大黒将志

From Wikipedia, the free encyclopedia

カタカナ オオグロ マサシ
ラテン文字 OGURO Masashi
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1980-05-04) 1980年5月4日(45歳)
大黒 将志
名前
カタカナ オオグロ マサシ
ラテン文字 OGURO Masashi
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1980-05-04) 1980年5月4日(45歳)
出身地 大阪府豊中市
身長 178cm
体重 73kg
選手情報
ポジション FW
利き足 右足[1]
ユース
1993-1998 日本の旗 ガンバ大阪
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1999-2005 日本の旗 ガンバ大阪 111 (48)
2001 日本の旗 コンサドーレ札幌 (loan) 4 (0)
2006 フランスの旗 グルノーブル 19 (6)
2006-2008 イタリアの旗 トリノFC 10 (0)
2008-2010 日本の旗 東京ヴェルディ 53 (23)
2010 日本の旗 横浜FC (loan) 16 (12)
2010 日本の旗 FC東京 (loan) 22 (7)
2011-2013 日本の旗 横浜F・マリノス 53 (12)
2013 中華人民共和国の旗 杭州緑城 24 (5)
2014-2018 日本の旗 京都サンガF.C. 110 (48)
2016 日本の旗 モンテディオ山形 (loan) 26 (9)
2018 日本の旗 栃木SC (loan) 40 (12)
2019-2020 日本の旗 栃木SC 29 (6)
通算 517 (217)
代表歴2
2005-2008 日本の旗 日本 22 (5)
監督歴
2026- 日本の旗 奈良クラブ
1. 国内リーグ戦に限る。2019年11月24日現在。
2. 2008年8月21日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

大黒 将志(おおぐろ まさし、1980年5月4日 - )は、大阪府豊中市出身[1][2]の元プロサッカー選手J3リーグ奈良クラブの監督。現役時代のポジションはフォワード(FW)である[1]。元日本代表

ユース時代

5歳の時に[3] 兄の影響で[2]サッカーを始める。小学1年次より豊中SSに所属し、3年次からは元日本代表FW釜本邦茂が代表を務めていた釜本FC(ガンバ大阪ジュニアの前身)でもプレー。4年次からは、釜本FCより移管されたG大阪ジュニアでのプレーに専念。

中学校入学と同時にG大阪ジュニアユースに昇格。当時はセレクションが無く、100人以上の選手を抱える大所帯だったが、Aチーム(1軍)入りを続け[3]、中学卒業後はG大阪ユースに昇格。ユースチーム所属時にはFWとMFでプレー[2]。高校3年次にFWとして定着し、ユース同期である二川孝広[2]とともにクラブユース選手権を制した。その後に開催された高円宮杯全日本U-18選手権では決勝戦で藤枝東高校に敗れ、準優勝となった。

ガンバ大阪時代

1999年ガンバ大阪トップチームに昇格。同年3月、市原戦でJリーグ初出場[1]2000年3月のV川崎戦でJリーグ初得点[1]。FWの選手層が厚かったことからMF(ウイングバックなど)で起用されることもあった[2]

コンサドーレ札幌時代

2001年、試合出場経験を積むために自ら志願して[2]コンサドーレ札幌期限付き移籍。ポジションを奪うことは出来なかったものの、監督・岡田武史の下で練習に取り組む姿勢を改め[2]、手応えを掴む1年となった[4]

ガンバ大阪復帰

2002年、G大阪に復帰した。復帰当初は中盤の攻撃的なポジションで起用されていたが、本来のポジションであるFWで勝負をさせてほしいと監督の西野朗に直訴[5]2004年にFWとしての才能が開花し、Jリーグ得点ランク2位、日本人選手最多となる20得点[1][注 1]を挙げ、同年のJリーグベストイレブンに選出された[1]

2005年はアラウージョフェルナンジーニョと組んでG大阪の攻撃の核としてフル回転。リーグ6位の16得点を上げ、G大阪のJリーグ初優勝に貢献した。

グルノーブル時代

2006年1月には当時日本企業のインデックス社がオーナーであったフランスのクラブチーム「グルノーブル・フット38」(フランスリーグ2部所属)へ完全移籍。思うように味方からのパスが出ないもどかしさを抱えながら[7] 5試合のフル出場を含め19試合6得点(2005-06に17試合5得点、2006-07に2試合1得点)。

トリノ時代

2006年8月、ヨーロッパの移籍期限間近である8月31日にセリエAトリノFCへの移籍が決定。大黒自身の以前からの夢であったセリエAへの移籍が実現したが、練習試合で得点を重ねてアピールするも、公式戦ではFWでのプレー機会に恵まれなかったこともあって[8] 無得点に終わり、イタリアでの挑戦は消化不良に終わった。

