、決め球がない上に球質も軽いことから10勝も難しいかもしれない、と評されていた[286]。
八重樫によれば晩年の星野の球種はストレート、スライダー、曲がりの大きいシュート、小さいシュートだった[280]。
その他
投手ながら通算打撃成績は通算645打数、134安打、打率.205、15本塁打を記録しており、1974年のセ・リーグ優勝を決めた大洋ホエールズとのダブルヘッダー第2試合では先制打点を記録、1975年にはシーズン4本塁打、10打点を記録している[8]。
体格面ではプロ入り時、巨人トレーナーを務めていた小守から「実に筋肉がすばらしい」と評されていた[59]。
人物・エピソード
気の良さそうな顔つきの反面[42]、大学時代から、父が早世して母の手一つで育てられたためか、気性が激しく、我の強いところがあり、東京六大学リーグ戦中もラフプレーや審判員への抗議が多く目立ったと評されている[40]。島岡をして「多くの選手を扱ってきたが、星野みたいに気の強い男は初めて」と言わしめており、相手の強引なスライディング、審判員の際どい判定などに表情を変えており、実力だけでなく度胸もプロ級とプロ球団のスカウトたちから評価されていた[42]。
趣味はゴルフとテニスで、ゴルフはハンディ6、1988年時点では南山カントリークラブ(愛知県豊田市)をホームコースにしていた[1]。
下戸であり、酒をほとんど飲まなかった[287]。本人曰く、明治大学1年生の時、安いウイスキーを[287]先輩たちに無理に飲まされて以来、酒が飲めなくなったという[288]。妻の扶沙子曰く、家ではほとんど酒を飲まず、薄い水割りを飲む程度とのことだったが、六本木、銀座、名古屋に行きつけの店を持っていた[1]。
居住地
中日入団1年目の1969年オフに妻・扶沙子(後述)と結婚した際、夫婦で愛知県名古屋市千種区法王町のマンションを新居とした[289]。その後、1977年には同区富士見台に敷地82坪、建坪52坪の住宅を新築、妻や娘2人とともに引っ越した[1]。現役引退から数年後、東京での解説者生活が軌道に乗った一方で月数回しか名古屋に帰れなくなったため、扶沙子に「もうそろそろ、一緒に東京で暮らそうよ」と相談したが、扶沙子からは「名古屋に育てられたのに、なぜ名古屋を捨てるの。ファンにここまで大きくさせてもらったんだから、決して動いてはなりません」と反対されたという[290]。そのため、後の中日監督時代も同じ家で暮らしていた[291][11]。
しかし扶沙子の死後、阪神監督に就任した2002年には扶沙子の墓を名古屋に残して大阪へ赴任し[292]、後に兵庫県芦屋市のマンションへ引っ越した[12]。大阪への単身赴任生活を開始した当初は、阪神球団が手配した大阪府大阪市北区の一流ホテルのスイートルーム[注 10](前任者の野村克也が3年間の阪神監督時代に過ごした部屋)を用意されたが、その部屋のベッドの向こうの窓の下に新聞社のオフィスがあったことから、その部屋で生活を開始してから約2週間後には、「よくノムさんはあそこに3年間もずっとおったな!ワシには耐えられんわ」と不満を顕にし、球団に引っ越したいと懇願、知人に頼んで芦屋市内のマンションを紹介してもらったという[12]。元阪神広報部長の本間勝によれば、ホテル暮らしをやめて芦屋のマンションに引っ越したのは2002年5月ごろのことで、その理由については「どうしてもホテル住まいなら、腰掛けと思われる。やる以上は腰を据えてやりたいので」と語っていたという[294]。本人は19歳の時に芦屋市内の「ホテル竹園」[注 11]に宿泊して以来、芦屋の街とはなじみがあったといい、2003年末時点では阪神と縁がある限り、芦屋に住み続けたいという旨を語っていた[296]。晩年の2016年ごろには娘や孫たちと共に暮らすための住宅兼事務所として、芦屋市内の芦屋川沿いにある300坪弱の敷地に建つ豪邸を購入したと報じられ[297]、2016年6月に引っ越したが、その直後の同年7月に膵臓癌の告知を受けたという[298]。死去時点では、その芦屋市内の住宅に居住していた[299]。
監督として
監督時代は「1年1年が勝負」を信念としており、複数年契約を拒んでいた[300]。
中日での監督時代は緩慢なプレーをした選手を殴っており、中村武志はほとんど毎日のように殴られ、小島弘務は血だらけになった口元をタオルで押さえていたこともあったという[301]。
山本昌は井上真二から本塁打を2本も打たれたことに激怒した星野から「お前、名前も知らん選手にホームラン打たれやがって」と激しく殴られ、顔が腫れ過ぎたため降板したことがあるというエピソードを披露している[302]。また、山本昌は星野が中日の監督を務めていた頃を「要するに打たれたら、いつだって叱られた」と振り返っており、星野が試合後に行っていたミーティングにおいて自身は「叱られ役」であったと話している。節目の記録を作っても称賛の言葉は一切なかったとされるが[303]、一方で「言葉のフォローなんかしてくれない人だけど、僕を試合で使ってくれた」と感謝の意を述べてもいる[304]。
西本聖は「厳しい方ですよ。選手の事を殴る、蹴る。外国人選手と落合さんと僕は例外でしたね。巨人時代から中日の星野監督はそうやって選手に手を上げる人だと話に聞いてました。自分が実際に移籍して中日の選手に「その話は本当か」と尋ねたら「本当です」。それから僕も実際に現場に見たことがあります。でも星野さんはいい人でもありましたよ。選手の家族の誕生日に花束を贈ってくれました。思い切りの良かったですね。失敗を恐れない勝負師でした。ヒットエンドランなんて普通はできないですか。星野さんは現役時代の向かっていくピッチングスタイルそのままの監督でしたよ。」[305]と述べている。
鈴木孝政は現役時代の星野に可愛がられていたが「星野さんが監督になって僕の事をトレードで出したかったみたいです。球団に止められたらしいですけど星野さんからは『お前、そんなに大事なやつか?』と言われました。星野さんが監督になってから嫌な事がたくさんありました。大量リードの7回から投げて最後まで投げればセーブだったのに9回で交代させられたり通算100セーブが目標だったのにこの監督の下では無理だと思いました。」[306]と述べている。
マーティ・キーナートは2001年12月に『MSN ジャーナル』へ寄稿した記事で「1997年のシーズン中、シーズン途中で中日に加入した投手[注 12]が2回連続でリリーフに失敗し、星野に顔面を殴られて3針縫うほどの怪我を負わされた。これに対し、以前から星野の『鉄拳制裁』と称した暴力行為に不満を持っていたアロンゾ・パウエルは憤慨し、翌日には星野に対し『自分がそんなに強いと思うなら、私を殴ったらどうだ。救急車で病院行きになるのはあなたのほうだぞ。これ以上、ほかの選手を殴るのはやめてくれ!』と直接抗議したが、その後は試合に出されなくなった」「パウエルは近年の中日が優勝できない理由について、『星野の暴力行為に選手たちが萎縮しているからだ』と指摘している」と述べている[309]。ただし、パウエル本人は2016年に『日刊スポーツ』記者からの取材に対し、星野と対立したと伝わっていることについて「皆からそう聞かれるんだよ。本当に正直に言うけれど、対立したことなど全くなかった」と笑いながら答え、またパウエルは星野について「普段は優しい人」「私やダネルに“何か必要なものはないか”と尋ねてくれたり“これで食事に行きなさい”とお金を渡してくれたり、本当に良くしてもらった」「勝利に対して貪欲な人。どんなことをしてでも勝ちたいという監督だったと思うし、私は好きだった」と語ったという[310]。
中日監督時代、鉄拳制裁を行っている事が判明した当初は、多くの記者がその事を記事にするか迷っていたが、サンケイスポーツの記者が鉄拳制裁の事も含めた星野を批判した記事を書き、それを知った星野が記者を呼びつけ「これはどういうことだ?」と問い詰めたものの、それ以上の事はせず「もうええ」とだけ言って監督室から退室させた[311]。こうして、星野を批判する記事を書いた記者は呼びつけられ「これは何だ」と問われていき、星野と親交のあった江本孟紀が星野の事を書いた本を出す事になり、星野がそれを知ると電話で「本当にそれ出すんか?」と問い、江本は本の内容を説明するも星野は「もうええわ」と電話を切った。その後江本は編集者と話し合い「意見の一つなので批判となる部分は残しましょう。ただ明らかに悪口となる部分はやめましょう」となり原稿の悪口となるような部分をペンでなぞった所、原稿の半分以上が赤くなったという。これらの件に関して江本は「自分に批判的な人間には星野さんらしい方法で沈黙させた。こんな事が出来るのは星野さん以外にはいない」と語っている[312]。
