石墨山
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「石墨山」という山名は、この山で石墨が採れたことに由来すると言われており [2]、
『(石墨山の名の由来は)、石墨神社背後の岩壁から奇岩、墨の如く、硯にあて、之に代用することが出来るものを産するからだ』
という伝承がある。[1]
また、この「石墨山」には遠い昔、「赤鬼法性院」という名の山伏が住んでおり、この山で独り修行をしていたが、老境に入って死期を悟り、八合目あたりの祠に籠もって入定した、という伝承がある。南側山麓にある「石墨神社」[注釈 1]は、この「赤鬼法性院」を祀ったものだ、ともいう。[2]
「石墨山」の山頂部は久万高原町に属するが、後述の「割石峠」、「肩」、「白猪峠」を結ぶ、「石鎚山脈」主稜線の北側は東温市に属している。
この東温市側にあたる「石墨山」北側の中腹部には、「唐岬の滝」(からかいのたき)と「白猪の滝」(しらいのたき)という2つの滝がある。特に「白猪の滝」は、冬季には凍結して氷瀑となり、国道494号からのアクセスも良いため、冬季にもこれらの滝を見物するハイカーが多い。[1]
かつて、松山市に教員として赴任した文豪;夏目漱石は、「唐岬の滝」を秋に訪れ、以下の俳句を詠んでいる。[1]
「滝五段 一段ごとの紅葉かな」
また、松山市を拠点として活動した俳人、正岡子規も、「唐岬の滝」や「白猪の滝」を訪れて俳句を残していると言い、[1] 明治期の昔から、これらの滝は、松山市周辺の景勝地としてよく知られていた。
この山は、麓から中腹部までスギなどの人工林が多い山であるが、「肩」と呼ばれる地点から山頂部までは展望の良い稜線となっている。また山頂からの展望も良い。[1]
登山ルート
地質
「石墨山」を含めた「石鎚山脈」は、日本の地帯(地体)構造区分では、「三波川変成帯」に属しており、多くの場所で高圧型変成岩の一種、結晶片岩類が広く分布している山脈である。 [4]
しかし、「石墨山」付近を含む現在の「石鎚山脈」の西部では、「新第三紀」の「中新世」中期に火山活動が生じ、その時に噴出した、「石鎚層群」と総称される火山岩類が広く分布しているため、結晶片岩類は、南側の山麓部にわずかに分布しているだけである。この山の大部分は、後述する、「新第三紀」の「中新世」中期の火山岩類からなっている。
本来の基盤岩である、南側山麓部に分布しているこの結晶片岩類の種類は、大部分が、苦鉄質片岩(緑色片岩)である。[5]
「石墨山」の山体のうち、標高 約800m以上の部分は、「新第三紀」の「中新世」中期(約15~14Ma)[注釈 2] に活動した火山活動による、安山岩質の溶岩、火砕岩からなる。[5] [6]
その分布域は、東は「石墨山」のさらに東にある「黒森峠」付近、西は、隣接する「皿ヶ嶺」を含み、松山平野と久万高原町とを結ぶ「三坂峠」を越えて「黒森山」(標高;1154m)の西側付近まで、東西に約20km、南北に約10kmの範囲に広がっている。[5] [6] [7]
この火山噴出物は、「石鎚山脈」の中部から西部に広がる、「石鎚層群」、あるいは「石鎚火成岩類」とよばれる「中新世」中期の火山噴出物のうち、「黒森峠安山岩」、あるいは「黒森累層」と呼ばれるものである。この「黒森峠安山岩」の現存する層厚は、450m以上と推定されている。[6] [7] なお、この「黒森峠安山岩」を噴出した火山の場所は明確にはなっていないが、現存する分布域から見て、石鎚山付近が噴火中心とは考えにくく、現在の分布域内で活動したと考えられる。
「石墨山」のうち、標高 800~700m付近には、地質図的には、前記の「黒森峠安山岩」を囲むように、デイサイト質から流紋岩質の、大規模火砕流堆積物が分布している。これは、「中新世」中期に、「石墨山」から東へ約13km離れている現在の石鎚山付近で火山活動が起きて噴出した、「高野(こうや)火砕流堆積物」と呼ばれる「石鎚層群」に含まれる火山性噴出物で、時系列的には、この「高野火砕流堆積物」が先に噴出し、その少し後の時代に「黒森峠安山岩」が噴出して、その上を覆うように堆積している。[6] [7]
その他の「石鎚層群」に属する火成岩類としては、「石墨山」のあちこちに、東西に延ばされたレンズ状をした、深成岩の一種、「花崗閃緑岩」の岩体が分布している。これも形成された時代は、上記の火山岩類と同じく、「新第三紀」の「中新世」中期であり、上記の火山活動の元となっていた地下深部のマグマ溜りから上昇してきた、一種の貫入岩体と思われる。[5]
更に、上記の火山岩類を囲むように、標高700~500m付近には、「久万層群」(くまそうぐん)[注釈 3]と呼ばれる、礫岩を主体とした、「中新世」中期の堆積物が分布している。[5] [8]
この「久万層群」は、「石墨山」を取り囲むように、その北側、東側、南側の中腹部~山麓部に分布していることや、堆積年代が「中新世」中期のうち、上記の火山活動より少し前と推定されていることから、上記の火山活動による火山岩類で現在の「石墨山」の大部分が覆われる前には、「石墨山」一帯に、この「久万層群」が広く分布していたことが推定される。[5] [8]
「石墨山」の北側中腹にある、「唐岬の滝」付近や、「白猪の滝」付近の地質であるが、最上位の「黒森峠安山岩」は浸食によってかなり失われており、その一つ下位の地層である「高野火砕流堆積物」や、更にもう一つ下位の地層である、「久万層群」が部分的に露出している。[5]
また、「第四紀」のうち「チバニアン期」後期[注釈 4] から「完新世」[注釈 5] のうちに大規模な「地すべり」あるいは「土砂崩れ」が起きており、地質図で見ると、「唐岬の滝」より上部の、標高 1050m付近から、北側山麓の標高 300m付近まで、その「地すべり」堆積物が流れ下った様子が確認できる。[5]
