小野伸二

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愛称 シンジ、センセイ
カタカナ オノ シンジ
ラテン文字 ONO Shinji
国籍 日本の旗 日本
小野 伸二
名前
愛称 シンジ、センセイ
カタカナ オノ シンジ
ラテン文字 ONO Shinji
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1979-09-27) 1979年9月27日(46歳)
出身地 静岡県沼津市
身長 175cm
体重 74kg
選手情報
ポジション MFCMDM[1][2]
利き足 両足
ユース
1986-1991 日本の旗 今沢サッカースポーツ少年団(沼津市立今沢小学校
1992-1994 日本の旗 沼津市立今沢中学校
1995-1997 日本の旗 静岡市立清水商業高等学校
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1998-2001 日本の旗 浦和レッズ 79 (20)
2001-2005 オランダの旗 フェイエノールト 112 (19)
2006-2007 日本の旗 浦和レッズ 53 (8)
2008-2009 ドイツの旗 VfLボーフム 29 (0)
2010-2012 日本の旗 清水エスパルス 70 (8)
2012-2014 オーストラリアの旗 ウェスタン・シドニー 47 (9)
2014-2019 日本の旗 北海道コンサドーレ札幌[注 1] 62 (2)
2019-2020 日本の旗 FC琉球 23 (0)
2021-2023 日本の旗 北海道コンサドーレ札幌 6 (0)
通算 481 (66)
代表歴2
1995  日本 U-17 3 (0)
1999  日本 U-20 6 (2)
2004  日本 U-23 3 (2)
1998-2008[3] 日本の旗 日本 56 (6)
1. 国内リーグ戦に限る。2023年12月5日現在。
2. 2008年8月20日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

小野 伸二(おの しんじ、1979年9月27日 - )は、静岡県沼津市出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー(MF)[2]。元日本代表

FIFAワールドユース準優勝、FIFAコンフェデレーションズカップ2001準優勝、日韓ワールドカップGL1位通過、UEFAカップ優勝、アジア年間最優秀選手賞を受賞。FIFA世界大会、UEFAクラブ国際大会のすべてに出場した唯一の日本人選手。

プロ入り前

小学生時代から「天才」と呼ばれ地元の沼津では名前を知られていた。10人兄弟の内で6番目の子で[4]、貧しい母子家庭で育ち、小学生時代はサッカー少年団にも入っていなかったが、小野が一人でサッカーをしているのを見た少年団の監督から「お金(月会費等)はいらないからぜひ入ってくれ」と勧誘され[5]、小学3年生のころに入団した[6]。その後、12歳でナショナルトレーニングセンター(ナショナルトレセン)に参加[5]。既にこの頃、同世代で突出したサッカーセンスを持ち、同トレセンに参加していた稲本潤一は「ごっつい(すごい)奴が居る」と小野のプレーセンスに舌を巻いていた。1992年1月(1991年度)に開催された「バーモントカップ第1回全日本少年フットサル大会」(現在のJFAバーモントカップ 全日本U-12フットサル選手権大会)では沼津FCの一員として参加、決勝で木暮賢一郎のいる読売サッカークラブジュニアユースに敗れたものの、準優勝、かつ本人も優秀選手に選ばれた[7][8]。これが小野にとって初めての全国大会出場で、サッカー関係者の間では彼の才能が広く知られるようになった。

地元の公立中学校に進学した後、1993年に13歳でU-16日本代表に初選出され、以降も各年代の代表チームの中心選手として活躍した。1994年には第6回U-16アジアユース選手権で優勝し、1995年にはFIFA U-17世界選手権大会に出場している。

高校では沼津と同じ静岡県内の清水商業高校に入学し、同級生には平川忠亮池端陽介などがいた。1年後輩には池田学がいる。チームの中心としてプレーしていたが全国高等学校サッカー選手権大会には静岡県予選で敗退し本大会出場を一度も果たせなかった。高校3年時1997年の全日本ユース選手権では準優勝、インターハイベスト16、他校の選手と合同チームを組んだ国民体育大会では静岡県選抜・少年男子の部で2年連続となる優勝をはたした。卒業に際してはJリーグの13クラブからオファーを受け、浦和レッズに加入し、背番号は28を与えられた。