Jリーグ復帰後

2008年6月30日東京ヴェルディに完全移籍で加入することが発表され日本復帰。退団したエースFWフッキの穴埋めを期待されたが、チームにフィットするのに時間を要したこともあり、チームは低迷し、J2に降格。翌2009年も東京Vに残留し、J2を舞台に21得点を挙げたが「(攻撃は)1人じゃ厳しい[9]」と孤軍奮闘は否めず、チームの親会社変更など雑音も多くJ1昇格はならなかった。2010年、東京Vの経営難により移籍を余儀なくされたが[9][10][11]、東京Vとは2011年末までの契約を結んでおり[10][11][12] 完全移籍では高額の移籍金が発生するため、J2・横浜FCに期限付き移籍。2度のハットトリックを達成するなど[13] 16試合で12得点を挙げ、前年に続き活躍を見せた。

ワールドカップ開催によるJリーグ中断期間中の同年6月に、J1・FC東京に期限付き移籍(保有権は東京Vのまま)[14]。FC東京ではチームの主力となり、同僚の羽生直剛は「エゴイスティックなタイプかと思ったが、周囲を活かしてくれるのでやりやすい」とNHKのサッカー中継のインタビューでコメントしている。8月に開催されたスルガ銀行チャンピオンシップ2010では、対戦相手のLDUキト監督のエドガルド・バウサに特に注意すべき選手として警戒されていたが[15]、試合終了間際に同点ゴールを決め、クラブのタイトル獲得に貢献した。しかし9月半ばの監督交代以後はフル出場の機会を一度も得られず[16]、翌年の戦力構想外となり[11]、移籍期間満了により退団[17]

2011年横浜F・マリノスに完全移籍。2005年以来となるJ1での二桁得点を達成するなど[18]、全公式戦合計で17得点をマーク。翌2012年はリーグ開幕戦で得点をマークし好スタートを切ったがその後は得点を伸ばせず、後半戦からは出場機会も減少した。2013年、当初は横浜FMに登録されていた[19] が、2月に札幌在籍時にも指導を受けた岡田が監督を務める中国サッカー・スーパーリーグ杭州緑城に期限付き移籍[20][21]

2014年1月、横浜FMとの契約満了により杭州緑城に完全移籍[22]。同月、京都サンガF.C.への期限付き移籍が発表された[23]。その後シーズン途中に完全移籍に移行。同年リーグ戦42試合に出場し26得点を挙げJ2得点王となった[24]。翌2015年、自身の動き出しに合うパサーの不在や新監督の石丸清隆による守備重視の方針には不満を露にしたが[25] チーム最多得点となる16得点を挙げた。2016年2月にモンテディオ山形に期限付き移籍[26][27]。同クラブテクニカルダイレクターの石井肇とは札幌及び横浜FM在籍時以来となる3度目の共闘となった[28]。二転三転する戦術や[29] 負傷の頻発に苦しめられながらも[30][31]、同年のチーム最多得点を記録。移籍期間満了により同年限りで山形を退団し[32]、京都へ復帰した[33]

2018年、栃木SCに期限付き移籍[34]。契約上出場できなかった京都戦を除き、全試合に出場。8月18日、J2第29節・アビスパ福岡戦でJ2リーグ史上初となる通算100得点を達成[35] すると同時に、2015年以来3シーズンぶりとなるリーグ戦二桁得点も達成した[36]。2019年からは栃木へ完全移籍した[37]。2020年は開幕時より選手登録されないまま栃木との契約を継続していたが[38]、6月26日に契約解除が発表された[39]

指導者時代

2021年1月10日、現役を引退して、G大阪のアカデミーコーチに就任することが発表された。

2024年12月15日、川崎フロンターレのコーチに就任することが発表された[40]

2025年12月14日、来季よりJ2・J3百年構想リーグで戦う奈良クラブの監督に就任することが発表された[41]

