大野ヶ原
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| 大野ヶ原 | |
|---|---|
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大野ヶ原 | |
| 標高 | 1403 m |
| 所在地 | 愛媛県 西予市 |
| 位置 | 北緯33度28分21秒 東経132度52分10秒 / 北緯33.47250度 東経132.86944度 |
| 山系 | 四国山地 |
大野ヶ原(おおのがはら)は、愛媛県の中部、「四国カルスト」の西端にある地域名である。
なお「四国カルスト」の一角としての山域名称、あるいは高原の名称としても使われている。[1][2]
「大野ガ原」という名称で「四国百名山34番」に選定されている。[2]
行政区画的には大部分が、愛媛県 西予市(せいよし)(旧;東宇和郡 野村町)に含まれるが、高知県との県境に近い地域は「源氏ヶ駄馬」(げんじがだま)と呼ばれ、それより南側は、高知県 梼原町(ゆすはらちょう)となる。
羅漢穴
「四国カルスト」は、四国山地の南西部、愛媛県と高知県との県境にある、石灰岩からなるカルスト高原である。[注釈 1] 東西方向に約15kmの長さに延び [注釈 2]、また標高は1000~1400m台の高さがあり、しばしば「日本三大カルスト」の一つとも呼ばれる。[1] また愛媛県及び高知県それぞれの、「四国カルスト県立自然公園」にもなっている。[3]
この「大野ヶ原」は、「四国カルスト」の西端部に位置する。
東西方向に長く延びる「四国カルスト」のうち、中央部の「地芳峠」(じほうとうげ)より東側は、「五段高原」(ごだんこうげん)、「天狗高原」(てんぐこうげん)など、観光、ハイキングなどの場所となっているが、西端の「大野ヶ原」は観光地というより、牛の放牧地である。
「大野ヶ原」には、愛媛県道36号野村柳谷線が東西を横切るように走っており、途中で愛媛県道・高知県道383号四国カルスト公園縦断線が分岐する。バスは通っていない。県道の沿線には大野ヶ原小学校と竜王神社がある。
羅漢穴(らかんあな)は、小松ヶ池より4kmほど西の麓に入り口がある石灰岩からなる洞穴(鍾乳洞)で、古くから四国最大の洞穴として知られており、もともとは「浮穴」(うけな)と呼ばれていた。[注釈 3]
「羅漢穴」という名称は、この洞窟内の鍾乳石群が、五百羅漢の形相に似ていたことにちなむ、という。
この洞窟は、標高720mの入口から136メートル進んだ地点で二股に分かれ、左の本穴がさらに164m、右の支穴が84m伸びている。また、通行困難な支洞も合わせると全長は500mを超えるとも言われている。
気候
愛媛県の中では比較的、冬季には雪が多い地域である。特に1962年(昭和37年)から1963年(昭和38年)にかけての、通称「38豪雪」(さんぱちごうせつ)では、大野ヶ原小学校で約3メートルほどの積雪を記録した、という。 [注釈 4]
登山、ハイキング
地質
「四国カルスト」全体は、その名が示すように、「石灰岩」が分布している高原であり、「カルスト地形」が発達している。その石灰岩の分布域は、「四国カルスト」の主要部に合わせるかのように、東西方向に15kmほど伸びている。但しその分布域は、東西方向には細長く伸びているが南北方向には狭く、1km弱から2kmほどの幅しかない。[5]
「大野ヶ原」一帯は、上記の「石灰岩」分布域の西端部にあたり、東西方向で約5km、南北方向で約2kmのまとまった「石灰岩」分布域となっている。「源氏ヶ駄馬」や、この地域の最高地点の、標高;1403m地点も、この石灰岩分布域内にある。また前述の「羅漢穴」の付近も石灰岩が分布している。[5]
この石灰岩体は、「石炭紀」~「ペルム紀」前期に、海洋プレート上で形成されたサンゴ礁などのリーフ性の石灰岩であり、「ペルム紀」の「中期」~「後期」に、「付加体」として付加したものである。[5]
また、この石灰岩分布域の北側と、稜線部を越えた南の高知県側には、同じく「ペルム紀」に付加した「玄武岩」が小規模に分布している。
その「大野ヶ原」の南側の高知県側もまた、「ペルム紀」の付加体(メランジュ相)が分布しているが、北側は「ジュラ紀」の付加体と、「ペルム紀」の付加(いずれも「メランジュ相」)が混在している。[5]
このように、「大野ヶ原」付近の地質構造は複雑な構成となっている。
産業
アクセス
東側の久万高原町側からは、国道440号と愛媛県道36号 野村柳谷線を利用すると、大野ヶ原へ到着できる。西側(大洲市、西予市中心部)からは、国道197号、愛媛県道32号 肱川公園線、愛媛県道36号 野村柳谷線と通行すれば到着できる。
高知県側の梼原町中心部方面からは、スーパー林道か、高知県道379号 韮が峠文丸線を使えば到着できる。
歴史
大野ヶ原はもともと浮島が原(うきしまがはら;小学校の近くにある小松が池に浮島があるのが由来)と呼ばれていた。弘法大師(空海)がこの地を訪れた際に真言宗の本山と一千軒の伽藍町とを建立したが、天の邪鬼の計略によって失敗し、夜が明けると原野に大きなうねりができていた。この時期から浮島が原は一朝が原(いちあさがはら)と呼ばれるようになった、という。
大野ヶ原が現在の名称になったのは、1574年頃(不詳)に、久万大除城主の大野直昌が長宗我部元親軍(おそらく伊予軍代久武親信が指揮を執っていたと思われる)を、この地(大野ヶ原付近の笹が峠)で破ったことに由来する、という。
江戸時代の幕藩体制では、麓の小屋村と共に伊予松山藩へ編入され、のち大洲藩に移された。土佐藩との国境に近いために、姫草番所(ひめくさばんしょ)が置かれていた。
1889年、町村制が施行された際には上浮穴郡浮穴村に編入された。のち1943年に、浮穴村が東宇和郡惣川村(現在の西予市野村町惣川)と合併したとき、小松(小屋)地区とともに惣川村に編入された。現在では、西予市の大字の一つになっている。
1907年(明治40年)4月18日、「大野ヶ原」一帯が、陸軍大砲実弾射撃大練兵場に指定された。第二次世界大戦中は、軍用馬の放牧場であった。戦後に開拓地となり、現在に至っている。
この辺りは愛媛(伊予)・高知(土佐)県境であり、幾度も紛糾を重ねている。
一例をあげると韮ヶ峠(愛媛県道36号 野村柳谷線・高知県道379号 韮ヶ峠文丸線) - 源氏ヶ駄場 - 地芳峠(国道440号)の約8キロにわたるコースは17世紀ごろから紛糾を繰り返した。愛媛県側が現在の県境にあたる分水嶺による境界線を主張したのに対し、高知県側は霧立 - 小松が池 - 大野が森 - 碁石が森 - 姫が淵の境界線を主張し、1918年と1924年に浮穴村と檮原村による会議が行われた。しかし不調に終わり、参謀本部陸地測量部の現地測量調査がなされた結果、愛媛県側が主張する現在の境界線に決定した。1924年10月には高知営林署により、コンクリート製の境界柱が設置された。[7] [8] [9]
