ヲコト点
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ヲコト点( - てん)は、漢文を訓読する際に使用された符号の一種。句切点、返点、送り仮名、振り仮名などと併せて、平安時代以降の訓点資料に使用された。
ヲコト点という呼称は、いわゆる博士家点の一番普通の点図の右上の二点が「を」「こと」に当たるところに由来する[1]。ただし院政時代には「テニハ点」といわれ、それ以前は単に「点」と呼ばれており、「ヲコト点」という呼称が見られるのは主に江戸時代以後である[2]。また乎古止点・乎己止点・遠古斗点・遠古登点・於古都点・乎古止伝など、種々の当て字がある[3]。
時代や学派(仏家・儒家、また、その諸派)によって種々の様相があるが、ヲコト点は現在、百数十~二百種類が発見されているとされる。ヲコト点は、漢字の四隅・周辺・内部・外部などの位置に様々な形の記号を書き加え、その形と位置とによって、漢字の訓み方を示す。ヲコト点に標示される訓みは、助詞・助動詞・用言の活用語尾などが専らであるが、名詞・用言・副詞などの和訓や字音を示すこともあった[4][3][要文献特定詳細情報]。句切点や返点と同様の機能を果たす場合、これをそれぞれ切点、返点と呼ぶこともあった[5]。
展開
| 研究 |
|---|
| 対象 |
| 料紙 |
| 装丁 |
| 寸法 |
| 書籍の一部分 |
平安時代初期に既に現れていた第一群点・第二群点・第三群点・第四群点に次いで、十世紀から十一世紀にかけて第五群点・第六群点・第七群点・第八群点が出現し、出揃った。このほか、最も早い時期に現れていた特殊点もある[4]。
中田祝夫は、ヲコト点一元論を提唱した。すなわち、第一群点と第二群点とは相互に90度回転すれば一致する関係にあり、また、第三群点および第四群点とも同様の関係にあるとしたのである。さらに、第一群点(テ・ヲ・ニ・ハ)のヲとニとを交換することによって第五群点が成立し、第五群点(テ・ニ・ヲ・ハ)のヲとハとを交換することによって第六群点(テ・ニ・ハ・ヲ)が成立したとした。さらに第七群点と第八群点とは、上記の各群と別個に成立したものであるとした。すなわち、第七群点と第八群点には、第一群点から第六群点との関係がなく、両群には部外者に秘密を守るためと思しい要素も認められると論じた[3][6]。
一方で築島裕は一元論に慎重な立場であった。築島の述べるところによれば、平安時代初・中期には、この八群のいずれにも摂せられない種類のヲコト点が多く、またそもそも、第一群点・第二群点のなすグループと、第三群点・第四群点のなすグループとの間には形式の上で大きな相違がある。築島は、第六群点の成立は、第五群点からでなく、第三群点からであろうと論じた。また、第七群点は独自の成立でなく、第一群点と第四群点との合成であろうとしたうえで、第八群点と第三群点とに系統関係が存在する可能性についても議論した。さらに築島は、第七群点・第八群点には、少なくとも平安時代にはまだ秘教主義的な要素はなかったとも主張した。ただし築島裕によれば、第六群点~第八群点は一般に「作為的に新造した性格が強い」[3]。
衰亡
12世紀ごろになると、現在の片仮名の体系が成立し、社会的にも定着した。鎌倉時代に入ると、ヲコト点は徐々に簡素化され、仮名点本が多くなった。鎌倉新仏教の浄土真宗・日蓮宗・臨済宗・曹洞宗などではヲコト点を用いなかった。博士家は中世以降も伝統を保存し、博士家点による朱墨両点の点法(すなわち、ヲコト点を朱、片仮名を墨で示す点法)を永く伝承して明治初年にいたった[3]。
関連用語
宗派との関連
第一群点
第一群点は平安時代初期に南都に起こり、比叡山をはじめとする天台宗の中に多く行われた[11]。つとに元慶年間には、比叡山延暦寺の僧・儀遠の手による点本がある[3][12]。
西墓点
西墓点(にしはかてん)は10世紀初頭以降、天台宗寺門派(紀三井寺)で盛行した。鎌倉時代に及ぶまで西墓点による点本は極めて多い。西墓点の称は、星点を右上より下に連呼すると「ニシハカ」となる壺があることにちなむ。三十一の壺を有するこの複雑な点は、多くの点図集に収載されている[3][6][13]。
仁都波迦点
仁都波迦点(にとはかてん)は、西墓点のシの位置の星点がトになったものである。初期の形態は資料が乏しいが[14]、築島裕によると、11世紀中葉には天台宗比叡山の範胤・快算・良祐・頼昭らの門流で使用された[3]。
そのほかの点
古点本の観察によれば、西墓点・仁都波迦点以外の第一群点に摂せられるヲコト点は、平安時代中期以降に多く出現したが、いずれも点図集には収められていない。一方、点図集にみえる第一群点に属するものとして、水尾点・妙法院点・不知名点(中田祝夫はこれを「甲点図」と命名した)の三種があるが、築島裕によると、いずれも古点本の中における使用例は未発見である[3][6][13]。
第二群点
第二群点は、左下隅から右廻りに四隅をヲ・ニ・ハ・テと連呼する壺をもつものである。築島裕の説くところ、第二群点は平安時代初期に南都、なかんずく法相宗系統の教学の中に起ったとされる。平安時代初期・中期には、第二群点に属するヲコト点には若干の種類があり、興福寺の学僧の用となった[3][6][13]。
喜多院点
