太宗 (唐)
唐朝の2代皇帝、李淵の次男
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太宗(たいそう)は、唐朝の第2代皇帝。諱は世民(せいみん)。高祖李淵の次男で、李淵と共に唐の創建者とされる。隋末の混乱期に李淵と共に太原で挙兵し、長安を都と定めて唐を建国した。太宗は主に軍を率いて各地を転戦して群雄を平定し、626年にクーデター(玄武門の変)を起こして李建成ら兄弟を誅殺、父より譲位されて帝位に即き、群雄勢力を平定して天下を統一した。
優れた政治力を見せ、広い人材登用で官制を整えるなど諸制度を整えて唐朝の基盤を確立し、貞観の治と呼ばれる太平の世を築いた。対外的には、東突厥を撃破して西北の遊牧民の首長から天可汗の称号を贈られた[4]。騎兵戦術を使った武力において卓越し、文治にも力を入れるなど文武の徳を備え、中国史上有数の名君の一人と称えられる[5]。
生涯
若年期の経歴
太宗は唐の高祖李淵の次男である。生母は太穆順聖皇后竇氏である。隋の開皇18年(598年)12月戊午、武功の別館で生まれた。このとき二匹の龍が館の門外で遊び、三日後に去ったという。李淵が岐州にいたとき、太宗はまだ4歳であった。ある書生が人相見に長けていると自称して李淵に謁見し、「あなたは貴人であり、しかも貴い子がいる」と言った。太宗を見るとまた、「龍鳳の姿、天庭日角の儀表があり、二十歳に近づけば必ず世を済い民を安んじるであろう」と言った。李淵はこの言葉が漏れるのを恐れ、人を遣わして追い殺そうとしたが、書生は忽然と行方をくらました。そこで「済世安民」の義を取って世民と名付けた。世民は幼い頃から聡明で知恵があり、見識は遠大で、事に臨んで果断であり、細かい節にこだわらず、当時の人々は彼を測り知れない人物だと感じた[6][7]。
大業末年、隋の煬帝が突厥によって雁門で包囲されたとき、李世民は時に16歳で、救援に志願して屯衛将軍雲定興の軍に属した。彼は旗や太鼓を多く携えて疑兵を設けるよう進言し、「始畢可汗は全国の兵をもって天子を包囲しており、隋朝が急に援軍を出せないと思い込んでいるに違いない。もし軍を数十里に広げ、旌旗を連綿と続かせ、夜間に鉦や太鼓を応答させれば、敵は援軍が雲集したと思って風を見て逃げ去るだろう。そうでなければ敵は多く味方は少なく、防ぎきれない」と述べた。雲定興はその計に従い、軍が崞県に進むと、突厥の偵察騎兵は果たして「官軍大至」と始畢可汗に急報し、突厥はついに包囲を解いて退いた[6][7]。
李淵が太原を鎮守していたとき、世民は18歳であった。高陽の賊帥魏刀児が「歴山飛」と号して太原に攻め寄せ、李淵が深く賊陣に入って包囲されると、世民は精鋭騎兵を率いて包囲を突破して突入し、弓を引いて射かけ、向かうところ敵なしで、万軍の中から李淵を救出した。このとき隋朝の国運はまさに尽きようとしており、世民は密かに挙兵を図り、常に謙虚に士に接し、財を散じて客を養ったため、豪強や大侠で彼のために命を投げ出そうとしない者はいなかった。また晋陽県令の劉文静と親しく交わった。劉文静は李密の事件に連座して獄に入れられていたため、世民は夜に獄中に入って彼と共に大事を議した[8][9]。
晋陽起兵
義軍が起兵した後、世民は兵を率いて西河を攻め取り、一挙に攻略して、右領大都督に任じられ、右三軍はすべてその節制を受けることとなり、燉煌郡公に封じられた。大軍は西進して賈胡堡に至った。隋将宋老生は二万の精兵を率いて霍邑に駐屯し、義軍を拒んだ。時に長雨が続いて食糧が尽き、李淵は裴寂と相談し、ひとまず太原に退いて後の挙兵を図ろうとした。世民は進言して言った。「大義を興したのは本来百姓を救うためであり、まず咸陽に入って天下に号令すべきです。小敵に遇って軍を返せば、義挙に従う者たちが一朝に離散する恐れがあります。太原の一城を守るのは、盗賊の所業にすぎず、どうして自らを保てましょうか」と。李淵は聞き入れず、なおも退兵を促した。世民は帳外で号泣し、その声は帳中にまで聞こえた。李淵が召して理由を問うと、世民は答えた。「退兵すれば義衆は前に散り、敵軍は後ろから乗じ、死は瞬く間に至ります。それゆえ悲しみ泣いたのです」と。李淵はここに至って悟り、撤軍を止めた[10][9]。
八月己卯、雨がやみ、李淵は軍を率いて霍邑に直行した。世民は宋老生が城に拠って出てこないことを心配し、数騎を率いて城下に至り、鞭を挙げて指揮し、城を囲む様子を見せて相手を怒らせようとした。宋老生は果たして怒って兵を率いて出城し、城を背に陣を布いた。李淵と李建成は城東に陣を布き、世民は柴紹とともに城南に陣を布いた。宋老生は軍を振るって猛攻し、李淵・李建成の軍は退却し、建成は落馬した。世民は南原から二騎を率いて高坂を駆け下り、宋老生の軍陣を突き破り、兵を率いて奮撃すると、賊軍は大敗した。宋老生は綱を引いて城に攀じ登ろうとしたが、追兵に斬り殺され、霍邑はここに平定された[10][9]。
軍が河東に至ると、関中の豪傑たちは争って帰順してきた。世民は軍を進めて入関し、永豊倉を奪って貧民を救済し、群盗を収めて慰撫して京師を図るよう請い、李淵は善しとした。世民は前軍を率いて黄河を渡り、まず渭北を平定すると、三輔の官民や豪強で軍門に至って協力を願う者は日ごとに千を数え、老人を扶け幼児を携えて軍営は満ちあふれた。彼は英雄豪傑を迎え入れて幕僚とし、遠近から風を聞いて集まる者が続出した。大軍は涇陽に進駐し、精兵九万を擁するに至り、胡賊の劉鷂子を撃破してその衆を併合した。また自ら司竹に赴くと、賊帥の李仲文・何潘仁・向善志らがみな来会して阿城に駐屯し、兵十三万を得た。長安の父老が牛や酒を引いて営門に来り軍を労う者は数えきれず、世民は好言をもって労ったが一切受け取らず、軍令は厳粛で、秋毫も犯さなかった[11]。
まもなく大軍とともに京師を平定した。李淵が輔政すると、世民を唐国内史に任じ、秦国公に改封した。折しも薛挙が十万の精兵を率いて渭水に迫ったため、世民は自ら出撃して大いにこれを破り、追撃して斬首一万余級を数え、隴坻に至るまで地を攻略した。義寧元年(617年)十二月、世民は再び右元帥となり、兵十万を統べて東都洛陽を攻めたが、攻略できないまま帰還した。彼は敵軍が必ず追ってくると予測し、三王陵に三つの伏兵を設けた。隋将段達が一万余人を率いて追ってきたが、伏兵が一斉に起こり、段達は大敗した。そこで宜陽・新安に熊・穀の二州を設置し、兵を留めて鎮守させて帰還し、趙国公に改封された。李淵が禅譲を受けて帝位に即くと、世民を尚書令・右武候大将軍に任じ、秦王に進封し、雍州牧を加授した[12]。
薛仁杲の討滅
武徳元年(618年)七月、薛挙が涇州に侵攻し、世民は軍を率いて討伐したが、戦いは不利で帰還した。九月、薛挙が死去し、子の薛仁杲が後を継いだ。世民は再び元帥に任じられて進撃し、薛仁杲と折墌城で対峙し、深い塹壕と高い塁を築いて六十余日を過ごした。賊軍は十余万で、兵鋒は甚だ鋭く、たびたび挑戦したが、世民は軍を動かさずにその鋭気を挫いた。賊軍の食糧が尽き、その将の牟君才・梁胡郎が来降した。世民は諸将に言った。「敵軍の士気はすでに衰えている。出撃すべきである。」そこで将軍の龐玉に命じて浅水原の南に陣を布かせて敵を誘わせた。賊将の宗羅睺は全兵力を集中して攻めかかり、龐玉はほとんど支えきれなかった。世民は自ら大軍を率いて意表をついて北原から殺到し、また数十騎の精鋭騎兵を率いて敵陣に突入し、官軍は内外から挟撃した。宗羅睺は大敗し、斬首は数千級、渓谷に落ちて死ぬ者は数えきれなかった[13]。
世民は二十余騎を率いて勝ちに乗じて追撃し、一直線に折墌城下に至った。薛仁杲は大いに恐れ、城に拠って自守した。夕方、大軍が続々と到着し、四方から包囲した。翌朝早く、薛仁杲は降伏を請い、精兵一万余人、男女五万口を捕虜とした。戦後、諸将が教えを請うた。「大王は野戦で賊軍を破られましたが、賊主はなお堅城に拠っており、大王には攻城の器具もなく、軽騎で追撃して歩兵を待たずに城下に迫られました。我々は攻略は難しいと疑っておりましたが、結局攻め落とせたのはなぜでしょうか。」世民は説明した。「これは権変の道をもって敵を追い詰め、その計略を施す余地を与えなかったのだ。宗羅睺は往年の勝利をたのみ、また長く鋭気を養い、我が軍が出ないのを見て軽敵の心を生じていた。我が軍が出撃すればまさにその意にかなうため、全兵力を集中して戦いを挑んできた。敗れたとはいえ、殺傷・捕虜はまだ少なかった。もし急追せず、彼を城に逃げ込ませれば、薛仁杲が残兵を集めてこれを慰撫し、攻略は容易でなくなる。ましてや敵兵はみな隴西の者で、一度敗走すれば四方に散って隴外へ逃げ帰り、折墌城は自然と空虚になる。我が軍がそのまま進んで迫れば、薛仁杲は恐れて降伏する。これはすでに成っていた勝算であり、諸君は見抜けなかったのか。」諸将はみな感服した[14]。
世民は捕虜とした精鋭騎兵を、なお薛仁杲兄弟および宗羅睺・翟長孫らに統率させ、彼らと遊猟・馳射し、猜忌するところがまったくなかった。降伏した者たちは恩に感じるとともに畏怖し、みな死力を尽くそうとした。当時、李密が唐に帰順したばかりで、李淵は彼を幽州に派遣して世民を迎えさせた。李密は世民の天姿神武、軍威厳粛を見て驚き感服し、ひそかに殷開山に言った。「まことに英主である。このようでなければ、どうして禍乱を平定できようか」と。凱旋後、世民は太廟で戦捷を献じ、太尉・陝東道行台尚書令に任じられ、長春宮を鎮守し、関東の兵馬はすべてその節制を受けた。まもなくさらに左武候大将軍・涼州総管を加えられた[14]。
劉武周の討滅
宋金剛が澮州を攻め落としたとき、兵鋒は甚だ盛んであった。李淵は、王行本がなお蒲州に拠り、呂崇茂が夏県で反乱を起こし、晋・澮の二州が相次いで陥落したため、関中が震動した。そこで手勅を下して言った。「賊勢がこのようである以上、鋒を争うことは難しい。河東を放棄し、関西を謹んで守るべきである。」世民は上表して言った。「太原は王業の根基であり、国家の根本であります。河東は物産が豊かで、京師はこれによって供給されております。もし全てを放棄するならば、臣は私かに憤りに堪えません。どうか臣に精兵三万を与えられたい。必ず劉武周を平定し、汾・晋を回復して見せます。」李淵はここに関中の兵馬を全て彼に与え、また自ら長春宮に赴いて彼を見送った[14]。
武徳二年(619年)十一月、世民は軍を率いて龍門関から氷に乗じて黄河を渡り、柏壁に進駐して、宋金剛と対峙した。まもなく永安王李孝基が夏県で敗れ、于筠・独孤懐恩・唐倹らは賊将の尋相・尉遅敬徳に捕らえられた。世民は殷開山・秦叔宝を美良川に派遣して邀撃させ、敵軍を大いに破った。尋相は身をもって免れたのみで、その他の敵衆は全て捕虜となった。諸将は続々と戦いを請うたが、世民は言った。「宋金剛は孤軍千里を深入りし、精兵猛将は全てここに集中している。劉武周は太原に拠って守りを固め、全て宋金剛を障壁としている。彼の士卒は多いとはいえ、後方は実は空虚で、速戦を意図している。我が軍は営塁を堅守し、鋭気を養ってその鋒を挫き、彼の糧が尽き計が窮まるのを待てば、自ずと退却するであろう。[15]」
三年(620年)二月、宋金剛は果たして糧食の欠乏により逃走した。世民は追撃して介州に至った。宋金剛は南北七里に陣を布いて官軍を拒んだ。世民は李世勣・程知節・秦叔宝を派遣してその北を攻めさせ、翟長孫・秦武通をしてその南を攻めさせた。諸軍はやや退き、賊軍は機に乗じて攻めかかった。世民は精鋭騎兵を率いてその陣の後方に突撃し、賊衆は大敗して、数十里を追撃した。尉遅敬徳・尋相は八千の兵を率いて来降した。世民はなお尉遅敬徳に降兵を統率させ、官軍と混在して駐屯させた。屈突通は降兵に異変が起きることを心配し、急いで諫めた。世民は言った。「昔、蕭王劉秀は真心をもって人に接し、それで人をして命を尽くさせることができた。今、私が尉遅敬徳に任せたとしても、何か疑うべきことがあろうか。」劉武周はこの知らせを聞いて突厥に逃れ、并州・汾州の旧地は全て回復された。李淵は詔を下して軍中において世民を益州道行台尚書令に加授した[15]。
虎牢関の戦い
武徳三年(620年)七月、世民は諸軍を統率して洛陽の王世充を攻め、大軍は北邙山に進駐した。王世充は三万の精兵を率いて慈澗で防衛し、世民は軽騎を率いて挑戦したが、寡兵で敵の大軍に包囲され、左右の者は皆恐れた。世民は左右に先に退くよう命じ、自ら殿軍となった。王世充の驍将単雄信は数百騎を率いて道を挟んで迫ってきたが、世民は左右に弓を射かけ、敵兵は弦に応じて倒れない者はいなかった。王世充の大将燕頎を捕虜とした。王世充は慈澗の守軍を撤収し、世民は史万宝を宜陽の南から龍門を占拠させ、劉徳威を太行の東から河内を包囲させ、王君廓には洛口の糧道を遮断させ、黄君漢には迴洛城を夜襲させて一挙に攻略させた。黄河以南の諸城は続々と帰降した[16]。
九月、世民は五百騎を率いて戦地を視察中、突然王世充の一万余人と遭遇し、交戦して再びこれを破り、斬首三千余級、大将の陳智略を捕虜とし、王世充は身をもって免れたのみであった。王世充が任命した筠州総管の楊慶は使いを遣わして降伏を請い、滎・汴・洧・豫など九州が相次いで来降した。王世充はここに竇建徳に救援を求めた[17]。
四年(621年)二月、世民は青城宮に進駐したが、営塁がまだ完成しないうちに、王世充は兵二万を率いて方諸門から出て穀水に臨んで陣を布いた。世民は精騎を率いて北邙山に陣を布き、屈突通に五千の歩兵を率いて穀水を渡って攻撃させ、交戦の際に煙を上げて合図とすることを約した。煙が上がると、世民は騎兵を率いて突撃し、屈突通と内外から呼応した。賊軍は決死の覚悟で戦い、散っては再び集まること数度に及び、辰の刻から午の刻に至ってようやく退却し始めた。世民は兵を放って追撃させ、斬首八千級、城下に迫った。王世充は再び出撃することができず、城に拠って固守し、竇建徳の援軍を待った。世民は諸軍に命じて塹壕を掘らせ、長囲を布いた[17]。
このとき竇建徳は兵十余万を率いて王世充の救援に来援し、酸棗に進出した。蕭瑀・屈突通・封徳彝らは皆、腹背に敵を受けることになり、必ずしも勝利できるとは限らないと考え、穀州に退いて形勢を観望するよう請うた。世民は言った。「王世充は糧が尽き、内外に離心が生じている。我が軍は労せずして彼が自滅するのを待てる。竇建徳は孟海公を破ったばかりで、将は驕り兵は怠けている。我が軍は進んで武牢を占拠し、険要を扼すべきである。賊軍が危険を冒して争ってくれば、必ずこれを破ることができる。もし戦わなければ、十日のうちに王世充は自ずから潰れるであろう。もし速やかに進まず、賊軍に武牢に入られれば、新たに帰服した諸城は必ず守ることができず、両賊が力を合わせることになる。どう対処できようか」と。彼は屈突通を留めて斉王李元吉を補佐させ、引き続き王世充を包囲させ、自ら歩騎三千五百を率いて一路武牢へ向かった[18]。