代表経歴

ガンバ大阪での活躍が認められ、2005年には得点力不足と嘆かれていたジーコ率いる日本代表に初選出。代表として2戦目となった2月9日アジア最終予選・対北朝鮮戦で後半残り10分から途中出場し、後半ロスタイムに値千金の[42] 決勝点を挙げた[1]。この試合のテレビ中継の瞬間最高視聴率が57.7%(関東地区)を記録したこともあり、その知名度が瞬く間に急上昇した[5]。以下、本人のコメント「次の日から、やたら声を掛けられるようになって。Jリーグで20ゴールしても誰も気付かなかったのに、日本代表は1点取っただけでこんなに有名になるんだ、と驚きました。僕自身は変わらなかったですけど。」その後、ワールドカップ本大会出場を決定させた北朝鮮戦や、同年開催のコンフェデレーションズカップにおいてのギリシャ戦とブラジル戦でも途中出場から貴重な得点を挙げるなど、この年の代表チーム最多となる5得点を挙げた。一方で海外組の不参加だった東アジア選手権など、先発起用された試合ではなかなか結果を出せず、この流れからジーコは、翌年のドイツW杯ではあくまでもスーパーサブ(ジョーカー)として起用した。

2006年5月、2006 FIFAワールドカップ日本代表に選出、グループリーグ3試合に全て途中出場した。しかし、出場時間は短く(オーストラリア戦1分、クロアチア戦5分、ブラジル戦24分)、無得点。

エピソード

スポーツ選手・文化人のマネジメント会社であるサニーサイドアップに所属していた経験がある。またイタリア人の代理人ジョヴァンニ・ブランキーニと契約を結んでいたことがあり、トリノ移籍に際してはブランキーニが交渉を担当した[43]

家族・私生活

家族は両親、兄、弟(元サッカー選手の大黒聡[44])、妹の5人。父親は学生時代にボクシングをしていたことがあるが、大黒本人によると「優しい父」であるという[2]。父親は熱心なガンバ大阪のファンで、大黒がコンサドーレ札幌移籍中も札幌の試合には行かずにガンバ大阪の試合観戦に行っていた[2]。大黒聡は2人の兄同様、豊中SS/釜本FCよりガンバ大阪へ進み、その後関西学院大学へ進学、サッカー部でプレーした。卒業後、3年間の会社員生活を経てジェフユナイテッド市原・千葉クラブのセレクションを受験[44]。2007年には徳島ヴォルティスでプレーした。

また「ラオウ」と「クリリン」という名のチワワを2匹飼育している。『北斗の拳』から名付けられた[2]ラオウは2001年の札幌在籍中に大黒のペットとなり、大黒がグルノーブルトリノに移籍した時は共に同地に暮らした[45]。2015年にラオウは体調を崩し、これが理由となり大黒は当時モンテディオ山形から受けていた獲得のオファーを断っている。その後ラオウが体調を回復したことや山形県内に信頼できる動物病院が見つかったことから、2016年に山形からのオファーを受諾した[45]

UNO大使

UNO好きが知られるようになり、2005年には日本ウノ協会「UNO大使」に任命され[46]兵庫県伊丹市で開催された記念イベントに出席した。大黒はそのイベントの席上で2006 FIFAワールドカップ最終予選のアウェー北朝鮮戦の前夜にも代表でのチームメートと共にUNOを楽しんだことや、代表チームメートと仲良くなるのにUNOが役だったことを明かしている[47]。2006年3月には、カード・パッケージをサッカー仕様のデザインにし、更に大黒自身が考案したオリジナルカードを追加した「大黒選手限定版」のUNOが発売された[48]

背番号へのこだわり

ガンバ大黒(だいこく)神社

大黒天と名前が同じ文字であることから「大黒様」「大黒神」と呼ばれる事も多く、また、G大阪のホームタウン・吹田市にあるガンバ大阪オフィシャルショップ内にはその大黒天にあやかった「ガンバ大黒(だいこく)神社」が2005年3月23日に建立された。大黒自身は2006年にG大阪を退団したが、北千里サティに大黒神社の大黒像が移籍後も残っている。

所属クラブ

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1999G大阪29J11102000130
2000712010101
2001札幌1740200060
2002G大阪1661210082
2003261053203313
2004302074263930
2005311640223718
フランス リーグ戦 F・リーグ杯フランス杯 期間通算
2005-06グルノーブル9リーグ・ドゥ1750000175
2006-0721100031
イタリア リーグ戦 イタリア杯オープン杯 期間通算
2006-07トリノ16セリエA7000-70
2007-083010-40
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
2008東京V36J1142-00142
20099J23921-003921
2010横浜FC1612--1612
FC東京39J12272020267
2011横浜FM11281053343617
201292523110293
201300--00
中国 リーグ戦 リーグ杯FA杯 期間通算
2013杭州緑城11中国超級243-23266
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
2014京都31J24226-214427
20154016-304316
2016山形33269-112710
2017京都31286-10296
2018栃木94012-004012
2019296-00296
通算日本J1 204693412131225193
日本J2 260108-72267110
フランスリーグ・ドゥ 1961000206
イタリアセリエA 10010-110
中国中国超級 243-23266
総通算 51718636122217575215