浦和レッズ

1998年にはアジアユース選手権で準優勝し、自身もMVPを獲得した。韓国とのワールドカップ共催記念試合で岡田武史監督に抜擢され、18歳でフル代表初出場を果たした。その後フランスW杯の日本代表に選出され、第3戦のジャマイカ戦で途中交代から15分間出場した。この試合ではファーストタッチで相手選手を股抜きでかわすなど好プレーを連発した。18歳と272日でのワールドカップ出場は日本代表史上最年少[9] であり、今日まで破られていない。

浦和ではデビュー2戦目の横浜フリューゲルス戦でプロ初得点を挙げた。このシーズンは合計9得点を挙げ新人王Jリーグベストイレブンを受賞した。

1999年は浦和での背番号を8に変更した。ナイジェリアで開催されたFIFAワールドユースでは、決勝のスペイン戦は累積警告で出場停止となったものの、キャプテンとして準優勝に貢献し、ベストイレブンにも選出された。7月5日に行われたシドニーオリンピックのアジア地区一次予選、対フィリピン戦において、相手ディフェンスに後方からのタックルを受け、左膝靭帯断裂の重傷を負った。この怪我により長期離脱を余儀なくされ、リーグ戦の半分以上を欠場した。リハビリを経て復帰したが、この怪我に由来する慢性的な痛みや故障の頻発を抱えるようになり、日本代表に定着できない時期が続いた[10]。浦和も成績が低迷し、J2に降格した。

2000年はコンディション不良が続きシドニーオリンピックの本大会メンバーには選出されなかったが、アジアカップレバノン大会の日本代表に選出された。クラブのJ2降格に伴い清水エスパルスを始め他チームから獲得オファーがあったが、チームへの残留を決断しクラブ史上最年少のキャプテンとしてチームを牽引し最終節でJ1昇格を果たした。

2001年には日本で開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2001において日本代表のレギュラーとして準優勝に貢献した。J1の1stステージ終了後にオランダリーグの強豪クラブであるフェイエノールトへの移籍が決定した。

フェイエノールト

UEFAカップ2001-02決勝、ボルシア・ドルトムント戦のスターティングメンバー

フェイエノールトでは背番号14を与えられた(小野が以前日本ユース代表で14番を付けていたことがあるのがこの番号を選んだ理由)[11]。2001-02シーズンに加入するとすぐにスターティングメンバーに定着し、5月にはUEFAカップ準決勝でインテル相手にアウェイで1‐0と先勝、ホームでも2‐2と勝ち上がり、決勝ではACミランを大差で破り勝ち上がってきたボルシア・ドルトムントを破り優勝、プロ入り後初となる所属クラブでのビッグタイトル獲得となった。6月には日韓ワールドカップでの日本代表に選出された。直前に虫垂炎を発症したが、手術までは行かずに復帰。全4試合に出場し、ベルギー戦では鈴木隆行にロングパスでアシストを決めた。

フェイエノールト移籍後はベルト・ファン・マルワイク監督により中盤でゲームを組み立てる役割を与えられ、主に守備的MFでプレーした。

2002-03シーズンの8月に行われた2002-03UEFAチャンピオンズリーグ予備予選で、トルコのフェネルバフチェと対戦し、ホームとアウェイそれぞれで決勝ゴールを奪い、チームを本選へ導いた。新たに日本代表監督に就任したジーコにも招集され初戦でもゴールを決めた。これらの活躍が評価され、2003年にはアジアサッカー連盟(AFC)から2002年度の年間最優秀選手賞を贈られている。

2003-04シーズンは左足首骨挫傷など負傷欠場が多く、クラブもタイトルを獲得できなかった。日本代表でもコンフェデレーションズカップや親善試合を怪我で辞退している。2003年11月のアヤックス戦では、味方であるロビン・ファン・ペルシーのシュートが腹に当たり、その場でうずくまって失神し、救急搬送される珍事の被害者となった(病院での検査結果に異常はなかった)。

2004年も前年からの怪我の影響もあったが復帰後すぐに日本代表に招集されW杯3次予選突破に貢献した。欧州遠征にも参加し、イングランド戦ではボランチとして出場し、アウェイにおけるベストメンバーのイングランドを相手にゴールを決めるなど活躍した。アテネオリンピックにはオーバーエイジとして出場し、1次リーグ3試合でPKによる2得点をあげたが、決勝トーナメント進出はならなかった。

2004-05シーズンはルート・フリットの下でフェイエノールト在籍4年目を迎えた。日本代表やアテネでの過密日程の影響もあり、負傷が多いシーズンになった。このシーズンはフェイエノールト在籍期間中で最も多い7ゴールを挙げた。