竇建徳は板渚に塁を築き、世民と二十余日対峙した。世民は、竇建徳が官軍が黄河北岸で馬を放牧している間に武牢を襲撃しようとしていることを知り、わざと河北で馬を放牧させて敵を誘った。翌朝、竇建徳は果たして全軍で到来し、汜水に陣を布き、王世充の部将郭士衡がその南に陣を布いて、数里にわたって連なり、太鼓を打ち鳴らして進軍してきた。諸将は皆恐れた。世民は数騎を率いて高丘に登って眺望し、諸将に言った。「賊軍は山東で起こり、未だ大敵に遇ったことがない。今、険地を越えて騒ぎ立てているのは軍紀がないからであり、城に近づいて陣を布くのは我が軍を軽んじる心があるからだ。我が軍が兵を動かさずにいれば、その士気は自ずと衰え、陣を布いて久しく士卒が飢えれば、必ず自ら退却する。その時に追撃すれば、向かうところ勝たざるはない。諸君と約束しよう。午後には必ずこの敵を破る」と[19]。
竇建徳は辰の刻から午の刻まで陣を布いていたが、士卒は飢え疲れ、続々と座り込んで水を争い、さまよって退こうとした。世民は言った。「出撃の時である」と。自ら軽騎を率いて敵を誘い、大軍が続いて到着した。竇建徳は軍を返して陣を布こうとしたが、まだ隊形が整わないうちに、世民はすでに先頭に立って突撃し、向かうところ敵なしであった。続いて大軍が合戦し、塵埃が天を覆った。世民は史大奈・程知節・秦叔宝・宇文歆らを率いて旗を振るって敵陣の後方に突入し、唐軍の旗を広げた。賊兵は振り返って旗を見ると、完全に崩壊した。唐軍は三十里を追撃し、斬首三千余級、捕虜五万、竇建徳を陣中で生け捕りにした。世民は彼を叱責して言った。「私は兵を起こして罪を問うたが、本来の意図は王世充にあり、得失存亡はお前とは関係がない。なぜ境を越えて来て、我が兵鋒を犯したのか」と。竇建徳は恐縮して答えた。「私が来なければ、おそらくあなたが遠くまで取りに来る手間がかかったでしょう」と[19]。
李淵はこの知らせを聞いて大いに喜び、璽書を下して慰労した。「隋室は分崩し、崤函は隔絶した。両雄が勢いを合わせたが、一朝にして清らかに掃蕩された。兵はすでに克捷し、死傷もなかった。臣として愧じず、父として憂いなきは、全てお前の功績である」と。世民は竇建徳を東都城下に護送すると、王世充は恐れて官属二千余人を率いて営門に来て降伏を請い、山東は全て平定された。世民は洛陽宮城に入り、蕭瑀・竇軌らに命じて府庫を封蔵させ、何一つ取らせず、房玄齢に隋朝の図書典籍を接収させた。王世充の党与の段達ら五十余人を誅殺し、冤罪で囚われていた者を釈放し、無実の罪で殺された者を祭った。六月、凱旋すると、世民は黄金の甲を身にまとい、鉄甲騎兵一万、甲士三万を率い、前後部に鼓吹を配し、二人の偽主と隋朝の器物・車輦を太廟に献じた。李淵は古来の官号では世民の格別の功績を顕彰するのに足りないと考え、特に「天策上将」・陝東道大行台の号を加え、位を王公の上とし、封邑を三万户に増やした。当時天下は次第に平らぎ、世民は経籍に意を注ぎ、文学館を開設し、杜如晦ら十八人を学士として、交代で宿直させた[20]。
劉黒闥・徐円朗の討滅
竇建徳の旧将劉黒闥が兵を起こして反乱し、洛州を占拠した。武徳四年(621年)十二月、世民は軍を統べて東征した。五年(622年)正月、肥郷に進軍し、兵を分けて敵軍の糧道を断ち、二か月にわたり対峙した。劉黒闥は窮迫して戦いを求め、歩騎二万を率いて南のかた洺水を渡り、早朝に官軍に迫った。世民は自ら精騎を率いてその騎兵を撃破し、勝ちに乗じて歩兵を衝くと、賊衆は大敗し、斬首一万余級を数えた。これに先立ち、世民は人を派遣して洺水の上流に堰を築かせて水をせき止め、下流を浅くして渡れるようにしておいた。交戦の際に堤を切ると、河水は氾濫して深さ一丈余りとなり、賊兵は潰走して逃げる者も皆溺死した。劉黒闥は二百余騎を率いて北のかた突厥へ奔り、余衆は全て捕虜となり、河北は平定された。当時、徐円朗が徐・兗の二州で反乱を起こしていたが、世民は軍を返してこれを討ち平らげ、河・済・江・淮の諸州郡は全て平定された。十月、世民は左右十二衛大将軍を加えられた[21]。
玄武門の変
武徳七年(624年)秋、突厥の頡利・突利の二可汗が原州から侵入し、関中を侵擾した。ある人が李淵に勧めて言った。「ただ皇家の府庫や子女・金帛がみな長安にあるため、突厥が来るのです。もし長安を焼き払って都としなければ、胡寇は自ずとやむでしょう」と。李淵はそこで宇文士及を派遣して南山を越えて居住に適した地を探らせ、遷都を図ろうとした。蕭瑀らは不可と考えたが、ついに顔を犯して直言する者はいなかった。ただ世民だけが進言して言った。「霍去病は漢朝の一将帥にすぎませんが、なお匈奴を滅ぼす志を立てました。臣は藩王の位にありながら、胡虜の戦塵をやませることができず、陛下に遷都を議論させるに至ったのは、臣の責任であります。どうか臣に微力を尽くさせ、頡利を攻め取らせてください。もし一、二年のうちに彼を縄で縛って連れて来られなければ、その時に遷都の策を改めて議していただいても、臣は決して再び何も申しません」と。李淵は怒り、なおも世民に三十余騎を率いて巡察させた。世民は帰ると、あくまで遷都すべきでないと奏請したため、李淵はようやくこれをやめた[22]。
武徳九年(626年)、皇太子李建成と斉王李元吉は密かに世民を害そうと謀った。六月四日、世民は長孫無忌・尉遅敬徳・房玄齢・杜如晦・宇文士及・高士廉・侯君集・程知節・秦叔宝・段志玄・屈突通・張士貴らを率い、玄武門において李建成・李元吉を誅殺した。甲子の日、世民は皇太子に立てられ、あらゆる政務はすべて彼の裁決するところとなった。彼は宮中で飼われていた鷹犬を放ち、諸方からの珍奇な献上をやめさせ、政令は簡要清粛を旨としたので、天下は大いに悦んだ。また百官に封事を奉らせ、民を安んじ国を治める要務を述べさせた[22]。
八月癸亥、李淵は太子に譲位し、世民は東宮顕徳殿において皇帝に即位した。これが唐の太宗である。彼は裴寂を南郊に派遣して天に告げ、天下に大赦を行い、武徳年間に流された者をすべて帰還させ、五品以上で爵のない者には爵一級を賜い、六品以下には勲一等を加え、全国の徭役を一年免除した。また後宮の宮女三千余人を放出した[22]。
即位の初め、突厥の頡利可汗は部族を率いて渭水便橋の北に進出し、酋長の執失思力を入朝させて虚実を探らせ、虚勢を張った。太宗は執失思力を拘禁するよう命じ、自ら玄武門を出て、騎兵六騎を率いて渭水に直行し、頡利と水を隔てて対話し、盟約に背いたことを責めた。まもなく唐軍が続々と到着し、頡利は官軍の軍容が甚だ盛んであるのを見て、また執失思力が囚われたことを知り、大いに恐れて和を請うた。太宗は詔を下してこれを許し、同日宮中に戻った。乙酉の日、太宗は再び便橋に赴き、頡利と白馬を殺して盟約し、突厥は退兵した。九月、頡利は馬三千匹・羊一万頭を献じたが、太宗は受け取らず、ただ掠奪した中原の民を返還するよう命じた[23]。
貞観の治
太宗は即位後、毎日数百人を率いて顕徳殿の庭で弓矢の訓練を行い、将士たちに言った。「古来、突厥と中原は互いに盛衰してきた。軒轅は五兵を善く用いて、北のかた獯鬻を逐い、周の宣王は方叔・召虎を駆使して、敵に勝つことができた。漢・晋の末から隋代に至っては、兵士に平素から干戈を習わせず、突厥が来寇しても防ぎきれず、百姓を賊寇の手に捨てる有様であった。今、私はお前たちに池を築かせ苑を造らせ、大いに徭役を興すことはしない。農民は安心して生産に励み、お前たちはただ弓馬を練習せよ。お前たちがよく戦い、天下に敵なきことを望む」と。太宗は自ら試験に臨み、射中った者にはその場で弓刀や布帛を与えた。朝臣には諫める者が多かったが、太宗は聞き入れなかった。これより士卒はみな精鋭となった[24]。
太宗は倹約を尊び、土木の工事を起こさなかった。貞観二年(628年)秋、長雨が続いて宮中が低く湿っていたため、公卿が高閣を建てて住むよう奏請した。太宗は言った。「朕には気の病があり、確かに湿った所に居るのは適さない。しかし、お前たちの請いに従えば、費やすことがあまりに多い。昔、漢の文帝は露台を築こうとして、十家の産を惜しんだ。朕の徳行は漢の文帝に及ばないのに、費用が彼を超えるのは、民の父母たる道であろうか」と。ついに許さなかった。同年十二月、侍臣に対して神仙の事を論じ、秦の始皇帝が方士に騙されて徐福を入海させ仙薬を求めさせたが帰らず、漢の武帝は仙を求めて娘を道術の者に嫁がせたが効果がなく誅戮したことを挙げ、神仙の事は虚妄であると述べた[25]。
法の執行において、太宗は恩赦を慎むことを主張した。侍臣に言った。「天下の愚人は常に法網を犯す。およそ恩赦は不届き者にしか恵みを与えない。古語に『小人の幸いは君子の不幸』といい、また『一年に二度赦せば、善人は口をつぐむ』ともいう。雑草を養えば禾苗を害し、奸人に恵めば良民を損なう。それゆえ朕は天下を有して以来、みだりに大赦を行わない」と。また房玄齢・蕭瑀と隋の文帝を評し、隋文帝は「性は至って察なるも心は明らかでなく、事をすべて自ら決した。身を労し形を苦しめても、必ずしも理にかなわなかった」とし、自分は天下の人材を選抜して天下の事務を処理させ、委任して責め成し、各々その用を尽くさせると述べた[26][27]。
貞観の初年、関中は飢饉となり、子を売る者さえ現れた。太宗は御府の金帛を出して子供を買い戻し、父母に返した。また使者を派遣して諸州を巡視させ、被災民を救済した。太宗は宮女が深宮に閉じ込められているのを憐れみ、武徳九年に詔して後宮の宮女三千余人を放出した。貞観二年にも侍臣に言った。「婦人が深宮に閉じ込められているのは、まことに哀れむべきである。隋朝の末年には求めやまず、離宮別館に宮人を多く集め、民力を尽くした。これは朕のなさないところである」と。そして余分な宮女を選び出して放出し、婚配に任せた[28]。
太宗は忠義を褒め、逆節を貶めた。貞観元年、詔を下して北斉の尚書僕射崔季舒・黄門侍郎郭遵・尚書右丞封孝琰ら直言のために殺された忠臣を追賞し、その子孫を顕彰した。また隋朝の弑君の臣である裴虔通・牛方裕・薛世良らを除名して流罪とし、「裴虔通は隋の煬帝の旧臣でありながら、自ら乱臣の首となった。朕は今、忠君の大義を奨励している。どうしてこのような者に百姓を治めさせられようか」と言った[29]。
貞観年間、天下の州県には義倉を設けて凶年に備え、各州に医学を置いた。太宗はまた交戦の地に戦死した義士のために寺を建てるよう命じ、虞世南・李伯薬・褚亮・顔師古・岑文本・許敬宗・朱子奢らに碑銘を撰して功業を記させた。文学館を開いて四方の士を迎え、杜如晦ら十八人を学士として経義を議論させた。貞観七年には新たに定めた『五経』を頒行して経学を統一した。貞観年間の休養生息により、天下は大いに治まり、死刑囚は最も少ない年でわずか二十九人となり、東は海に至り、南は五嶺に至るまで、夜も戸を閉ざさず、旅人は食糧を携える必要がなかった[30][27]。
東突厥の滅亡
貞観三年(629年)冬十一月、太宗は并州都督李世勣を通漢道行軍総管に、兵部尚書李靖を定襄道行軍総管に任命し、軍を出して突厥を討伐させた。十二月、突利可汗が来投した[31]。
四年(630年)春正月乙亥、定襄道行軍総管李靖は突厥を大いに破り、隋の煬帝の蕭皇后および煬帝の孫の楊正道を捕らえて長安に送った。二月甲辰、李靖はまた陰山で突厥を大いに破り、頡利可汗は軽騎で遠く逃れた。三月庚辰、大同道行軍副総管張宝相は頡利可汗を生け捕りにして京師に護送した。甲午の日、太宗は頡利を捕らえたことを太廟に献捷した[32]。
夏四月丁酉、太宗は順天門に登り、軍吏は頡利を護送して戦捷を献じた。これより西北の諸蕃部の君長は共同して太宗に「天可汗」の尊号を奉るよう請い、太宗は以後、璽書をもって各国の君長を冊封する際には、この号を兼用した。戸部の奏上によれば、塞外から帰還した中原の人々および突厥が前後に内附し、四夷を開いて州県としたものは、合わせて男女一百二十余万口に上った[32][31]。
吐谷渾の平定
貞観八年(634年)十二月、吐谷渾が涼州に侵攻した。太宗は詔を下し、特進李靖を西海道行軍大総管に、兵部尚書侯君集を積石道行軍総管に、刑部尚書任城王李道宗を鄯善道行軍総管に、涼州都督李大亮を且末道行軍総管に任命し、道を分かって吐谷渾を討伐させた[33][34]。
九年(635年)春、洮州の羌人が刺史孔長秀を殺して反乱したが、塩沢道総管高甑生に撃破された。閏四月、李靖・侯君集・李大亮・李道宗らは牛心堆で吐谷渾を大いに破った。五月、また烏海で吐谷渾を撃破し、追撃して柏海に至った。副総管薛万均・薛万徹は赤水源で再び吐谷渾を破り、その名王二十人を捕虜とした。李靖は西海の上で吐谷渾を平定し、吐谷渾王慕容伏允を捕らえた。伏允の子慕容順光は降伏し、西平郡王に封じられ、吐谷渾国を回復した[33]。
吐蕃との和親
貞観十二年(638年)八月、吐蕃が松州に侵攻した。太宗は侯君集を当弥道行軍大総管に任命し、三総管の兵を率いて討伐させた。九月、闊水道行軍総管牛進達が松州城下で吐蕃を撃破し、吐蕃は退兵した。その後、使者を派遣して謝罪し、重ねて結婚を請うたため、太宗はこれを許した[35]。
十四年(640年)閏十月丙辰、吐蕃は使者を派遣し、黄金の器具一千斤を聘礼として献じて通婚を求めた。十五年(641年)春正月丁卯、吐蕃はその国相禄東賛を派遣して公主を迎えさせた。丁丑の日、太宗は礼部尚書・江夏王李道宗に命じて文成公主を吐蕃へ嫁がせるため護送させた[36]。
李承乾の謀反事件
貞観十七年(643年)春正月戊辰、太子太師・鄭国公魏徴が死去した。戊申の日、太宗は詔を下し、画師に命じて凌煙閣に司徒長孫無忌・司空房玄齢ら二十四人の功臣の画像を描かせ、その功勲を顕彰した[37]。
同年三月、斉州都督斉王李祐は長史権万紀・典軍韋文振を殺害し、斉州に拠って反乱した。太宗は兵部尚書李勣・刑部尚書劉徳威に命じて兵を出して討伐させた。大軍が到着しないうちに、斉府兵曹杜行敏がすでに李祐を捕らえ、李祐は内侍省で死を賜った[37]。
夏四月庚辰朔、皇太子李承乾は罪により庶人に廃された。漢王李元昌・吏部尚書侯君集らはみな太子と結託した罪により処刑された。丙戌の日、晋王李治を皇太子に立て、天下に大赦し、酺を三日賜った。庚寅の日、太宗は自ら太廟に詣で、李承乾の事について謝罪した。癸巳の日、魏王李泰もまた罪により東莱郡王に降封された(後に順陽王・濮王に改封された)[38]。
高句麗の征討
貞観十八年(644年)十一月、太宗は詔を下して高句麗を東征した。太子詹事・英国公李勣を遼東道行軍大総管に任命し、柳城から出発させ、礼部尚書・江夏郡王李道宗を副とし、刑部尚書・鄖国公張亮を平壌道行軍大総管に任命して水軍を率いて莱州から出発させ、左領軍常何・瀘州都督左難当を副とした。天下の甲士を徴発し、十万を募って、一斉に平壌へ向かって進軍し、高句麗を討伐した[39]。