その他の国際公式戦

出場歴

代表歴

出場大会

試合数

  • 国際Aマッチ 22試合 5得点 (2005年 - 2008年)
日本代表国際Aマッチ
出場得点
2005155
200660
200810
通算 225

出場

No.開催日開催都市スタジアム対戦相手結果監督大会
1.2005年01月29日日本の旗神奈川県横浜国際総合競技場 カザフスタン○4-0ジーコキリンチャレンジカップ2005
2.2005年02月09日日本の旗埼玉県埼玉スタジアム2002 北朝鮮○2-12006 FIFAワールドカップ・アジア2次予選
3.2005年03月25日イランの旗テヘランアザディ・スタジアム イラン●1-2
4.2005年05月22日日本の旗新潟県新潟スタジアム ペルー●0-1キリンカップサッカー2005
5.2005年05月27日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 アラブ首長国連邦●0-1
6.2005年06月08日タイ王国の旗バンコクスパチャラサイ国立競技場 北朝鮮○2-02006 FIFAワールドカップ・アジア2次予選
7.2005年06月16日ドイツの旗ハノーファーADWアレーナ メキシコ●1-2FIFAコンフェデレーションズカップ2005
8.2005年06月19日ドイツの旗フランクフルトコメルツバンク・アレーナ ギリシャ○1-0
9.2005年06月22日ドイツの旗ケルンラインエネルギーシュタディオン ブラジル△2-2
10.2005年07月31日大韓民国の旗大田大田ワールドカップ競技場 北朝鮮●0-1東アジアサッカー選手権2005
11.2005年08月03日大韓民国の旗大田 中華人民共和国△2-2
12.2005年08月07日大韓民国の旗大邱大邱ワールドカップ競技場 韓国○1-0
13.2005年08月17日日本の旗神奈川県横浜国際総合競技場 イラン○2-12006 FIFAワールドカップ・アジア2次予選
14.2005年09月07日日本の旗宮城県宮城スタジアム ホンジュラス○5-4キリンチャレンジカップ2005
15.2005年11月16日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 アンゴラ○1-0
16.2006年02月28日ドイツの旗ドルトムントヴェストファーレンシュタディオン ボスニア・ヘルツェゴビナ△2-2国際親善試合
17.2006年05月30日ドイツの旗レバークーゼンバイ・アレーナ ドイツ△2-2
18.2006年06月04日ドイツの旗デュッセルドルフエスプリ・アレーナ マルタ○1-0
19.2006年06月12日ドイツの旗カイザースラウテルンフリッツ・ヴァルター・シュタディオン オーストラリア●1-32006 FIFAワールドカップ
20.2006年06月18日ドイツの旗ニュルンベルクフランケンシュタディオン クロアチア△0-0
21.2006年06月22日ドイツの旗ドルトムントFIFAワールドカップスタジアム・ドルトムント ブラジル●1-4
22.2008年08月20日日本の旗北海道札幌ドーム ウルグアイ●1-3岡田武史キリンチャレンジカップ2008

ゴール

#開催年月日開催地 スタジアム対戦国勝敗大会
1.2005年2月9日日本の旗 埼玉 埼玉スタジアム2002朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮○2-12006 FIFAワールドカップ・アジア2次予選
2.2005年6月8日タイ王国の旗 バンコク スパチャラサイ国立競技場○2-0
3.2005年6月19日ドイツの旗 フランクフルト コメルツバンク・アレーナギリシャの旗 ギリシャ○1-0FIFAコンフェデレーションズカップ2005
4.2005年6月22日ドイツの旗 ケルン ラインエネルギーシュタディオン ブラジルの旗 ブラジル△2-2
5.2005年8月17日日本の旗 横浜 横浜国際総合競技場イランの旗 イラン○2-12006 FIFAワールドカップ・アジア2次予選


指導歴

タイトル

クラブ

ガンバ大阪ユース

ガンバ大阪

FC東京

個人

CM

  • Panasonic「Strada」
    • 『先読むナビ篇』(2005年) - 宮本恒靖との共演
    • 『簡単ツートップ篇』(2005年) - 宮本恒靖との共演
  • ダイハツ「ムーヴ カスタム(L150S系後期型・特別仕様車カスタムVS)」 - 今年を代表するCM大賞2005 受賞
    • 『ヒーローインタビュー篇』 (2005年、2006年)

脚注

関連項目

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI