絵葉書『明治四十三年一月與板橋竣工記念』
古くから南蒲原郡と三島郡の間は頻繁に物資の輸送や人馬の往来が行われており、長大な流域を誇る信濃川に橋を架けることは住民にとっての悲願であった。このため明治中期から17年間にわたり陳情を繰り返していたが、長大な橋になるということもありなかなか実現しなかった。
与板の光西寺で声望の高かった藤井界雄は新潟市の萬代橋[注釈 2]の改築工事の際に仮架橋とした松材が流用できることに着目し県知事に直請願した結果、この仮架橋の旧材を用いてついに1910年(明治43年)2月に初代与板橋が完成した[4][5]。
この橋は長さ593m[6]、幅約3m(一丈)、耐重能力約1875kg(500貫)のつり橋で、馬車での通行は無理であったが[4]、橋の開通により交通は至便になり与板の経済にも大きな影響を与えた[6]。
しかし翌1911年(明治44年)8月5日午前6時ごろ、日本を縦断する台風が猛威を振るい数百人が必死に与板橋を防御したものの、右岸の訳273m(150間)が流失し橋は二分されてしまった。人夫30人も濁流にのまれて行方不明になった。
さらにその翌年には大水で全体の7割強が流失した[4]。
古材を用いたこともあり度重なる自然災害による被害が後を絶たず、遂に1916年(大正5年)に破壊されてしまう。このため、1917年(大正6年)に県により工費5万円で復旧された[7][8][9][10][11]。
戦後、この橋は台風などで老朽化が著しく、火災が発生したこともあった。1950年代初頭は自動車の通行量は少なかったが、当時を知る者は「渡るたびに、橋がミシミシと音を立てた」と証言している。また、冬期間は降雪の影響により通行止めとなり、渡船を利用せざるを得ない状況であった。当時の与板橋はまだ一般国道には指定されておらず、当時の中之島村と与板町とを連絡する県道与板大口線の区間となっていた[12]。
南蒲原郡中之島村と三島郡与板町は1957年(昭和32年)2月25日に「与板橋永久橋化促進期成同盟会」を発足させ、新潟県や当時の建設省に対し陳情を行った結果、翌1958年(昭和33年)、県は与板橋の架け替えに着工した。設計に関しては自動車交通に対応するため、6 mの幅員が確保されることになった[12]。
しかし施工中の1964年(昭和39年)6月16日に発生した新潟地震で、与板橋は橋梁本体が湾曲するなど甚大な被害を受けたため全面通行止となり、その後撤去された。[要出典]
現橋梁は1965年(昭和40年)4月24日に開通。総事業費は当時の額面で4億9800万円であった[2]。
北陸自動車道中之島見附インターチェンジの開通などにより、与板橋の交通量が大きく増加したため、側道橋の設置を求める声が高まり新潟県は1987年度(昭和62年度)から側道橋建設に着手し[13][14]、1993年(平成5年)に開通した[15][16]。