十九年(645年)春二月庚戌、太宗は自ら六軍を率いて洛陽を出発し、皇太子李治に命じて定州に留まって国を監させ、高士廉・劉洎・馬周・張行成・高季輔らに輔政させた。途中、殷朝の比干の墓を過ぎると、太宗は比干に太師を追贈し、諡を忠烈とし、墳墓と祠堂の修繕を命じ、自ら文を撰して祭った[40]。
夏四月癸卯、太宗は幽州城の南で軍に誓い、六軍を大いに労ってから出発した。丁未、中書令岑文本が軍中で病没した。癸亥、李勣は蓋牟城を攻略した。五月丁丑、太宗は遼水を渡り、自ら鉄甲騎兵を率いて李勣とともに遼東城を包囲し、風勢に乗じて火箭を放つと、城上の楼櫓はすべて焼き尽くされ、唐軍は城に登り、一挙に遼東城を攻略した。六月丙辰、安市城に進軍した。高句麗の別将高延寿・高恵真は兵十五万を率いて安市城の救援に来て、王師を拒んだ。李勣は兵を率いて奮戦し、太宗も自ら高峰から軍を率いて駆け下りたため、高句麗軍は大敗し、殺され捕らえられた者は数えきれず、高延寿らは余衆を率いて降伏した。太宗は駐留した山を「駐蹕山」と名付け、石に刻んで功を記した[41]。
秋七月、李勣は軍を進めて安市城を攻めたが、九月に至っても攻略できなかったため、軍を返して帰還した。冬十月丙辰、大軍は臨渝関に入り、皇太子が定州から迎えに来て拝謁した。戊午、漢武台に進み、石に刻んで功を記した[42]。
薛延陀の滅亡
貞観十九年(645年)、薛延陀の真珠毘伽可汗が死去した。二十年(646年)正月、太宗は大理卿孫伏伽・黄門侍郎褚遂良ら二十二人を派遣し、六条の基準をもって四方を巡察させ、官吏を黜陟した[43]。
二十年六月、太宗は兵部尚書・固安公崔敦礼、特進・英国公李勣らを派遣して軍を率い薛延陀を撃たせた。李勣は郁督軍山の北で薛延陀を大いに破り、前後して斬首五千余級、男女三万余人を捕虜とした。薛延陀の余部は潰走し、その鉄勒諸部——回紇・抜野古・同羅・僕骨・多濫葛・思結・阿跌・契苾・跌結・渾・斛薛など十一姓は、各々使者を遣わして朝貢し、奏して言った。「薛延陀は大国に仕えず、部落は鳥の飛び散るが如く、行方を知りません。我らは各々分地を有しており、薛延陀に追随することを望まず、天子に帰順して漢官の設置を請うております」と。太宗は詔を下し、彼らを霊州に会聚させた[43]。
九月甲辰、鉄勒各部落の俟斤・頡利発らは使者数千人を遣わし、相次いで霊州に到着し、方物を貢進し、官吏の設置を請い、太宗を「天可汗」と尊んだ。ここに至って北方の荒遠の地はすべて平定され、太宗は五言詩を作り、石に刻んでその事を記した[44]。
晩年
太宗は晩年も四方の経略を続けた。貞観二十一年(647年)三月、左武衛大将軍牛進達を青丘道行軍大総管に、李世勣を遼東道行軍大総管に任命し、三総管の兵を率いて高句麗を討伐させた。二十二年(648年)、左驍衛大将軍阿史那社爾・右驍衛大将軍契苾何力・安西都護郭孝恪・司農卿楊弘礼を昆山道行軍大総管に任命して亀茲を討伐させた。閏十二月、阿史那社爾は処密・処月を降し、亀茲の大撥など五十城を攻め破り、数万人を捕虜とし、亀茲王訶黎布失畢を生け捕りにした。亀茲は平定され、西域は震動した。副将薛万徹は于闐王伏闍信を脅して入朝させた。同年五月、右衛率長史王玄策は帝那伏帝国を攻めて大いに破り、その王阿羅那順および王妃・王子らを捕虜とし、男女一万二千人、牛馬二万余頭を捕らえて京師に送った。この時期、堕婆登・乙利・鼻林送・都播・羊同・石・波斯・康国・吐火羅・阿悉吉など遠方の十九国はみな使者を遣わして朝貢した。唐はまた突厥以北から回紇一帯に駅站六十六所を設置し、北方の荒遠の地と連絡を取った[45]。
早くも貞観十一年(637年)、太宗は詔を下してあらかじめ陵寝の制度を定め、「生者は天地の大徳、寿は修短の期なり」と言い、死は自然の理であるとした。九嵕山に陵墓を営むよう命じ、「棺を容るるに足るのみ」とし、木馬・塗車・土桴・葦籥などの古制の器物を副葬させ、「時の用に為さず」として、倹約に務めた[46]。
貞観二十三年(649年)春、太宗の病は重くなった。四月己亥、翠微宮に赴いた。五月戊午、太子詹事・英国公李勣は畳州都督に左遷された。己巳、開府儀同三司・衛国公李靖が死去した。同日、太宗は含風殿において崩御した。享年五十三。遺詔により皇太子は柩の前で即位することとされ、葬儀は漢朝の制度に倣い、喪を秘して発さなかった。庚午の日、儀仗は霊駕を奉送して京に帰り、随従の官人らは平常のごとく侍した。六月甲戌朔、柩は太極殿に安置された。八月丙子、百官は諡号を「文皇帝」、廟号を「太宗」と奉った。庚寅、昭陵に葬った。上元元年(674年)八月、尊号を「文武聖皇帝」と改め、天宝十三載(754年)二月、「文武大聖大広孝皇帝」と増上した[47]。
功績
政治
太宗李世民は、賢才を登用しその能力を見極めて適材適所に配するとともに、言路を開き謙虚に諫言を受け入れる姿勢を貫いた。さらに、農業を基幹とし税や労役を軽減して民力の回復に努め、倹約を励行し科挙制度を整備するなど、一連の政策を推進。これにより社会は平穏を取り戻し、繁栄の兆しが見られるようになった。この期間、政治は清明で社会は安定し、経済は繁栄、人々は安居楽業するという、史上「貞観の治」と称される治世を実現した[48]。
人材の選抜と任用
太宗の治世における成果は、その体系的かつ卓越した人材登用策に核心がある。挙兵から帝位即位に至るまで、常に天下の人材を網羅することを最優先とし、その「賢人政治」は以下のように表れている。第一に、賢才を渇望し、弘文館を設置し、たびたび求賢の詔を発して、朝廷内外や民間はもとより、過去の政敵(魏徵など)からも積極的に人材を発掘した。第二に、才能ある者を挙げることを旨とし、「短所を捨て長所を取る」ことを主張。家柄(世族・庶族)を問わず、徳行と才幹を兼ね備える者を求めた。第三に、制度による保障として、考課の法を推行し、「四善二十七最」によって官吏を考核。さらに地方の刺史の選抜と監督を制度化した。第四に、人を任用した以上は疑わず、功臣を保護したことである。誠意をもって臣下に接し(尉遅敬徳など)、原則を堅持しつつも寛容に諭し、功臣の大半を善終させ、政情を安定させた。まさにこの、「選抜・任用・考核・保全」を一体とした完結した人材体系を通じて、太宗は房玄齢、杜如晦、馬周をはじめとする数多くの傑出した人物を結集し、共に「貞観の治」の礎を築いたのである[49]。
科举制度を整備する
唐太宗時期において、人材選抜の主要な方式は科挙制であった。太宗はその制度を体系的に整備し、試験科目においては秀才科・明経科・進士科を中心とし、特に進士科の難度と地位を意図的に高めることで、社会的威信を確立した。選抜過程では、礼部による第一次試験(中進士の資格取得)と吏部による二次銓選(書・貌・言・判の実務審査)という二段階選考を導入し、官吏の実務能力を担保した。さらに常科に加えて皇帝直轄の制挙(殿試)を設け、特殊な才能や德行を評価する補充的選抜ルートを確保した。一方で、科挙と教育を統合し、『五経正義』を全国的な標準教材として定めることで、養士(人材育成)と取士(人材登用)の制度的一貫性を実現した。これらの改革により、魏晋以来の門閥主義的選考を改め、学識と能力に基づく公平な登用を推進。その結果、庶族地主層の政治的参加を拡大し、統治基盤の強化と「貞観の治」の持続的発展を支える制度的基盤を確立した[50]。
行政制度の改革
太宗の治世において、国家統治体系を強化するため、隋代に確立された三省六部制に対し決定的な改革と改善を行った。彼は中書省・門下省・尚書省の職権を明確に区分し、中書は詔書起草、門下は審議・修正、尚書は執行を担う相互抑制・協調運営の機制を構築。さらに「政事堂」議政制度を創設し、「同中書門下三品」などの官職を持つより多くの官吏が决策に参与できるようにし、合議による宰相制度を形成した。これにより君権を強化しながらも権臣の専断を防止した。同時に、太宗は賢才を積極的に登用し、房玄齢・杜如晦などを代表とする新世代の治国人材を中枢に迎え、宰相班子の最適化と世代交代を実現した。この一連の改革は、中央行政体系の職能分担と抑制・均衡を健全化しただけでなく、「貞観の治」に対し、効率的かつ安定的な制度的基盤を築いたのである[51]。
機構の簡素化
太宗は行政効率の向上と財政支出の抑制を図り、「官員の併省」による機構簡素化を断行した。まず中央では房玄齢らに命じ、官職を厳選して文武官を総計640員に限定。これにより中央政府の意思決定速度と実行力が向上した。地方では州・郡・県の三級制を州・県の二級制に改め、隋末以来乱立した行政単位を大胆に統合。貞観14年(640年)までに州360・県1557に整理し、民衆の負担を軽減するとともに地方行政の効率化を推進した。さらに全国を10の巡察区(道)に分け、特使を派遣して官吏の監察・考課を行い、中央統制を強化。これら一連の改革は、機構の冗長性を排し、統治システムの合理化を通じて「貞観の治」の基盤を確立した[52]。
『氏族志』の再編纂
太宗は、魏晋以来、山東の旧族(崔・盧・李・鄭・王など)を中心として維持されてきた伝統的な門閥秩序を打破するため、貞観六年(632年)に高士廉らに命じて『氏族志』の再編纂を行わせた。彼は旧族が「かつての地勢を頼みに驕り高ぶり」婚姻を通じて財を蓄える風潮を明確に批判し、編纂者に対し「専ら今朝の品秩を以て高下と為す」という原則に基づくよう指示。皇族を第一等、外戚を第二等と定め、伝統的な郡望ではなく現王朝における官爵を氏族序列の基準とした。この措置は、実質的に関隴軍事貴族を中核とし、新興の庶族官僚をも統合した新たな政治的アイデンティティ体系を構築するものであり、皇室と功臣集団の社会的声望を高め、唐初の中央集権統治を強化するとともに、旧来の門閥観念を変革するというイデオロギー上の転換を達成したのである[53]。
言路を開く
太宗は、天下統治を補佐させるとともに自らの施政を不断に検証するため、積極的に賢才を登用し、「犯顔直諫」を奨励する言路開放政策を推進した。具体的には、進言者に対する褒賞制度を設け(例:張行成の地域偏見指摘への賜物)、発言を制度的に保障。さらに于志寧のような実務官僚から魏徵のような核心的諫臣に至るまで、各層の直言を広く受け入れ、特に魏徵の数百に及ぶ進言は政策形成に決定的な影響を与え、「我が鑑」と称された。こうした体系的な納諫体制は、皇帝の独断を抑制し、君臣一体の議論を通じて政策の妥当性を高め、「貞観の治」の重要な精神的基盤を形成した[54]。
法制の整備
太宗は「慎刑による冤罪防止」を核心に、一連の法制改革を推進した。死刑審査では「九卿による刑案審議」制度を創設し、「五度の復奏」手順を整備。違反官僚を厳格に処罰することで誤殺を極力抑制した。獄政管理では「録囚」制度を充実させ、自ら囚犯の審録に参与し巡察職責を規範化するとともに、獄官の監督責任を明確化。冤罪や滞獄案件の是正を通じ、囚犯の基本的権利を保障した。拷問制度では、刑具規格と拷訊手続を厳格に制限し、拷問回数・間隔を設定。拷問濫用の官吏を厳罰に処し、虚偽自白の強要を根源から抑制した。これらの改革は司法監督と手続的制約を体系的に強化し、儒家的「寛仁治獄」理念を制度的実践へ転化。唐代法体系の成熟と安定の礎を築いたのである[55]。
経済
唐太宗は即位当初、隋末の動乱による人口激減と経済疲弊という困難に直面し、果断に「民を撫でて静かにする」治国方略を推進した。「国は人を本とし、人は衣食を本とする」を核心理念とし、君主は「簡静無為」を旨とし、兵役や土木工事による民衆への負担を避けて農期を確保することにより、民衆を休養生息させ、農業に専念させることを強調した。文治を重んじて武力を抑え、徭役や税負担を軽減する政策を通じ、唐太宗は農業生産の回復を国家安定と統治基盤の根本と位置づけ、社会経済の再生を推進し、唐朝の安定と繁栄の堅固な基礎を築いた[56]。
農業重視
唐太宗は「国は人を本とし、人は食を天とす」を治国の礎とし、「農業重視」を核心的な国策として確立した。これを中心に、農業の回復と発展に向けた一連の施策を体系的に推進した。均田制の施行や開墾奨励により農民の土地問題の解決に尽力し、租庸調の軽減や輸庸代役の実施を通じて民衆の負担を軽減。宮女の解放、婚姻奨励、流出人口の買い戻しなどで人口増加を促進し、水利機構の整備と陂塘の修築によって農業生産条件を改善した。さらに自ら倹約を実践し、藉田の儀礼を復活させ、農時を尊重することを厳命するなど、制度と行動の両面から農事優先を確保した。こうした「民を静めて農に務めさせる」を方針とする総合的な政策は、隋末の動乱後の経済的荒廃を効果的に転換し、社会生産力の迅速な回復と発展を促し、「貞観の治」の繁栄に確かな物質的基盤を築いた[57]。
商業貿易を重視する
唐太宗は「農業重視」を推進する一方で、「農本商末」の伝統を打破し、商業が経済を繁栄させる重要な役割を高度に重視した。積極的に各民族の交易要請を支持し、吐谷渾・高昌・西突厥を平定することで西域への商路を確保し、シルクロードを再開させた。互市監などの専門貿易管理機関を設置し、互市貿易を奨励した結果、長安は国内外の商人が集まる国際的な商業中心となった。こうした商業を積極的に支援する一連の政策は、国内及び域外貿易の隆盛を促し、貞観の治における経済の全面的な繁栄に決定的な推進力を与えた[58][59]。
軍事
軍事制度
唐太宗は即位後、辺境の防衛圧力への対応と中央集権の強化を図るため、府兵制の大規模な改革を推進した。最高統帥機関である十六衛を整備し、有能な将軍を任命するとともに、軍隊の指揮権を皇帝が厳格に掌握し、「兵は府に散じ、将は朝に帰る」という原則を徹底した。基層組織を改革し、折衝府を上・中・下の三等に分け、その下に団・旅・隊・火を設置することで、厳密な編成体制を構築した。同時に、兵役と訓練制度を充実させ、均田制に基づく農民からの兵士選抜(簡点)や服役規則を明確化し、自ら騎射を指導するとともに冬季訓練を強化して戦闘力を向上させた。さらに、辺境での屯田による食糧備蓄、烽火台を用いた警戒通信制度の再整備、馬政の充実による軍馬の増産、精強な騎兵部隊の編成など、国防施策を幅広く展開した。これらの改革により、府兵制は最盛期を迎え、三省六部制を中心とする政治制度や均田制を基盤とする経済制度と相互に連携し、唐王朝の統治体制の中核を形成したのである[60]。
禁軍の変遷
唐代の中央軍隊は府兵以外に、もう一つの重要な軍事力として禁軍が存在した。高祖李淵が長安で皇帝に即位した後、太原挙兵時の3万兵を宿衛として残留させ、「元従禁軍」と称した。これが唐代最初の禁軍である。元従禁軍は世襲兵制を採用し、一般の衛士より高い待遇を受けた。貞観初年、太宗は騎射に優れた者を選抜して「百騎」を編成し、二番制で北門の宿衛を担当させた。さらに武勇に優れた精鋭を選んで北衙七営を組織した。貞観12年(638年)には北門に左右屯営を設置した[61]。