2005-06シーズンは2005年W杯最終予選バーレーン戦前の練習中に疲労骨折し、更に以前の怪我の再手術もありシーズンを棒に振った。コンフェデレーションズカップも欠場した。

フェイエノールト在籍5年で欧州サッカー連盟主催の国際大会に7回出場。これは2017年に香川真司に更新されるまで日本人最多であった。

浦和レッズ復帰

2006年1月13日に浦和への復帰が決定し、1月26日に正式契約を結んだ。背番号は18を与えられた。6月に3大会連続となるドイツW杯日本代表メンバーに選出され、初戦のオーストラリア戦で交代出場を果たしたが、交代直後に3失点し逆転負けを喫した。この大会での出場はこの試合のみに終わった。12月に天皇杯準々決勝のジュビロ磐田戦で途中出場し、一時は逆転となる2得点を決め、続く準決勝の鹿島アントラーズ戦では先発出場し先制得点を挙げ、ロブソン・ポンテとのワンツーから決勝点もアシストする活躍で天皇杯優勝に貢献した。リーグ戦では怪我の影響、守備を重視するギド・ブッフバルト監督の戦術により、レギュラーとして出場できない試合もあった。

2007年三都主アレサンドロがオーストリアのレッドブル・ザルツブルクに移籍したため背番号を8に変更した。6月30日の磐田戦における直接フリーキックとループシュートによる2得点など天才的なプレーを見せることも多かったが、ブッフバルトに引き続き守備的戦術を採用したホルガー・オジェック監督の方針のため途中出場することもあった。

ボーフム

2008年1月に浦和からドイツブンデスリーガVfLボーフムに移籍した。2007-08シーズンのデビュー戦となったヴェルダー・ブレーメン戦では途中出場ながら2アシストを決め勝利に貢献した。怪我の影響もあり先発機会は少なく、途中出場が多くなった。

2008-09シーズンはキリンチャレンジカップのウルグアイ戦に2年2ヶ月ぶりとなる代表復帰を果たした。ペナルティーエリア内に走り込む中村憲剛に、得意のダイレクトスルーパスを通し先制点の起点になるが試合は敗戦した。この試合後監督の岡田は一部の選手に見切りが付いたという趣旨の発言を残し[12]、これ以降小野は代表に招集されなかった。ボーフムでは、9月に監督が交代後からスタメンでの出場が増え、ボランチやトップ下でプレーし、ハンブルガーSVに勝利するなど低迷するチームの浮上に貢献した。好調を維持していたが、シーズン中に移籍することになる。なお、その後ボーフムは2部に降格している。

清水エスパルス

高校時代から獲得の意思が強かった清水エスパルスからのオファーを受けて2010年1月に移籍を決めた。背番号は当時自身の年齢であった30番を選択した。ベテランとしてチームをまとめ[13]インサイドハーフのポジションを確保したが、W杯のメンバーには選ばれず、連続出場記録は3で止まった。優勝は逃したが、リーグを首位で折り返し、天皇杯も決勝に勝ち進む活躍を見せた。

2010年J1第30節の湘南戦の得点は、ゴール破損による中断のため、前半のアディショナルタイムが10分以上あり、ゴール時間が45+13分という珍記録となる[14]

2011年から主将に就任。

ウェスタン・シドニー・ワンダラーズFC

2012年9月28日、オーストラリアAリーグウェスタン・シドニー・ワンダラーズFCに移籍[15]アレッサンドロ・デル・ピエロエミール・ヘスキーらと共にAリーグにおいて高い注目を集められた。1年目は26試合で8ゴールを挙げ、チームリーグ参入初年度でのレギュラーシーズン優勝に貢献した。また、ファイナルシリーズ準決勝のブリスベン・ロアー戦で決めたループシュートは相手チームの監督やフェイエノールトで共にプレーしたピエール・ファン・ホーイドンクがツイッターで小野のゴールを絶賛している。また、シドニーFCとのシドニーダービー英語版で合計2得点を挙げている。 ユニフォームの選手ロゴは「SHINJI」。

1年目の活躍で、Aリーグベストイレブンと日本総領事館在外公館長表彰を受彰。2年目はJリーグ王者のサンフレッチェ広島を破り、ACLベスト8進出に貢献。チームからシーズンMVP、パラマタ市から名誉市民賞を受賞した。

北海道コンサドーレ札幌

2014年1月16日、J2のコンサドーレ札幌と仮契約、6月から加入予定であることが発表された[16]。同年6月8日に北海道入りした際には、新千歳空港で200人のファンと40人の報道陣に迎えられ、翌9日にさっぽろテレビ塔下で加入会見を行った[17]。2014年シーズンは、怪我の影響もあり7試合のみの出場でとどまった。2015年シーズンも怪我で出遅れたが、10月5日に行われた東京ヴェルディ戦で札幌移籍後初ゴールを挙げた[18]

2017年4月2日、第5節のヴァンフォーレ甲府戦では途中出場からJ1に1709日ぶりに出場した。

FC琉球OKINAWA

2019年8月5日、J2のFC琉球に完全移籍することが発表された[19]。8月10日の対浦和戦まで札幌の選手として在籍し、翌11日に琉球への入団会見を行った。背番号は「7」。

2020年シーズンは足の怪我で、先発出場は1試合に留まり、12月25日に退団が発表された[20]

北海道コンサドーレ札幌復帰

2021年1月1日、古巣である北海道コンサドーレ札幌へ完全移籍で復帰することが発表された[21]。背番号は、前回札幌に所属していた時と同じ「44」。

同年6月9日の天皇杯2回戦ソニー仙台で自身公式戦4年ぶりとなるゴールを直接フリーキックで決めた。この得点は天皇杯での最年長ゴール記録(41歳255日)となった。

2022年1月28日、北海道コンサドーレ札幌と生涯契約を結んだ事が発表[22]。小野は「北海道は第2の故郷と思っている。この先、どういう形で現役を辞めるか分からないが、その後も僕の経験を伝えながらクラブにいい還元ができたらと思った」とコメントしている。また、北海道コンサドーレ札幌代表取締役GMの三上大勝は「指導者なのかフロントに入るのかは、本人に決めてもらう」と、小野の希望を優先させる意向を示した。

2023年9月27日、背番号と同じ44歳の誕生日を迎えた日に、自身のインスタグラムにて、北海道コンサドーレ札幌公式サイトより先に[23]「皆さまに、ご報告があります。サッカーと出会い39年間もの間、僕の相棒として戦ってくれた“足”がそろそろ休ませてくれと言うので、今シーズンを最後に、プロサッカー選手としての歩みを止めることを決めました。まだシーズン残り数試合ありますが、僕も試合に少しでも関われるように変わらず良い準備をしていきます。最後まで応援よろしくお願いします。小野伸二」と述べ、2023シーズンをもって現役引退することを発表した[23][24]。12月3日、第34節浦和レッズ戦に先発出場した。前半22分にスパチョークと交代。交代時には、両チームの選手が歩み寄り、場内からスタンディングオベーションが送られた。試合後のセレモニーでは「毎日楽しくサッカーをさせてもらったことは宝物。これからも日本サッカーに携わりたい」とあいさつ。場内を一周し、札幌・浦和の双方のサポーターから大きな歓声を浴びた[25][26]

引退後

2024年1月14日、北海道コンサドーレ札幌のアンバサダー、役職名「O.N.O(One Hokkaido Nexus Organizer)」に就任したことが発表された[27]

プレースタイル

中盤の攻撃的な位置から攻撃を組み立てるゲームメーカー・チャンスメーカー。また、ボールコントロールの正確さから、「ボールと会話できる選手」と呼ばれる[28]。両足ともに精度が高く繊細なボールタッチを持ち、主にダイレクトプレーでテンポよくゲームをコントロールする。受け手に優しく柔らかいパスは、海外移籍前の日本では「エンジェルパス」、移籍後のオランダでは「ベルベット・パス」と称され、多くのアシストを記録している。また、FWではないもののシュート技術にも秀でており、小学校時代以来GKとの一対一の場面やPKでシュートを外したことがないと言われている[29][30]

かつては中盤の激しいプレスを求められる現代サッカーにおいて、目立った運動量や献身的な動きが少ないことが最大のネックとされていた。そのため持久力が無いと思われがちだが、2010年から所属する清水エスパルスや過去の代表合宿でのインターバル走では常にトップ3以内にいる[31]。実際にはオランダでのディフェンシブハーフ起用、代表でのサイド起用など、運動量や守備の負担が大きい位置での方が好成績を残している。清水エスパルス移籍後は運動量や守備にも磨きがかかり、更に攻守で貢献するようになった[32]

走るスピードもファン感謝デーで見せているように俊足である[33]

評価

  • サッカー雑誌のインタビューで、元オランダ代表スナイデルが、今までで対戦した選手の中で最も上手いと思った選手に小野伸二の名前を挙げた[34]。最も衝撃を受けた対戦相手には「小野伸二だね」と即答している[35]
  • ヨハン・クライフSports Graphic Numberのインタビューで「私はロッテルダムのフェイエノールトで日本人として初めて国際ビッグタイトル(UEFAカップ優勝)を獲得した小野伸二のファンになった。彼は素晴らしいテクニックを持っていて、状況に応じてシンプルなサッカーをすることができる選手だった。特に私が気に入っていたのは、大きな試合になればなるほど輝けるということ。このような選手を私は好む」と語った。
  • ラモス瑠偉Sports Graphic Numberのインタビューで「日本で天才がいるとしたら、僕は一人だけだと思う、小野伸二。もし怪我してなかったら、化け物みたいな選手になっていたよ」と語った[36]。イタリアのサッカージャーナリスト、ダニエレ・V・モッローネは小野の引退発表に触れ「日本サッカー界のスター選手のなかでも、崇高なテクニックと無限の創造性を持っていた」と述べ、また「純粋な才能という点で、シンジ・オノは日本サッカーが生んだ最高の選手と言えるだろう」と評した[37]
  • サッカーダイジェスト本誌で、『Jリーグ歴代ベストイレブン』と題し、現役選手や元日本代表など総勢50名が“マイベストイレブン”を選ぶ企画で、選者のひとり、セルジオ越後は 11人の中のMY BEST PLAYERにも選定した小野について、「彼を超える人はいない。プロ選手として“魅せる”ことが一番の特長で、誰も小野の真似はできない。日本の宝だ。彼のプレーは、味方も敵も見惚れてしまうよね」と絶賛した。
  • 中村俊輔ツイッターで質問に答えるサポーター交流企画でサポーターからの質問で「中村俊輔よりサッカーがうまい人はいますか?」という問いに「僕がヨーロッパに出たら中の下くらいだと思ってます。Jリーグの中では、こいつはセンスがずばぬけていると思ったのは小野伸二だけです」と答えた。
  • フェイエノールト時代のチームメイトである、元オランダ代表ロビン・ファン・ペルシは「小野は天才。オランダ代表の練習で小野より上手い選手は いなかった」と語った。元デンマーク代表トマソンは、「彼のお陰で、サッカーばかりでなく、人生に対する考え方が変わった」と語った。元オランダ代表ディルク・カイトは、「セードルフを見た時より、小野に会った時の方が衝撃を受けた」と語った。ロビン・ファン・ペルシは2026年現在、小野と共にプレーをしたフェイエノールトの監督になり、上田綺世を指揮している。
  • フェイエノールト時代の恩師であるオランダ代表元監督のベルト・ファン・マルワイクは、「今の日本代表に第2の小野伸二はいない」、「シンジは今まで一緒に働いた中で、一番良いプレーヤーだった。日本に戻って、また活躍してくれていると聞いてうれしいよ」[38] と語った。
  • 日本代表DF吉田麻也は、サッカースクールでの小学生からの質問で「1番技術がある日本人選手は?」という問いに「小野伸二選手かな。全然ボールを取れなかったもんな」と答えた。
  • 2020年に掲載された「J歴代ベスト11」という記事の中で永島昭浩は小野伸二を日本人選手として歴代最高傑作かもしれないと評価している[39]