1991年に星野の下で中日1軍投手コーチを務めた佐藤道郎は「仙さんは本当熱血漢という言葉がぴったりの人だった。試合中はすぐカッカする。根性という言葉が好きで、外国人選手相手でも通訳に「根性という言葉に合う英語がないんですよ。なんて言えばいいんですかね。」って俺に相談に来た事がある。俺も何度も怒鳴れたよ。みんな知っている話だと思うけど試合中よく選手を殴った。さすがにベンチじゃやらんか「来い」と言って裏に連れて行ってしばらくすると「パシャーン」とすげえ音がするんだ。あの頑丈そうな大豊泰昭が殴られて顔が腫れあがっていたこともあった。一体何発殴ったんだとびっくりしたよ。山田喜久夫が四球を連発して「来い」で裏に呼ばれた事もあった。鼻血を出して戻って来て脱脂綿を鼻の穴に詰めてマウンドに上がっていたな。」[313]と述べている。
良い監督の条件を「担当記者との緊密なコミュニケーション」としており[314]、番記者との朝食会・昼食会を頻繁に行い、コーヒーやオムライスなどを振舞いながら長時間雑談するのを常にしていた[315]。週刊誌AERAは「マスコミを味方に付けた状況判断と手際のよさは天才的」と評し、工藤健策は「プロ野球史上最高の『名優』」と評する[316]。
山﨑武司によれば1度目の星野監督時代(1987~91年)、春季キャンプ期間中は白米禁止、炭水化物はサンドイッチだけで、うどんやそばさえなく、グラウンド外の行動も厳しく制限し、シーズン中も「炭酸禁止」「試合前の白米禁止」という決まりがあり、パチンコホールや映画館など人が密集する場所へは出入り禁止、オーバーウエートを嫌うタイプで、体重管理にも厳しかった[317]。
中日では2度、阪神・楽天で優勝を果たしているが、すべて前年5位以下の低迷時に引き受け、4年以内に優勝を果たし、40年間、毎年代(1988年、1999年、2003年、2013年)で優勝監督になっているのは星野だけである[318]。
星野曰く「ワシはな、何と言うか完成されたチームを任されるのはいやなんや。中日時もそうやった。戦力を整備して、チームを立て直す。これに快感を覚えるんや」とのこと[319]。
選手を入れ替えることが多く、中日監督時代は第一次政権で39人放出し、28人を入団させ、第二次政権でも平均9人を放出し[320]、阪神監督時代の2002年オフには球団に選手70人のうち3分の1は入れ替えないとダメだと述べ、入れ替わった選手は27人を数えた[321]。
阪神の球団社長だった野崎勝義は「戦力を現場に与えるのはフロントの仕事である。星野監督はトレードもFA選手の獲得交渉も、自ら出馬してまとめてしまう。試合での存在感はもとより、コーチや選手を集める能力が秀でていた。優勝するチームを作れる。GM的な監督であった」と著書の中で記している[321]。
阪神、楽天監督時代星野の下で投手コーチを務めた佐藤義則は「星野監督とは、同じ投手出身ということで親近感はありました。就任するとすぐ、「阪神を投手王国にするぞ」との指令を受けました。星野監督は皆さんがイメージする通り厳しい方でした。さんざんな結果を出した投手には「おまえの顔なんか見たくない」と怒鳴ります。大量リードで勝っていても、投手が少しでも気の緩みを見せると、大きい声で「ヨシ、行ってこい!」と言われるんです。私はタイムを取ってマウンドへ行き、投手にアドバイスをします。選手も怒られますが、投手コーチは投手全員分を怒られました。強権的に見える星野監督ですが、コーチに裁量も与えてくれました。トレードや外国人投手の獲得、ドラフトではよく意見を聞かれました。普通、コーチは口を挟めません。獲得を狙う外国人投手の映像を見せてもらい、「活躍すると思うか」とよく聞かれました。投手の起用でも、負けている試合では私が好きに決めさせてもらいました。そういう意味で、とてもやりやすかった監督です。後に楽天でも同じチームとなり、「日本一の投手コーチ」と評価してもらいました。」[207]と述べている。
一方、上記のように中日監督時代に2度、阪神監督時代に1度リーグ優勝しながら日本シリーズではいずれも敗退し、北京五輪でもメダルを逃したことで「短期決戦に弱い」との評価もされていた[316]が、楽天監督としてリーグ優勝した2013年にはクライマックスシリーズを4勝1敗(アドバンテージ1勝を含む)で、日本シリーズを4勝3敗でそれぞれ制し、自身初の日本一となった。
中日監督時代より数多くの激しい抗議をしていたが、セ・リーグ審判員の谷博によればほとんどが選手に活を入れファンを盛り上げるための演技で、審判に断りを入れてから開始していたという。監督として中日(4回)、阪神(1回)、楽天(1回)合わせて6度の退場処分を受けているが、現役時代に退場になった事は1回も無い。たびたび起こしていた乱闘も「盛り上げ」の一種であり、旧知の山本が広島の監督を務めていた頃は、試合前に「チームが元気ないから一発やるか」と話し合うこともあったという[322]。
また、中日監督時代から先述の中村武志を初めとした高卒ルーキーの抜擢や若手の育成に定評がある[323]。特に星野監督時代に育成して実際に主力となった山本昌、中村武志、立浪和義、今中慎二は「(星野監督時代に活躍した)四兄弟」といわれることもある[324]。本人は自身が新人年から当時の監督であった水原により積極的に起用された経験が、立浪や福留らを新人年から積極的に起用し続けた自身の起用方針に影響したと語っている[84]。
監督時代は四球を出すことを嫌っており、先発した投手が四球を連発したりワンポイントなどで登板した投手が先頭打者に四球を出すと激怒することがあった[325][326]。これは星野が高校時代に四球を出すと監督から殴られた経験があったからだと思われる[327]。
山本昌は引退後、名球会の公式YouTubeチャンネルの動画で「偉大な監督」と前置きしながら「自分に甘く他人に厳しいワガママな人だと、すごく思いました」と評していた。同時に、殴られた選手は使われるということだという暗黙の了解が選手にはあったようであり、山本も星野に殴られたら次のチャンスがあると安堵していた。山本は「もし23、4歳の頃に戻ったら、1億円を貰っても星野監督の下ではやらない」と断言していた一方で、理不尽な時代から合理的な時代の過渡期を過ごして体力を培ったからこそ長く現役をやれたと感謝もしている[328]。
外国人選手の補強については「宝くじを買うようなもの」と話していた[329][330][331]。
中日監督就任後から、「病気は下半身の衰えからくる」として朝の散歩を始めるようになり、阪神監督就任後は自宅マンション近くを流れる芦屋川の堤を1 - 2時間歩くことを日課にしていたほか、沖縄キャンプ中も1時間歩いて球場入りしていたという[332]。
- 中日監督時代
- 第一次政権の就任直後、谷沢健一に引退を決意させた。元々選手時代から谷沢との確執があり(ただし、実態は星野が一方的に谷沢を嫌っていた)、谷沢を引退させたのも、その確執が背景にあったとされる[333]。
- 監督1年目の1987年に鈴木孝政が10勝目を狙って10月6日の阪神戦(甲子園)で先発し5回表終了時点で2-0とリードしていたが5回裏マウンドに行こうとしたが投手コーチの池田英俊から「代わるぞ。小松に最多勝を獲らせたい」と交代させられ米村明、近藤真一にも同様の事を行い小松が最多勝を獲得した[306]。
- 1987年にルーキーの近藤真一を先発に抜擢。近藤はプロ野球史上初となる初登板・初先発ノーヒットノーランを達成した[334]。結果的に現役生活は6年だったが、18歳11カ月での史上最年少記録で月間MVPを受賞した。翌年も8勝を記録してリーグ優勝に貢献した。
- 1988年にルーキーの立浪和義を遊撃手としてレギュラーに抜擢。立浪は開幕戦でも先発「2番・遊撃手」でフル出場(高卒新人としては球団史上唯一)させる[注 13]。当時は打撃に難があったものの、守備力を買い、打率.223と低調ながらも、辛抱強く起用し続け、レギュラーシーズン110試合出場、22盗塁、21犠打を記録し、リーグ優勝に貢献した。守備・走塁技術を高く評価されて新人王と高卒新人初のゴールデングラブ賞を受賞した。
- 山本昌は入団4年目まで一軍登板4試合、0勝だったが、入団5年目の1988年2月、業務提携していたロサンゼルス・ドジャースと同じベロビーチでキャンプを行い、若手選手5人と共に野球交換留学としてそのままアメリカに残ることになる[335]。実情は中日がドジャースとの交流関係を保つために選手を派遣する必要があり、その年の戦力にならない選手が選ばれていたが、星野は山本については「手足は長いし、体も大きい。本場アメリカの指導者ならこういう選手の扱いに慣れている分、うまくいくかもしれない」という一抹の期待を掛けられてのものだった[336]。山本はベロビーチで腐りかけていた野球への情熱を取り戻し、新たな球種「スクリューボール」を覚え、先発陣の柱に君臨、防御率1点台で1A のオールスターにも文句なしで選ばれた。帰国後に5勝を記録してリーグ優勝に貢献。その後43歳で200勝を達成したほか、最多奪三振、最優秀防御率、沢村賞など投手タイトルのほとんどを獲る大投手となった。
- 中村武志は1986年のシーズンオフにはフロントの整理対象選手に挙げられていたという。ドラフト1位選手でありながら高卒2年での戦力外に納得いかず、当時のバッテリーコーチの加藤安雄(倉敷商業高校、明治大学の後輩)に「壊れてもいいからとにかく練習させろ」と指示した。中村は2001年のシーズンオフに横浜に移籍するまで、10年以上にわたり長く中日の正捕手として活躍し、捕手として規定試合数出場し、盗塁阻止率5割以上を2度記録した数少ない選手となった。
- 西武とのトレードで獲得した小野和幸は1988年投の柱として活躍し、最多勝を獲得、同年のリーグ優勝に貢献。巨人とのトレードで加茂川重治と共に獲得した西本聖も小野同様、最多勝を獲得し、Bクラス転落を食い止めたことから、星野がトレードで獲得した選手は活躍することが多い[337]。
- 1999年はルーキーの福留孝介を積極的に先発に起用し、また福留も打率.284、16本塁打とこれによく応え、新人としては上々の成績を収めリーグ優勝に貢献した。しかし、三振数リーグ1位を記録するなど粗さも目立ち、加えて守備には難があった。9月4日の広島市民球場での広島戦、0-0で迎えた9回裏二死一・二塁の場面には左翼手の守備に就いていたが、フライ性の打球を落球。走者を返し、サヨナラ試合にした。この試合を始め、ペナントレースや日本シリーズでも敗因に繋がるミスが続出し、試合終盤は交代させられた。その後、福留はゴールデングラブ賞を4回受賞する球界屈指の外野手に成長した[338]。外野手に転向させ飛躍させたのは後任の山田久志である[339]。
- ファンからの「大豊、少しは打て!この給料泥棒!」というヤジに対して、ベンチで「その通りじゃ!」と叫んだ。
- 落合博満には、4対1のトレードを行ってまで獲得したように高い期待を持っていた一方で、その星野の期待に見合わない成績の際には激怒し、不仲となるなど、非常に関係の波が激しかった。1988年6月、スロースターターで打撃の調子の上がらない落合にミーティングで「落合! 何月だと思っとるんや!」と叱り飛ばしたこともある[340]。また別のある時には、当時のナゴヤ球場のベンチ裏にあった赤電話を落合が頻繁に使用していたのが気に入らず、その赤電話を破壊してしまった[341]。落合も星野や球団の態度には不満を募らせ、1989年1月には自主トレ先で「じゃあやめる」と退団・引退を示唆したほどだったが、これにはさすがの星野も宇野勝・鈴木孝政・小松辰雄の3人に説得を依頼し、落合が謝罪会見を開いたことで事態は収拾された[341]。
- 前述の近藤のほか、1988年に西武から移籍していきなり最多勝に輝き、同年のリーグ制覇に貢献した小野を始め、今中慎二、野口、上原晃や与田剛、森田幸一のように酷使によって好調を持続できず、結果的に故障等を発生させて選手生命が短命に終わるケースも目立った。
- 阪神監督時代
- 2002年の開幕戦、3-1で勝っていたが9回裏、松井秀喜の中前と清原和博の内野安打で無死一・二塁のピンチを迎える。先発でここまで投げてきた井川慶を交代させるべきか投手コーチの佐藤義則に相談されたが、星野は振り向きもせず「勝っとるんや。そのままいけっ」とマウンドに行こうともせず続投させた。井川は後続を抑えて完投勝利。206奪三振で最多奪三振のタイトルを獲得した。井川は翌年、リーグ最多の20勝を達成してリーグ優勝に貢献したほか、2005年以外毎年200イニングを投げ、5年連続2桁勝利を記録して日本を代表するエース投手となる。星野は「普通、ピッチャーはホームランを打たれると気後れが出てスピードが3、4キロ落ちるけどこの日の井川にはそれがなかった。4回に清原に一発を打たれても臆することなく、8回まではヒット1本だ。9回の松井のセンター前もポテンヒットだったし、清原のヒットも内野への当たり損ねや。ピンチだからってバタバタする必要はなかった」と振り返っている[342]。
- 2003年に金本知憲がFAで広島から移籍。春季キャンプ中、星野は事あるごとに金本・桧山進次郎・濱中治の3人の外野手の名を挙げ、俊足の外野手として頭角を現していたものの、前年度に骨折で3カ月以上欠場し、前半戦をほぼ棒に振っていた赤星憲広に対しては「赤星は控えで、代走要員」とコメント。キャンプにおいて赤星は必死に存在をアピールした[343]。実際には星野の構想の中で赤星の中堅手レギュラーは確定しており[343]、「赤星はガンガン言って、向かってこさせて伸びるタイプだから、あえてそういう発言をした」ものだった。赤星は5年連続盗塁王を獲得するなどリーグを代表する選手に成長した。
- 今岡誠は「とてもシビアでした。勝っていても6回で(遊撃の)藤本に久慈さんを入れ(二塁の)私のところに田中秀太を守備固めで使いました。スキを見せない。妥協しません。」[344]と述べている。
- 楽天監督時代
- 入団から4年間一軍出場がなかった銀次の才能を見抜き監督就任2年目の2012年からレギュラーとして起用するとこれ以降楽天の中心打者にまで成長した。
- 監督に就任した最初のドラフト会議で塩見貴洋(八戸大学)を1位指名。星野は指名した理由について「左ならこの子と目を付けていた」と明かし、大学時代から評価していた[345]。その塩見を1年目から先発として一軍で起用すると塩見は楽天球団の左投手としては初めて2011年に規定投球回に到達する活躍を見せた。
- 2013年に入団したアンドリュー・ジョーンズとケーシー・マギーに対してはメジャーでの実績に配慮した対応を見せた。マギーは最初、星野が怖かったと言い、来日前に調べると「闘将」の逸話ばかりだった。だが、3月に外国人選手だけの食事会に呼ばれると印象が大きく変わった。「『ミスター・ベースボール』の中日の監督は、星野監督がモデルなんですか?」と来日した大リーガーが主人公の映画について尋ねると星野監督は「そうだよ」と笑顔で答え、話が弾んだ。威厳に満ちた外面とは正反対の気さくな人柄に触れ、心酔するきっかけの1つとなった。ジョーンズとマギーの活躍もあり、楽天は2013年にリーグ初優勝と初の日本一に輝いた。マギーは2013年限りで退団し、翌年2014年はジョーンズはマギーの退団による他球団による徹底したマークの集中により打撃不振に陥ると4番から一時外すなど遠慮はしなかった。ジョーンズは安打数を上回る四死球を記録するなど選球眼の良さが目立ったが低打率により2015年以降の契約は更新されなかった。ジョーンズの退団と同時に星野も監督を辞任した。星野の死去後にジョーンズは「とても偉大な方。日本の野球のことも、文化のことも、星野監督に教えて頂きました。」、マギーは「野球界、そして世界が、星野さんがいなくなり少し後退してしまいました。星野さんには感謝の気持ちしかありません。私が地球上に生きている限り、星野さんも私の心の中で生き続けます。」とそれぞれ感謝のコメントを残した[346]。
人間関係
家族・親族
星野は「野球はオレの仕事であって、家族には関係ない」として、親しい記者に対しても妻子に関する取材を認めていなかった[347]。
両親・姉
仙一の父親である正田仙蔵[18]は1898年に兵庫県神戸市で生まれ、岡山県邑久郡長船町(のちの瀬戸内市)で育つ。もともとは大樫姓で、正田(まさだ)家の養子となった[19][20]。後に愛知県名古屋市に出て航空技術者となり[348]、三菱重工業名古屋航空機製作所(三菱自動車工業の前身)に勤めていた。1943年、当時の岡山県児島郡福田町水島に三菱重工業水島航空機製作所が開設されると工長に昇格し、家族そろって郷里の岡山県に戻り福田町に移り住んだ。仙一が誕生する約3か月前の1946年10月、脳腫瘍により48歳で亡くなっている[349]。なお福田町は1953年6月1日付で倉敷市に編入されている。
母親である星野敏子のルーツは尾張藩の藩医・浅野春道の次男である星野玄道(仙一の高祖父)が、1844年(弘化元年)に三河国幡豆郡饗庭村(愛知県幡豆郡吉良町饗庭を経て、現在の西尾市吉良町饗庭)の星野玄学の養子になったところまで判明している[350]。玄道は明治23年に71歳で死去しており、彼の墓は吉良町饗庭にある[350]。彼の孫であり、仙一の母方の祖父である星野嘉市は医業を継がず、豊橋に出た[350]。敏子は1912年に星野嘉市(玄道の孫にして浅野春道の曾孫)と彼の妻・まき夫婦の間に生まれ、豊橋で育つ。2歳のころに母・まきが病死し、父・嘉市とともに上京して浅草の紙問屋の娘となったが、関東大震災で損害を受けたため名古屋市に避難した[19][20]。名古屋市立第二高等女学校(名古屋市立向陽高等学校の前身の1つ)を出て、名古屋市内の病院で看護婦を勤め、1935年に敏子が勤務する病院に入院していた仙蔵と出会い結婚した(ただし、双方とも後継ぎだったため入籍はしていない)[19][20]。仙蔵が亡くなった後の敏子は、農家の手伝いなど力仕事を経て三菱重工水島工場(のちに三菱自動車水島工場)の寮母として働く傍ら、女手一つで仙一と2人の姉を育てた[351][352]。「最後に生まれた子供が(母方の)星野姓を継ぐ」という条件で結婚を認められたため、末っ子の仙一が星野姓を継ぐことになった[19][20]。敏子は仙一が唯一の男子であったことから逞しく育ってほしいという気持ちが強く躾は厳しく弱音も認めないほどだった。ただし暴れん坊ぶりを男らしいとも思っていたからか、やんちゃをしても叱ることはなかったという[87]。敏子は仙一がプロ入りする1969年まで寮母生活を続け、子供たち3人を全員大学へ進学させた[353]。敏子は仙一が阪神監督としてセ・リーグ優勝を決める2日前の2003年9月13日、肺炎のため、大阪府茨木市の病院で死去した(91歳没)[354]。仙一は敏子が亡くなった翌日の14日の対中日戦(ナゴヤドーム)では普段通り指揮を執り、試合後に大阪に帰り、府内で行われた通夜に出席したが、優勝決定日の15日午前に行われた告別式は欠席し、阪神甲子園球場で開催された対広島戦に臨んでいた[354]。なお、豊橋市に住む敏子の従兄弟は仙一が1986年に中日監督に就任した際、「中日ドラゴンズ東三河後援会」を結成し、同会が結成後から豊橋市民球場での中日主催試合開催を働きかけた結果、仙一が阪神監督に就任した2002年には豊橋で47年ぶりとなるプロ野球公式戦として中日対阪神戦が実現している[355]。仙一は中日監督時代、奥三河や渥美半島からのファンが来場しやすい豊橋での公式戦開催の必要性に理解を示していたという[356]。
仙一には2人の姉がおり、長姉の美和子は1987年4月時点で46歳、次姉の須恵子は同月時点で43歳であった[353]。2人は仙一と実の姉弟でありながら仙一とは姓が違い、結婚まで父方の正田姓を名乗っていた[19][20]。彼女たちは弟の仙一に対し、肉のおかずが出るとそれを分けてくれていたという[357]。美和子は岡山女子短期大学、須恵子は京都女子大学を卒業し[353]、2人とも幼稚園の保母になり[357]、美和子は1987年時点で幼稚園の園長になっていた[353]。なお須恵子の夫(仙一の義兄)である筒井一成(1941年9月23日 - )は一級建築士であり、1985年4月から前田建設工業株式会社大阪支店営業部長を務めていた[358]。筒井壮は須恵子と一成の間に生まれた三男であり[358]、仙一にとっては甥にあたる[359]。
妻
妻の星野 扶沙子(ほしの ふさこ[360]、旧姓:栗栖、1945年8月23日[76] - 1997年1月31日[11])は、戦前に駐独大使などを務めた外交官・来栖三郎の孫であり[361]、1969年12月時点で運輸省港湾局次長を務めていた栗栖義明(1969年11月当時52歳[注 14])の長女である[76][289]。広島県広島市出身[360]、慶應義塾大学文学部卒業で、父・義明、母・喜美江、弟(1969年11月時点で慶應義塾大学工学部2年生)、妹(同月時点で小学校5年生)との5人家族だった[76]。扶沙子は大学時代はテニス部に在籍しており、1969年10月時点で身長167 cm、体重56 kgと「均整のとれた健康的なお嬢さん」と評されていた[76]。また仙一曰く、性格は地味で素直だったという[76]。趣味は歌舞伎、お茶、お花で、レコードはクラシックが好きだったという[76]。
扶沙子は野球好きで、大学時代はよく明治神宮野球場に通っており、また良家の娘であることから性格は落ち着いてしっかりしていたという[76]。仙一との出会いのきっかけは1965年、大学2年生だった扶沙子が、知人から明治大学1年生だった仙一を紹介され、神宮球場まで彼に饅頭を差し入れたことであり[注 15]、仙一はプロ入りを機に扶沙子にプロポーズ[290]、プロ1年目の1969年6月中旬に婚約、シーズンオフの12月7日に高輪プリンスホテルで挙式した[76]。結婚式の媒酌人は島岡夫婦が務めた[289]。なお扶沙子の母親(後の仙一の義母)は扶沙子を出産する直前の1945年8月6日、広島市内で原爆で倒れた建物の下敷きになって被爆していた[363]。このため、仙一が扶沙子の実家へ結婚の挨拶に訪れた際、仙一は扶沙子の母親(後の義母)から「被爆しているから早死するかも知れない。それでもいいの」と問われたが、「それでも構いません」と言い切ったという[364]。扶沙子は『中日スポーツ』のインタビューに対し、仙一の物事にはっきりした、さっぱりした性格に惚れたと語っており、またもともとは巨人ファンだったが、結婚してからは仙一のいる中日を応援すると宣言していた[76]。
結婚後、仙一は扶沙子との間に2人の娘を儲けたが[365]、扶沙子は1990年夏に悪性リンパ腫と診断され、余命2年を宣告された[290]。それからは白血病との闘病生活を送り[366]、1997年1月31日、肺出血のため、愛知県愛知郡長久手町(現:長久手市)の愛知医科大学附属病院で死去した(51歳没)[360][367]。同年の正月には家族でオーストラリア旅行に出掛けるなど元気な様子を見せていたが、21日ごろに病状が悪化して再入院していたという[367]。
仙一は扶沙子の告別式で、喪主としての挨拶の際、評論家時代に東京への引っ越しを考えている旨を相談したが、「あなたは名古屋に育てられ、中日ファンに育てられてきました。決して動いてはなりません」と反対された話や、闘病中に娘たちに「ナゴヤドームでもう一度パパの胴上げを見て死にたいね」と語っていた話を挙げ、「妻は名古屋をこなよく愛し、私以上にドラゴンズを愛してくれた」と語っている[368]。扶沙子が亡くなった1997年1月31日は、中日の新本拠地であるナゴヤドームが初めて選手らに公開された日であり[290]、前年までの本拠地であったナゴヤ球場で開催された春季キャンプ(一次キャンプ)が始まる前日でもあった[369]。
仙一は1991年に中日監督を辞任してから1996年に復帰するまでの間、扶沙子を湯治に連れ出したり良い神社に拝みに行ったりしたが、病状は改善せず、扶沙子が亡くなる前年の1996年に「やりたいことをやってください」「もう一回、(仙一の)胴上げを見て死にたいね」という言葉を受け、監督に復帰することを決意した[290]。前述のように扶沙子が胎内被爆者だったことから、仙一は扶沙子の早世について被爆の影響を疑っており、「戦争の教訓を伝えることが人類の責任」として、2006年に公開されたドキュメンタリー映画『二重被爆』(監督:青木亮)の制作費2500万円の一部を援助している[363]。仙一は扶沙子の死後、初の優勝を達成した1999年に胴上げされた際、ユニフォームのポケットに扶沙子の写真を入れていた[290]。扶沙子の墓所は、仙一が中日監督時代に住んでいた名古屋の自宅から徒歩5、6分程度の平和公園にある[370]。墓石は小高い丘の上に建つ白御影石の墓石で、仙一が中日監督として2度目の優勝を達成した1999年時点では左半分に扶沙子の戒名が刻まれており、右半分は仙一の死後、彼の名を刻むために空けてあったという[290]。扶沙子の死後、1999年10月時点では仙一は次女と2人暮らしだったが[371]、次女も翌2000年に結婚し、家を出ている。
娘・孫
仙一と扶沙子の子供は1970年10月11日に誕生した長女[372]、1972年に誕生した次女の2人である[66]。仙一は2人目の娘(次女)が生まれた時に名古屋に家を買ったと語っている[373]。1979年時点で娘たちは2人とも名古屋市立富士見台小学校に通学していたが(当時は長女8歳、次女6歳)、仙一は同年、5勝目を挙げながら巨人戦で1勝もできていなかったころ、扶沙子から「あなたが投げて負けると、学校の男の子たちに『なんだ、お前のオヤジはだらしない!』って(長女)や(次女)がいじめられるらしい」と聞かされ、「娘たちのために命がけで投げて勝つしかない」と思ったという旨を述べている[374]。
娘2人は後に、三重県津市の医療法人総合病院「永井病院」の理事長・永井康興[注 16](整形外科医)の長男や次男(いずれも医師)と結婚した[378]。長女は24歳になっていた1995年3月26日、永井盛太(ながい もりたか、当時27歳)との結婚式を挙げ、この披露宴には仙一と親交があった田淵幸一や山本浩二らを含め、政財界、スポーツ界から440人が出席した[379]。長女の結婚相手は永井の長男であり[378]、次女も2000年11月に結婚したが[380]、その相手である星野康三は永井の次男にして、京都大学医学部附属病院循環器内科に勤務していた心臓疾患の専門医であり、2007年4月ごろに父が理事長を務める永井病院に加わっている[381]。2018年3月時点で永井盛太(当時49歳)は永井病院の理事長、星野康三(当時45歳)は同病院の院長をそれぞれ務めている[382]。なお永井の次男である康三は結婚後に改姓して星野姓を継いだが[381][377][383]、これは仙一の次女が結婚する際、結婚相手の両親から「星野家が途絶えるのは惜しい」との理由から、次女の夫を星野家の婿養子にすることを提案され、仙一もこれを受け入れたためである[267]。次女が星野姓に復姓したのは、仙一の2人目の孫である男児が誕生した直後の2003年1月のことである[384]。
結婚後に長女は仙一の孫である女児(2002年3月時点で1歳、2003年9月時点で3歳)を出産、次女も2002年12月に男児を出産している[384]。2003年9月時点では長女は三重県鳥羽市で暮らしていた一方、次女は同年8月15日、夫の仕事の都合でボストンに移住していた[384]。仙一は晩年、兵庫県芦屋市に家を建てた際、そこに孫たちが泊まりに来るための部屋を作っていたという[267]。
交友関係
野球関係では、中日時代の先輩にあたる板東英二、東京6大学時代の同学年生である田淵幸一・山本浩二(二人は法政大学)などとの親交が有名。北京オリンピック野球日本代表では田淵・山本がコーチとして入閣したほか、2010年に星野が楽天監督となった際には田淵をヘッドコーチに招聘した。田淵は「仙ちゃん」と呼んでいたが、阪神の監督、コーチの関係になって以降は「監督」と呼んでいた[206]。
歌手の小田和正とは現役時代から[385]30年来の友人で「仙ちゃん」、「和正」と呼ぶ仲で星野が楽天監督時代の2013年4月2日の本拠地開幕戦(対オリックス戦)では小田が始球式を務めたり[128]、笑っていいとも!のテレフォンショッキングでは小田からの紹介で1984年2月15日に出演した[386]。
元三井住友FG・日本郵政社長の西川善文、ファッションデザイナーのコシノヒロコと交友があった。星野の大阪後援会では西川が会長、コシノが副会長(婦人部部長)を務めていた[387]。
藤木幸夫と親交があり両者の間には以前不祥事で大洋を解雇された選手を藤木が星野に引き取ってもらい中日で現役復帰にこぎつけたというつながりがあった[388]。
愛知県あま市の寺院である瑞圓寺住職とは中日の選手・監督時代から親交が深かったことから、寺院本堂の新造に当たって建築委員長を引き受けたと伝わる[389]。瑞圓寺には星野の没後、供養の慰霊塔が建立された[389]。
詳細情報
年度別投手成績
| 年 度 | 球 団 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬 遠 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1969 | 中日 | 49 | 16 | 6 | 1 | 1 | 8 | 9 | -- | -- | .471 | 754 | 187.2 | 157 | 24 | 45 | 3 | 9 | 99 | 0 | 1 | 72 | 65 | 3.12 | 1.08 |
| 1970 | 41 | 24 | 6 | 1 | 0 | 10 | 14 | -- | -- | .417 | 835 | 205.0 | 172 | 19 | 63 | 4 | 4 | 146 | 3 | 0 | 90 | 83 | 3.64 | 1.15 | |
| 1971 | 35 | 6 | 0 | 0 | 0 | 9 | 5 | -- | -- | .643 | 419 | 103.2 | 99 | 11 | 20 | 2 | 1 | 72 | 0 | 0 | 46 | 40 | 3.47 | 1.15 | |
| 1972 | 48 | 0 | 0 | 0 | 0 | 9 | 8 | -- | -- | .529 | 404 | 98.2 | 71 | 12 | 39 | 9 | 5 | 70 | 1 | 0 | 33 | 22 | 2.01 | 1.11 | |
| 1973 | 44 | 15 | 7 | 1 | 3 | 16 | 11 | -- | -- | .593 | 676 | 166.0 | 134 | 16 | 55 | 9 | 3 | 96 | 2 | 1 | 57 | 56 | 3.04 | 1.14 | |
| 1974 | 49 | 17 | 7 | 1 | 1 | 15 | 9 | 10 | -- | .625 | 758 | 188.0 | 149 | 19 | 50 | 8 | 7 | 137 | 3 | 0 | 67 | 60 | 2.87 | 1.06 | |
| 1975 | 40 | 26 | 6 | 3 | 1 | 17 | 5 | 4 | -- | .773 | 883 | 217.2 | 208 | 20 | 48 | 9 | 11 | 112 | 2 | 0 | 71 | 67 | 2.77 | 1.18 | |
| 1976 | 20 | 20 | 6 | 3 | 1 | 10 | 6 | 0 | -- | .625 | 557 | 132.2 | 141 | 20 | 26 | 0 | 8 | 60 | 1 | 1 | 64 | 58 | 3.93 | 1.26 | |
| 1977 | 42 | 30 | 13 | 3 | 1 | 18 | 13 | 5 | -- | .581 | 1029 | 245.1 | 245 | 26 | 71 | 2 | 12 | 125 | 4 | 0 | 105 | 96 | 3.52 | 1.29 | |
| 1978 | 34 | 9 | 2 | 0 | 0 | 5 | 8 | 14 | -- | .385 | 404 | 92.0 | 106 | 10 | 36 | 6 | 2 | 47 | 0 | 0 | 55 | 50 | 4.89 | 1.54 | |
| 1979 | 28 | 25 | 4 | 1 | 0 | 10 | 7 | 0 | -- | .588 | 665 | 154.1 | 168 | 29 | 51 | 3 | 7 | 85 | 1 | 0 | 90 | 80 | 4.67 | 1.42 | |
| 1980 | 29 | 22 | 4 | 1 | 0 | 6 | 12 | 1 | -- | .333 | 573 | 129.2 | 143 | 25 | 44 | 3 | 6 | 70 | 2 | 1 | 79 | 73 | 5.07 | 1.44 | |
| 1981 | 23 | 23 | 4 | 0 | 0 | 10 | 9 | 0 | -- | .526 | 602 | 142.0 | 152 | 20 | 37 | 4 | 4 | 69 | 3 | 0 | 67 | 62 | 3.93 | 1.33 | |
| 1982 | 18 | 10 | 1 | 0 | 0 | 3 | 5 | 0 | -- | .375 | 303 | 66.0 | 77 | 15 | 21 | 0 | 3 | 37 | 0 | 0 | 43 | 39 | 5.32 | 1.48 | |
| 通算:14年 | 500 | 243 | 66 | 15 | 8 | 146 | 121 | 34 | -- | .547 | 8862 | 2128.2 | 2022 | 266 | 606 | 62 | 82 | 1225 | 22 | 4 | 939 | 851 | 3.60 | 1.23 | |
- 各年度の太字はリーグ最高
打撃成績
534打数134安打(.205)15本 59打点
年度別監督成績
| 年 度 | 球 団 | 順 位 | 試 合 | 勝 利 | 敗 戦 | 引 分 | 勝 率 | ゲ | ム 差 | 本 塁 打 | 打 率 | 防 御 率 | 年 齡 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1987 | 中日 | 2位 | 130 | 68 | 51 | 11 | .571 | 8.0 | 168 | .265 | 3.64 | 40歳 |
| 1988 | 1位 | 130 | 79 | 46 | 5 | .632 | (12.0) | 131 | .258 | 3.20 | 41歳 | |
| 1989 | 3位 | 130 | 68 | 59 | 3 | .535 | 15.5 | 149 | .256 | 3.68 | 42歳 | |
| 1990 | 4位 | 131 | 62 | 68 | 1 | .477 | 26.0 | 162 | .264 | 4.26 | 43歳 | |
| 1991 | 2位 | 131 | 71 | 59 | 1 | .546 | 3.0 | 178 | .262 | 3.59 | 44歳 | |
| 1996 | 2位 | 130 | 72 | 58 | 0 | .554 | 5.0 | 179 | .278 | 4.01 | 49歳 | |
| 1997 | 6位 | 136 | 59 | 76 | 1 | .437 | 24.0 | 115 | .243 | 4.33 | 50歳 | |
| 1998 | 2位 | 136 | 75 | 60 | 1 | .556 | 4.0 | 100 | .248 | 3.14 | 51歳 | |
| 1999 | 1位 | 135 | 81 | 54 | 0 | .600 | (6.0) | 120 | .263 | 3.39 | 52歳 | |
| 2000 | 2位 | 132 | 69 | 63 | 0 | .523 | 8.0 | 111 | .266 | 4.19 | 53歳 | |
| 2001 | 5位 | 140 | 62 | 74 | 4 | .456 | 15.0 | 98 | .253 | 3.48 | 54歳 | |
| 2002 | 阪神 | 4位 | 140 | 66 | 70 | 4 | .485 | 19.0 | 122 | .253 | 3.41 | 55歳 |
| 2003 | 1位 | 140 | 87 | 51 | 2 | .630 | (14.5) | 141 | .287 | 3.53 | 56歳 | |
| 2011 | 楽天 | 5位 | 144 | 66 | 71 | 7 | .482 | 23.5 | 53 | .245 | 2.85 | 64歳 |
| 2012 | 4位 | 144 | 67 | 67 | 10 | .500 | 7.5 | 52 | .252 | 2.99 | 65歳 | |
| 2013 | 1位 | 144 | 82 | 59 | 3 | .582 | (7.5) | 97 | .267 | 3.51 | 66歳 | |
| 2014 | 6位 | 104 | 47 | 57 | 0 | .451 | 17.0 | 78 | .255 | 3.97 | 67歳 | |
| 通算:17年 | 2277 | 1181 | 1043 | 53 | .531 | Aクラス10回、Bクラス7回 | ||||||
- 2000年、出場停止5日間の3試合(1勝2敗)は通算成績に含まない(監督代行は島野育夫)
- 1987年から1996年は130試合制、1997年から2000年は135試合制(引き分けは再試合)、2001年から2004年は140試合制、2007年から144試合制
- 太字は日本一
- 優勝年のゲーム差は2位とのゲーム差
- 2014年、病気療養期間59日間の40試合(17勝23敗)は通算成績に含まない(監督代行は佐藤義則→大久保博元)
- ポストシーズン
| 年度 | 球団 | 大会名 | 対戦相手 | 勝敗 |
|---|---|---|---|---|
| 1988 | 中日 | 日本シリーズ | 西武ライオンズ (パ・リーグ1位) | 1勝4敗=敗退 |
| 1999 | 日本シリーズ | 福岡ダイエーホークス (パ・リーグ1位) | 1勝4敗=敗退 | |
| 2003 | 阪神 | 日本シリーズ | 福岡ダイエーホークス (パ・リーグ1位) | 3勝4敗=敗退 |
| 2013 | 楽天 | パ・リーグ クライマックスシリーズ ファイナルステージ(※1) | 千葉ロッテマリーンズ (パ・リーグ3位) | 4勝1敗=日本シリーズ進出(※2) |
| 日本シリーズ | 読売ジャイアンツ (セ・リーグ1位) | 4勝3敗=日本一 |
- 勝敗の太字は勝利したシリーズ
- ※1 クライマックスシリーズファイナルステージは6試合制で先に4勝したチームの優勝、リーグ優勝チームに1勝のアドバンテージ
- ※2 アドバンテージの1勝を含む
- オリンピックにおける野球競技
2008年に行われた北京オリンピック野球競技では、監督として日本代表を指揮した。
| 年度 | 大会名 | チーム名 | 勝敗 |
|---|---|---|---|
| 2008年 | 北京オリンピック | 日本代表 | 4位 |
タイトル
表彰
記録
- 初記録
- 初登板・初先発:1969年4月13日、対広島東洋カープ3回戦(広島市民球場)、2回3失点で敗戦投手
- 初勝利・初先発勝利:1969年5月5日、対広島東洋カープ6回戦(福井県営球場)、6回2/3を1失点
- 初奪三振:同上、1回裏に山本浩司から
- 初完投:1969年5月22日、対大洋ホエールズ9回戦(川崎球場)、8回3失点で敗戦投手
- 初完投勝利:1969年9月3日、対広島東洋カープ20回戦(中日スタヂアム)、9回2失点
- 初完封勝利:1969年9月14日、対アトムズ24回戦(中日スタヂアム)
- 初セーブ:1974年4月22日、対読売ジャイアンツ2回戦(後楽園球場)、8回裏2死に2番手として救援登板・完了、1回1/3を無失点
- 節目の記録
- 100勝:1977年7月8日、対阪神タイガース12回戦(ナゴヤ球場)、9回3失点完投勝利 ※史上69人目
- 1000奪三振:1979年6月26日、対阪神タイガース13回戦(阪神甲子園球場)、1回裏にマイク・ラインバックから ※史上57人目
- 500試合登板:1982年10月12日、対阪神タイガース26回戦(ナゴヤ球場)、8回表に6番手で救援登板、1回3失点 ※史上50人目
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:6回(1969年、1974年 - 1976年、1979年、1981年)
- 1球敗戦投手:1978年9月19日、対ヤクルトスワローズ20回戦(草薙球場)、9回裏に大杉勝男にサヨナラ本塁打を被弾し敗戦 ※史上7人目
背番号
- 22(1969年 - 1970年)
- 20(1971年 - 1982年)
- 77(1987年 - 1991年、1996年 - 2003年、2011年 - 2014年)
星野仙一記念館
出演
テレビ番組
- プロ野球中継(解説)
- NHKプロ野球(NHK総合orBS1)
- CBCテレビプロ野球中継(CBC客員解説者だった1992年に出演)
- 元気を日本に 日本プロ野球(日本テレビ系列。『1球の緊張感 THE LIVE』時代の2004年から2010年までの間、不定期で出演[392][393])
- サンデースポーツスペシャル(NHK総合。1985年4月の開始から1986年11月まで司会者として出演し、2015年4月はマンスリーキャスターとして出演)
- サンデードラゴンズ(CBC客員解説者の1992年に出演、中日監督時代も出演したことがある)
- NHK特集(NHK総合)
- 「監督~星野仙一のチーム改造~」(1987年3月30日)
- 「勝利へのさい配~ベンチの中日・星野監督~」[394](1988年10月9日)
- にんげんマップ(NHK総合) - キャスター
- NHKスペシャル(NHK総合)
- 「阪神を変えた男〜星野監督・改革の舞台裏〜」(2003年9月20日)※死去後の2018年1月11日『BS特集』にて初の再放送。
- 「監督 星野仙一 知られざる戦略〜北京五輪への道〜」(2007年12月8日)[395]。
- 「東北楽天 被災地に誓った初優勝」(2013年10月2日)
- 第54回NHK紅白歌合戦(NHK総合・ラジオ第1、2003年12月31日) - 審査員
- NHK人間講座(NHK教育、2004年8月 - 9月期) - 月曜枠に於いて、「人を動かす 組織を動かす」をテーマに講師を務める。
- BS特集「大リーグを復活させた男たち~星野仙一・アメリカ野球紀行~」(NHK BS1、2005年7月9日)
- 課外授業 ようこそ先輩(NHK総合、2005年1月30日)
- 居酒屋の星野仙一(NHK BS2)ゲスト、篠田正浩、小沢征爾、山本寛斎、小田和正、渡辺謙。小田の回は大豊泰昭が経営する台湾料理店で収録した。
- 東北を熱く 星野監督 4年間を語る(NHK仙台、2014年10月7日)
- ファミリーヒストリー(NHK総合、2015年5月22日、6月5日)※死去後の2018年1月10日に初の再放送。[396]
- NEWS ZERO(日本テレビ系列)- 2006年の番組開始から楽天監督就任までは、スペシャルキャスターとして不定期で出演。監督就任後も、プロ野球シーズンには、スポーツコーナーで試合終了後のコメントを「闘将、語る。Hoshino Voice」とのタイトルで放送することがあった。
- 世界に誇る50人の日本人 成功の遺伝史(日本テレビ、2013年12月30日)- スペシャルゲスト
- 明石家ジャパン(朝日放送テレビ・テレビ朝日系列)
- 徹子の部屋(テレビ朝日系列、2010年1月8日[397]他)
- SMAP×SMAP(関西テレビ・フジテレビ系列、2003年12月29日)-「ビストロSMAP」ゲスト
- ボクらの時代(フジテレビ、2017年9月3日)-「星野仙一×ビートたけし×松尾雄治」の対談。三人の母校である明治大学の駿河台キャンパスで行われた。
- 日経スペシャル カンブリア宮殿 「強いリーダーとは?“カミナリ親父”星野仙一が吠える!」(テレビ東京系列、2008年4月7日)- 出演時、野球日本代表監督[398]。
他多数
ラジオ番組
- プロ野球中継(解説)
- NHKプロ野球(NHKラジオ第1)
- CBCラジオナイター(CBCラジオ。CBC客員解説者だった1992年に出演)
- 星野仙一の熱血・仙一夜(MBSラジオ。パーソナリティ)
- ドラ魂KING(CBCラジオ)2017年12月12日にゲスト出演。生前最後のラジオ生出演となった[399]。
CM
- キリンビール「でらうま」
- 日刊スポーツ
- 上新電機
- NTT「フレンティア」
- 永田屋仏壇店(1982年)- 木俣達彦と共演、共に声の出演のみ
- ゼブラ「SHARBO」(1983年 - 1987年)
- ラグラックス信和(1984年 - 1995年)
- 松下電器産業「ディスクロード」(1984年 - 1987年)
- ハウス食品
- 日清製油「サラダ油セット」(1984年)
- 大京観光「ライオンズマンション」(1984年 - 1987年)
- 月星化成「MR.BROWN」(1985年)
- 日本航空「福岡=名古屋線就航」(1985年)
- 郵政省「レタックス」(1986年)
- 愛知県知事選(1987年)
- フィリップス「シェーバー」(1988年 - 1990年)
- 公共広告機構
- 駐車違反をなくそう(1988年 - 1989年)
- 骨髄バンク(2004年 - 2005年)
- 第一製薬「センロック」(1989年 - 1991年)[400]
- 東京中日スポーツ(1996年)
- 佐鳴予備校(1997年 - 2011年)
- 日本メディアシステム(2000年)
- 岡山県(2003年)
- キリンビバレッジ「FIRE」(2004年 - 2005年)
- アメリカンホーム保険「ザ・おとなの医療保険」(2004年 - 2008年)
- 大和証券(2004年)
- 中日本高速道路「名神リフレッシュ工事」(2004年)
- 佐藤製薬「ストナ」(2004年 - 2010年)
- セントラル警備保障(2007年 - 2018年)[401]
- 内閣府「ストップ! いじめ」(2007年)
- イオン「星野レポート」(2007年 - 2008年)
- 新日本石油(2007年 - 2008年)
- 関西電力(2008年 - 2011年)
- さくら不動産「セレッソコート」(2008年)
書籍
著書
単著
- 『星野仙一の巨人軍と面白く戦う本』(1983年4月1日、文藝春秋)ISBN 978-4163380209
- 『星野仙一のすばらしき野球野郎』(1983年7月1日、日刊スポーツ出版社)ISBN 978-4817200662
- 『野球スペシャル』(1986年7月15日、文藝春秋)ISBN 9784163407401
- 『燃えて勝つ 我れ再び巨人と闘わん』(1987年2月17日、実業之日本社)ISBN 4408130826
- 『星野仙一のインターネット熱闘譜』(1996年11月30日、ごま書房)ISBN 9784341081287
- 『燃えた、信じた、勝った! '99・V奪回までの「炎のことば」全記録』(1999年11月20日、東京新聞出版局)ISBN 4808306921
- 『ハードプレイ・ハード 勝利への道』(2000年3月10日第1刷、文藝春秋)ISBN 9784163560304
- 『勝利への道』(2002年4月8日、文藝春秋 文春文庫)ISBN 9784167656348 - 前出の『ハードプレイ・ハード 勝利への道』の文庫化及び一部改定版
- 『迷ったときは、前に出ろ! タイガース再生への道、険しくとも』(2002年10月15日、主婦と生活社)ISBN 9784391126938 - 星野仙一:語り下ろし
- 『迷ったときは、前に出ろ! 新装版』(2008年3月23日、青志社)ISBN 9784903853239 - 星野仙一:語り下ろし
- 『星野仙一闘将日記』(2003年9月30日、実業之日本社)ISBN 9784408395371
- 『完全燃焼:闘将日記完結編』(2003年11月19日、実業之日本社)ISBN 9784408395463
- 『夢 命を懸けたV達成への647日』(2003年10月3日、角川書店)ISBN 978-4-0488-3851-1
- 『星野仙一勇退記念カード「夢」』(2004年1月29日、ベースボール・マガジン社)ISBN 9784583042183
- 『人を動かす組織を動かす』(2004年7月、NHK人間講座、NHK出版)
- 『シンプル・リーダー論 命を懸けたV達成への647日』(2005年4月7日、文藝春秋 文春文庫)ISBN 9784167679453
- 『やるだけやったら、それでいい。 愛と勇気のリーダー語録』(2007年3月2日、PHP研究所)ISBN 9784569690254
- 『星野流』(2007年11月8日、世界文化社)ISBN 9784418076024 - 内容の大半が『ハードプレイ・ハード―勝利への道』と重複。
- 『星野流 改訂版』(2011年2月15日、世界文化社)ISBN 9784418116003
共著・編著
- 『闘将・星野 ドラゴンズV1五つの秘密』(共著者:中日番記者グループ)(1988年10月20日、未来出版)ISBN 9784943901198
- 『人を動かす人を活かす』(共著者:山本七平)(1989年2月10日、かんき出版)ISBN 4761252545
- 『こころのキャッチボール 星野仙一「夢」対談』(編著:星野仙一)(1993年10月20日、エフエー出版)ISBN 9784872080490
- 『選手たちよくやった!』(共著者:NHK衛星ハイビジョン局「星野仙一」取材班)(2003年10月25日、日本放送出版協会)ISBN 9784140808238
関連書籍
- 『炎の監督星野仙一ハイライト おれがVを決める!』(著者:野球ペンの会)(1987年3月1日、すばる書房)ISBN 9784882520238
- 『星野が燃える』(著者:竹内正毅)(1987年3月25日、池田書店)ISBN 9784262143729
- 『吠えろ仙一 燃える男・星野仙一へのラブコール』(著者:佐藤有一)(1987年4月1日、有朋社)ISBN 9784946376146
- 『監督室 星野仙一、愛とゲンコツのメッセージ』(著者:越智正典)(1988年2月25日、総合エンタープライズ)ISBN 9784915703003
- 『栄光のドラゴンズ元年 星野新聞優勝記念号』(著者:梅田香子)(1988年10月1日、河出映像センター)ISBN 9784309900469
- 『星野仙一 魅力ある男だけが生き残る 新しい時代の管理学』(著者:星野番記者グループ)(1988年10月20日、学習研究社)ISBN 9784051031046
- 『ドラキチ貞花のドラタイムズ「星野バンザイ!!」号』(著者:一龍斎貞花)(1988年11月10日、JICC出版局)ISBN 9784880634692
- 『その気にさせる星野監督術 ミラクル野球が10倍わかる本』(著者:江本孟紀)(1988年11月10日、ニッポン放送出版)ISBN 9784594003609
- 『監督論 星野仙一の戦略と戦術』(著者:玉木正之)(1988年11月16日、ネスコ)ISBN 9784890367498