軍事区画
唐太宗の治世において、国防強化と中央集権化を推進するため、体系的な軍事区画改革が実施された。貞観元年(627年)に全国を十道に分割し、「内重外軽」の防衛構想を確立した。すなわち関中地域を中核とし、折衝府を集中的に配置(全国で約600余府、総兵力60万人)し、関内道だけでも全兵力の三分の一以上を駐屯させることで、「関中の勢力をもって四方に臨む」という軍事配置を実現した。その後、十二道制に再編し、辺境情勢に応じて兵力を動態的に配分。吐蕃に対応する北西地域(河西・隴右・剣南道)や、突厥・奚・契丹などに対応する北方地域(河東・范陽・平盧道)の軍備を重点的に強化し、中央軍と地方軍を交差配置し、内外が連動する防衛体制を構築した。同時に辺境の安定を図るため、貞観14年(640年)から都護府を順次設置し、辺遠地域の軍政を統轄させ、唐代前期の辺防体制を完成させた[62]。
対外戦争
唐太宗の治世では、「積極的防衛・戦をもって戦を止む」を中核とする成熟した国防戦略体系が形成された。その核心は、軍事行動と制度整備を並行して推進した点にある。北方では、精確な打撃(630年の東突厥討滅など)、分化懐柔(鉄勒諸部の招撫など)、持続的抑圧(646年の薛延陀平定など)を通じて、軍事勝利を迅速に制度的支配へ転化し、都護府の設置や「参天可汗道」の整備により、「天可汗」を象徴とする羈縻(きび)支配秩序を構築した。西北では、634年の吐谷渾征服、640年の高昌平定、およびその後継的な安西四鎮の設置により西域を体系的に掌握し、シルクロードの安全を確保した。東北に対しては、持続的消耗戦略(644-648年の高句麗三度遠征)を採用し、急進的占領より軍備・経済の漸進的弱体化を図り、後世の統一基盤を整えた。こうした一連の施策は、「内重外軽」の兵力配置原則と「懐柔と威圧を使い分ける」柔軟な戦術を貫き、最終的に軍事的威嚇・政治的懐柔・制度的保障が三位一体となった辺境統治モデルを確立。これは、盛唐期の領土拡大と長期安定に対する構造的基盤を築き上げたのである[63][64]。
文化
文学芸術の発展
唐太宗は、統一王朝の強化と思想文化の規範化を図るため、典籍の整理と経学の統一を積極的に推進した。南北朝以来の経義の混乱とテキストの誤りに対処するため、まず顔師古に命じて『五経』の校訂を行わせ、『五経定本』を全国統一の教材として頒布。さらに孔穎達に『五経正義』の編纂を主導させ、経義解釈をさらに統一し、科挙の基準として確立した。この措置は長年にわたる経学派閥争いを終結させ、唐代の政治・学術のみならず後世の理学にも深遠な影響を与えた。さらに、史館を設置して歴史編纂を推進し、『史通』などの著作を生み出した。西域の音楽・舞踊・絵画・飲食などの文化を積極的に受け入れ、胡と漢の融合を促進。玄奘の経典翻訳を支持し、儒教・道教・仏教の三教併存政策を実施するなど、包容力に富んだ文化的繁栄の状況を築き上げた[65]。
弘文館を設置する
唐太宗は即位後、秦王府文学館の政策諮問と学術機能を継承するため、弘文殿に弘文館を設置し、後に納義門西へ移転させた。館内には経史子集など二十万巻余りの書物を収蔵し、虞世南ら天下の優れた学識者を選抜して本官のまま学士を兼務させ、交代で宿直勤務に当たらせた。太宗は政務の合間に学士らを内殿に召し、歴代の治乱得失を講義させるとともに当代の政事について議論を交わし、夜遅くまで続けることも少なくなかった。弘文館は典籍の校訂・著作の編纂・学生の指導といった学術教育機能に加え、実際に礼儀・法令・制度の審議制定にも参与し、学術・教育・政策諮問を融合した重要な機関として機能した[66]。
儒教尊重
唐太宗は即位後、体系的に孔子尊崇と儒教振興を推進し、儒学を官学及びイデオロギーの正統的地位に確立した。詔を下して周公の祭祀を廃し、孔子を「先聖」として国学に孔子廟を建立、顔回を「先師」と定め、広く天下の儒士を登用して官職に就かせた。貞観年間には、孔子を「宣父」と尊称して専用の廟を設けて祭祀を行うだけでなく、歴代の儒家経学の学者を顕彰し、左丘明や鄭玄など二十一の漢晋の学者を孔廟に配祀する詔を発布、今文・古文の学や南北学派の統合を図った。これらの施策は国家の文教体系を強化するとともに、経学伝統を統合することで唐代儒学の復興と科挙制度の確固たる基礎を築いた[67]。
儒教教育の重視
唐太宗の治世において、中央から地方に至る体系的な三段階の官学システムが確立された。中央では、国子監のもとに従来の国子学・太学・四門学・書学・算学の五学に律学を増設し、「六学」を構成。さらに弘文館と崇賢館(後に崇文館と改称)が生徒を受け入れることで、「六学二館」からなる中央官学の中核構造が形成された。太宗は自ら国学を視察して儒師を表彰したほか、孔穎達ら経学の重臣を教育の責任者に任命し、経典編纂と人材育成を緊密に連携させた。地方においては、州県学の制度をさらに整備し、郡県の等級に応じて生徒の定員を規定。さらに諸州に医学を普遍的に設置するという画期的な措置を講じ、医薬博士が教授を担当する体制を確立し、儒学と専門技術を共に含む教育ネットワークを構築した。この体系は科挙制度と緊密に連動し、州県の優秀な生徒は中央に推薦され常挙を受験することができた。加えて軍府にも博士を置いて教育を行わせ、高昌・吐蕃・高句麗・新羅・日本などから多数の留学生が入学し、空前の国際的教育隆盛を現出させた。これらの施策は唐代の文治隆盛に対し、堅固な制度的・人的基盤を築く礎となった[68]。
礼楽を重視する
唐太宗の治世においては、「礼楽制を整える」ことを中核として、文治と武功を融合し古今を貫く王朝の礼楽体系が体系的に構築された。即位後すぐに祖孝孫や張文収らに命じて『大唐雅楽』を制定させ雅楽の正統性を確立するとともに、建国の武功を象徴する『秦王破陣楽』を改編して『七徳舞』とし、文徳治世を体現する『九功舞』を新たに創作した。この二つの楽舞を並行して演奏させることで、「文武併用」という治国理念を儀礼的に表現したのである。礼制の面では、二度にわたる大規模な改訂を組織している。貞観七年(633年)に最初の『貞観新礼』を頒布した後、貞観十一年(637年)には房玄齢・魏徴・孔穎達らに命じて増補改訂を行わせ、138篇からなる『大唐新礼』を完成させた。これにより南北の礼学を統合し、三代の典礼を考証して、唐代国家礼典の基盤を確立したのである。太宗は礼楽の政治的教化機能を強く重視し、礼によって君臣の秩序を規範化し風俗を矯正する(例えば僧侶・道士が父母から跪拝されることを禁止)とともに、礼楽の実践を通じて王朝の正統性を顕示し、「偃武修文」へと向かう治国方針の転換を推進した。この一連の施策は、「破陣」「慶善」両楽舞併奏の制度と体系的に完備された国家礼典を形成しただけでなく、魏徴の『礼論』や張文収の『新楽書』に代表される礼楽研究の隆盛も促し、唐代礼楽文明の隆盛と東アジア礼楽体系形成の制度的・理論的基盤を築いたのである[69]。
民族文化を尊重する
唐太宗は民族政策において開放的で包容的な態度を取り、各民族の文化習俗を充分に尊重し、漢族の風習と民族の伝統に差異が生じた場合は「それぞれの習俗に従う」ことを明確に求めました。例えば、頡利可汗が突厥の礼儀に基づく火葬を行うことを許可したことがその一例です。また、広範に和親政策を推進し、宗室の女性を東突厥、鉄勒、吐谷渾、西突厥、薛延陀などの部族長に嫁がせることで、婚姻を紐帯とした政治・文化のネットワークを構築しました。中でも最も影響が深かったのは文成公主のチベット入りであり、彼女が携行した典籍、工匠、農桑技術、礼楽制度は、吐蕃社会の経済発展を促進しただけでなく、漢蔵文化交流を推進し、吐蕃の子弟を国学に入れて経学を学ばせ、現地の一部の風習を変えることにもつながりました。これらの施策は民族間の矛盾を効果的に緩和し、辺境地域の社会発展と文化融合を推し進め、唐代多民族国家の統治に実践的基盤を築きました[70]。
民族
唐太宗は在位期間中、民族関係において根本的な転換を実現し、「中華を尊び、夷狄を卑しむ」という伝統的な観念を捨て、「四海を一家の如く視る」「天下を家となす」という平等思想を明確に打ち出しました。彼は徳の恩恵をもって四夷を感化すべきと主張し、「夷狄もまた人であり、その心情は中華と異ならない」と考え、「等しく愛しむ」ことで、各民族を「父母のように皇帝に帰依させる」ことを追求しました。この思想の下、貞観の治では開明的で友好的な民族政策が推進され、羈縻州の設置や和親・会盟などの懐柔策を通じて、唐代多民族国家の融合と安定を効果的に促進しました[71]。
唐太宗の在位期間中、体系が完備され、実用的かつ柔軟な民族統治システムが構築され、制度・人事・戦略の三つの側面から多民族帝国の深い統合が推進された。政治的統合においては、官僚制度を革新し、中央に鴻臚寺や主客司などの機関を設置して蕃族事務を専門に扱わせた。さらに「員外官」制度を創設し、契丹・奚・于闐などの首領に唐朝の官職を授与することで、彼らが自らの民族的権威を保持しつつも国家の官職体系に組み込まれるようにし、「その習俗に沿って治める」ことと政治的懐柔との両立を図った。制度の創設においては、羈縻府州制を全面的に推行し、突厥・回紇・薛延陀などの地域に府州を設置して、現地の首領を世襲の都督・刺史に任命した。「その部族を丸ごと保全し、その風土と習俗に順応する」という自治政策を実施し、定襄都督府・雲中都督府・堅昆都督府などが広く辺境に設置され、内地の州県とは異なる二層の統治モデルを形成した。人材戦略においては、華夷の区別を打破し、少数民族の将領や首領を多数登用した。突厥の阿史那社爾や契苾何力に軍権を委ね、突利可汗や吐迷度らに都督・大将軍の位を授けた。賞罰においては平等を堅持し、薛万鈞や侯君集といった漢人将領への厳格な処罰を通じて、「信賞必罰、才ある者を任用する」という統治原則を明確に示した。戦略的均衡においては、多元的な懐柔手段を採用した。和親政策(文成公主のチベット入りなど)による姻戚関係の構築、薛延陀平定における軍事的抑止と懐柔の併用、さらに「天可汗」体系を借りて唐朝を中心とする冊封・朝貢秩序を構築し、「参天可汗道」を開設して連携を強化した。これらの措置は辺境の安定をもたらしただけでなく、経済・文化の相互交流と民族的アイデンティティの形成を促し、「唐人」という共同体、そして後世の統一的多民族国家の構造の基盤を築いた[72]。
外交
中外関係においても急速に活況が見られるようになった。貞観後期には、「周辺諸国の大小の君長が競って使者を派遣し献上品を携えて謁見を求めたため、道上は絶えることなく、元正(正月の朝賀)の際には常に数百千人に及んだ」と記されている[73]。
インド
太宗の治世において、唐とインド(天竺)は緊密な外交関係を築き、その進展は太宗の先見の明と唐の国威を示すものであった。 貞観5年(631年)、ハルシャ・ヴァルダナ(戒日王)は玄奘の紹介により初めて太宗の「神武」と唐の強盛を知り、貞観15年(641年)に使節を派遣して朝貢した。太宗は直ちに雲騎尉梁懐璥を節を持たせて慰問に遣わし、正式な往来が始まる。この関係を強化し国威を宣揚するため、太宗は貞観17年(643年)に李義表を正使、王玄策を副使とする22人の使節団を摩掲陀国に派遣、戒日王の熱烈な歓待を受け、数年かけて天竺各国を巡歴し、唐の影響力を大いに高めた[74]。
貞観22年(648年)、今や正使として再びインドに赴いた王玄策は、戒日王の死後国内が大乱し、その臣下である阿羅那順が簒奪して唐への敵対政策を採るという状況に直面した。王玄策は略奪を受けて捕らえられたが、果断にも吐蕃と尼婆羅(ネパール)に援軍を求め、寡兵ながらも中天竺を平定し、阿羅那順を捕らえて長安に送還した。この事件は天竺全土に衝撃を与え、各国が競って貢物を献上するようになった。太宗はこれを大いに賞賛し王玄策を抜擢、この措置は唐の尊厳を守ったのみならず、「四夷を賓服させる」という戦略を南アジアにまで拡大し、貞観時代の積極的な外交姿勢を体現したのである[75]。
真腊
貞観2年(628年)、太宗は
日本
貞観4年、日本の舒明天皇2年(630年)8月、日本朝廷は最初の遣唐使節団を派遣した。正使は犬上三田耜、副使は学問僧の薬師恵日であった。貞観5年、舒明天皇3年(631年)11月、遣唐使節団は長安に到着し、太宗は犬上三田耜と恵日を接見した。貞観6年、舒明天皇4年(632年)、太宗は新州刺史の高表仁を使臣として日本に返礼派遣し、日本使節の帰国を護送させた。舒明天皇は唐使の来訪を知ると、大いに重視し、直ちに盛大な歓迎団を組織し、自ら三十余隻の船を率いて難波津で唐使・高表仁を迎えた。しかし、国書授受の礼儀を巡って双方に対立が生じた。高表仁は「天皇が御座を下り、北を向いて唐使の国書を受けよ」と要求したが、舒明天皇はこの要求が過分であると考え、対等の礼でのみ応じうるとした。こうして双方が譲らず、結局高表仁は怒って太宗の国書を奉呈することを拒否し、直ちに帰国の途についた。帰国後、高表仁は太宗から厳しい処分を受け、官職を免ぜられた上、二年間の俸禄を没収されるに至った[77][78]。
林邑
貞観年間(627年—649年)、林邑はたびたび使者を派遣し、訓象(訓練された象)、鏐鎖(金の鎖)、五色帯、朝霞布(ちょうかふ、絹織物の一種)、火珠(光る宝玉)、五色鸚鵡などを献上したと記録されている[79]。
高句麗
太宗の高句麗に対する政策は、辛抱強く準備を重ねる段階から軍事的討伐へと根本的に転換した。 即位当初、太宗は高祖が受け入れた高句麗の臣従・朝貢の枠組みを引き継ぎながらも、その表面上の恭順と実態的な敵対行動に対して高度な警戒を保っていた。高句麗は隋軍将兵を辱める「京観」を撤去せず、千里に及ぶ長城を築き、新羅・百済の唐朝への朝貢路を遮断していた。太宗は隋軍将兵の遺骨を埋葬する使節を派遣し、陳大徳を偵察に赴かせるなどして圧力を加えつつ情報を収集するとともに、世子の桓権を厚遇することで表面的な関係維持を図った。貞観16年(642年)に泉蓋蘇文が君を弑して実権を握ると、双方の脆い信頼関係は完全に崩壊した。これを機に太宗は武力による解決を決断し、貞観19年(645年)より三次にわたる大規模な遠征を展開、高句麗を滅ぼすには至らなかったもののその国力を著しく削弱し、後世における朝鮮半島平定の戦略的基盤を確立した[80]。
吐蕃