人物・エピソード

  • 10人兄弟の6番目(男では5番目)だが、漢字の「二」が入る「伸二」という名前が付けられた。その理由として、本人が「母が牧伸二の大ファンだった」と述べている[40]。母は2023年10月に逝去した[41]
  • 自伝で述べているように、彼の最大の特徴である総合的なテクニックの高さは少年期からボールの1人壁打ちや、ボールリフティングにより磨かれた努力の賜物である。
  • 同学年の高原直泰稲本潤一らと仲がよい。この3人を追ったフジテレビ系の正月恒例の特別番組「ワールドカップをめぐる冒険」が2002年から2007年まで放送された。また、高原とは清水、稲本とは札幌でチームメイトになっている。
  • 浦和で仲が良かったのは1年先輩の田畑昭宏で、2人でファン感謝デーのトークショーなどに登場した。2001年には田畑がジェフ市原に移籍して対戦したが、小野のフリーキックが田畑の頭に入ってゴールになった。これがフェイエノールト移籍前のラストゴールで、試合後のセレモニーでは田畑からも花束を受け取った。その後、札幌に移籍した田畑の応援に行くなど、交流が続いていた。田畑は2005年に札幌を退団して現役を引退したが、その9年後の2014年に小野が札幌へ入団した。
  • 2001年7月19日、元読者モデルの一般女性と入籍。2004年12月19日に長女・夏蓮(かれん)、2007年3月には次女・里桜(りお)が誕生している。
  • 麻雀好きである事をサッカー誌で語っている。引退後はプロ雀士や麻雀好き芸能人と絡む機会が増えており、自宅にプロ雀士の村上淳浅井堂岐、声優、俳優の小山剛志を招いて「第一回小野伸二杯」を開催した。浅井のSNSによると、主催者の小野が優勝したとの事である。
  • 子供の頃の憧れの選手はマラドーナである事をサッカー誌で語っている。
  • 大島司の漫画作品『シュート!』の物語終盤で、高原直泰とともに実名で登場している。
  • かつてFC琉球に所属した小野正朋は実弟。
  • 2009年に元日本代表三浦泰年と対談した際に、「今は海外でやっているけど、最終的には清水エスパルスでプレイしたい」と発言し、その清水に2010年に加入した。
  • 出身地の沼津市が依嘱している「燦々ぬまづ大使」に2度(4年間)就任した経験がある[42]。最初は清水所属時の2010年度から2年間、2度目はシドニーから札幌へ移籍した時期の2013年度から2014年度。2023年7月1日に沼津市が市制100年を迎えた際には、5月19日に祝賀メッセージの動画がYouTubeの沼津市公式チャンネルに掲載された[43][44]
  • ナイキと契約していたが、後にアシックスと契約している。
  • オランダ・テレグラフ紙の企画において、オランダ王室に嫁いだマクシマ・ソレギエタと共に『2001年、最もオランダ語の上達した外国人』に選ばれた[45]。ちなみに、同じくオランダ・テレグラフ紙の企画における『オランダ国内で一番知られている新外国人』としても、マクシマ・ソレギエタに次ぐ第2位に選ばれている[46]
  • 2006年のW杯が開催されている間のボン合宿においては、中田英寿と準備運動や2人組のパス練習でペアを組み、「2人でやった方がおもしろいので」と言って居残りのシュート練習にも付き合っていた[47]
  • 2017年1月にオランダのFOX Sportによって制作されたドキュメンタリー番組 ‘Shinji – Japanse voetbalkunst in De Kuip’が放送され、サッカーの実力だけでなく、ピッチ外のストーリー、特に母国からの大きな注目や、代表戦のための頻繁な移動の苦労、度重なる怪我に苦しんだ点に焦点が当てられた[48]
  • サッカー選手としても特に足を大事にしており、引退の理由の際にも「足は相棒」というほど大切に語っていた[49]
  • 上田綺世がフェイエノールトに移籍する時、小野伸二が歓迎のビデオに出演した[50]
  • 本山雅志の引退試合に参加した。抜群なテクニックを魅せ、小野伸二コールが起こった[51]
  • 2024年12月17日放送の「みんJ」でJリーグアウォーズの取材で宇佐美貴史(最優秀ゴール賞)にインタビュー中に小野のトラップの話になり、宇佐美の質問に対して「あれはね、ボールが勝手に吸い付いてくるから」と発言してしまい、インタビュアーであるのに逆に周囲を驚かせた。

所属クラブ

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1998浦和28J2790020299
19998J11420020162
2000J22470021268
2001J114243-185
オランダ リーグ戦 リーグ杯KNVBカップ 期間通算
2001-02フェイエノールト14エールディヴィジ303-21324
2002-03297-20317
2003-04242-10252
2004-058257-20277
2005-0640-0040
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
2006浦和18J12851143339
200782532100274
ドイツ リーグ戦 リーグ杯DFBポカール 期間通算
2007-08ボーフム23ブンデス1部120--120
2008-0980-20100
2009-1090-10100
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
2010清水30J13026151414
2011182662121308
20121400000140
オーストラリア リーグ戦 リーグ杯FFA杯 期間通算
2012-13WSW21Aリーグ247--247
2013-14232--232
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
2014札幌44J270-0070
2015172-20192
2016150-20170
2017J11607110241
2018703020120
201900200020
琉球7J290--90
2020140--140
2021札幌44J1405021111
202210001020
202310002030
通算日本J1 2072932823626243
日本J2 86900619210
オランダエールディヴィジ 11219-7111920
ドイツブンデス1部 290-30320
オーストラリアAリーグ 479--479
総通算 4816632839855282

その他の公式戦

  • 2006年
  • 2007年
    • スーパーカップ 1試合0得点
  • 2013年
    • Aリーグ ファイナルシリーズ 2試合1得点
  • 2014年
    • Aリーグ ファイナルシリーズ 2試合0得点
国際大会個人成績 FIFA
年度クラブ背番号出場得点出場得点出場得点
UEFAUEFA ELUEFA CL-
2001-02フェイエノールト148240-
2002-03-50-
2003-0440--
2004-05871--
2005-0610--
AFCACL-クラブW杯
2007浦和882-10
2014WSW2161--
通算UEFA 20390-
AFC 143-10

その他の国際公式戦

タイトル

チーム

  • 1994年 - U-16アジアユース選手権優勝
  • 1995年 - 全日本ユース選手権優勝
  • 1996年 - 国民体育大会優勝
  • 1996年 - 全国高等学校総合体育大会優勝
  • 1997年 - 国民体育大会優勝
  • 2000年 - アジアカップ優勝
  • 2002年 - UEFAカップ優勝
  • 2006年 - Jリーグスーパーカップ優勝
  • 2006年 - J1リーグ優勝
  • 2006年 - 天皇杯優勝
  • 2007年 - AFCチャンピオンズリーグ優勝
  • 2013年 - Aリーグ レギュラーシーズン優勝
  • 2016年 - J2リーグ優勝

個人

代表歴

出場大会など

試合数

  • 国際Aマッチ 56試合 6得点 (1998年 - 2008年)[3]
日本代表国際Aマッチ
出場得点
199830
199900
2000121
200191
200281
200350
200472
200520
200691
200700
200810
通算 566

出場

#開催日開催地 スタジアム対戦国勝敗監督試合概要
1.1998年04月01日大韓民国の旗ソウル 韓国●1-2岡田武史ワールドカップ記念試合
2.1998年05月24日日本の旗神奈川県横浜国際総合競技場 チェコ△0-0キリンカップ
3.1998年06月26日フランスの旗リヨン ジャマイカ●1-2ワールドカップ
4.2000年02月05日香港の旗香港 メキシコ●0-1フィリップ・トルシエカールスバーグカップ
5.2000年02月13日マカオの旗マカオ シンガポール○3-0アジアカップ予選
6.2000年02月16日マカオの旗マカオ ブルネイ○9-0アジアカップ予選
7.2000年02月20日マカオの旗マカオ マカオ○3-0アジアカップ予選
8.2000年03月15日日本の旗愛知県神戸総合運動公園ユニバー記念競技場 中華人民共和国△0-0キリンビバレッジ
9.2000年08月16日日本の旗広島県広島広域公園陸上競技場 アラブ首長国連邦○3-1キリンチャレンジ
10.2000年10月14日レバノンの旗サイダ サウジアラビア○4-1アジアカップ
11.2000年10月17日レバノンの旗サイダ ウズベキスタン○8-1アジアカップ
12.2000年10月20日レバノンの旗ベイルート カタール△1-1アジアカップ
13.2000年10月24日レバノンの旗ベイルート イラク○4-1アジアカップ
14.2000年10月29日レバノンの旗ベイルート サウジアラビア○1-0アジアカップ
15.2000年12月20日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 韓国△1-1キリンビバレッジ
16.2001年05月31日日本の旗新潟県新潟スタジアム カナダ○3-0コンフェデレーションカップ
17.2001年06月02日日本の旗新潟県新潟スタジアム カメルーン○2-0コンフェデレーションカップ
18.2001年06月04日日本の旗茨城県茨城県立カシマサッカースタジアム ブラジル△0-0コンフェデレーションカップ
19.2001年06月07日日本の旗神奈川県横浜国際総合競技場 オーストラリア○1-0コンフェデレーションカップ
20.2001年06月10日日本の旗神奈川県横浜国際総合競技場 フランス●0-1コンフェデレーションカップ
21.2001年07月01日日本の旗北海道札幌ドーム パラグアイ○2-0キリンカップ
22.2001年07月04日日本の旗大分県大分スポーツ公園総合競技場 ユーゴスラビア○1-0キリンカップ
23.2001年10月07日イングランドの旗サザンプトン ナイジェリア△2-2国際親善試合
24.2001年11月07日日本の旗埼玉県埼玉スタジアム2002 イタリア△1-1キリンチャレンジカップ
25.2002年03月27日ポーランドの旗ウッジ ポーランド○2-0国際親善試合
26.2002年05月14日ノルウェーの旗オスロ ノルウェー●0-3国際親善試合
27.2002年05月25日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 スウェーデン△1-1キリンチャレンジカップ
28.2002年06月04日日本の旗埼玉県埼玉スタジアム2002 ベルギー△2-2ワールドカップ
29.2002年06月09日日本の旗神奈川県横浜国際総合競技場 ロシア○1-0ワールドカップ
30.2002年06月14日日本の旗大阪府長居陸上競技場 チュニジア○2-0ワールドカップ
31.2002年06月18日日本の旗宮城県宮城スタジアム トルコ●0-1ワールドカップ
32.2002年10月16日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 ジャマイカ△1-1ジーコキリンチャレンジカップ
33.2003年03月28日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 ウルグアイ△2-2国際親善試合
34.2003年09月10日日本の旗新潟県新潟スタジアム セネガル●0-1キリンチャレンジカップ
35.2003年10月08日チュニジアの旗チュニス チュニジア○1-0国際親善試合
36.2003年10月11日ルーマニアの旗ブカレスト ルーマニア△1-1国際親善試合
37.2003年11月19日日本の旗大分県大分スポーツ公園総合競技場 カメルーン△0-0キリンチャレンジカップ
38.2004年03月31日シンガポールの旗シンガポール シンガポール○2-1ワールドカップ予選
39.2004年04月28日チェコの旗プラハ チェコ○1-0国際親善試合
40.2004年05月30日イングランドの旗マンチェスター アイスランド○3-2国際親善試合
41.2004年06月01日イングランドの旗マンチェスター イングランド△1-1国際親善試合
42.2004年06月09日日本の旗埼玉県埼玉スタジアム2002 インド○7-0ワールドカップ予選
43.2004年09月08日インドの旗コルカタ インド○4-0ワールドカップ予選
44.2004年10月13日オマーンの旗マスカット オマーン○1-0ワールドカップ予選
45.2005年03月25日イランの旗テヘラン イラン●1-2ワールドカップ予選
46.2005年05月27日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 アラブ首長国連邦●0-1キリンカップ
47.2006年02月10日アメリカ合衆国の旗サンフランシスコ アメリカ合衆国●2-3国際親善試合
48.2006年02月18日日本の旗静岡県静岡県小笠山総合運動公園スタジアム フィンランド○2-0キリンチャレンジカップ
49.2006年02月22日日本の旗神奈川県横浜国際総合競技場 インド○6-0アジアカップ予選
50.2006年02月28日ドイツの旗ドルトムント ボスニア・ヘルツェゴビナ△2-2国際親善試合
51.2006年03月30日日本の旗大分県大分スポーツ公園総合競技場 エクアドル○1-0キリンチャレンジカップ
52.2006年05月09日日本の旗大阪府長居陸上競技場 ブルガリア●1-2キリンカップ
53.2006年05月13日日本の旗埼玉県埼玉スタジアム2002 スコットランド△0-0キリンカップ
54.2006年06月04日ドイツの旗デュッセルドルフ マルタ○1-0国際親善試合
55.2006年06月12日ドイツの旗カイザースラウテルン オーストラリア●1-3ワールドカップ
56.2008年08月20日日本の旗北海道札幌ドーム ウルグアイ●1-3岡田武史キリンチャレンジカップ

ゴール

#開催年月日開催地対戦国勝敗試合概要
1.2000年10月14日レバノンサイダサウジアラビアの旗 サウジアラビア○ 4-1AFCアジアカップ2000
2.2001年5月31日日本新潟カナダの旗 カナダ○ 3-0FIFAコンフェデレーションズカップ2001
3.2002年10月16日日本、東京ジャマイカの旗 ジャマイカ△ 1-1キリンチャレンジカップ2002
4.2004年6月1日イングランドマンチェスターイングランドの旗 イングランド△ 1-1国際親善試合
5.2004年9月8日インドコルカタインドの旗 インド○ 4-02006 FIFAワールドカップ・アジア予選
6.2006年2月22日日本、横浜○ 6-0AFCアジアカップ2007予選

テレビ番組出演

CM出演

連載

  • 今だから伝えたいこと(週刊SPA!2020年4月21日号 - )

脚注

出典

関連項目

外部リンク

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