塩見俊二
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| 塩見 俊二 しおみ しゅんじ | |
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| 生年月日 | 1907年5月17日 |
| 出生地 |
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| 没年月日 | 1980年11月22日(73歳没) |
| 出身校 | 東京帝国大学法学部政治学科 |
| 所属政党 | 自由民主党(大平派) |
| 称号 |
正三位 勲一等瑞宝章 土佐市名誉市民 |
| 親族 | 兄・塩見俊雄(土佐市長) |
| 内閣 | 第1次田中角栄内閣 |
| 在任期間 | 1972年7月7日 - 1972年12月22日 |
| 内閣 | 第1次佐藤第2次改造内閣 |
| 在任期間 | 1966年8月1日 - 1966年12月3日 |
| 選挙区 |
(全国区→) 高知県地方区 |
| 当選回数 | 4回 |
| 在任期間 | 1956年7月8日 - 1980年7月7日 |
塩見 俊二(しおみ しゅんじ、1907年(明治40年)5月17日 - 1980年(昭和55年)11月22日)は、日本の政治家。位階は正三位。参議院議員(4期)。自治大臣、厚生大臣[1]。自由民主党高知県連会長。板垣退助先生顕彰会顧問[2]。土佐市名誉市民[1]。
1907年(明治40年)5月17日、塩見熊吉の二男として高知県高岡郡戸波村浅井(現土佐市)に生まれる[1]。初代土佐市長の塩見俊雄は実兄。母は塩見良。
1921年(大正10年)4月、高知県立第一中学校(翌年「高知県立高知城東中学校」と改称。現高知県立高知追手前高等学校)に入学。この時の同期生に板垣退助の孫・乾一郎がいた[2]。同校卒業後、旧制高知高等学校に進み、更に東京帝国大学法学部で学を修める[1]。
将来を嘱望され、1931年(昭和6年)、台湾総督府に入庁。財務局金融課長、同主計課長などを歴任する。終戦に伴い1946年(昭和21年)に帰国。戦後は東京財務局直税部長、熊本、広島、大阪国税局長を歴任。1955年(昭和30年)に退官[1]。
1956年(昭和31年)、第4回参議院議員通常選挙、全国区に自由民主党から立候補し当選。1962年、第6回参議院議員通常選挙、高知地方区から立候補し当選。以後連続3期、合計4期24年参議院議員を務める[1]。自民党では池田や大平派に属し、経理局長、参議院国会対策委員長、参議院幹事長などを歴任[1]、自民党高知県連会長も務めた[1]。第1次佐藤第2次改造内閣の自治大臣に就任[1]。
1966年(昭和41年)、高知の青少年たちに読書の機会を与えようと、私財を投じて自身が長年にわたって収集した蔵書・6万7000冊を寄贈し、高知電気ビル内に「塩見文庫」を創設した[3]。
1968年(昭和43年)7月、板垣退助先生顕彰会顧問に就任[4][2]。同年12月8日、東京・品川で「明治維新百年・板垣退助先生五十回忌墓前祭」を挙行。自民党結党の精神を尊び、退助の子孫らを招き、寺尾豊らと共に退助の墓前に「板垣死すとも自由は死せず」の石碑(佐藤栄作揮毫、高知県産岩石を使用)を建立した[2]。
第1次田中角栄内閣の厚生大臣に就任後、1972年(昭和47年)には、自からフィリピン・ルバング島に渡り、小野田寛郎救出のために尽力した[1]。大規模年金保養基地構想を打ち出し、各地にグリーンピアが建設された。
1978年(昭和53年)、積年の功績を賞せられ勲一等瑞宝章受章(勲五等からの昇叙)[1][5]。土佐市名誉市民となる[1]。
1980年(昭和55年)、病気により政界引退[6]。同年11月22日肝硬変のため死去、73歳。墓所は土佐市浅井[1]。死没日をもって従五位から正三位に叙され、銀杯一組を賜った[7]。