唐太宗時期における対吐蕃政策は、武力衝突を経て和親による羈縻体制構築へと転換した。 貞観8年(634年)の吐蕃の朝貢に応じた太宗の使節派遣で関係が始まったが、貞観12年(638年)の和親拒絶を契機に松州の戦いが勃発。唐軍の夜襲勝利により吐蕃は撤退・謝罪したが、この衝突は双方に限界を認識させた。当時、唐の戦略重点は北方・東北にあり、西南では防衛的枠組みを模索していた。太宗は和親を通じた「舅婿関係」の構築により吐蕃を羈縻体制に組み込み、国境安定を図ろうとした。一方、吐蕃の松賛干布も先進技術導入と国内基盤強化のため和親を求め、貞観15年(641年)の文成公主入蔵によって唐朝を中心とした秩序への形式的統合が完成した[81]。
吐谷渾
太宗の吐谷渾に対する戦略は、分断瓦解から軍事征服に至る一貫した過程を経た。 太宗が即位した頃、吐谷渾はタングート(党項)と連携して唐の辺境を二十余度も侵していた。太宗はまず外交手段で吐谷渾の同盟勢力であるタングート諸部族の懐柔に成功し、これを孤立させた。機が熟すると、貞観8年(634年)に李靖を総指揮官として十万の軍を分路西征させ、空前の規模で吐谷渾を徹底的に撃破し、
百済
太宗の百済に対する政策は、柔軟な説得から戦略的警戒への転換を遂げた。 即位当初、太宗は詔書を賜ることで百済の藩属地位を明確に認めつつも、同じく唐の藩臣である新羅への侵攻を止めさせ、朝鮮半島の「平和的共存」を図ろうとした。しかし百済王の
新羅
太宗の治世において、新羅は積極的な朝貢外交と戦略的接近を通じて、自らを朝鮮半島における唐の重要な藩属国かつ戦略的支点として位置づけることに成功した。 百済と高句麗の同盟による圧迫と朝貢路遮断の危機に直面し、新羅はたびたび使者を遣わして太宗に救援を要請し、自国の安全を唐の東アジア朝貢秩序の維持と直結させた。貞観22年(648年)、金春秋親子が入唐し、「中華の制度に改める」「子を宿衛として遣わす」といった文化的・政治的な徹底的な臣従の姿勢を示すことで、太宗の深い信頼と出兵の約束を獲得した。太宗もまた、新羅が高句麗を牽制し東北戦略を実施する上で不可欠な盟友であることを認識し、特に自ら高句麗を親征して思うような成果が得られなかった後は、新羅を前線基地とした長期的な撹乱・襲撃戦略へと転換した。こうして、双方は共通の戦略的利益に基づき緊密に協力する「蜜月期間」を形成し、新羅は唐朝の東アジア秩序における地位を著しく高めたのである[84]。
中央アジアとヨーロッパ
『旧唐書』及び『新唐書』には、拂菻(ビザンツ帝国)が数度にわたり唐へ使節を派遣したことが記されている。これらの史書は、拂菻がかつての大秦(漢代におけるローマ帝国を指す)に相当するとの見解を示している。貞観17年(643年)、波多力(コンスタンス2世)は太宗皇帝のもとへ使臣を派遣した[85]。赤いガラス(紅玻璃)や緑の宝玉などの貢ぎ物を献上したと伝えられる[86]。これらの史書はまた、拂菻の風俗・習慣や、コンスタンティノープルの城壁についても簡略に記述している[87]。さらに、大食(たいしき、アッバース朝)の大将軍である摩栧(まよう、ムアーウィヤ1世。ハリファ即位前はシリア総督)がこれを包囲し、ビザンツ側に講和を請わせた戦争についても言及されている[88]。サーサーン朝最後の統治者ヤズデギルド3世は、ハリフ政権がペルシア中核地帯を攻略した際、中央アジアのフェルガナに駐在する宗主国・唐の太宗皇帝に使者を派遣して援助を求めたと伝えられる。この動きが、シリアをムスリム勢力に占領されたビザンツ帝国が、同様に使節を中国へ派遣した背景の一つとなった可能性がある。唐代の史料には、イスラム・ハリフによるペルシア征服後、サーサーン朝の王子ペーローズ3世が唐へ亡命したことが記録されている[89]。
太宗の支配下で中国が中央アジアへ拡大したことは、西方世界の注目を集めたようである。ヘラクレイオス王朝時代のビザンツ帝国歴史家・テオフィラクトス・シモカタは、「桃花石(Taugast、Taugas、古テュルク語:Tabghach。北魏を建てた鮮卑族の拓跋氏に由来するという説がある)」という名称で唐を指す記述を残している[90]。それは東方の大帝国であり、トルコ系民族を支配し、首都はインドの北東約1,500マイル(約2,400キロ)に位置する「胡姆丹」(突厥語のフムダン(Khumdan)に由来し、長安を指す)と呼ばれた。そこでは偶像崇拝を行っていたが、人々は聡明で、正義と公正な法に従って生活していた[91]。彼は中国を、長大な河川(長江)によって分割され、この川が二つの交戦国間の境界となっていると描いた。ビザンツ皇帝マウリキオス治世下において、北方の「黒衣の国」が南方の「紅衣の国」を征服したと記述されている。この記述は、隋の文帝による陳朝滅亡と中国統一に関連している可能性がある。[92]シモカタは桃花石の支配者を「ταϊσαν」(taïsan、タィサン)と称し、これを「天の子」、すなわち「天子」の意と解釈している。この呼称は、当時の支配者「太宗」の音訳との関連性も指摘される[93]。
後世の評価
『旧唐書』『新唐書』はいずれも太宗を大いに称え、乱世を平定した功業は商の湯王・周の武王に比肩し、治世の成果は周の成王・康王に等しく、功と徳を兼ね備えて漢代以来かつてなく、千載にわたり称うべきはただ一人であるとし、貞観の風は今に至るまでなお歌い継がれている[94][95]。
明の顧充は『歴朝捷録』において大宗を絶賛している。
- 「今『貞観政要』を読むと善政が山のように多く、これほど栄えた時代は伝説時代である夏殷周の三代を除いては存在しなかった。李世民の能力は、闊達さは劉邦に匹敵し、武勇は曹操に匹敵し、戦乱を平定した功績は殷湯王や周武王に匹敵し、政治が良かったことは伝説の「成康の治」に近かった」[96]。
一方、南宋の儒学者朱熹は『唐総論』で下記の様に太宗を批判をしている。
- 「劉邦は私欲が少なかったが、太宗の行動の一切は、仁義の仮面を被って私欲をやっただけだ。劉邦は正当に天下を獲得し、経緯もおかしなところはないが、それに比べると太宗は天下の取り方もおかしなところが多かった。もっとも隋末は反乱が多く、それを平定しなければいけなかったので、一人のくだらない悪漢(独夫すなわち殷の紂王)を倒せば済んだ殷周革命のような訳にはいかなかったことは理解できる。しかし、隋の恭帝を擁立したりしたのはどうにも弁護のしようがない。あれは必要があったのか?そういうことから見れば、劉邦の天下取りに太宗は及ばないという評価しかできない。また、太宗は親の高祖にむりやり隋の晋陽の宮女を侍らせ、無理やり挙兵させようとしたが、あの行為には君臣・父子・夫婦の義というものがない」[97]。
- 「玄武門の変は止むに止まれぬ行為ではなかった。周公旦が殷周革命の後で反乱を起こそうとした管の叔鮮・蔡の叔度を止むに止まれず討ち果たしたのとは、比べ物にならない。太宗には周公旦のような良い心がない」[98][99]。
このような太宗の言動に対する批判的な評価や懐疑的な考察は現在の歴史学者の間でも存在しており、布目潮渢は『つくられた暴君と明君・隋の煬帝と唐の太宗』において、前述のように「貞観の治」には後世の誇張が含まれていると考え、煬帝は大宗によって意図的に過少評価されており、太宗は過大評価をされていると論じている[100]。
称号
天策上将
天策上将は、高祖が秦王であった李世民の戦功を賞するために特に設けた官職である。武徳4年(621年)に洛陽を平定したのち、李淵は李世民の功績があまりに大きく、前代の官職ではこれを称するに足りないとして新たに天策上将を置き、その地位を王公の上と定めた。同年10月に正式に任命し、司徒・陝東道大行台尚書令を兼領させ、食邑2万戸を加増したうえで天策府を開き、属官を配置した。天策はもともと星の名である傅説星を指し、李淵がこの新職に天策上将の名を与えたことには、李世民への信頼と期待がうかがわれる[101]。
天策上将は名誉的な虚銜ではなく、実際の職掌を備えた軍職であり、国家の征討を掌り、府の事務を総裁した。天策府には長史・司馬・従事中郎らが置かれて府の事務を通判し、軍諮祭酒が軍事への諮問と礼儀を補佐し、記室が文書・上表を掌ったほか、功・倉・兵・騎・鎧・士の諸曹がそれぞれ考課、糧倉、兵士、馬匹、兵器、営造を分掌するなど、分工は整っており、実戦の必要に応える軍事指導機関であった[102]。
李世民が即位すると、この職は存在意義を失って廃止され、唐代を通じて再び任じられることはなかった。五代十国時代には楚の馬殷・馬希範らがこの号を踏襲して府を開き官を置いたが、北宋には幕府を持たない高位の栄誉職へと変質した[103]。
天可汗
貞観4年(630年)、唐軍は東突厥を滅ぼし、頡利可汗を生け捕りにした。捕虜を献じたのち、西北の各族の君長は相次いで唐太宗に天可汗の尊号を奉ることを求めた。伝えられるところでは、太宗はみずからすでに大唐の天子であり、あらためて可汗の事を行うことはないとしていったん辞退したが、群臣と四夷が強く勧めたために受け入れ、西域・北荒の君長の後継を冊立する役割を担うこととなった。天可汗(Tengri Qaghan)は突厥語で「天の可汗」を意味し(この号が回紇語に由来するとする説もある)、すなわち「汗の中の汗」である。北方諸民族が天を最高の信仰対象とするなかで、この称号はその地位が天そのものに等しく、それ以前の北アジア世界のいっさいの統治者を超えることを意味し、その威勢は空前であったという[104][105][106]。
天可汗の当初の実質的な意味は、東突厥の大可汗が空位となった状況で、唐が帰服した東突厥の諸部を直接統轄することにあり、隋文帝が受けた莫縁可汗に比べて実際に統治する意味合いを多く含んでいた。もっとも、遊牧世界の全体を号令できたわけではなく、薛延陀・車鼻や西突厥は当時その統轄の外にあった。貞観20年(646年)に薛延陀を滅ぼしたのち、鉄勒の諸部は霊州で帰服し、あらためて唐太宗を天可汗とすることを求めるとともに、参天可汗道を開いて駅を設けることを請うた(72駅とする説に対し、『資治通鑑』は68駅とする)。これにより天可汗の号令範囲は東突厥から鉄勒へと拡大したが、太宗の生前の統轄は帰服した東突厥と鉄勒の諸部にとどまった[107][105]。
その性質からみて、唐初の天可汗号は皇帝の称号に付随して存在するものであり、皇帝権の延長であって、中国と分立する別個の権力体系ではなかった。多くは「皇帝天可汗」という併称で用いられ、璽印や文書の制度には実際には定着しなかった。『通典』の記述は太宗朝の武功を回想したものにすぎず、後世の史書がこれを踏襲するうちに定説となった可能性がある。太宗ののち、玄宗・粛宗・代宗・徳宗らが回紇などから天可汗として尊ばれた(高宗・武后・中宗・睿宗にはこの号がなく、太宗以後は尊称にすぎないとする説もある)一方、突厥の登利可汗や回紇の登里可汗もみずからこの号を用いたことで、その専属性と実際の統轄的意味はしだいに失われていった[108][109][105][110]。
経典皇帝
経典皇帝は、チベット語史書にみえる唐太宗の称号であり、11世紀ごろ成立した『抜協』にのみ記され、他のチベット語史書にはみられない。『抜協』は、松賛干布の舅(しゅうと)にあたる唐太宗が360部の経典を持ち、漢地の経典皇帝としてたたえられたとする。漢文の語脈ではこうした表現は生まれないことから、この称号は吐蕃側から出たもので、吐蕃人の観念を反映していることが確かめられる[111]。
この称号の背景には、文成公主が漢文の典籍を吐蕃にもたらし、吐蕃が華風を慕って酋豪の子弟を国学に送り『詩』『書』を学んだことがある。唐太宗は吐蕃に漢文典籍を伝えた最初の皇帝であり、吐蕃の子弟の国学への入学を許した最初の皇帝でもあって、チベット人の記憶に深く刻まれた。360部の経典という説は、吐蕃時代の語脈と歴史記憶に由来する[112]。
『抜協』は同時に唐太宗に「孔子の化身王」と「観音菩薩の化身」という二つの形象を与えており、その後の『娘氏宗教源流』『西藏王臣記』『賢者喜宴』などにも「孔子小神変王」といった称号がみられる。これらは経典皇帝と性質を同じくするもので、漢文経典を伝えた太宗の功績をたたえ、チベット人のなかで太宗が漢文化の代表・象徴となっていたことを示している[113][114]。
獅子賛普
獅子賛普の称号が最初にみられるのは、12世紀に成立した『娘氏宗教源流』である。同書は唐蕃和親を記述するなかで、ガル・トンツェンユルスンが文成公主を求めた際に差し出した松賛干布の書簡の冒頭が、唐太宗を「漢地国王獅子賛普」と呼んでいるとする。1321年成立の『仏教史大宝藏論』は「生格賛普」と表記し、『新紅史』にも同様の記載がある。生格はチベット語で獅子を意味する[113]。
獅子の形象は吐蕃時代にすでに王陵、金銀器、絹織物に用いられており、王権と勇猛を象徴するその意味は主にペルシアやソグドなど外来文化の影響によるとするのが主流の見解である。賛普は吐蕃の君主に対する特定の称号で、神霊的な内包を帯びている。チベット語文献で唐の皇帝を直接賛普と呼ぶ例は唐太宗と唐玄宗の二人だけであり、いずれも公主を吐蕃に嫁がせているが、獅子賛普の格は唐玄宗に与えられた称号よりも上位である[115]。
この記載は12世紀に現れたものであるが、反映しているのは吐蕃時代の観念・語彙・語境であるとされる。唐太宗を獅子賛普と呼ぶことは、吐蕃人が彼を自国の賛普と同じように見なし、その功績を高く評価していたことを意味する[116][117]。
転輪王
転輪王(Cakravartin)は仏教の王権観の核心であり、正法によって世間を統治し天下を統一する理想の君主、すなわち「王の中の王」たる世界君主を指し、輪宝・象宝・馬宝などの七宝を標徴とする。仏教が伝来したのち、中国の君主は中土に本来あった天子の意涵に加えて転輪王の内容を帯び、「二重天命」とも呼べる政治論が形成され、七宝・千輪は帝王を描く新たな術語となって隋唐時代全体を貫いた[118]。
李唐は建国の当初からこの観念を用いていた。武徳4年(621年)、まだ秦王であった李世民が王世充を攻めた際に記した『告柏谷塢少林寺上座書』は、すでに李唐の建国を輪王の出世として描いていた。即位後の『大興善寺鐘銘序』ではみずから金輪に道を同じくし、仏法をもって三界を渡すとし、貞観9年(635年)の『度僧于天下詔』ではみずから金輪を敬い宝命を受けた者と称した[119]。
僧俗の知識人も広く李唐の君主を転輪王に擬した。武徳年間の僧・明槩は七宝に乗って飛び千輪を導いて進むとして高祖を描き、李百薬・王勃・張説らは「金輪所王」「金輪纂御」などの語で太宗をたたえ、玄奘は太宗を「金輪御天」と呼び、太宗と高宗をともに正法を護持する転輪王と見なした。武則天以前に李唐がすでにたびたび君主を転輪王として描いていたことから、武則天が金輪皇帝を称したのは独創でも唯一でもなく、当時疑問を差し挟まれることはなかった[120][121]。
人物・逸話