平安時代後期以後には第二群点のほとんどが消滅したが、喜多院点(きたのいんてん)だけが伝世した。中田祝夫によれば、喜多院点はもと元興寺法相宗の明詮の所用の点であったとされ[6]、くだって興福寺・法隆寺などの法相宗学の間に伝えられ、さらにのちには実範の開基した中川成身院などにも伝えられた[3][13]。
そのほかの点
点図集のみにみられる点として、忍辱山点(にんにくせんてん)がある。築島裕によれば、これは喜多院点の異称であって、それが不正確に伝えられたものである[3][6][13]。
第三群点
第三群点は、左辺の下より中央・上にかけてテ・ニ・ハと連呼する壺をもつものである。築島裕によれば、第三群点は平安時代初期に南都の「古宗」に行われ、10世紀には東大寺三論宗の学僧の用になった[3][6][13]。
東大寺三論宗点
東大寺三論宗点は11世紀に入って現れたヲコト点であり、古くテニハ点とも称せられた。東大寺三論宗点は最初は東大寺で行われたが、やがて高野山・醍醐寺・勧修寺・石山寺など真言宗小野流系の諸寺にもひろまる[3][6][13]。
中院僧正点
中院僧正点(ちゅういんそうじょうてん)は、築島裕によると、はじめ真興が使用したとみられるものであり、のちに、高野山の学僧・明算の用となる。中院僧正点の名は、明算が中院阿闍梨と称せられたと関連するとされる。そののち明算の後資に伝えられたとみられるが、やがて「衰亡に帰」した[3][13]。
その他の点
点図集にみられるものとして、東南院点があるが、築島裕によるかぎり古点本の実例は未発見である[3][13]。
第四群点
第四群点は、左上より上辺の中央、右上にかけてテ・ニ・ハと連呼する壺をもつものである。築島裕によれば、これも第三群点に同じく平安時代初期に南都の「古宗」で創められたとみられ、のち平安時代後半期には天台宗比叡山にも行われた。第四群点は院政時代に至っても、依然として固定化されずさまざまなヲコト点が行われたとみられる[3][13]。
「テニハル」点
天仁波流点(てにはるてん)、天爾波留点(てにはるてん)と呼ばれる諸点があるが、例少ない[3]。
広隆寺点
広隆寺点(こうりゅうじてん)は、12世紀初頭の資料が一点知られるのみである。築島裕によれば、仁和寺系の可能性があり、第五群点との関係が疑われる。
第五群点
第五群点は、左下隅より右廻りで四隅をテ・ニ・ヲ・ハと連呼する壺をもつものである。9世紀には未だ現われず、9世紀の「極末ごろ」に出現する。中田祝夫および築島裕によれば第一群点から変形して生じたもので、最初、天台宗比叡山に起り、11世紀ごろまで同所で行われたとされ、点図集にみえない第五群点資料が多く伝存する。また仁和寺にも広がり(後述)、比叡山および仁和寺の両所でそれぞれ多くの固定した第五群点に属するヲコト点を生じたため、点図集にも多数のものが収録されている。
俗家点
俗家点は、僧家ではなく俗家に用いられた点の総称であり、すべて第五群点に属する。俗点・俗家点・博士家点などともいう[15][3]。最も世に広まったものであり、現代語の「てにをは」もこれに由来する。
第五群点は明経道・紀伝道の儒学者をはじめ、医学者の間などにも弘まった。10世紀中葉から諸種の点があったが、11世紀から12世紀にかけてある種の俗家点(中田祝夫の用語で丙点図、築島裕の用語で古紀伝点)が紀伝道の大江家・藤原家(すなわち北家日野流・南家・式家)などで行われた。この点はその後衰亡に帰した。代って紀伝点が紀伝家に起こり、鎌倉時代末ごろには用いられていた。とくに王朝時代の俗家点を集めたものとして吉沢義則の仕事がある[15]。
12世紀には明経点の資料があり、清原頼業の所用である。明経点はその後永く清原家などに用いられて後世に及んだ[3]。
仁和寺系の第五群点
第五群点は、9世紀末から10世紀中葉にかけて比叡山から真言宗仁和寺にも弘まり、11世紀以降に衰亡に帰した。点図集所載のものの中で不知名点(中田祝夫の用語では乙点図)は、比叡山の僧・憐昭、宇多法皇および仁和寺の寛空の弟子の所用であり、石山寺の寛忠にも伝えられた[16]。築島裕によれば現存資料の中では最古の第五群点である[3][13]。
浄光房点
中田祝夫によれば、第五群点の一つ浄光房点は池上律師点と同一である[6]。
第六群点
築島裕によれば、10世紀と11世紀の交には南都・比叡山あたりで行われたとみられる資料がわずかにある。しかし所用者については未詳である。点図集所載の禅林寺点には実例が発見されている[3][13]。これは10世紀なかごろに南都でおこったと推定される[16]。
第七群点
宝幢院点
宗幢院点は、11世紀中葉以降、天台宗比叡山の皇慶・寂源・頼昭・長宴・良祐などの流に行われた第七群点である。これらの流では第一群点の仁都波迦点も行われたが、築島裕によれば、12世紀ごろには宝幢院点の方が圧倒的に優勢となっていたとされる[14]。
その他の点
宝幢院点(ほうどういんてん)と三宝岳寺点とが点図集にある。ただし築島裕によれば、三宝岳寺点は宝幢院点の不正確な伝承の所産であって、同一物と認められる。第七群点には宝幢院点と小異あるものが稀にあるが、ほとんど宝幢院点一種のみであるとされる[3][13]。
第八群点
第八群点に属するものは、点図集に所載の順暁和尚点と称せられるもの一種のみである。築島裕によれば、真言宗石山寺の淳祐内供の流のなかで10世紀ごろに若干行われたが、後世には伝わらない[3][13]。