- 『星野の時代 魅力のリーダー星野仙一の実戦勝利術』(編者:オフィス・ヒット)(1988年12月25日、GAKU PUBLISHER)ISBN 9784847010675
- 『星野仙一流「燃える集団」のつくり方 何が組織と人の意識を変革させるか』(著者:野見山茂)(1989年2月10日、こう書房)ISBN 9784769603283
- 『やるぜ!星野ドラゴンズ』(著者:児玉光雄)(1990年4月26日、講談社)ISBN 9784062034647
- 『一流の瞬間 星野仙一・落合博満・千代の富士』(著者:岩元晢)(1993年2月8日、エフエー出版)ISBN 9784872080377
- 『熱将 星野仙一』(著者:戸部良也)(2000年4月27日、KTC中央出版)ISBN 9784877581718
- 『星野仙一のファイトが出る発言録 その熱き血と統率力の研究』(著者:後藤寿一)(2002年4月30日、アートブック本の森/コアラブックス)ISBN 9784876938605
- 『星野仙一 猛虎革命』(著者:田尾安志)(2002年5月1日、小学館 小学館文庫)ISBN 9784094023176
- 『星野仙一 蘇る猛虎魂 “打倒巨人"を誓った二つの血脈』(著者:北岡士典)(2002年5月1日、ベストセラーズ)ISBN 9784584186725
- 『星野仙一「気」の管理術』(著者:南吾郎)(2002年6月10日、ラインブックス)ISBN 9784898091005
- 『星野仙一「戦い」の方程式 「今いちばん期待される男」のリーダー学』(著者:永谷脩)(2002年6月30日、三笠書房 王様文庫)ISBN 9784837961345
- 『星野式「悪」の処世術』(著者:江本孟紀)(2002年7月15日、飛鳥新社)ISBN 9784870315143
- 『星野仙一に学ぶ部下覚醒の心理学 「やる気」と「自信」を育てるリーダー論』(著者:児玉光雄)(2002年8月20日、河出書房新社)ISBN 9784309014869
- 『月刊 星野仙一』(著者:マガジン・マガジン)(2002年9月12日、マガジン・マガジン)ISBN 9784896445121
- 『勝利護身の神 星野仙一』(著者:伊藤和雄 咲本淳一)(2003年2月15日、文芸社)ISBN 9784835552729
- 『星野仙一 炎の監督術』(著者:高田実彦)(2003年4月10日、プレジデント社)ISBN 9784833417785
- 『猛虎万歳 星野阪神物語』(著者:朝吹颯)(2003年7月25日、ラインブックス)ISBN 9784898091302
- 『優勝へ!星野阪神「大躍進の秘密」』(著者:田尾安志)(2003年8月1日、小学館 小学館文庫)ISBN 9784094023183
- 『星野仙一の「GM型」常勝革命』(著者:豊田泰光)(2003年8月22日、講談社)ISBN 9784062120739
- 『星野仙一猛虎録』(編者:タイガース名言編纂会)(2003年9月18日、ベストセラーズ)ISBN 9784584187760
- 『阪神優勝 星野仙一タイガース語録 熱き魂と統率力の研究』(著者:後藤寿一)(2003年9月30日、アートブック本の森/コアラブックス)ISBN 9784876939770
- 『「勝った!勝った!!勝ったんや!!!」 阪神優勝闘将星野後半戦56試合全猛語録』(著者:ランディ掛布)(2003年10月4日、竹書房)ISBN 9784812413821
- 『星野阪神の深層 知られざる637日』(著者:江尻良文)(2003年10月16日、東邦出版)ISBN 9784809403347
- 『星野仙一の悪を活かす人づくり 「団塊の世代」1000万人への熱きエール』(著者:永谷脩)(2003年10月25日、二見書房)ISBN 9784576031781
- 『デイリー女性記者 猛虎に密着す! 星野阪神Vの軌跡』(著者:船曳陽子)(2003年10月26日、大和出版)ISBN 9784804761022
- 『星野仙一勝ちたいんやッ 「七つの顔を持つ男」はこうしてダメ虎を甦らせた』(著者:大下英治)(2003年10月31日、徳間書店)ISBN 9784198617493
- 『拝啓 星野仙一殿(10) あなたはみごとに20世紀野球を超えた』(著者:鈴木民二 伊東千晶 阪神タイガース研究会)(2003年11月30日、新風書房)ISBN 9784882695387
- 『星野仙一 決断のリーダー論』(著者:島村俊治)(2004年2月10日、ゴマブックス)ISBN 9784777100217
- 『星野仙一 決断のリーダー論』(著者:島村俊治)(2008年4月10日、ゴマブックス ゴマ文庫)ISBN 9784777150496
- 『勝ちたいんや! 劇画・星野仙一物語』(作:小池一夫、画:川崎のぼる)(2004年7月6日、小池書院)ISBN 9784883158812
- 『われら星野党 星野仙一・夢に向かう道のり』(著者:西中和光)(2005年11月30日、彩流社)ISBN 9784779111303
- 『野村・星野・岡田 復活の方程式 阪神タイガースを変えた男たち』(著者:永谷脩)(2005年12月30日、イースト・プレス)ISBN 9784872576238
- 『こんな上司となら仕事がしたい 星野仙一が「理想の上司」と言われる理由』(著者:児玉光雄)(2007年9月25日、河出書房新社 KAWADE夢新書)ISBN 9784309503349
- 『星野仙一 「世界一」への方程式 トップを目指し続ける男の「頭の使い方」』(著者:永谷脩)(2008年5月2日、イースト・プレス)ISBN 9784872579192
- 『もしホシノさんがもう一度ドラゴンズの監督になったら ファン・OBが語るプロ野球チーム改革論』(編者:マイナビ新書編集部)(2011年11月26日、マイナビ マイナビ新書)ISBN 9784839940133
- 『一流コーチのコトバ 星野仙一、ザッケローニ、浅田真央、エディー・ジョーンズらの至言 「リーダーに大事なことはブレないこと」』(著者:松瀬学)(2014年3月14日、プレジデント社)ISBN 9784833420778
- 『星野仙一にみる名将の条件』(著者:江本孟紀)(2014年4月3日、双葉社 双葉新書)ISBN 9784575154368
- 『ONの“メッセージ" NHK『サンデースポーツ』司会:星野仙一「長嶋茂雄×王貞治 対談」完全版』(著者:ぴあ)(2015年9月1日、ぴあ)ISBN 9784835628493
- 『星野仙一「闘い」の方程式 トップを目指し続けた男の「人生哲学」』(著者:永谷脩)(2018年2月1日、イースト・プレス 文庫ぎんが堂)ISBN 9784781671659
- 『星野仙一 決断のリーダー論』(著者:島村俊治)(2018年2月3日、ゴマブックス)ISBN 978-4777100217
- 『僕しか知らない星野仙一』(著者:江本孟紀)(2018年3月22日、カンゼン)ISBN 9784862554628
関連情報
野球以外での表彰
- ファッション関連
- 日本メガネベストドレッサー賞(スポーツ界部門:1993年)
- ベストドレッサー賞 (スポーツ・芸能部門:2003年)
- その他
VHS
- 『猛虎復活-闘将・星野仙一のチーム改革-』(2003年8月27日、NHKエンターブライズ) NSVA-7349
DVD
- 『猛虎復活-闘将・星野仙一のチーム改革-』(2003年9月12日、NHKソフトウェア) NSDS-7350
- 『星野仙一物語~亡き妻へ贈る言葉』(2005年9月25日、TBS(GPミュージアムソフト) DMSM6334
- 『星野仙一物語~亡き妻へ贈る言葉』(2018年7月27日、TBS(TCエンタテインメント) TCED4082
- 『星野仙一物語 泣くなセン! 燃える男』(2005年9月25日、TBS(GPミュージアムソフト) DMSM6336
- 『星野仙一物語 泣くなセン! 燃える男』(2005年9月25日、TBS(TCエンタテインメント) TCED4083
- 『星野仙一物語 ~夢のかじりかけ~』(2006年7月5日、ユニバーサルミュージック) POBD60025
ディスコグラフィ
星野仙一役を演じた俳優・声優
ドラマ
- 東幹久:『泣くなセン!燃える男 星野仙一物語』(1988年12月31日、TBS系)
- 石橋貴明:『星野仙一物語 〜亡き妻へ贈る言葉』(2005年1月2日、TBS系)
アニメ
- 土師孝也:『勝利投手』
- 大塚明夫:『ミラクルジャイアンツ童夢くん』