武勇
弓術
李世民は若い頃から弓矢を好み、その奥義を極めると自称していた[122][123]。彼は後に、自分は弓矢によって四方を平定したのであり、普段弓を使う時間は他の何よりも長いとよく人に語った[124]。大業末年、李淵に従って征討した際、敵軍に幾重にも包囲されたが、李世民は軽騎を率いて突破し、弓を引き絞って敵を射ると、向かうところ敵なしで、父を万軍の中から救い出した[125][124]。武徳二年(619年)十一月、宋金剛と柏壁一帯で対峙していた際、一度彼は軽騎を率いて敵情を偵察し敵兵に包囲されたが、大羽箭を用いて敵方の驍将を射殺すると、敵騎はようやく退去した[126][127][124]。竇建徳を征討した際、彼は尉遅敬徳に「私が弓矢を持ち、お前が長槊を持って私に従えば、たとえ百万の大軍があっても、我々をどうにかできるものか!」と言い、さらに「賊兵は私を見れば退却する。これが上策だ」とも言った。彼らが竇建徳の大営から約三里の地点に達すると、竇建徳の巡回兵が彼らに出会い、斥候と見なした。李世民は大声で「我は秦王なり!」と叫び、弓を引き絞って矢を放ち、相手の武将一人を射殺した。竇建徳の軍中は大いに驚き、五六千の騎兵を派出して彼らを追撃させた。李世民に従う者たちは皆、恐怖で顔色を変えたが、李世民は「お前たちはただ前へ進め。私と敬徳が自ら殿(しんがり)を務める」と言った。そこで彼らは手綱を引き締めてゆっくりと進んだ。追兵が追いつきそうになると、李世民は弓を引き絞って矢を放ち、射るたびに必ず一人を死なせた。追兵は恐れて止まり、止まってはまた追いかけ、これを何度も繰り返し、追ってくるたびに必ず誰かが射殺された。李世民は前後して数人を射殺し、尉遲敬德は十数人を殺したため、追兵はもはや敢えて近づこうとしなくなった[128]。
即位以後、李世民は毎日数百人を率いて殿庭の前で射箭を教習し、自ら現場に赴いて考核し、射中が多い者には弓、刀、布帛を賞与し、隊を率いる軍官も相応に優遇して考課した。数年が経ち、これらの士卒は皆、精鋭へと鍛え上げられた[126]。天下平定後も彼は常に騎馬射箭を行い、作った『出猟』の詩は、自らが剣を帯び弓を携え、原野を駆け巡って射る情景を描き出しており、当時の人々はまさに彼の箭法が嫻熟で、飛禽走獣を驚かせて逃げ隠れさせる本領を書き出していると考えた[129]。貞観十一年(637年)十月、洛陽苑で囲猟した際、一群の野猪が突然林の中から飛び出したが、彼は四矢を連発し、四頭を射殺した[130][131]。
李世民が用いた弓矢は通常の弓矢より一倍大きく、大羽箭と号し、門板を射抜くことができた。後に劉黒闥を追討した際、この弓矢は一度突厥人の手に落ち、突厥人は争って伝え見、驚いて神物と見なした[126][124]。秦王府記室の房玄齢はかつて彼の矢が多重の鎧甲を貫き、弓力が優に六鈞に達すると称賛した。一説ではこの言葉はやや誇張があるものの、彼の腕力が人並み外れており、射功が深いことを説明するには十分であると見なされている[124]。後に大弓一張、長箭五支が残り、武庫に収蔵され、世人は代々これらを珍宝として扱った。郊祭、丘祭などの重大な典礼が行われるたびに、必ずそれらを儀仗器物の最前列に陳列し、武功を顕彰するために用いた[132]。唐代の李綽は『尚書故実』の中で、李世民の弓矢と劉邦の斬蛇剣を相提並論した[133]。
剣術
唐代の詩人杜甫は唐太宗を詠じて、「風塵三尺剣、社稷一戎衣」の句がある。これは、彼が風塵の中で一振りの剣と一身の戎衣によって大唐の社稷を定めたことを意味する。一説ではこれに基づき、剣もまた彼が天下を定めた利器の一つであり、騎射だけに頼ったのではないと考えられている[131]。大業十三年(617年)の霍邑の戦いで、李世民は軍を率いて敵陣に突入し、自ら数十人を殺し、手にした二本の刀はどちらも欠け、鮮血が袖に飛び散ったが、彼は血を振り払って戦いを続けた[131]。貞観十一年(637年)、洛陽苑での囲猟の際、一頭の雄猪が御馬のすぐそばまで突進してきた。陪猟していた戸部尚書の唐倹は急いで馬を下りて猪と格闘した。しかし太宗は悠々と佩剣を抜いて猪を斬り殺し、振り返って笑いながら唐倹に言った。「天策長史は上将が敵を殺すのを見たことがないのか。なぜそんなに恐れるのか」と[134]。
『瑯嬛記』には、唐の太宗が一本の古剣を持っていたと記されている。その剣の七星の紋飾は時には現れ時には隠れ、天の北斗七星と呼応することができた。彼は常に灯の下でこの剣を試み、人に雲気が北斗星を通過するのを観察させた。すると剣の星の紋は一つ一つ次第に消えていき、その時間は寸分も違わなかった[135]。
明代の茅元儀『武備志』には、古代の剣術は戦闘に用いることができたため、唐の太宗には千名の剣士がいたと記されている。今日ではこの剣法はすでに失伝しており、残欠の簡冊の中に歌訣がなお残されているものの、その内容を評説することはもはやできない。近ごろ、この道を好む者が朝鮮からこれを得たが、その招勢と技法はともに完備していた[136]。
『陝西通志』には、唐の太宗が李靖とともに兵を率いて北番を征討し、高奴を経て龍安の地に至ったと記されている。地元の百姓が、大蟒が害をなしていると告げた。唐の太宗がその大蟒を射ると、大蟒は石の隙間に逃げ込んだ。太宗がその尾を引っ張ると、それは一本の剣と化し、剣の刃には欠けがあった。太宗が剣を押さえて石の上で磨くと、石はそのために削られて窪んだ。宋の元祐年間に、ここにこの寺が建てられた[137]。
馬術
李世民は隋末唐初において騎兵作戦に精通した代表的人物であり、統一戦争の中で優れた騎兵戦術によって、相次いで薛挙、薛仁杲、劉武周、宋金剛、王世充、竇建徳などの割拠勢力を撃破した[138]。戦争中、彼は常に精鋭騎兵を率いて敵陣の側面後方に突撃し、時には左右の者を先に撤退させ、自らは一人留まって殿軍を務めた。また、身を挺して先に進み、自ら軽騎を率いて敵を誘い、行く先々で敵兵は次々と潰走した[139]。
生前に昭陵を営建した際、彼は工匠に命じて青石で自分が乗った六頭の戦馬、白蹄烏、特勒驃、颯露紫、青騅、什伐赤、拳毛騧を彫刻させ、陵墓の前に立てさせた。世に昭陵六駿と称され、彼は自ら各馬のために賛文を撰した[140]。この六頭の馬は多くが外来の献上品であった。特勒驃は突厥出自の可能性があり、什伐赤の名はペルシア語に由来し、拳毛騧はもともと許洛仁が献上したもので、いずれも尋常の馬ではなかった。この種の烈馬は主人以外の者が近づくことはできないが、李世民はいずれも乗りこなして突撃し敵陣を破った[123]。
武徳七年(624年)、李淵に従って囲猟した際、李建成は肥え太り、しかも蹴り癖のある胡馬を一頭持っていた。彼は悪意を抱いて李世民に言った。「この馬は特に駿馬で、数丈の幅の溝を跳び越えることができる。弟は馬に乗るのが得意だから、試しに乗ってみてはどうか」と。李世民は馬に乗って鹿を追ったが、馬は続けざまに蹴り跳ねて人を振り落とそうとした。彼はそのたびにまず数歩の外に跳び退き、馬が落ち着くのを待ってから再び跨った。こうして三度繰り返し、ついに馬を馴服させた[123]。
書道
太宗は能筆家としても知られ、作品としては「温泉銘」がある。臣下にも初唐の楷書を完成させた書の大家を登用するなど、書に対する関心が強かった。また、書聖と謳われる王羲之の真筆に対して、異常なまでの執心ぶりを見せていたことも有名である。王羲之の子孫にあたり、会稽にいた智永という僧が持っており、智永の没後は弁才禅師に所有が移っていた蘭亭序の真筆を手に入れたいがあまりに三度に渡って譲渡を懇願したが聞き入れてもらえなかったので使者を遣わし、蘭亭序にけちをつけてだまし取ったほどである。こうして手に入れた蘭亭序を自身の死後に昭陵に納めさせたと伝えられている[141]。
言行
太宗が内廷の閑宴に衛国公李靖を召した際、常に彼を兄と呼び臣下の礼をもって接さなかった。即位したばかりの頃、鄭公魏徴と語る時はいつも本名を自称したため、天下の人はみな彼に心を帰した[142]。
太宗は、人が上書して事を奏し内容が政事に補益すると見るたび、必ず人に奏章を寝殿の壁に貼らせ、座っていても臥ていてもこれを眺めて省覧した[143]。
太宗は常に人に「ほかの人は魏徴の挙止が疎闊で簡慢だと言うが、朕はただ彼が嫵媚で愛らしいと思うだけだ」と語った。貞観4年、天下は康泰・安定し、一年を通じて死刑を言い渡された者は29人にすぎず、百姓は夜に門戸を閉ざす必要がなく、旅の人も乾糧を携える必要がなかった[144]。
太宗は群臣に「初めの頃、人々は今の天下では帝王の道を行えぬと言ったが、魏徴だけが朕に力を尽くして行うよう勧め、今やこのような功業が成就した。封徳彝らにつぶさに見せられぬのが残念でならない」と語った[145]。
太宗がある時、朝を退いた後に怒って「早晚にこの田舎者を殺してやる」と言った。文徳皇后が「誰が陛下を忤きましたか」と問うと、太宗は「ほかに誰があろう、魏徴だ。たびたび朝廷で面と向かって争い朕を辱しめ、常に朕を心地よくさせぬ」と言った。皇后は下がり、改めて正式な朝服を着て庭院の中に立った。太宗が驚いて「皇后はなぜそのようにするのか」と問うと、「妾の聞くところ、君主が聖明であればこそ臣下は忠誠となります。今陛下が聖明であるため魏徴は憚ることなく直言できるのです。妾が後宮に列する幸いを得ているのに、どうして祝いを述べないことがありましょう」と答えた[146]。
太宗は一羽の鷂を得てその俊異がきわめてすぐれ、私かに腕に据えて賞翫していた。遠くから魏徴が来るのを望むと鷂を懐に隠した。魏徴はこれに感づき、進み出て事を奏するついでに、古代の帝王が安逸・享楽を貪って禍乱を招いた故事を語り、婉曲に諷諫した。長く語ったので太宗は鷂が息苦しく死にそうなのを気遣ったが、平素から魏徴を敬重していたため彼に言い終わらせようとした。魏徴はなかなか話をやめず、鷂はついに皇帝の懐中で死んだ[147]。
太宗は梁国公房玄齢に「銅を鏡とすれば衣冠を正すことができ、歴史を鏡とすれば王朝の興廃を知ることができ、人を鏡とすれば自らの得失を明らかにできる。朕はかつてこの三面の鏡を大切にして自らの過ちを防いできた。今魏徴が死去し、一面の鏡を失った」と語った[148]。
太宗は夜半に侯君集が謀反したと告発する奏報を受け、起きて坐榻の周りを歩き、急いで侯君集を召すよう命じて意表を突こうとした。侯君集が到着し罪を請うて「臣は当年、陛下の幕府の左右に仕えておりました。どうか幼い息子の命を留めてください」と言った。太宗はこれを許し、彼の子を嶺南に流して奴僕とした[149]。
魏徴の死去後、太宗はみずから碑文を撰し親筆で書いたが、後に人の離間により詔して墓碑を倒させた。高句麗を討ってうまくいかなかった時、この出兵を深く悔やみ「魏徴が生きていたなら、朕にこの挙をさせはしなかった」と嘆いた。遼水を渡った後、駅馬を疾走させるよう命じ、少牢の礼で魏徴を祭り改めて碑を立てた[150]。
太宗がある時、一本の木の下に足を止め「これは良い木だ」と言うと、宇文士及は後に従って絶え間なく褒めた。太宗は顔色を正し「魏公は常に朕に諂媚な小人を遠ざけるよう勧めた。朕はずっと佞人が誰か分からず、心中常に卿を疑いながらも証拠がなかったが、今日見ると案の定そうであった」と言った。宇文士及は頭を叩きつけて罪を謝し「南衙の諸官は面と向かって過失を指摘し朝廷で筋を通して争うため、陛下は挙手することさえ思うままにならないことが多うございました。今臣が身辺に仕える幸いを得て、少しでも順わねば陛下は天子と尊ばれながらどんな楽しみがありましょう」と言った。太宗の怒りはこれで解けた[151]。
太宗が宇文士及に宴で肉を切らせると、宇文士及は餅で手を拭いた。皇帝はたびたび目つきで不満を示したが、宇文士及は気づかぬふりをし、かえってゆっくり手を拭き、やがてその餅を食べてしまった[152]。
太宗が医方を繰って『明堂図』を見ると、人の五臓・経絡はいずれも背部に連なっていたため、傷んで「今の律令の杖刑・笞刑で、どうして罪人の腿と背に別々に刑を受けさせられようか」と言い、詔して罪人の背を笞つことを許さなかった[153]。
貞観年間、河内の人・胡が妖言を造った。大理丞の張蕴古は、彼が平素から狂病を患っており法により罪に問うべきでないとした。太宗は張蕴古が私情に徇い法を枉げたとみなし彼を斬首するよう命じたが、やがて悔いが生じたもののすでに間に合わなかった。これ以後、死刑を判決するたび五度の回奏・复核を経ることとなった[154]。
太宗が病重の時、英国公李勣を畳州刺史に外放し、高宗に「李勣は才智が余るほどあり重任を歴任したが、彼が卿に心服しないことを朕は恐れ、この任命がある。彼が詔を受けて直ちに発てば朕の死後に卿は彼を親しみ信じてよい。もしためらって様子を見るようなら殺すべきだ」と語った。李勣は詔命を受けると家にも帰らず出発した[155]。
太宗が近臣を宴でもてなし互いに嘲謔して笑いを取った。趙国公長孫無忌は率更令欧陽詢を「肩を竦めると『山』の字のようで頭は両肩の間に埋もれて伸びてこない。どこの麒麟閣にこんな猕猴が描かれているか」と嘲った。欧陽詢は声に応えて「頭を縮め背中までぽかぽかと暖かく、大きな腹は股間を覆い尽くして腹の冷えを恐れる。ただ心が浑々沌々としているため顔じゅうが丸々としている」とやり返した。太宗は顔色を変え「欧陽詢、皇后に聞かれるのを憚らないのか」と言った。趙公は正に皇后の実の兄であった[156]。
李義府が初めて召された時、太宗は試しに烏を題に詩を作らせると、詩の末句に「上林苑にはあれほど木があるのに一枝をも私に貸して棲まわせてくれない」とあった。皇帝は「一枝どころか木ごと汝に貸してやろう」と言った[157]。
太宗は鄂公尉遅敬徳に「卿が謀反したと言う者があるが、どういうわけか」と問うと、敬徳は「臣が謀反したというのは本当でございます。臣は陛下に従って叛逆を討ち、陛下の神威に頼り幸いに死ななかったものの、今や身に残るものは刀や矢の傷跡ばかりです。今や大業は定まったのにかえって臣を疑うのですか」と答え、衣服をことごとく脱ぎ捨てて地に置き満身の創痍を現した。太宗は彼に対して涙を流し「衣服を着よ。朕はまさに卿を疑わないからこそこの言を告げたのだ。どうしてかえって怨むのか」と言った[158]。
太宗は尉遅敬徳に「朕は娘を卿に嫁がせようと思うが、卿は満足か」と問うと、敬徳は辞退し「臣の妻は鄙陋ではありますが夫婦の情を失ってはおりません。臣は古人の『富貴になっても妻を替えない、これが仁である』という言葉を常に聞いております。臣はひそかにこの行いを慕い、陛下に恩寵をお収めくださるよう願います」と言い、叩頭して固く辞した。太宗は彼を称え、この事は見送られた[159]。
薛万徹は丹陽公主を妻に娶った。太宗が人に「薛駙馬は土臭いところがある」と言ったことがあり、公主はこれを恥じて数か月の間彼と同席しなかった。太宗はこれを聞いて大笑し、酒宴を設けて二人を召して向かい合わせ、握槊の遊戯をし自ら佩いた刀子を賭けとして負けたふりをし、刀を解いて薛万徹に佩かせた。酒宴の後、公主は大いに喜び、薛万徹が馬に乗る暇もなく急いで彼を誘って同じ車に乗って帰り、彼を以前よりいっそう敬重した[160]。
梁国公房玄齢の夫人は極めて嫉妬深かった。太宗が房玄齢に美人を賜おうとすると房玄齢はたびたび辞退して受けなかった。皇帝は皇后に房夫人を召させ「妾を娶り媵を置くのは今や本来の常行の制度である。その上司空は高齢で太宗は優遇しようとしている」と告げさせたが、夫人は固く執って心を翻そうとしなかった。太宗は人に彼女に「お前は嫉妬をやめて生きる方を選ぶのか、それとも嫉妬を守って死ぬ方を選ぶのか」と言わせた。夫人は「妾は嫉妬して死ぬ方を選びます」と言った。太宗は人に杯の酒を注がせて彼女に与え「そうならこの毒酒を飲むがよい」と言った。夫人は杯を挙げて一気に飲み干し、少しもためらい難色を示さなかった。太宗は「朕が彼女を見てもなお恐れるというのに、まして房玄齢が!」と言った[161]。
太宗は文教を明らかにし武備を休め、まるで天が賛け神が授けたかのようであった。彼はかつて私かに端門に臨み、新たに及第した進士たちが次々と列をなして出てくるのを見て喜び「天下の英雄はみな朕の掌中に入った」と言った[162]。
李勣がかつて病気になった時、「髭の灰が良く効く。」と聞いた太宗は、自らの髭を切って煎じて薬を調合した。李勣は、出血するほど頓首して泣いて感謝したが、太宗は言った。「社稷の為にしたのだ。卿の為にしたのではない。何でそこまで感謝するのか[163][164]!」
李勣が宴会に参加していた時、太宗はくつろいだ様子で言った。「朕は、群臣の中に我が子を託せる者を探したが、公以上の者はいない。公はかつて李密に背かなかった。どうして朕へ背こうか!」李勣は泣きじゃくって辞謝し、指を囓って出した血を酒へ入れての飲み、酔いつぶれた。太宗は御服を脱いで、李勣に掛けてあげた[163][164]。
高句麗征伐において右衛大将軍の李思摩が矢に当たって負傷した時、太宗は自らその血を吸いだして治療した。将士はこれを聞き、感動しない者はなかった[165][166]。
太宗が兵を用いて極北の地に至ると夜もあまり暗くならず、しばらくすると明けた。人々は、そこが大地の先端にあたり天と地が上下に接する所に近く、大地が太陽の光をあまり遮れないためだと考えた。太宗は北方の部落を骨利干に至るまで服え、堅昆都督府を設置した。その地は夜がすぐに明け夜間もあまり暗くなかったが、おおよそ大地の果てに当たり日光がなお照射できるためであろう。そこの人々は髪がみな赤かった[167]。
太宗は高昌を破った後、馬乳葡萄の苗を持ち帰って宮苑に植え、同時に酒を醸す方法を得た。彼はまたみずから酒法を増減・改良し、醸した酒は緑色を呈し香気は芳しく強く鼻を打ち、味は醍醐のような甘美と醇厚を兼ね備え、長安の人はここで初めて葡萄酒の味を知った[168]。
怪異譚
太宗がまだ義兵を挙げる前、劉文静の家で酒を飲み、酔って劉家に臥したことがあった。劉文静が楼上に座っていると、宅の南の池に一頭の白龍が下りて水を飲み、池の大魚が次々と岸に跳ね上がるのが望まれ、その数は数百にのぼり、久しくして白龍は消えた。劉文静の家人はいずれもつぶさに目撃し、きわめて驚いた。太宗が目を覚ますと、劉文静に「酔ってひどく喉が渇き、卿の家の池に入って水を飲む夢を見た。水はきわめて清らかで冷たく、実に快く飲めた」と語った。劉文静が見ると、彼の身はまだ濡れていた[169]。
唐の武徳末年、太宗が内難を平定しようとする時、御苑の池に一頭の白亀があり、蓮の葉の上を泳いでいた。太宗がそれを手に取ると、白亀は一塊の白石に変じ、光沢があって玉のように潤んだ。登基の後、太宗は制書を頒布し「皇天が愛しみ保祐し、宝亀を賜った」と述べた[170]。
貞観年間、忽然と一羽の白鵲が寝殿の前の槐の木に巣を営んだ。巣は両端が連なり、形は腰鼓のごとくであった。左右の侍臣は拝跪・舞踏して太宗に祝いを述べた。太宗は「朕はかつて煬帝が祥瑞を好むのを笑ったものだ。真の祥瑞は賢才を得ることにあり、これが何の祝うに足りようか」と言い、人に命じて鳥の巣を打ち壊させ、白鵲を野外に放した[171]。
貞観2年(628年)、京城は大旱に見舞われ、蝗が大量に発生した。太宗が禁苑に入って禾苗を視察し、蝗を見ると数匹を拾い、「百姓は穀物によって生きているのに、汝らが穀物を食べるのは百姓を禍することである。百姓に過ちがあるなら、責任はすべて朕一人にある。汝らが本当に霊あるなら朕の心を食らえばよく、百姓を禍するな」と祝告し、言い終わると蝗を呑もうとした。左右の侍臣は慌てて「病になる恐れがあり、断じてなりません」と諌めた。太宗は「朕はまさに災禍を朕の身に移そうと望んでいる。なんで病を避けようか」と言い、蝗を呑み下した。これ以後、蝗は災害をもたらさなくなった[172]。
貞観年間、西域から一人の胡僧が献上され、自らその呪術は人を死なせることもできれば生かすこともできると称した。太宗は飛騎禁軍の中から壮勇な兵士を選んで試させ、兵士が彼の呪文に従って死に、また呪文に従って蘇るのを見た。太宗がこの事を太常卿の傅奕に告げると、傅奕は「これは邪術にございます。臣の聞くところ、邪は正を犯すこと能いませぬ。もし彼に臣を呪わせましたなら、必ずやその謀りを遂げさせませぬ」と言った。太宗は胡僧を召して傅奕を呪わせた。傅奕が彼に対すると、初めは少しも異状がなかったが、しばらくして胡僧は忽然と自ら倒れ、何者かに撃たれたかのように、ついに蘇ることはなかった[173]。
唐太宗が遼東を討ち定州に至ると、路傍に一人の鬼があり、黄衣をまとって高大な墳冢の上に立ち、神采・気度が並ひとと異なっていた。太宗が使者を遣わして問わせると、鬼は「我は我の当年に雄を称え、君は君の今日に勝を称う。栄華はそれぞれ世を異にするもの、なんぞ前人の跡を苦しく尋ねることがあろう」と答え、言い終わると見えなくなった。当地の人に尋ねて、そこが慕容垂の墳墓であることを知った[174]。
玉龍子とは、太宗が晋陽宮で得た玉雕の龍で、文徳皇后は常に衣装箱に入れていた。大帝(唐高宗)が生まれて三日目に、皇后は珠の緒を縫いつけた襁褓を玉龍子とともに彼に賜った。これ以後玉龍子はずっと内府に蔵された。幅は数寸にすぎないが、温かく潤い精巧で、人間の世にありうるものではなかった。玄宗が即位してからは、京城が旱魃で雨がないたび、玄宗は必ずそれに篤く祈った。大雨が来ようとする時、近づいて見ると、玉龍子はまるで鱗甲と鬣の毛を振り起こしているようであった[175]。
後世の信仰
公式祭祀
唐による先代帝王の祭祀は貞観年間に始まる。貞観4年(630年)の突厥に対する戦いが終わった後、朝廷は9月に詔を発し、古くからの明王・聖帝、賢臣・烈士の陵墓を保護して陵区で放牧してはならず、春秋の二季に祭祀を行うよう求めた。ただし貞観年間に系統立った祀譜が形成されていたかどうかは、すでに知ることができない[176]。北宋の建隆4年(963年)6月、『前代帝王三年一享詔』が公布され、唐代の祠令を踏襲したうえで漢の光武帝と唐太宗が祭祀に加えられ、彼らに配享の臣が設けられた。これにより李世民は先代帝王の常祀の名簿に列した[177]。大中祥符年間、唐太宗は唐玄宗とともに祀譜の第二等に列し、毎年仲春に京兆府および同州の本廟でそれぞれ一度ずつ祭祀し、当地の長官が礼を行うものと定められた[178]。北宋の熙寧年間、官員から帝王の陵寢の地で百姓が荒地を開き耕作することを認めるよう提案があったため、唐の諸陵は多くが破壊され、なかでも昭陵の損壊はとりわけ深刻であった[179]。
金に入って後も、唐太宗に対する祭祀は公式な崇拝に位置づけられ、関連する礼儀は『金史』および『大金集礼』の記載に見える[180]。醴泉県の唐太宗廟は宋太祖の建隆4年(963年)に建立され、金熙宗の天眷元年(1138年)に改めて修葺が命じられた。碑文は時人の言を引き、唐太宗は唐代の英武な君主であり、史臣はその功業と徳行がいずれも極めて隆盛であると称えた[180]。金章宗の泰和4年(1204年)には、三皇・五帝・四王を3年に一度祭ると定められ、唐代の君主17人が追加されたが、そのうち年代の最も下る一人が唐太宗であった[181]。
明初に祀典が議定され、25人の先代帝王が三等に分けられた。第二等には両漢・唐・宋・元の開国君主6人が含まれ、唐太宗もその一人に名を連ねた。地方がその陵寢に廟を建て毎年一度祭祀し、少牢の礼を用いるものと定められた[182]。洪武6年(1373年)、歴代帝王廟が南京に完成し、正殿は同堂に室を異にして五室に分かれ、唐太宗の神主は時代順に東の第一室に安置された[183]。洪武7年(1374年)に祀典が調整され、周文王と唐高祖が除かれ隋文帝が加えられたが、周武王と唐太宗は祀譜に残され、唐太宗は最も西の室に移った。これ以後、歴代帝王廟はおおむね彼に対する祭祀を継続した[183][184]。
虫王
中国の民間で広く奉祀される蝗除けの神は劉猛将軍であるが、山西南部および晋東南地方では、虫王こそ唐太宗李世民である[185][186]。この信仰の核心となる根拠は、史書に載る貞観2年(628年)の太宗が蝗を呑んだ故事である。『貞観政要』によれば、この年、京師は旱災がひどく蝗が大量に発生した。太宗が禁苑で作物を視察し、数匹の蝗を拾って「百姓は穀物を命としている。その穀物を蝗が食べてしまうのは、百姓を苦しめることである。百姓に過ちがあるなら、責任はすべて朕一人にある。蝗に霊性があるなら、朕の心を食べればよく、百姓を傷つけるな」と祝告した。左右の侍臣は蝗を呑むと病気になると心配して相次いで諌めたが、太宗は、自分はまさに災禍を己の身に引き受けようとしているのであり、病を避ける必要はないとして蝗を呑み、これ以後蝗は災いをなさなくなった[187]。ある見解は、『貞観政要』がこの事の最も早い記載であり、『旧唐書』『新唐書』『資治通鑑』のテキストはおおむね同じであるが、なかでも『資治通鑑』は4月辛卯の具体的な日付を記し、癸酉の日に降雨があった内容を補っている、とする[188][187]。
晋東南の虫王信仰は祠廟・碑刻・廟会を载体とし、関連する廟宇は主に長子・長治・陵川・高平・沢州・晋城などに分布する[185]。晋城南石店村の虫王廟には清の咸豊6年(1856年)の碑が現存し、碑額には「万善同帰」と題され、当地の士人が撰文して、同廟は郷全体が恩を祈り功を報いる場であると記す。碑文は、後人が虫王として太宗を祭祀するのは、貞観2年(628年)3月庚午に太宗が旱災・蝗災により咎を引いて自ら責め、癸酉の日に降雨した一事に由来すると説く[189][185]。碑文は虫王として太宗を祀りながらも、蝗を呑む場面を直接引かず、またみだりに名を呼ばず、帝王と神霊への敬畏を示している[190]。この廟は村の東に建ち、碑文は陰陽五行の説でその方位を説明する。東方は四時では春に属し、五行では木に属し、徳行では仁に属し、八卦では離卦と震卦を兼ね、万物の萌動・生長・盛徳・繁育を象徴する。東に廟を建てたのは、虫王が村里の作物のすくすくとした生長を守り、生前と同じようにあらゆる害虫を治めてくれることを願うためである[191]。沢州紫台山の蝋帝宮は虫王廟と俗称され、清の乾隆年間の碑文によれば、山頂には八蝋祠が建ち、当地の人々が唐太宗の像を彫塑してその中に奉祀する。毎年7月2日には規模の大きな虸台山廟会が開かれ、郷民は李世民を「虫児爺」と親しみを込めて呼ぶ[185]。陵川県の虸蚄廟は、伝えるところ唐太宗が蝗を呑んだ地とされ、康熙年間の碑記は、神の恩は四方に行き渡り、当世の人はその徳を蒙り歴代の人はその美を分かち合うと記す[185]。長子県団城村の唐太宗廟は、伝えるところ元の至正6年(1346年)の建立で、当時蝗災が起き、郷人が太宗の蝗を呑んだ故事にちなんで祠を立て祈ったところ果たして験があったため廟を建て、毎年4月18日に祭祀した。乾隆年間の碑記にはまた、廟では唐太宗を正神とし配殿を虫王と称し、春秋二季に祭賽して報享すると記される[185]。長子古城では、虫王唐太宗の説は官府の承認をも得て、毎年4月8日に地方官が祭祀を主宰した[192]。
信仰が形成された原因について、ある見解は三点にまとめる。第一に、晋東南は旧くは晋陽の故地に属し、太宗は晋陽で龍興し、征戦の際にもここで功業を立てたため、民衆から深く擁戴されたこと。第二に、この一帯は古くから蝗災が多発・重発する地で、民衆が帝王の神奇な偉力により蟲害を追い払い豊収を願ったこと。第三に、貞観2年(628年)から4年(630年)の大蝗災と、太宗が咎を引いて躬を責め民のために蝗を呑んだ禳災の行いが、信仰の直接の史源となり、そこには災害を天の譴責とする唐代の帝王観も表れていることである[187]。別の説はまた、民間が虫王唐太宗を廟祀した歴史は、宋代以降に劉猛将軍を祭祀した歴史より古い可能性があり、元の至正6年(1346年)にはすでに郷人が蝗災により祠を立てた明確な記載があると指摘する。清代に入ると、朝廷は雍正2年(1724年)、伝えられる元代の人で蝗を駆ることのできた劉承忠の神祠を立て、これ以後劉猛将軍廟は府・州・県で広く祭祀される対象となった。清廷が劉承忠を独尊したのは、南宋の劉錡ら劉姓の将軍がかつてその女真の祖先を大いに破ったことに関係するかもしれないが、民間の俗神は土地によって異なり古くから相伝されていることが多く、南石店などの村民は終始唐太宗を虫王として奉り、政令によって改めることはなかった[193]。文学の面では、唐代の『朝野僉載』が、蝗を呑んだ後に群れをなした鸛が飛来し、一日のうちに蝗を啄み尽くした神異な場面を付け加え、白居易の『捕蝗』の詩は太宗が天を仰いで蝗を呑む様を詠嘆し、清代の『声律啓蒙』はなお「吞蝗唐太冀移災」の一句を漢文帝が馬を退けた故事と並べて誦した[187]。見解によれば、民衆はまさに史書の典故を借り、歴史を利用して俗信を行うことで民間信仰に正統な地位を得させ、ついに虫王信仰が民間に根づくに至ったという[187]。
紫薇星
明清の歴史小説では、開国の帝王はほとんどが星宿の下凡として描かれ、使命を帯びて人間に降り、劫数を払い天下を統一したとされるが、ある説はみずから李世民を紫薇星であると指摘する[194]。小説は彼の出生時、半空で仙楽がことごとく鳴り響き剣や佩の音が聞こえ、紫の霧と祥雲がたなびき、龍鳳の姿・天日の表という定型の相貌が保たれたと描く[194]。小説はまた、程咬金が斧を振るって李世民に切りかかった時、彼の全身が紅光と紫霧に包まれ、半空に現れた一頭の八爪金龍が板斧を受け止めたと描く[194]。『大唐秦王詞話』は李世民がたびたび危難に陥るたび、金龍が体を護ることもあれば三清老君が保祐することもあり、紫薇星が高空から照臨することもあるため、秦瓊・徐茂公・魏徴らは彼が真命天子であることを知り、幾度となく方法を尽くして彼を全うしたと描く[195]。
京劇の星宿をめぐる語りにおいても、李世民は同じく紫薇星の身份で登場する。唐代の青龍・白虎が三世にわたり争う物語の第一世、すなわち『鎖五龍』で青龍星の単雄信が唐に叛くが、それに相対するのがほかならぬ紫薇星李世民である[196]。『羅成托兆(小顕)』では、白虎星羅成の亡霊が長い二黄の唱で、天が紫薇星を降らし青龍星は太原に胎を宿し燕山には白虎星が降ったと語り継ぐ。劇の終わりに「君臣が再び相い会い、龍門を大いに破り臣が君に見えん」として、白虎が薛仁貴に転世し引き続き紫薇星君を補佐することを予告するが、これは京劇が星宿の関係を最も明瞭に説いた段落とされる[197]。こうした星宿が世に臨み本命が現れる劇目は、作者個人の創造ではなく、民間信仰が伝統京劇に広く滲透し、民衆の集団的願望が投射された結果である[198]。
観音化身
後弘期のチベット語史籍において、吐蕃の賛普・松賛干布は仏教を導入した功績により観音菩薩の化身と広く記される。その事跡を載せる伏藏文献を見ると、後弘期の初期には彼を神化する過程が経られていた。一方、諸チベット語史籍のうち、唐太宗を観音菩薩の化身と記すものは、最も早く成書した『抜協』にのみ見え、しかも語気はきわめて慎重で、唐太宗は聞くところによれば観音菩薩の化身であると記す[116]。分析は、「聞くところによれば」の語が『抜協』の根拠としたものの民間伝説であることを示し、「も」の一字が、唐太宗より前にすでに観音の化身と称された人物、すなわち松賛干布がいたことを物語ると指摘する[116]。松賛干布は唐太宗と同時代で、また唐に対して娘婿の礼を執り、二人の関係は密接であったため、吐蕃の人は二人を同列に見なしやすく、ここから唐太宗も観音の化身であるという説が生まれた[116]。見解は、この伝説は吐蕃後期に形成され吐蕃民間に源を発した可能性が高く、『抜協』は後弘期早期の史籍としてそれを記録したにすぎないと推測する[116]。
孔子小神変王
『抜協』はチベット語で唐太宗を「公子楚瓊」と称する。考証は、そのうち「公子」の語は孔子を指すべきで、旧訳が「公子」と訳したのは正確でなく、称谓全体の意味は、彼が神に近くそれよりやや小さい神奇な能力を備え孔子のようであること、要するに「孔子小神変王」であり、一説に「孔子小化身王」ともいうと指摘する。これにより『抜協』は唐太宗に合わせて三つの形象、すなわち孔子化身王・観音菩薩の化身・経典皇帝を与えている[113]。唐太宗を孔子と結びつけ孔子化身王と記す記載は、『抜協』以後のチベット語史籍に広く存在する。12世紀に成書した『娘氏宗教源流』は、唐太宗を孔子化身王の後裔・孔子小神変賛普と称し、その他の主要な史籍も多く類似の称谓を踏襲した[113]。
チベット語では孔子を「貢則」という。吐蕃時期、中原から伝わった占卜・風水・暦算は大いに好まれ、孔子も吐蕃の観念によって神化された。敦煌のチベット語写巻に現れる「貢則楚吉布」の語は、神奇な能力を備え神に近い人の意を表し、漢文における聖人・天子の意味に通じる[114]。分析は、唐太宗と孔子を結びつけた重要な媒介は漢文典籍であるとする。唐太宗は漢文典籍を初めて吐蕃に伝えた経典皇帝であり、孔子は吐蕃がそれらの典籍から認識した漢地の聖人で、前者は経典を吐蕃に伝え後者は経典の中から現れたのである[114]。吐蕃が漢地文化に接した当初、孔子と唐太宗の年代の隔たりにまだ疎く曖昧であったこと、加えてその歴史観が人物の事跡を重んじ時間・場所を相対的に軽視したことから、孔子小神変王の説が生まれることとなり、それは吐蕃時期の語境に源を発した可能性が高い[115]。見解は、この称谓は「経典皇帝」と基本的に同じ性質で、いずれも唐太宗が漢文典籍を伝えた功を吐蕃が高く評価したことを反映し、吐蕃の人々にとって唐太宗が漢文化の代表かつ象徴となっていたことを物語ると指摘する[115]。
地方守護神
李世民がかつて征戦した山西の各地では、唐太宗廟・秦王廟が長く地域性の祠廟として存在し、霍州・郷寧・介休・屯留・長子・陽城などには古代いずれも唐太宗廟が建てられ、建廟の縁由は多くが彼が当年当地で作戦したり駐兵したりしたことに関わる[199]。ある調査は、こうした祠廟の分布は多く人物の事跡と関わると指摘する。京兆府武功県の唐太宗廟は報本寺の付近、すなわち唐高祖の故居に建ち、元祐3年(1088年)に地方官が修繕を唱えたもので、帝王の出生地に廟を立てた例にあたる。介休河底村の秦王塔、城内の后土廟脇にある点将台と聴令巷は、それぞれ李世民が劉武周に勝利したこと、尉遅恭が帰順したことなどの戦事に附会されている[200][185]。
山西安沢県安上村の唐王廟は、移民社会における地方守護神の典型的な一例である。安沢は太岳山の東南麓に位置し、歴史上、晋・冀・魯・豫からの移民が集中して移り住んだ地で、移民とその子孫が県人口の大多数を占める。安上村の村民の祖籍はほとんどが河北の武安・沙河および河南の林県・滑県などで、移民を主体に形成された新しい社区である[201]。唐王廟は村里で最も大きな廟宇で、清代中期から民国年間まで一貫して村社の管理と祭礼・演劇の中心であった。ある見解が社会学の説を引いて指摘するには、宗教は経済的利益・階級・地域の差異を超えた集団的象徴を提供し、各地から来た移民が平素の境界を打ち破り一つの社区にまとまることを可能にするという。唐王廟はまさに移民集団の精神生活が集まる場であった[202]。民国の初年、当地の商業に携わる移民が廟宇を拠り所に田社組織を設立し、安上を中心に八社・69の村を統轄した。田社は唐王廟に社廟としての身份を与え、廟宇の修繕・祭祀・演劇を主宰し、神廟の人を集める働きを利用して村の公共事務の決定にも関与した[203]。安上はまた、平陽と上党を結ぶ商路の要衝に位置し、往来する客商が多くここで足を休めたため、廟には専ら関公殿が建てられ、商人がたび重なる修廟の主な寄進者となり、唐王廟はそのため商路の神廟としての色彩を濃く帯びた[204]。廟会のたびに神に捧げる芝居が演じられ、それは祭祀であると同時に村民の最も主要な娯楽でもあり、上党梆子・河南豫劇・武安落子などの郷の劇団が交替で訪れた。20世紀90年代まで、毎年4月24日と7月15日の廟会が継続していた[205][206]。
十八学士

李世民が秦王となったとき、文学館を建て、賢才を招聘した。杜如晦・房玄齢・于志寧・蘇世長・姚思廉・薛収・褚亮・陸徳明・孔穎達・李玄道・李守素・虞世南・蔡允恭・顔相時・許敬宗・薛元敬・蓋文達・蘇勗の18人を学士とした。俗に秦王府十八学士とも言われている。
当時の人々はこれを「登瀛洲」(これは、士人が栄誉を得たり、理想の境地に至ることの喩えである)と称した[207]。
後世の文学・芸術においてこの故事を引用した例は多く、例えば明代の于謙には『題唐十八学士登瀛洲図』という七言律詩があり[208]、明代の詩人鄭真には『唐十八学士登瀛洲図』という七言絶句があり[209]、南宋の画家劉松年による『十八学士図』などの作品が残されている。
元代には無名氏によって創作された雑劇『十八学士登瀛洲』があり、この劇は唐の太宗が長安の東に「瀛洲」を築いて翰林院の文人たちを集めようとする物語である。袁天罡が詔を奉じて吉日を選び工事を開始し、老将軍尉遅恭が監造官となる。やがて瀛洲が完成すると、房玄齢が命を受けて宴を催し、翰林院十八学士を集める。名士たちが一堂に会し、それぞれ詩を吟じて盛況を助けた。李道宗も瀛洲に訪れるが無学であったため、十八学士から嘲笑を受ける。増福神が下界を巡視する際、瀛洲に賢人たちが集う様子を見て、唐太宗が人材を大切にしていることを知り、鈞天大帝に報告する。鈞天大帝は大いに喜び、増福神、注禄神、金甲神、西池金母、東華帝君を人間界へ遣わし、唐太宗の福と寿命を延ばす。唐太宗は夢の中で瀛洲に祥雲が立ち込めるのを見、袁天罡が神仙降臨の夢解きをする。房玄齢は再び十八学士を集めて祭祀を行い、聖代を称え奉るのであった[210]。
二十四功臣

643年(貞観17年)、太宗は自らと共に中国統一に功績のあった功臣24名を偲んで、凌煙閣という建物に功臣たちの絵を画家である閻立本に描かせた。名を挙げた順については、当時の功臣の序列を反映したものとなっている。俗に凌煙閣二十四功臣とも言われている。
二十四功臣
後世への影響
凌煙閣に二十四功臣の肖像を描くことに由来する一連の典故において、「標凌煙」は朝廷が卓越した功績を挙げた者を表彰・記念することを指す。唐代の詩人・李賀は「請う君暫く凌煙閣に上れ」という詩句で[211][212]、この閣が功臣を象徴する意義を称えた。宋代の韓元吉は『水龍吟・寿辛侍郎』の詞で「明年看取せん、鋒旗南下し、六騾西走するを。功は凌煙に画き、万釘の宝帯、百壶の清酒」と詠み、「凌煙に上る」はその功績が極めて大きいことを言い表す[213]。宋代の黄庭堅も『満庭芳・茶』で「方圭円璧、万里名京関に動く。身を砕き骨を粉にすとも、功は凌煙に上るに合う」と記した[214]。清代の李漁は『呉太翁挽歌』で「儀容但だ未だ麟閣に図られず、姓字何ぞ凌煙に標さざる」と詠んでいる。「功凌煙に画く」は、卓越した功績を立てて名を歴史に残したことを意味する。
凌煙閣に名を連ねる多くの功臣は、後世の戯曲、小説、講談などで演じられる題材となった。特に元末以降、小説や講談が栄え、『隋唐演義』『説唐』『興唐』などの小説が広く人気を博した。
長い中国の封建時代の歴史において、政治、軍事、文化・芸術などの分野で、唐王朝は最も輝かしく華麗な成果を収めた。後世に極めて豊かな遺産を残している。凌煙閣はこれらの貴重な遺産の中でも特に価値ある一部である。凌煙閣は本来、唐の宮殿・西内の禁苑にあった普通の建物であったが、様々な時期に功臣の肖像が描かれるにつれ、他とは異なる国家的な「美術館」兼「記念堂」となった。当時の人々の間では、功業を立て、家名を上げ、名を歴史に残す象徴であり基準とすら見なされるようになった[215]。
十四蕃君
宗室
- 正室:長孫皇后(文徳皇后)(601-636)- 鮮卑拓跋部に出自に持つ、長孫無忌の妹[217]
- 側室:貴妃 韋珪(597-665)
- 側室:楊妃 - 隋の煬帝の皇女
- 側室:燕徳妃 - 楊雄の娘と燕宝寿のあいだの娘
- 側室:鄭賢妃[218]
- 側室:楊妃 - 楊素の子の楊玄奨の娘
- 十三男:趙王 李福
- 側室:陰徳妃(のち九嬪へ降格) - 陰世師の娘
- 五男:斉王 李祐
- 側室:西宮昭儀
- 側室:某昭儀(601-682) - 西宮昭儀と同一?
- 側室:昭容 韋尼子(607-656) - 韋珪の叔父の韋匡伯の娘
- 側室:充容 徐恵(贈賢妃)(626-650)
- 側室:楊婕妤 - 楊雄の子の楊恭道三女
- 側室:金婕妤
- 側室:蕭美人 - 蕭鑠次女
- 側室:蕭才人 - 蕭鏗第二女
- 側室:崔才人 - 崔宏道長女
- 側室:才人 武媚 - 武士彠次女
- 側室:才人 王帝釋[219]
- 七男:蒋王 李惲
- 側女:高恵通[220]
- 側女:細人 刀妙琏
- 愛人:巣剌王妃楊氏 - 楊雄の従孫娘で李元吉の元妻
- 十四男:曹王 李明
- 生母不詳の子女
- 次男:楚王 李寛 - 早世
- 十二男:代王 李簡 - 早世
- 長女:襄城公主 - 蕭鋭(蕭瑀の子)夫人
- 次女:汝南公主 - 早世
- 三女:南平公主 - 王敬直夫人、のち劉玄意(劉政会の子)夫人
- 四女:遂安公主 - 竇逵(竇抗の子の竇静の子)夫人、のち王大礼夫人
- 六女:豫章公主 - 唐善識(唐倹の子)夫人
- 七女:比景公主 - 柴令武(柴紹の子)夫人
- 八女:普安公主 - 史仁表(史大奈の子)夫人
- 九女:東陽公主 - 高履行(高士廉の子)夫人
- 十一女:清河公主 李敬(徳賢)- 程処亮(程知節の子)夫人
- 十二女:蘭陵公主 李淑(麗貞)- 竇懐悊(竇毅の子の竇照の曾孫)夫人
- 十三女:晋安公主 - 韋思安夫人、のち楊仁輅夫人
- 十四女:安康公主 - 独孤諶(独孤信の子の独孤蔵の曾孫)夫人
- 十五女:新興公主 - 長孫敬道(長孫順徳の弟)夫人
- 十七女:合浦公主(高陽公主) - 房遺愛 (房玄齢の子)夫人
- 十八女:金山公主 - 早世
- 二十女:常山公主
登場作品
小説
- 『隋唐演義』、主要人物の一人として活躍する。前半主人公の秦叔宝とは生まれる直前に救われた恩がある。
- 『西遊記』、一時地獄に落ちるが現世へと帰還し「三蔵」の取経を乞うたところ、玄奘がそれに応える。なお、地獄に落ちるエピソードは隋唐演義と共通。
- 小前亮『李世民』(講談社、2005年/講談社文庫、2008年) ISBN 406-2761491
- 塚本靑史『李世民』(上・下)、日本経済新聞出版社、2012年 ISBN 978-4532171179・ISBN 978-4532171186/日経文芸文庫、2014年
漫画
映画
テレビドラマ
- 『西遊記』、『西遊記II』(1978年 - 1980年、日本テレビ、演:中村敦夫)
- 『西遊記』(1993年、日本テレビ、演:夏木陽介)
- 『西遊記』(1994年、日本テレビ、演:宝田明)
- 『則天武后』(1995年、中国、演:鮑国安)
- 『新・少林寺』(1999年、中国、演:樊少皇)
- 「大唐雙龍傳」(2004年、香港、日本未公開、演:阮徳鏘)
- 『創世の龍 〜李世民 大唐建国記〜』(2006年、中国、演:シェン・シャオハイ)
- 『皇帝 李世民〜貞観の治〜』(2006年、中国、演:マー・ユエ)
- 『大祚栄(テジョヨン)』(2006年、韓国、演:ソン・ヨンテ)
- 「貞観長歌」(2007年、中国、日本未公開、演:唐国強)
- 『淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)』(2007年、韓国、演:ソ・インソク)
- 『大唐双龍伝』(2011年、中国、演:呉慶哲)
- 『大王の夢』(2012 - 2013年、韓国、演:ユン・スンウォン)
- 『隋唐演義 〜集いし46人の英雄と滅びゆく帝国〜』(2013年、中国、演:ドゥ・チュン)
- 『武則天 -The Empress-』(2015年、中国、演:チャン・フォンイー)
- 『大唐見聞録 皇国への使者』(2018年、中国、演:張智堯)
- 『大唐女法医〜love&truth〜』(2020年、中国、演:チョン・フォン)
- 『風起花抄〜宮廷に咲く琉璃色の恋〜』(2021年、中国、演:タン・カイ)